2-7 約束
■■■・■■■■は約束をした。
"いつか■■になった時、■■■■違う遠い■■へ■■で行こう"。
今は幼い子供の口約束だと理解している。
しかし、その時の■はいずれ叶うであろう■との願いを確かに信じていたのだ。──信じていたからこそ、■■■■■時に失ったものもありえないほどに多かった。
それでも■は誰かに■■■なければ正常になれず、今日も誰かを探してさ迷っている。
もしも■■■が約束を守っていたのなら、未来は、あるいはその当時の現在も■は■の背を追い続けていたのではないか。
尤も、そんな世界線ははじめから存在しないのだけれど。
これは誰かの壊れた記録。
これは誰かが忘れた記憶。
そのすべてが語られるのは、もう少し先の話。
◇
"白の国"アルブス王国と"黒の国"アーテル王国を隔てる深い深い精霊の森の獣道は昼間だというのに夜のように薄暗く、まさになにが出てきてもおかしくない雰囲気が充満している。
不気味を絵に描いたような闇の中を、言葉も交わさず黙々と歩む彼らの前に拓けた場所が見えてきた。
どうやらここが目的地らしい。
「小屋しかないけれど……ここに?」
「間違いなく」
かの大魔術師マーリンから託された地図の目的地にはGPSだのなんだので点された小さな光、そして彼らが現在たどり着いたのはその光が指し示す森の中にある広いだけの開拓地。
闇に沈んでいた道から一気に太陽の輝きが差し込み、視界を奪われそうになるほどの眩しさが照らすただ広いだけの空間にあるものは、人が一人暮らすならちょうどいい程度の小屋と森の更に奥から流れてくる小川に小さな畑くらい。
生活感があるようなないような曖昧さを絶妙に宿す一角は、手入れが行き届いており、人が住んでいるという証明らしい。
清らかな小川のせせらぎ、水車が回りばしゃりと跳ねる音が混ざり合い、心も体も癒されていく。
人里離れたこの地に外界のすべてを閉ざして一人で暮らしている理由が分かる気がする。
「綺麗な水ねぇ、もしかして聖剣の泉から流れているのかしら」
「精霊が一匹でこんな場所に住んでるなんて、気付かなかった」
「誰が"一匹"じゃ、誰が」
「誰って……それは────あれ?」
レオンに返事をしたのは誰だ?
振り向いてみても誰もいない、右側にはリオンがいてタレイアは川を覗きに行っているのは把握しているのだが……今どちらでもない声が聞こえたのに前も後ろも誰もいない。
「ここじゃ、バカタレが」
「なッ──痛ぁッ!?」
キョロキョロと辺りを見渡していたレオンの額に突如ぶち当たった衝撃波は、彼が見えていた限りは豆かそれよりも小さいかくらいのサイズだったにも拘わらず、一応は大の大人であるレオンに尻餅をつかせる威力は十分にあったようだ。
突然の出来事に純度の高い水の方を注目していたタレイアは振り向き、兄上のこととはいえさすがに襲撃を警戒したリオンすらもそちらに目線をやらずにはいられなかった。
額を押さえて悶絶しうずくまる彼を尻目に、どこからともなく聞こえる謎の声は続ける。
「汝は視界の狭い男じゃな」
「っあー……なにを、って」
「ほれ、これで儂と同じ目線になったろう?」
そこにいたのは、ちょうど尻餅をついたレオンと同程度の小柄な幼女だった。
ティアラらしき髪飾りを身に付け、人間とは比べ物にならないほど高密度かつ高純度な魔力で編み込まれた魔装束を纏った彼女は片手に本を抱き、足元にはウサギに似た生き物を二匹も連れている。
ウサギたちは特に警戒する素振りもなく、レオンの周りを跳ね回って額に向かって癒しの波動を流し始める始末。
状況が微妙に理解しきれずポカンと目を丸める兄と連れはともかく、リオンには幼女とウサギたちが纏う独特の雰囲気がなんたるかを理解している様子だ。
彼女は一見すると風変わりな貴族風の少女だが、その容姿には普通の人間と決定的な違いがある。──それは耳だ。
人間と夢魔の混血だったオリオンでもそうだったように、完全に人型の異形種は耳が長い。
よって彼女がここに住む精霊だとほぼ確証がとれた。精霊は人畜無害で人間を好まないが、つまりは異形であることに変わりはない。
「貴女がディアか」
「いかにも。儂はディア、愛娘が即位してからこんな辺鄙なところで隠居している変わり者になんの用か」
やはり彼女がリオンの探している"ディア"なる女性であった。
森聖領域ヴェールに現女王"アルメリア"が正式に女王として即位したのが100年近く前らしい。愛娘という単語からも判る通り、つまり彼女はその前──先代の女王にあたる人物だ。
追放されたとか親子間の仲が悪かったとかそういうわけでは決してないが、ディアと彼女に決定的な違いがあったとすればどれほど人間を愛していたか、だろう。
ディアは人間たちと積極的に交流し見聞を広め、国作りに役立てたという。
約100年前、娘の女王としての素質が自分とは異なる方向で良いことを知り玉座を退きヴェール国内ではなく今は人間が住む宵世界の森の中で暮らし始めたそうだ。
ログハウスのような小屋の中はいたってシンプルな構造で、見た目以上に中身は普通。生活に最低限必要な家具が揃い、余ったスペースにはこれでもかというほど本が詰まれているが魔法使いや魔術師なら別段珍しくはない。
「椅子は空いておろう、座って少し待て」
そう言ったディアは手慣れた動作で使い魔を喚び、四人分の紅茶と二匹分のにんじんを手早く用意していく。
「さて──、こうして面と向かって話すのは初めてになるな。リオン・ファレル、銀弓の魔術師よ」
「御息女……アルメリア女王には大変世話になった」
「そうかそうか」
二人に面識はないが、リオンはマーリンとアルメリア女王ならびにヴェールの城の関係者からディアについて聞いたことがある。ディアの方も、森聖領域の秘宝たる銀腕・アガートラームを隻腕の少年に授けると娘から聞き素性はある程度調べてよく知っているのだ。
銀腕・アガートラームはディアが女王になる前、彼女の祖母よりずっと前に天に住む不可視の神々から精霊に与えられたひとつの叡智でもある。
遥か昔、神々が生きる時代に銀の腕を身に付けた王ヌアザの勇敢さと、そのヌアザに与えるべく輝ける聖腕を造り上げた治癒神ディアン・ケヒトの慈愛を後世に遺し続けるために精霊たちは銀腕を信仰した。
それを一介の人間に授けることを決めた現女王の言葉を最初に聞いたのはまさしく母である彼女であり、背中を押したのもまた前女王である彼女であったという。
もちろん手放しに認めたわけじゃない。
銀の腕は即ち神の力だ。悪用すれば世界には厄災が降りかかることは明白、だから徹底して調べ上げた。どんな人間でどんな少年でどんな善人なのかを。
判ったことはどんな未来を辿ろうとも彼は純粋な悪には成り得ないこと、そして────。
「……しかし、汝も意外と弾けたヤツじゃな。まさか銀腕を切り飛ばされるまであの邪竜と殺し合ったとは恐れ入るわ」
「すまない……と、言えばいいか」
「いいや構わんよ。おかげで我らが森聖領域は救われ邪竜も討たれた。その戦禍の中で、汝が生きていたなら儂らはそれだけで十分じゃ、汝の友も同じことを思うだろう」
「…………」
言ってしまえば銀腕だけならいつだって取り戻せる。邪竜がしたように四肢を切り飛ばしてでも、なんなら彼が死んでからでも回収は難しくない。
だがアルメリア女王が他でもないリオンに託した理由ははただの才能だけではないはずだし、なによりも彼は今生きている人の子だ。
命があり地を踏んで精いっぱいに生き続けている彼の自由を、神の腕があるからといって奪うわけにはいかない。
そもそも愛する人が生きる世界を護るため戦った彼をどうすれば責められようか。
「そこな男はどうじゃ」
「俺……?」
「そうじゃ、汝はこやつの兄じゃろう。生きていたことに、喜びはないのか?」
喜び、当然だろう。
リオンはレオンの弟で、誰より友より恋人より愛しているつもりだ。
この再会のきっかけ作りになった予知夢にも感謝しているし、あの整った顔に傷を作ってきた時はどうしたことかと思ったが今無事なら安心している。
当然だろう────当然、だろう。
……いいや、やっぱり違う。この状況はおかしい、こんな未来は望んでいなかったし目指してもいなかった。
今は亡きオリオン・ヴィンセントが導いた"彼"の世界の正当性なんぞ認められるわけがない。
「リオンが普通に生きているのは当たり前じゃないか。むしろ異常の間違いじゃないのか、"あんなの"が連れ出さなければリオンは今だって何事もなく生きていて、こんな面倒な旅をする必要だってなかったはず……」
「馬鹿者めがッ!」
「はいっ!?」
「汝は何故理解しようとしない! 自分だけが愛すればいいというのは願いではなく独占欲だと知らんのか!」
テーブルを叩いて怒鳴り付ける外見だけ幼女の老女は捲し立ててレオンの主張をボコボコに殴り付けて砕いていく。
賢者の主張は正しいが他人の言葉。レオンの主張も正答ではないが間違いでもない。
じゃあなにが正しいのかと聞かれれば、答えはリオンしか知らない。尤もそれを語れるだけの信頼も信用も兄弟愛もとうの昔になくしてしまったが。
「……本題に入ろう」
「…………すまぬ、脱線してしまった。じゃがその前に汝は出てゆけ、割って入られては話にならん」
「それはこちらも同じだ。あの男と同じ異形の話など聞いていられるか!」
捨て台詞のように吐き捨てたレオンはしかめっ面のまま小屋の扉を乱暴に開いて出ていってしまった。
「うむ、あれは放っておいても勝手に解決する生き物じゃから気にせんでもよい。それより、汝じゃな」
「なるべく最速で済ませてほしい、俺も兄上とは早めに縁を切りたい」
銀腕と銀弓さえあればヴェルメリオ帝国に恐れることはない。レオンの力も当然ながら必要ない。
自分一人でなんとかなるしなんとかできる。
「儂にも準備がある。だから明日じゃ、今日の夜には眠り明日に本格的な固定と接続を行う。つまり汝は今夜から一週間は目覚めることはできん、分かっておるな?」
「あぁ」
「ディア様、待ってください。一週間……とは、どういう……」
「それは──」
神造遺装、銀腕・アガートラームは神が造り神が装着することを前提にした義手だ。人間が身に付ければその情報量と膨大な魔力に押し潰されて内側から殺される、これは聖剣・エクスカリバーが及ぼした呪いにも近い。
だからアルメリア女王はリオンが銀の腕を得るにあたって、まずは彼の肉体を完全なスリープ状態にした。
それが脳をはじめとした身体機能や体内にある元々の魔力の流れ、リオン自身の"属性"と"在り方"に影響を与えないためには最適な措置だったのだ。
実際に女王はその方法で銀腕・アガートラームを固定し接続、徐々に身体に馴染ませ元からそこにあったかのような状態にしてみせた。
もちろんだが最速でやるなら意識を保ったまま接続するのが一番手っ取り早い。
だが実行して、成功してもリオンはこの19年を生きてきたリオン・ファレルを保てなくなるだろう。
なにを失うのかなにを得るのか──記憶か、人格か、思考かわからないがただの人間である以上は塗り替えられて別の存在になってしまうのは間違いないとディアは語る。
急ぐのは構わないが近道をしようと思ってはいけない。無理な近道をすれば大事なものを失ってしまう。
タレイアも神造遺装の影響力にゾッとしたと同時に納得したらしい。
「ヴェルメリオ帝国はリオンくんを追っているのよ、どうするの?」
「まだ見つかっていないと祈るしかない」
「……よいな?」
「あぁ、それでいい」
話は着いた。
リオンは失った──元からなかったけど──腕を取り戻す。あの戦いから止まった時間を動かし、いずれはあの世界へと帰ってみせる。
兄に情などない。否、あったけど昔の話だ。
それからディアは準備を始め、瞬く間に時間が経ち空には茜色の太陽が沈みつつあった。
タレイアは準備の手伝いをしているらしく話が終わってからしばらくの時間、顔を合わせていない。
なにもすることがないリオンはウサギたちがぴょんぴょんと畑を跳ねる光景をずっと眺めていた。別に小動物が好きなわけじゃない、なにもしないよりは飽きないだけだ。
可愛らしいだけではない治癒の魔法を宿す使い魔は野菜には一切口をつけず、小さな子供が遊ぶように影に隠れたり追いかけっこをする。本当に無邪気で愛らしい。
「リオン」
レオンの声がした。
無視してもよかったが、一週間後には三度袂を分かつのだから最後くらいは話をしようと変な気を使って彼の方を向く。
「なんだ兄上、頭は冷えたのか」
「冷やす必要はないだろ」
ああやっぱり、レオンはなにも反省していないようだ。
「あの、リオン……言いたいことがある」
「手短に」
「──やっぱりやめよう、銀腕なんてお前には必要ないんだ」
「……どうした。いつも以上にふざけているな」
「約束する。俺はリオンを守る、守ってみせる。一週間も眠っていなければいけないような遺装がなくても安心して生きていけるように、強くなるから」
レオンはすべて聞いていた。
むしろ当時、銀腕を得て帰ってきたリオンがどんな方法で義手を装着したのかを知らなかったこと自体が驚きだが。
確かにアガートラームの接続には危険が伴う。眠っていたとしても神造遺装に破壊される危険性が減るだけで完全にゼロになるわけじゃないのはリオンも分かっていた。
神の力は人が得られるものじゃない。奇跡が巡り合わせない限り、チャンスすらも訪れることはない。
彼は確率論では語れない奇跡を手にしてきた。
だとしても、その奇跡がいつまでも続くとは限らない。無限の奇跡は存在しない、残されるのは有るだけの運命だ。
レオンはそんないつ壊れるかも知れない薄氷を永遠と歩き続ける弟の背中を見たくはない。
「今すぐ離れよう、カエルレウムに帰ってジュノンと一緒に……」
伸びてきた手はほぼ条件反射で、自身も意識していない反撃で払われた。
痛そうに手の甲を抑えるレオンの表情は明らかに動揺し、何故拒まれたのかも分かっていない様子だ。
その兄のなにも知らない顔が、被害者面が、勝手な思い込みが、リオンの胸の内側をなんともいえない感情でグシャグシャにかき回していく。──そして乱れた心の刃は明確にレオンへと向けられた。
「なにが"約束"だ。兄上が、一度でも俺との約束を守ったことがあったか」
「そ、それは……」
「俺は──忘れていなかった。ずっと覚えていたのに、兄上はなんと言ったか今でもはっきり思い出せる。……覚えているか、あの日なにを言ったのかを」
あの日────その言葉が示す日が思い出せない。
「……一体、なんのことだ」
だからレオンにはそうしか返す言葉がなかった。
「いつの話だ。なぁ、リオン?」
「……」
思い当たる節が多すぎて、ではない。レオンは本当にいつどこで起きた会話なのかが分かっていないらしい。
あまりにも愚かしい兄の様子に、何故か笑えてきた。馬鹿馬鹿しすぎたせいかもしれない。
"やはり殺しておけばよかった"。
それが脳裏に焼き付き、思考から離れなかった。
「ここまでだ」
「えっ?」
「言っただろう……次に会った時は迷わない、必ず殺す」
銀腕さえ戻ってくればレオンを殺すことはできる。
命をあっという間に奪う手段が手元に一気に増え、戦いになったとしても本調子なら問題なく作業の要領で殺せるはずだ。
殺してみせる。絶対に殺してみせる。なるべく苦しませてから殺してみせる。
そのやり取りを終え別れた後、夜が訪れた。
さぁゆっくりとおやすみ。あたたかな幻の夢を見て、次に目が覚めた時にはきっと彼の時計が動き出す。
子守唄のように優しい声を聴きながら、瞼が閉じていく。
赤く赤く染まる前、それが最後の記憶だった。