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ANASTASIA  作者: 桜依 夏樹
Dear Moonlight 明世界編
8/133

1-1 月下に踊る 1




 夜の町に冷たい風が吹く。真夏なのに冬場のような凍える寒さが身体を支配する。


 目の前には剣を携えた青髪の少年。大の字で倒れて頭から灰と化す異形。この状況全てが月見一颯の常識を上書きしていた。

 そして彼女が最も気になったのは、彼のあどけなさを残す顔つき。


「…子供?」

「違うわッ!!」


 音速で否定の言葉が返ってきた。

 オリオンにとって最大のコンプレックスは()()()()()()()()自分の肉体そのもの。まさか初対面の女の子にまで抉られるとは思わなかったようで、あークソ、などと頭を掻いて愚痴をこぼす。

 せっかく一人助けてハッピーエンドだと思っていたのに、それが恩を仇で返すような相手だったことが彼にとって少しがっかりポイントだった。


「ごめんなさい。えっと…オリオンくんはここでなにしてるの?」

「見てわかんねえのか?」

「分からないから聞いてるんだけど…」


 ここまでの一颯の視覚情報は、怪物を彼が退治したということだけ。どうやって退治したのか知らないし、どこから来たのかも知りうる手段がない。彼がなんの目的で梓塚にいて、なんの理由で怪物を倒したかは残念ながら一颯には分からなかった。

 ため息を吐いたオリオンは後ろで倒れている異形から剣を抜き、その剣を鞘に納めるわけではなく紅い光に変えて消滅させる。

 楔を失った異形はもう一体と同様にこの世から消えていく。

 二体がちゃんと絶命していることが確認できた彼はまだへたったままの一颯に近づき、ひょいっとお姫様だっこの形で持ち上げた。


「ちょちょちょちょちょっ!?」

「詳しい話は戻ってからだ。ここじゃ次の連中が来るし」

「えっ待って。戻るってどこぉ───!?」


 オリオンは一颯を抱えたまま常人とは思えぬジャンプ力で屋根に跳び移る。まるで源義経の八艘跳び伝説みたいに軽く、余裕で住宅地の屋根を駆けていく。

 体験したことのない空中散歩に絶句し、一颯は強く目を閉じて彼のマフラーをぐいぐい掴む。首が絞まって苦しいとまではいかないが、破れるんじゃないかってくらいに強く握られてちょっとだけ移動速度を速める。

 早く丘に戻って地に足を着けさせてやろう。オリオンは足にいっぱいいっぱいなほどの魔力を分配し、高くジャンプする。この際空気抵抗でビックリされても知ったことではない。

 こっちは気を使ってるんだから多少は我慢しろ、その精神でいくことにした。


 7階建てマンションの屋上から跳んでようやく丘にある公園まで辿り着く。

 途中何度か一颯がじたばたしたが、頑張って堪え忍びなんとかここまで戻ることができた。


「ほら、地上だぞ()()()


 地面に着地したと同時に思わず不満を体現した言葉が漏れた。

 呼吸の荒い彼女はオリオンから距離を取り、慌てたように周りを見渡すと、まぁ予想通りの声を上げた。


「ここどこよ!?」


 ここは梓塚市尾野川町の森林公園。町を一望できるこの公園は、今いる展望エリアの奥にも敷地が広がり週末になれば子連れが多くやって来る尾野川町の名スポットだ。

 一颯も小さい時には何度も来たことがある。しかし状況が状況だ。そんな記憶は綺麗さっぱり抜け落ちていた。


「まぁまぁ落ち着けって。ここは安全だから連れてきてやったんだ。それともあの場に残って連中に食われたかったのかよ」

「そんなの嫌に決まってるじゃない!」

「だったら大人しくしてくれ、そんなヒスんな」


 パニックになっている彼女を鎮めようとオリオンは冷静に対処する。こんな時、まず自分が落ち着かなければならない。下手に逆ギレし刺激してはダメだ、彼女のことをまず第一に考える。もしかしたらクレーム対応に似ているかもしれない。

 少しずつ冷静さを取り戻してきた一颯は何度か深呼吸を繰り返し、混乱した心を落ち着かせて彼と向き合った。


「それで、君はなにしてるのよ」

「うーん…あいつらをブッ倒してる」

「え、それだけ?」

「それだけ」


 オリオンに与えられた使命は梓塚に出没する異形を殺し、場合によっては一颯のように異形と遭遇した人間を助ける。この二種類だ。

 未だ疑念を抱いている一颯は次の質問をする。


「どこから来たの?」


 ここじゃない異世界から。そう言うと一颯は顔をしかめた。

 当然だ、異世界なんて漫画やアニメの世界にしか存在しない。常識的に考えれば彼を信じられないのが普通だろう。

 だが異世界から来たという証拠は多くある。まず彼の身体能力、凄まじい運動神経は世界記録も余裕でぶっちぎっていた。それに彼は何度か超常的な現象を起こしている。最初に見た空の紅い光は彼が起こしたもので、持っていた剣が自立して怪物に突っ込んだのもきっと彼がなにか細工を施したからだ。

 決定的な要素が多い以上、彼の言い分を信じざるを得なかった。

 最後に一颯はこんな質問をした。


「あの怪物は何? なんで人を殺しているの?」


 この夜の核心に迫る問いだ。

 それに関してはしっかりと言い聞かせる必要がある。オリオンは一から全て答えた。


 異形。この世に存在しない異世界の化け物。

 知能がなく、思考能力も存在しない。ただ生物を見つければ喰らい、それらが逃げれば追う。無邪気さで言えば人間の赤ちゃんにも近いものがあるか。

 人間を殺す理由は簡単。人間が肉や魚を食べるのと同じく奴らの主食が人間であるから殺して食う。その点に関しては他の生物や人間と大差はない。それが恐ろしく見えるのは人間に人肉を食す文化がないからだろう。


 奴らは普通の人間では到底敵わない力を持っていて、何人も何十人も犠牲者が出ている。

 その異形を圧倒できる力を持ち、この梓塚の夜を守るためにいるのが自らであると一颯に説明した。


 信じているのか信じていないのか曖昧な表情をしているが、こうして死人が出て助け出されている以上、彼女はこの非現実的な現実を受け入れなければならない。

 これは決してタチの悪い夢ではないのだから。


「なるほどね…。ホントは嘘だって思いたいけど信じるしかないわね」

「ご理解いただけたようで結構だ」


 柵の向こうの町を見る。

 仲間の魔力痕を嗅ぎ付けて先ほどの道来たのがまず一体。それを追うようにゆっくり進んでいるもう一体。腕が肥大化した三体目は…全く別の場所にいる、もしかしたらあれが変異体かもしれない。

 変異体は朝になると消滅はするものの、他と違いまた夜になると現れる。憶測だが、一時的にこの世界から存在を消しているのだろう。

 三体全部が一ヶ所に固まっていては突破は難しかったが、偶然にも変異体と通常の異形は分かれて行動しているらしい。これなら変異体とは交戦せず二体を倒し、一颯を家まで安全に送り届けられそうだ。


「なぁイブキ、お前の家どこ?」

「私の? …あっちだけど」


 一颯はさっきいた曲がり角から約800mくらい先の位置を指差した。それなら間違いなく変異体とは鉢合わせない、ラッキーだ。


「分かった。今からお前を連れてく」

「ま、また飛ぶ?」

「地上からでもいいぜ、余裕だし」

「じゃあそっちでお願い」


 元々死体を見て吐きそうだったのを堪えていたため、あの重力を無視した飛んだり落ちたりする動きで胃袋が限界が近かった。

 できればあまり揺れないように走っていただきたいが、オリオンがそこまで気が利く男でないことはもう察していたため、一颯は腹を括ることにする。

 …そういえば、彼は五人組全員の姿を見たのだろうか。


「あのバカども? あー、四人は死んでたな。もう一人はお前じゃねえのかよ」


 彼曰く、ここから五人の姿は確認できたが、制服しか見分けがつかなかったので詳しい身体的特徴は分からない。実際死んでるのを見つけたのは四人だけ、残り一人はイブキだと思ってた。とのことだ。

 一颯が見たのは松井エミと雪子を庇った男子の死体。そして雪子と思われる下半身だが、異形が人間を食うということとオリオンがその姿を見ていないと言った以上、恐らく体は残ってないだろう。

 雪子のことを意識した瞬間、目に入ってきたのはあの白いスマートフォン。液晶がひび割れたそれに写るロック画面には在りし日の雪子が友人たちと笑顔で並んでいた。ここに写る五人はもうここにはいない。

 罪悪感に押し潰され、心が圧迫される。泣き崩れた足に力が入らず、ただひたすらに悔やんだ。

 もし最初のあの食堂に四人を止めていたら誰も犠牲にならずに済んだのではないか、松井からの着信に出た雪子から携帯を奪い取って肝試しをやめさせたら、絶対に巻き戻らない過去に対する後悔が津波のように押し寄せた。

 オリオンは静かに傍に寄り、彼女の背中を擦りながら言う。


「…イブキ、帰るまでは自分のことだけ考えろ。今は後悔すんな。お前が死ねばそいつらと同じだ。無事に生き残れたそん時に後悔すればいい」

「なによっそれ…意味、わかんない…」

「後悔ってのは後から悔やむって意味だろ。死んだらそこで終わるからな、なにも悔やめねえよ」


 今はまだなにも終わっていない、と彼は言いたいのだろう。

 一颯は涙で真っ赤になった自分の目元を両手でごしごしと擦り無理矢理涙を止める。本当はもっと泣きたいが帰ってからだ、このままだと目の前のやたら達観した子供にバカにされる。それはなんだかとても腹が立つ。


「もう、早く行きましょ。帰してくれるんでしょ」

「おっそうか? よし!」


 もう一度見下ろす町中に変化はない。

 出歩く者はオリオンと一颯だけ、敵は実質二体。天候も満天の月が大地を照らすほどに雲はない。


 来たときと同じように一颯を抱え、鉄柵の上から飛び降りる。

 着地予定点はさっきと同じくコンビニ付近…と言いたいが、二人分の体重でそこまで行ける自信はない。できればそこに近い場所に、加速をつけて大地を目指す。

 人の気配に気付いたか、または魔力の匂いを嗅ぎ付けたのか、二体の異形が移動を始めているのが分かる。わざとらしい足音が無音の深夜に響き渡った。


 着地したのはコンビニから少し手前の国道沿い。問題はここからのルートだ。


「イブキ、こっからどうすりゃいい?」

「えっと…あの喫茶店の正面から路地に入ってそこから私が言う場所まではまっすぐで大丈夫」


 さっきと言われた方向が違うような気がしたが、この着地点が見知った場所でここから家に一番近いルートを選び直したのだろう。

 どちらにせよ変異体と思わしき存在とは出会わない。問題なのは後方から来る二体だ。

 先程一颯が指差した喫茶店の前まで行き、看板の隅で腕から一旦下ろす。不思議そうな顔をしている彼女に「店の扉に背中を向けてしゃがんでろ」とだけ伝えて虚空から紅い剣を喚び出し、道を抜けてきた異形二体を待ち構える。ここで仕留めれば今夜のこの後が楽になる。

 一颯もオリオンからはすぐ見える場所に後ろから襲われることのない状態でしゃがんでいるため戦いやすい。


 剣から火花が散る。身体から放出される魔力は炎となり、夏のアスファルトを焦がす。


 唸り声を上げる異形に向かって疾走し、瞬く間に足元まで潜り込む。

 鈍足な異形は知恵が足りないが故に守ることを知らず、ただ無作為に攻撃を繰り返すため隙が大きい。その弱点を知ってしまえばオリオンでなくとも容易に奴らを屠ることができる。


 自らの足元にいる生き物に殴りかかろうとするその拳に対し、ただ剣を振り上げる。落ちてくる拳は抵抗なくそれを飲み込み、大地を揺らすほどに咆哮する。

 異形に刺さった剣の先に身体から溢れた魔力が造り出す炎を集中させ、炎によって内側から巨大化した腕は空気を入れすぎた風船のようにバツンッ!と強烈な音を立てて破裂した。


『AAAaaaaaaa───!!!!』

 

 あっけなく右の腕を失い、声とも言えない声を発する異形は左に残された豪腕でオリオンに襲いかかる。

 とはいえ大振り過ぎた拳は素早さで圧倒的に勝っている彼の反射神経には効果がない。

 左側に滑り込み、3mの巨体を支える背を足場にして蹴り飛ばし、奴の後方で未だ間抜けな姿を晒しているもう一体に迫る。

 一颯は今立看板に少し体が隠れた状態になっている。異形どもは思考できないため、攻撃されれば敵対者にしか集中できない。多少目を離しても姿が見えづらい彼女には手を出さないはず。よって今標的にされているのはオリオンだけだ。


 仲間の後ろに現れたことでようやく人の像を捉え、突っ込んでくることを理解したのか異形は粘液にまみれたグロテスクな口を大きく開き、彼を待ち構えている。


 だが遅い。魔力でいくらでも速度を速めることができる剣士に対してその判断はあまりにも遅かった。


 下段に構えた剣を一気に振り上げる。顎下から縦に斬り上げた一撃は斬るというより叩き込むと形容した方が相応しく、さながらヘビー級のボクサーが繰り出すアッパーのごとき重さに、一つ目の化け物は為す術もなく仰向けに倒れた。

 開かれたままの口に左手を突っ込み、短い詠唱を紡ぎどこからともなく渦巻く火炎を生み出す。


「そらよッ!!」

『UuaaaAAAAAAAAA!!!』


 炎によって内側から焼かれた異形の顔面は醜く歪み、膨れ上がった眼球がぐちゃぐちゃに弾け飛ぶ。自らも熱に触れて火傷しそうになったのか、オリオンは「あっつ!!」などと緊張感のカケラもなく言って口内から手を引っ込めた。

 眼球の潰れた異形はすでに消滅しつつある。目が見えなくなり動かないそれに追い討ちをかける必要もない。


 続いて放置していた先の方に手をつける。

 隻腕になった図体でドタドタと揺れながら突撃してくる姿はとてもじゃないが無様だ。可哀想に、ただ連中に人類への慈悲がないようにこちらが慈しみを持つ必要はない。否、むしろ早急に命を絶つことも救いかもしれない。

 敵が弱っているなら派手な動作はいらない。その手に持つのは生命を消し去るに十分すぎる得物だ。


 左から繰り出される攻撃を制す。弱体化した腕にはなんの力も篭っておらず、上手く弾き飛ばせば元からバランスが取れていない体は簡単によろめく。

 すでに守る手段を持たない敵に対しまずは横に払うように腹部を捌き、悲鳴を上げる喉と思われる部位を紅い光を発する剣で抉り斬る。いい加減叫ぶ声が喧しかった。


「…なにあれ…すごい」


 月の下に戦う彼の姿に彼女は驚嘆した。非日常非現実めいたこの夜で戦う彼は魔法使いや剣士というより、もっと野生味の溢れる動物的なものを感じた。

 だがその豪快なさまは粗悪なものではなく、彼というこの世の人間ではない存在をより一層美しく輝かせている。

 そうした見方をすると、この異質な世界も彼だけのために用意された超巨大な舞台装置のように見えて、一颯すらその舞台のエキストラになった気分にされてしまいそうだ。


「待たせた!」

「大丈夫なの? 怪我はない?」

「問題ナシ!」


 二体を見事撃破し駆け寄ってきたオリオンの爽やかな笑顔はさっきまでの狂戦士ぶりとは異なり、年相応に見えた。

 手を差し伸べ、しゃがんだ一颯を立ち上がらせる。剣はもう片方で持ったままだ。


「これで今夜はもう心配いらない。安心して───」


 その瞬間、夜に影が下りた。

 にこりと微笑んでいたはずの表情は一転。オリオンは一颯の手を振りほどき、背後に現れた謎の存在の攻撃に対応する。

 一颯はもちろん、丘から異形の位置を把握していた彼も驚いた。まさかこんな場所に、いなかったはずのモノが立っていたのだから。


「オイ待てよ。その巨体(ナリ)馬鹿力(パワー)で速いのか、冗談になんねえぞ…」


 立ち塞がる変異体と思わしきは巨大な異形は、先ほどまで相手にしていたものとは腕力からして別格だ。今まで余裕で押し返せていた拳はピクリとも動かず、下手をしたらオリオンが押し負けている。

 後ろに一颯がいなければ確実に吹っ飛ばされていた、なんて冗談にもならないことを考える余裕がまだあったが、足元がじりじりと後方に下がっているのを見て、逃げるより目の前の脅威に本気で立ち向かうことを決めた。


「ど、どうするの…?」


 あの通常個体の異形にすら怯えていたのに、今度はそれらを上回る巨体が現れて震えが収まらない。

 現実とかけ離れすぎた光景に、小さすぎる彼がこの化け物を倒すというイメージが一颯には沸いてこなかった。そうして出た言葉が「どうする?」だ。きっと逃げたかったんだろう。

 だが夜を守護する剣士は逃げない。しかもここに護るべき人間がいるのに背中を見せるわけにはいかなかった。


「イブキ、コイツさえ抑えればもう今夜()()()()()()()。だから走って逃げろ」


 こんなことを言ったが半分嘘だ。異形が現れないなんて確証はない、オリオンが約2年半の間に得た経験上の憶測を伝えたに過ぎない。


「本当に…?」

「あー、とお前が後ろにいると今めちゃくちゃ邪魔ってのもある」

「なにそれ!?」

「そうカッカすんなよ、皺が増えるぜ」

「ちょっ…分かったわよ!」


 了承した、というかさせられた一颯が背後から出ていこうと期を窺う。

 変異体は横にもでかく、極太の足に道が隠れて普段なら短い距離が長く感じるほどだった。左右どちらから出ていっても阻まれてしまうんじゃないか、という不安は足を前に出す動きにすら支障をきたす。

 一颯の前で踏ん張っていたオリオンはさすがに我慢できなかったのか、全身に強く力を込める。両手に紅い雷となった魔力が迸り、強烈な電流が剣を通じて変異体に触れ巨体を弾き返す。


「今だ!! 行け!」


 声を聞いた時すでに足は動いていた。痺れて怯みふらつく異形の真隣を抜けて先の道へ駆けていく。

 後ろで金属がぶつかる音と熱気を感じたが構わず速度を上げる。


 一颯が視界から消えるまではオリオンが気を逸らし続けるしかない。

 ヤツは変異体といっても凶暴性と体積が増したくらいで、言葉を話したりせずフーフーと息を荒らげながら唸るところは通常個体とあまり差はない。攻撃を加えれば攻撃した者にしか反応を示さない部分は変異体になっても変わらない。

 別れる前彼女に忠告するのを忘れていたが、これだけ恐ろしい目に遭えばもう深夜に家から出てきたりはしないだろう。

 とにかく今はタイミングの悪いデカブツをどう料理するかが問題だ。


 変異体の拳は一撃一撃が重い。受け止めてはいるが少しずつ疲労とダメージが蓄積していくのを感じる。

 むちゃくちゃな怪力に反撃の隙を見つけるのも難しい。

 しかしいつまでもやられたままではいられない。前回の変異体と違うのは皮膚がそこまで硬くない、要するに斬れる。

 一颯が逃げる隙を作るため使った雷とはまた違う炎の強化魔法を剣に施す。触れただけで火傷しそうなほど刃を熱し、次の攻撃を待ち構えた───が、


『Fuuu………』


 異形はぴたりと動きを止めた。

 そして次の瞬間、その躯からは想像もできない速さでその場から逃げ出した。


「なッ嘘だろ!!」


 いや、逃げたのではない。入っていった道を見るに、一颯を追ったようだ。

 それは今までなかった思考パターン。目の前の獲物にしか興味を示さない梓塚の異形が初めて背を向けて、視界から外れた存在を追ったのだ。


 強化に魔力を使った分ブーストできないことを承知で、駆け出した足に更なる強化魔法をかける。

 彼女が被害を被ることは全力で阻止したい。今夜はあれほどの惨劇があり、これ以上は死者を出したくはない、と汗ばむ顔に焦りが見えた。


『GAAaaaaaaa!!!』


 理性なき獣の咆哮に気付き、振り向いた一颯は異形が目前に迫ってきていたことに驚いて走る足がもつれ尻餅をつく。脳は悲鳴を上げようと口を開いたがぱくぱくと空気が喉から逃げていくだけだった。

 変異体が地面を蹴り、風圧が一颯の体をいとも簡単に吹き飛ばす。倒れた体を起こしている間に肉を取ろうとする手が迫る。

 恐怖に耐えきれず目を閉じた時、金属の擦れる音が聞こえた。


「あなた…!!」

「悪いな! お前の相手する余裕も…ッ!?」


 手に刺さった剣に傷口から漏れた血が滴り、汚ならしいと刃先を抜こうとしたが、刺された側は逆にもう片方の手で剣を掴みオリオンごと勢いをつけて近くの工事現場へブン投げた。


 工事用の足場に背中から突っ込み、未完成の建物の壁に激突した。後頭部を激しく打ったのか視界が酒でも飲んだくらい妙に揺れている。

 一颯は無事か、顔を上げたがぼやけて世界が上手く捉えられない。それにしても巨大な変異体だけはよく見えた。痛む首を振り見渡しても一颯の姿は見えない。

 右手に持ったはずの剣が手元になく、まず動こうとしたが死ぬほど腹が痛む。見えづらくても判る腹部の出血は重量感ある鋭利な棒が原因であるとすぐに理解できた。


───もしかして絶体絶命か…?


 刺さったのが足場に使われる鉄の棒。これを抜くのは容易いが、問題はそれからだ。抜いた部分から血は出るし、専門の魔法使いではないため止血と治癒をするために魔力を使えば戦闘は続行できない。

 そして護るべき人間の無事も保証できない。


 ぐらつく頭に無理矢理指示を送り立ち上がるが、あえなく膝をつく。


「オリオンくん!!」


 少女がオリオンを呼ぶ。声に応えて呆けた意識が一気に覚醒する。

 何故、何故か。彼には到底理解できない。逃げたはずの、助けたはずの月見一颯がそこにいることが。


「おい…なんで」


 さっきの攻撃で変異体の狙いは完全に一颯からオリオンへ移ったはず。しかし彼女は逃げず、彼の元へ走った。このまま殺されると思うと見過ごせなかった。


「くっそ…バカかお前、死ぬ気かよ」

「いつまでそんな生意気なこと言ってるの!」


 子供を叱りつける母親のような強い口調で一颯が怒鳴る。命を助けてくれた恩人が死ぬのはもう嫌だと叫ぶ。

 だが一颯の想いと反してオリオンが正論だ。戦う力のない一般人にできることはない、兵器すら持っていない一颯は異形から見ればただの餌だ。彼女は逃げなかったことで自ら死を選んだと言っても過言ではない。

 それでも少女の手は力強く、彼から離れて落ちた剣を拾い不格好に持ち上げた。


 変異体がこちら睨んでいる。彼女は無謀にも立ち向かおうとしていた。


「これならこの化け物を倒せるんでしょ! なら、やってやるわ…!!」


 それを聞き、彼女が持ったモノを見てオリオンの顔が真っ青になる。

 それだけはダメだと声を上げ彼女を止めようと、刺さった鉄棒を引き抜きもう一度立ち上がって一颯の手に優しく触れる。


「それだけは、ダメだ」

「えっ…?」


 憂いを含んだ表情からは先程まであんな豪快に笑顔を見せ生意気な発言を繰り返していたのとは全く違う。彼の真剣な顔に一颯の力が少し抜け、オリオンは剣を奪いこの場から消滅させる。


「でも、賭けてみていいかもな…」


 月に照らされた凛々しい彼女を見て、オリオンは焦燥とは違うもう一つ別の感情に揺られた。

 一か八か、この賭けは一颯に適正がなければ二人ともここで死ぬだろう。分かっているのに彼は賭けたくなった。


「イブキ、戦えるんだな…?」

「───怖いけど、逃げたいけど…助けてくれた君のためなら…!!」


 一颯の意志表明に彼は笑う。

 吐き出しそうな血を飲み込んで、崩れるように跪き、掴んだ一颯の手にそっと顔を近づける。


 彼女に戦う力がないならどうすればいい?──簡単な話だ。()()()()()()()()()()。異形に勝る力を彼女が持てばいい。


 大きく息を吸い込む。


 お伽噺の王子が姫に愛を誓うように、手の甲に一度だけ口付けた。


「ありがとよ、任せたぜ」


 オリオンからそんな言葉が聞こえたのも束の間、彼の身体から溢れた魔力は光帯となり一颯を包み込んだ。

 変異体は苦しげにその光から逃げようとする。


 彼は昔、魔術師が言った言葉を思い出した。


"追想武装──、陽魔力を持つ人間が宵世界の魔力を受け入れ(ちから)とする一種の魔法だ"


"いつかそれを纏う子と出逢うことになる"


"君は本当に、運が良いのかもね"


───あぁ、確かに。


 今ならその言葉を理解できる。オリオンはものすごく、運が良いようだ。


「…な、なっ…!?」


 光帯が解けて消えていく。そこにいるのはさっきまでと変わらない、月見一颯その人。ただ少しだけ容姿が少し、異なっていた。


 短かった髪はさらりと伸びて二つに束ねられ、着ていた制服はどこへ行ったのか、まるでファンタジーの世界の住民が纏うような上下の装備と彼と同じ紅いマフラーを身に付け、手には彼が持っていたあの剣()()()()()が握られていた。


「なにこれ──!?」


 追想武装。これが、一颯に与えられた戦うための力だ。



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