2-20 執行聖女 3
「申し訳ありません。そろそろだとは思っていたのですが出迎えも用意もできず」
「気にしないでほしい。そちらも突然の騒ぎで忙しかったと聞いた」
「……あぁ、まぁそうですね」
カンナと名乗った神父は最低限のもてなしに茶菓子を持ってやってきた。
どうやら半年前からこの地に着任したばかりらしく、フレデリカのような規律に厳しい先輩らしい先輩が教会内を取り仕切っていたため見習いを名乗っているようだ。
彼曰く、シキ・ディートリヒからの要請を受けカエルレウムの地に在るファレル家が迎えをここに寄越すという話はすでに通っているらしい。時間的にももう間もなく船がやって来るだろうと言う。
神父が「短い間」と言っていたが本当に短い付き合いになりそうだ。
なにせ三人はヴェルメリオに感付かれる前に本国の領域に入らなければ海の真ん中に沈むことになる。……少なくとも完全に部外者のタレイアは確実に。
「さて、船の到着まで僅かに時間があります。今は騒がしいでしょうが見て回られるのも我らが神に祈りを捧げられるも構いませんので、どうぞごゆっくり」
長話をするでもなく、ただそれだけ告げたカンナはすぐ立ち上がって部屋を出ようとする。
忙しい身なのかと思って行動自体をスルーしようとしていたが、ある人物のみが唯一看過できぬと扉の前に立ち塞がり声を発した。
「カンナ、お客人を放置してどこにいくつもり?」
「…………いやだなぁフレデリカ、疚しさなんてないよ。マリアが心配だから様子を見に行きたいんだ」
「そう。貴方が思う以上にあの子なら問題ないから、心配は無用よ」
客人に対しての態度に物申すフレデリカからはマリアを心配するカンナという前提が感じられない。むしろ態度云々すらも彼をこの場に留めるための口実のように思える。
困った顔を隠さず人差し指で頭をかき、数秒後にため息を吐いたカンナは仕方ないといった表情でソファーに戻ってきた。
「ははっ……こんな調子ですが皆様はどうぞご自由になさってください」
苦笑する彼の目がなんとなく笑っていないことに誰もが気付きつつも目をそらし、気まずさでなにか言い出すこともできぬまま広がった沈黙を裂くようにしてリオンが立ち上がる。
さすがは空気が読めないというか、自由人というか。
どこに行くのかとレオンが問えば彼は実に分かりやすく兄を睨み付けた。
理由の方はなんとなく分かっている。
なにせリオンはこの風体と性格に反して泳げず海が苦手だ。これは兄も当然知らないことだが、明世界にいた頃、水泳の授業はなにかと理由を付けて全て欠席していたくらい冷たい水に触れない。
泳ぐくらいなら補習にプリントの山を出される方がよっぽどマシだ、と言ったのは一体いつのことだったか。
……と、まぁとにかく冷水が大の苦手な彼は船に乗るのにも瞑想やらリラックスやらを行って心を落ち着かせないと青い世界に出る覚悟が決まらない。
きっと海を眺めることで目を慣らすつもりだろう。
止めたり深入りするとロクな目に遭わないことは数年かけて学習済みのレオンは察すると同時に口を閉ざした。タレイアに聞かれたら答えるだろうけどもそれはそれだ。
まぁもしも船酔いで潰れられでもしたら、いざヴェルメリオに襲われた時には絶対戦力にならない。せっかく今が一番調子がいいので致命的な事態はできるだけ避けたい、そうできるだけ。
なので適当に見守りつつ後で様子を窺えばいいだろう──そう思っていた矢先のことだ。
「あっ」
足を滑らせた、捻った、踏み外した。どれとも取れる不自然な形で躓いたリオンは自分でも驚いた表情をしながら転倒していく。
別のことを思案していたレオンや菓子を頬張っていたタレイア、扉の傍にいたフレデリカもそのことに気を取られハッとした。咄嗟に腕を差し出したカンナを除いて、全員が。
「大丈夫ですか?」
「…………」
「この部屋の床は滑るんですよ。お伝えし忘れてしまいました、すみません」
「……こちらこそ」
派手な転倒が未遂に終わってホッとするタレイアの隣でレオンは気付いてしまった。
まず部屋の構造として出入り口になる扉に対し、テーブルとソファーがそれぞれ縦の三本線のような形になるよう並んでいる。彼らが座っているのは扉から見て右側、カンナは左側。扉とソファーの距離は恐らく3m弱離れているだろう。
リオンがいたのはちょうどその間くらい。フレデリカがギリギリ気付いて助けに入れるか否かの位置だ。
そこで疑問は浮上する。ソファーにいたはずのカンナがどうして手を伸ばすことができたのか、という単純な疑問が。
躓いて転ぶなんて突然で一瞬の出来事だ。それを事前に知っていなければ対応できるはずがない。
しかも彼はこの神父が移動したのを全く見ていなかった。
加速したにしては動きが分かっていたかのようで不自然、そして"未来視"だとすれば移動した方法が分からない。両方の線もあるが、たかが若者神父にそんな魔法が備わっているとも思えない。
にこやかなカンナの手をはね除けるようにして部屋を後にしたリオンはいつもの神妙な顔つきに加えて真っ青になり変な汗をかいていた。もしかしたら彼はなにかを感じ取ったのかもしれない。
「すまない、カンナ神父。不器用なものでロクに礼も言わず……」
「いえ気になさらずに、我々であれば当然の行いですから礼など必要ありません。それより顔色が優れないようでしたが、船が来るまでベッドをお貸ししましょうか?」
「本人に聞いてからにするよ。なにからなにまで申し訳ない。それじゃあ」
できるだけ早く合流したいので業務的かつ義務的な言葉を交わし、適当に不都合がないあしらい方で部屋を後にする。
広いようで狭い廊下を見渡すまでもなく目的の人物はすぐそこにいた。
頭を抱えているようだがそれ以外には特に身体的な異常が見られない。人前でずっこけたのが恥ずかしいだけなのだろうか。
特に警戒されていないようなので、安易に近付いて顔色を詳しく窺う。しかし左手で覆った顔半分は見えず表情は読み取れず、数秒後にはぎろりと睨み付けられたからもう顔を近付けることはできなくなった。
「リオン、具合が悪いのか? 神父が横になるかって聞いてきたけど」
「問題ない。……ちょっとした目眩だ、珍しい」
「そ、そうなのか……」
疲れている素振りは見せていなかったが考えてみれば戦艦脱出からほぼ休みなしだ。肉体的にも精神的にもキツい時期を過ごした彼が何事もないはずがなかった。
兄として弟が内面に隠しているモノを読み取れないのは悔しくもあり悲しくもある。
早く気付いてやれればちょっとでも工夫して疲労を癒せていたかもしれない。シキやタレイアはその方法をよく知っているだろうから。
「場所を変えよう。できれば外に行きたい」
「──……神父のことか?」
「あぁ、気付いてるんだろ」
「少しだがな」
少しと言うがリオンの少しはかなり多いと同義だ。
肌が接触していた分、魔力の流れが読めたのかもしれない。ただの神父が使う魔法などたかが知れている以上、正体は加速か瞬間移動か……それともこちらの脳を誤認させるなにかか────。
目下正体不明に変わりないが、こんな近くで話を聞いていたらどこに耳が付いているかも怪しいし疑わしい。
とりあえず施設の敷地外まで行けば盗聴はない。
リオンの方もそろそろ覚悟を決めないとその後が危ないので急いで連れ出した方がいいだろう。
それにしても謎が多い教会だ。
彼らはカエルレウムの次代を束ねる者達としてフェガリ教会の存在は把握しその平和主義を容認している側だが、さてあの島国にいた神父やシスターはあんなにも挙動不審だったか。
マリアが言っていた「急病の少年」は実在しているとして、フレデリカによる浄化が可能だと知っていながら危険を賭してまで薬を買いに行かせた理由が判らない。
この教会では少なくとも二つ以上の派閥がある。マリアの件でそれだけは確実だと察しがついた。
ならば、執行聖女が派遣されてくる地で何故そのような内部闘争じみた小競り合いが始まったのだろう──鍵はカンナ神父、そんな気がしてならない。
「ここでいい、やっと落ち着いた」
着いたのは教会から200m程離れた岩場の先の浜辺。人気はなく、波の音だけが心根を癒す。
遥か彼方の水平線を見据え、軽く深呼吸した頃にはあれほど青ざめていた顔色も落ち着いており、特に何事もなかった様子で岩に座って話し始める。
「兄上は見ていたか、神父の動きを」
「いいや全然。リオンが心配であんなのを見てる暇なんて」
「あぁ分かったもう黙れ」
心配しただけなのに……と肩を落とす兄には知らぬフリでリオンはこう言った。
「俺からは突然ヤツの腕が目の前に現れたように見えた。前兆や魔力の類は感知できず、気付いたらヤツに支えられていたとしか」
「じゃあ移動系の空間魔法じゃないか? あれくらいの部屋だったらほぼノーリスクで飛び回れると思うけど」
「空間魔法の術式起動に一秒もかからない神父なんぞ魔術師の間違いだろうが」
魔法とは発動へのプロセスとして"きっかけとなる文言の詠唱"、"魔力の活性化"、"正確なコントロールを可能とする技術"を必要とする。
だが詠唱はあくまで魔法の術式を起動するきっかけに過ぎないのが現実。
下級魔法であれば魔術師の大体はそんな手間をかけることはなく術式を脳に叩き込み魔力を加えるだけで発動させることが出来、上級魔法でもシキのように本を触媒に魔法を喚ぶ者や杖を用いて補強する者も少なくはないため、重要なのは魔法に見合う魔力があるか否かになってくる。
それでもオリオンのように確実性を要したり、レオンみたく自分の魔法ではない魔法とか、楽園の魔術師の追想である場合は説明のしづらい例外に当たるのだ。
二つの円環と十五個の魔法でも内円環と呼ばれる強力な魔法の部類に位置付けられる空間魔法には俗に瞬間移動、空間移動と呼ばれるものも含まれるが──自分の身体を一時的に分解し別の場所で再構成するようなトンデモ術式を、いくら狭い室内で短距離とはいえ詠唱なしのノーリスク、更にはタイムラグなしで発動できるなんてのはよっぽどの魔術師か、魔法結晶に頼ってどうにかこうにかの二択だ。
後者は合法での取り扱いが御法度である以上ほぼあり得ない、しかし神父程度が魔術師並みの魔法を要しているとは考えづらい。
なので魔法の線はないと見て妥当だろう。
そもそも世界平和を望む教会の神父がそんな魔法を習得してどうすると言うのか。
「なら精神魔法で認識妨害、操作魔法で記憶操作とか」
「いくらコケて隙ができていたとしても俺は魔術師だ。意識介入など不用意にしてみろ、格の違いを見せつけてやる」
要すりゃリオンの精神に下手に踏み込めば逆にしてやられるというわけだ。よっぽどヴェルメリオの戦艦での出来事がトラウマなのか、あるいはレオンのせいなのか測るのは無粋なのでやめておこう。
「だったら時間操作系はどうだ!」
「だから、そんな高位魔法を使う神父がいるわけ……っ」
突如なんの前触れもなく口元を右手で被った彼は酷く噎せ始めた。
すぐには収まらずかなり長引いている咳はまともに話を続けられないほどらしく、指の隙間からは血のような赤い液体が滲み出ているのが確認できる。
「おいどうした!?」
吐血したのを目視して直後に駆け寄ったレオンは手首を掴んで手を強引に口元から離して見てみれば、手のひらは抑えていたというより溢さないようにしていたとしか思えないちょっとでは済まない多量の血がダラダラと溢れていた。
さっきから顔が青かった理由はこれだ。違っていたとしてもこんなのはまともじゃない。
手出ししようにも対処の方法が分からずしばらく様子見を続けていると、ようやく咳は収まったようだが依然として吐血だけは止まらず、苛立っているのが空気で伝わってくる。
もう真っ赤なので気休めにしかならないが、せめて手ではないもので血を拭ってほしい。
こんな時に兄としてできることはないかと自身の懐を探り、偶然見つけた手拭を差し出してみた。
「リオン、これを」
「必要ない……兄上に、貸しなぞ作らせるか」
「お前っ……! こういう時は普通頼るだろ!?」
「黙れ。さもなくばそのやたらと喧しいマントで拭ってやる」
「う…………」
ここで思い出してほしいのだが、レオンの魔装束は美しい純白である。
騎士を名乗る以上は土を被り、砂利でほつれ、剣穿に切り裂かれ、血で汚れることもなくはない。どうせあとで綺麗に直せるし別段気にしないタチなので差し出しても良い。
……が、ここまで頑なだとあぁわかったなんて言ったら次はぶん殴られるかもしれない。めんどくさい弟だ。
「ならせめて教会に戻ろう、少し休んだ方がいい」
「いいや、その必要もない。──そろそろ来る」
一瞬なにが来るのか分からなかったレオンだが、眼前に広がる海を見つめた瞬間に言葉の意味を理解した。
「船か!」
陸地に迫る巨大な木と鉄の塊は旗こそ掲げてはいなかったが、懐かしき故郷の香りを帯びている。
幼い頃にはそれに乗り、世界を見てみたいと思ったこともあったが──まさかこんな形で一族が管理している船に乗ることになるとは思いもしなかった。
お忍びなので一番小さい船のようだが、三人を乗せるだけなら十分すぎるはずだ。
「あの神父が管理する教会より……よっぽどマシだろう、船だが────……船……だけど」
語尾がどんどん弱くなっているので絶対マシじゃない。
しかしリオンの言う通り、自分達とは関係のない陰謀が渦巻いている気がするこの教会に長居は禁物。場所の提供はありがたかったが早々に暇をいただくべきだろう。
「もうじき船が来るなら今はそのおかしな病状のことは聞かない。だけどカエルレウムに戻ったら医者のところに行くぞ、絶対に」
「……分かっている。だからそんな目で見るな、気色悪い」
「ひ、酷い……心配してやってるのに……」
少しずつ症状が良くなっている現状、無理に教会の誰かに診てもらうのは兄弟仲によくない。
恐らく執行聖女に見せればすぐその病気を明かしてくれるだろうが、カンナ神父とフレデリカの関係がただの同胞ではなくよく分からない今では過度な接触はしたくないのがリオンの意見だ。
……船に乗れば間もなくカエルレウム、そしてファレルの領地が近付く。
長い長い旅もこれでようやく終わる。
父エルシオンの訃報はまだ聞いていない。ならばまだ彼はしぶとく生き長らえている、というか生きていなければ困る。
ファレルの危機を救うために帰還せよ──と、残した父の手紙。
この世界を一度諦めたリオンは大切な人がいるあの陽が輝ける世界を捨てて、言葉に従い帰ってきたのだから。
どうしようもなくダメな兄と御三家の踊り子と共に、今こそ故郷へと帰るのだ。