2-9 月桂樹の記憶
あにうえ、あにうえ。
懐かしい小さな背中を追いかける小さな少年は、不自然にぐらぐらと身体を揺らしながら期待と好奇心に胸を膨らませて廊下をかける。
ああ、どうしたんだ?
幼い声に呼ばれて振り返る彼は穏やかに笑い、片腕だけで抱きついたいとおしい少年を受け止める。
これはいつかの過去、これはいつかの思い出。現在進行形で兄を憎んでいるリオン・ファレルの記憶にはこんなにも暖かで愛しい光景がまだ残されていた。
別にこの頃に戻りたいとは思わない。けれどもしも互いに素直になれたなら話し合う余地もある──そう思うのは事実だ。
目覚めた時、隣にいたらまた突き放し酷い言葉を口にしてしまうのだろうか。
今度こそは本当に殺してしまうかもしれない。
そんなことを思いながら彼の意識は暗い海の底から浮上した。
「────……」
……暗い。暗すぎる。
目を開けたはずなのに真っ暗闇が広がっているのは夜だからか? にしては暗すぎて、月明かりもなければランプひとつ見当たらないのはおかしい。
なにより「自分は椅子で寝ていたのか」と眠る前のことを思い出すとかなり不自然な状況に置かれている。
記憶が確かならディアの元に辿り着いてすぐに銀腕の接続を開始して、適応させるために一週間眠っていたはずだ。自分の意思で目が覚めたということは一週間経過したと同義で、まず眠る前はベッドで横になっていた気がする。
まぁ細かいことを気にしても仕方がない。ディアにもなにか理由があって移動させる必要があったのだ、きっと。
今は久しぶりに外の空気が恋しい。
深夜ならどうせ誰も起きてはいないのだから、朝が来るまで一人でのんびりと夜風にでも当たるとしよう────。
「んっ……?」
ガチッ、と金属音が鳴る。よく固定されたモノがネジ等の金具で留められてそれ以上動かない時に鳴るあの音が、両手首の辺りから。
もう一度立ち上がろうとするが、全身を椅子から浮かせることはできず先程と同じ音がする。発生源はやはり手首と足首からだが真っ暗闇でなにも見えやしない。
寝起きのせいでぼんやりしていたが明らかな異常に見舞われ急激に意識が覚醒した。
暗いのは夜だからじゃない、視界を奪われているから。
身体が動かせないのはなんらかの方法で拘束されているからだ。
──ここでリオンは気付いた。自分が今どこにいて、何者の仕業でこんな目に遭っているのかを。
"あぁ、兄上はまた約束を破ったのか"。
最初から期待なんてしていない。どうせいつも通りの口約束で、それを破る時はいつだって裏切りに似たひどいことが起きるのだと分かっている。
自分も自分だ。こうなるのが見え透いていたなら、やっぱりあてにするべきではなかった。
「ンッンー? なんだネ、目が覚めているじゃあないかナ」
正面の方向から男のものだがやけに甲高く耳障りで不快な声がする。
──自動扉を開いて入ってきたのは二人の護衛を連れた小柄な男だ。護衛の中には連れ去った張本人であるエタンセル・ローランの姿もあるが、見えないリオンは知る由もない。
「やぁやぁ、リオン・ファレルくん。早速だが私の名を知っているかネ?」
「……知らん」
「知らない? ンまぁ世間知らずなコト。それじゃあちゃぁんと耳で聞いて頭に残しておきたまえヨ」
この肉ダルマのようなまるっこくて奇妙な男、口調はふざけているが役職に関してはヴェルメリオ帝国軍が誇る全部隊統括の将軍──名はベレー・ボセージョという。
ボセージョ家は代々皇帝に仕える将軍一族でもあり、要は親の七光りとか単純に将軍の座を継いだだけとかそういった理由で役職に就いている。
しかしふざけた容姿やら口振りとは裏腹に任された仕事はこなす男だ。そうでなければ文句ひとつ言わずについてくる部下はいないし、皇帝を絶対の存在としているエタンセルだって彼には従わない。
レオンの仕業で部隊がひとつ壊滅してしまったが、最終的にはリオンの拉致に成功しているのが最たる証拠だろう。……まぁ直接交戦して奪ってきたのは隣の騎士団長だが。
ともかくベレー将軍の名前は前から知っているので、本人が名乗ったことで何者かはなんとなく知れた。
そんな男が部下に任せず直接会いに来るとは一体どういうことなのか。
「意外と冷静だネ、騒がないのかナ?」
「解放しろと言ったところで言うことを聞くとは思っていない」
「素直だナァ……そういう子はダイスキだヨ」
耳元で囁く不快感に満ちた声と吹き掛けられるやたら生温い吐息に、リオンからは反射的な舌打ちが漏れたが、むしろ初めからそれが目的だったと言わんばかりに男は笑っていた。
動けず無防備状態の身体をなにか不快な意図を持って緩やかに撫で回しながら愉快そうに耳元で笑う男に対し、沸き上がってくるのは僅かな恐怖心。
知らない他人が自分の領域に入ってきて不愉快というよりも、奴のそれはシンプルに気持ちが悪く恐怖を植え付ける行為だと思う。
以前現れた帝国のオズという男がなにか彼に関することを言っていたが、この対応で理由が分かった。
つまり────"そういうこと"だ。
帝国の将軍としてではなく、人としての在り方が決定的にズレている。
人が当たり前に抱く"恐怖"が湧いてくる瞬間を眺めて愉しみ、精神的な立場が弱い者を見下ろし優越感に浸りながら欲求を満たす──生きることにおいて方向性がまるで違う男。
同じ状況でも向けられたものが殺意とは違うからこそ恐ろしい。なにをしてくるか検討がつかない上に目視できないのは精神を弱らせるには十分すぎる。
なるべく早く急いでこの男から離れたいが、魔法で椅子ごと破壊しようにも何故か魔力が回らない。銀腕は確かに接続されているのに、体外に放出しようとするとまるで塞き止められているかのようで魔法が形にならないのだ。
魔法は詠唱せずとも術式を理解し自力構築できていれば発動できるのはこちらの世界では常識と言っていい。リオンが時折詠唱せず魔法攻撃を放てるのはこれが理由だが、できないということは魔力の活性化を遮断するなにかが働いているのかもしれない。
しかも同時に物見の心眼による未来視が働かず、余計に不安が掻き立てられる。
「早速だけど、君には簡単な質問をするヨ。ナァニ難しいコトは言わないサ。実に簡単だからちゃんと答えるようにネ」
「……御託はいい、早く言え」
「ソウ? じゃあ遠慮なく──魔光の宝玉、どこにあるか知らないカナ」
「……なに?」
魔光の宝玉、それはファレルの一族が代々守り続けてきた神器──聖遺物である。
いいやファレルだけではない。エレリシャスもルミエールもそれぞれの一族は"天守の神器"と呼ばれる三つの聖遺物を一つずつ保有している。
元々はひとつであった御三家が三つに別れる際にどの神器を守護するかを話し合いで決められたらしく、ファレルにはその内の"魔"を司る宝玉が割り振られた。
その実態は、たとえ限定開花や神話級の大魔法すら吸収し無力化するという対魔法防御装置。そして同時に、吸収した魔法の術式を再展開して行使する魔法結晶の超強化版能力も持ち合わせている。
御三家で最も魔法に優れるファレルに相応しい聖遺物だとは思うが、実はリオンが知っているのはここまでだ。
「存在は知っている。だがどこにあるか場所までは知らない」
当主エルシオンはなにを考えているのか分からないが、いずれ当主になり神器も守る立場になるリオンやジュノンに魔光の宝玉の隠し場所を教えなかった。
ファレルが持っていることは話を聞いたし本で読んだから分かる。しかし本当にそれだけで、実物は全く見たことがない。
つまるところ今宝玉の在処が分かるのは彼らが死の間際まで追い詰めた当主だけ。相当な結界で守られているのは確実なので、彼が死ねば宝玉は誰にも見つけられなくなるだろう。
「なにを目的にアレを欲しがっているのか知らないが、アテが外れて残念だったな」
「ふぅーん? 本当にィ?」
「知っていたら馬鹿正直にここまで話さん、黙秘する」
家のことはどうでもいいが、天守の神器が人の手に余る能力を持っているのは事実。
なんのためにそれらを守るかと聞かれればよからぬ連中に悪用されないためであり、神々から与えられた叡智で繁栄をもたらすため。
ヴェルメリオ帝国の思想たる「魔法の否定」と宝玉の力は確かに噛み合っている。奪われれば次の瞬間にはきっとよくないことが起き、世界中が混乱に包まれるだろう。
大方当主候補だったリオンなら知っていると思っていたんだろうが、彼は本当に隠し場所を知らない。知っていたとしても絶対に教えたりするものか。
「…………アッそう」
冷めたような口調で一言告げたベレーは一般兵らしき護衛の一人からなにかの物体を受け取った。
リオンにとっては足音が離れ、ガサガサと音がした程度しか認識できないのがもどかしい。
「警告だヨ。その気になれば我々にはキミの記憶を覗き見る技術があってネ、ここでウソを吐いてもいいことはないヨ」
「何度も言わせるな。父上以外は誰も宝玉の所在を知らない」
母は死に、祖父母もとうの昔に亡くなった現在ではあくまで父──エルシオンだけがその居場所を知っている。
エレリシャスとルミエールの現当主に知らせている可能性はなくはないが、これだと最初リオンが予想した通りルミエールがヴェルメリオと繋がっていた場合、わざわざ拉致してまで聞き出す必要はない。なので彼らは知らないと考えていい。
奴らがほしい情報なんて彼は初めから持っちゃいない。
一刻も早くこんなわけの分からない状況から解放してほしい。
冷静さを装いつつも内心の彼は酷く怯えていた。姿形の知れない奇妙な声の男が次になにを目論み、いつ行動に移すのか恐ろしくて──。
「そっかァ……残念だナァ……なんの成果も得られないとは思わなかったヨ、ネェ?」
「っ……一々触るな、汚らわしい」
心から思ったことをはっきり口にした。
顎を触れる肉厚な手のひらを顔を振ることで払い除けて、次に触れようものなら今度は噛みついてやるという意を込め牙を剥き出しにする。
「フーン……そっかァそうだよネェ、それが普通の反応だよネ」
断固として拒まれていることに気付き将軍はとても残念そうに項垂れ、反応でそれを知ったリオンは若干したり顔で口元を緩ませた。
────その次の瞬間だ。
「えいっ」
掛け声と同時にベレーは露出させたリオンの右腕に細い針を刺した。
なんの脈絡もないどころじゃない、本当に唐突で一瞬すぎて、反応もなにもできないまま中身を強く血管に押し込まれた。
「なっ……なにをした!」
「今のおクスリはネ、キミのパパが摂取した毒をちょいと改良した新薬サ」
「毒、だと」
タレイアとマーリンから知らされたエルシオンの現状は、帝国の内通者に遅効性の毒薬を盛られ続けた結果だったはず。
彼が今投与されたのはそれと同じ……ではなく改良型。
もし遅効性だったのが例の毒薬のデメリットだったとして、改善されたとしたらどうなるだろう。それ以外にも効果がより強くなったとか、そもそもエルシオンは食事に混ぜられていたがリオンは直接投与されたのだからなにかが劇的に変化するのは違いない。
「このおクスリでどんな風に死ぬか知りたい?」
「ふざけるな、知りたいわけがない!」
「だよネ、自分の死に方なんて聞きたくないよネェ。──ソレ、アガートラームの限定開花で治せるカナ?」
「……それ、は」
アガートラームの限定開花"治癒神の祈り"は接続しているリオンが生きている限り、致命的なものであろうが傷を癒す治癒魔法の究極型。外的要因で発生した毒も皮膚には傷があるので治癒は可能。
ただし毒は全身に回ってしまうと除去に時間がかかるのも事実。瞬時には傷を治せないのと同じだ。
しかもこういった毒を解毒できるようになるのは効果が現れてから。潜伏している間は害じゃないのでなにもできないし、効果が現れ出してから治癒を開始しても間に合わない可能性がある。
一概に治しきれるとは言えない。
「キミはもう用済みだ。交渉用の人質になってもらうヨ。でもでもネ、もしキミが私に服従してペットになるっていうなら解毒してあげようカナァ?」
命乞いするなら今のうちだ。いつものリオンならその時にできる隙を狙って敵を不意打ちすることもできるが、ここがどこかも分からないのにそんな真似はできない。
それに、こんな気味の悪い変態に口先だけでも服従なんてしたくなかった。
記憶を覗き見る技術があるという言葉が本当なら洗脳薬のようなものを使う可能性もあり得る。それなら尚更口にしてはいけない。
「誰が……服従するくらいなら、死んだ方がマシだ」
「ンン素直じゃないネェ。まぁイイヨ、強気でいられるのも今のうちだろうからネ」
「くっ……」
「じゃあ最後にここがどこか教えてあげるヨ。一番知りたいでショ? ……ここはネ────」
ベレー将軍が語る現在地、それは遥か空の上。
ヴェルメリオ帝国が総力を結集して開発した天空に浮かぶ船でありひとつの城塞──空中戦艦マーズ。
大気中の魔力を動力にし浮遊と移動、更には魔力砲による攻撃をも可能にしたまさに城と呼ぶに相応しい超技術が産み出した空の船は今まさしくアルブス王国上空を旋回している。
「逃げ場はない、助けも来ない。キミはひとりぼっちってコトを早く自覚して、私に泣いてすがり付く日を楽しみにしているヨ」
じわりじわりとなぶるように触れて囁き、ひたすら反抗的なリオンのたっぷり反応を楽しんだ男は口角をつり上げわざとらしく足音を立てて部屋の出口へと向かう。
──エタンセルの軽蔑の眼差しに気付かないまま。
「将軍閣下、陛下へのご報告はいかがしますか」
「しなくてイイヨ。被験者の女の子とかと違って、まだまだ楽しめそうだからネ。心と体、どっちが先に壊れるか……ナ」
一般兵の応対のなにもかもが気色悪い男は舌なめずりの音もわざと大きく立てて、嘲笑うかのように護衛二人と共に去る。
三人分の足音と自動扉の音が立て続けに鳴り響き、すべてが収まって数分経った頃には辺りは最初に目覚めた時と同様の静けさを取り戻していた。
「…………」
こんなはずじゃない。
こんな風になるために宵世界に帰ってきたわけじゃないのに、一体どこで間違えてしまったのだろうか。
魔力は相変わらず正常に魔法を形にせず、不可視化させている銀弓も現れない。投与された毒の効果がどんなものでいつはっきりするのかさえ曖昧だ。
奴が言う言葉を鵜呑みにするのもどうかと思うが、本当に心か体のどちらかが壊れるまでここに閉じ込められるとしたら──それだけでゾッとする。絶対に現実にはなってほしくない。
ここは空の遥か上にある牢獄。空には誰も近付けず、自分一人でも脱出できたとして逃げ場は見つけられない。
すぐそこに未来が迫っているのを認めたくないからこそ血が滲むほど唇を強く噛み締めた。
大丈夫、そんな怪我すぐ治る──でも毒はどうだろう?と脳裏に嫌なモノローグが浮かび上がってくる時までは。
「……こんなはずじゃ、なかった」
────不甲斐ない自分への苛立ちと次々襲い来る現実の両面に心が蝕まれる。
「いっそ捨ててしまえ」と投げ出した意識が離れていくその時に、一瞬だけ浮かんで消えたのは──きっと最後まで戦ったのであろう兄の姿。
そんな幻影にかけられる言葉はひとつだけだった。
──馬鹿な奴だな、兄上は。
「────リオンッ!!」
「わぁっ!?」
ガバッ! と布団をとんでもないひっくり返して起き上がったのは負傷箇所を包帯で巻いたレオン・ファレル。
慌てて飛び起きたものだから傷口に障ったらしく、すぐに右胸を抑えて踞ってしまったが。
「……夢、なのか」
「ちょっとぉ驚かすのは禁止ぃ!」
「す、すまない」
どうやら近くで看病していたらしいタレイアは彼が急に叫んだせいでぬるま湯に浸けていた布を頭から被ってしまったらしい。
だがレオンにもここまで慌てるほどの理由があるから跳び跳ねたわけで、悪意はない。よって許された──まぁ後が恐ろしい気がしなくもないのだがそれはそれだ。
ヴェルメリオ帝国との交戦、騎士エタンセル・ローランに敗れリオンを連れ拐われてからすでに二日が経過した。
デュランダルによる謎の一撃を受け地上より10m以上離れた空から落下して重傷を負ったレオンは、生来の異様な頑丈さも手助けしてか、ディアと彼女の使い魔ウサギたちの献身的な治療のおかげで一命をとりとめた。
それでも二日間も意識が戻らなかったのは精神的なショックのせいに違いない。
エタンセルが手加減したことで生活に支障がない程度の軽傷で済んだディアとタレイアは天空を飛ぶ船を追うことはできず、この隠れ家で彼の看護をしながら今後どうするべきかを話し合っていたそうだ。
「……そうか」
「ごめんなさい、私が不甲斐ないばかりに……」
「いいや不甲斐ないのは俺だ」
なにが約束を守るだ。なにがリオンを守るだ。
なにも守れなかった、手元に残されたのはあの赤き騎士が刻んだ光剣の傷跡だけで得るものなんてひとつもなかった。
大口を叩いておきながらこの体たらくでは、確かにリオンが言うように約束を破ることしかできないわけだ。
「これじゃあ嫌われるのも無理ないか」
「……レオンくん?」
「リオンに言われていた、俺は約束を守ったことがないって。前のはどんな約束だったのかも覚えていないけど」
そう、彼は以前交わした約束がどんなもので、それを破った時になにを言ったのかを覚えていない。
接続前の夜のことだが、この一連のやり取りでリオンの様子はかなり変わった。
態度は元から悪かったが激しい憎悪と殺意をレオンに向け、口をきかなくなってそのまま離れ離れになってしまったのだ。
なら、彼をそこまで変えてしまう"約束"はなんだったのか。
疑問は止まないが考えていても仕方ない。
「さて、帝国はどこに逃げたのか分かるか」
「ちょっとなにするつもり……?」
「追う。追ってリオンを助け出す」
「無茶言わない! その体で行くつもり?」
「俺にはこの体しかない」
「それは屁理屈ぅ!」
もし助けに行って、たとえ罵倒されたとしても関係ない。
責任はレオンにある。
奪われたものを奪い返しに行くだけでぎゃーぎゃーと騒がれる筋合いは全くもってない上、彼女はあくまでも他人なのだから世話を焼く必要はないはずだ。
しかし立ち上がろうとする彼をタレイアは必死に押さえつけ、これ以上の動きを阻害してくる。
銀剣が手元にあれば切り捨ててでも出立したがあいにく反対側の壁に立て掛けられているため手が届きそうもない。
ただをこねる子供と宥める親のように揉め合う二人が攻防を繰り広げる中、彼女は静かにタレイアの背後から迫りつつあった。
「全く、喧しいと思うたら汝か」
「……ディア様」
二匹のウサギを抱き上げ、レオンを見下すように見つめるディアからは軽蔑や憐憫といった腹立たしい感情が感じ取れる。
家主になにをしに来たか問うのはおかしなことだと自覚はあるが、聞いてみることにした。
「汝はやはりなにも分かっておらぬな。そのままでは帝国に追い付こうとも今度は死ぬぞ」
「貴方には関係ないだろ、俺がリオンを助けようと思うこと以外になにを考えたらいいって言うんだ」
「はぁ……儂はそういうところを直せと言うとるんじゃ。故に、一つだけ汝に提案がある」
「なんだ?」
「思い出してみぬか、約束とやらの記憶を」
ディア曰く、リオンとレオンの両者に密接に触れた経験があるため彼らが持つ記憶や思考を精神魔法で他人の脳内に再現できるらしい。
彼女が扱えるこの操作術は、要するにメモリーカードに保存されたデータを読み取り映像化し再生・保存するような魔法で、見せるだけで当人の脳に蓄積させないことで負担を減らしたり、記憶として完全に焼き付けることもできる。
本来なら記憶喪失になった人物の魂に焼き付いた記憶と記録を脳に移植させる魔法だ。
彼女はこれを用いて、レオンとリオンが交わしたという約束とその顛末を思い出してみろと提案している。
「汝は眠るだけでよい、すべて夢の中で再現できるからの。どうじゃ少しはこれで真人間になれるかもしれんぞ」
一言余計だが悪くない提案だと思った。
レオンは知らねばならない、なぜ最愛の弟であったリオンがあんなにも好いていた兄を憎み忌み嫌うのかを。
レオンは思い出さねばならない、あの日彼が言ってしまった世界で最も残酷な裏切りの言葉を。
だからこそ今の彼に断る理由なんてない。
「分かった。やろう」
「よし、中々素直じゃな」
「……なにをしたか知ればいいんだろ」
「あぁ、知るのじゃ。汝の罪を、そしてあの子の真の願いをな」
再びベッドで目蓋を閉じたレオンに聞こえてくるのは、精霊の優しく暖かな声。
忘れてしまった記憶。
霞んでしまった記録。
そのすべてをもう一度、自らのものにするべく彼は夢の中へと潜水する。
「さぁ往くのじゃ、汝らが愛した大切な日々を取り戻すために」