2-1 リコリスの言葉 1
敗北することは死に直結すると思っている。
あの日、あの時、この世にはあってはならないおぞましいものに変性する一人の男を見た瞬間に自らの死を確信した。
鮮やかな赤色の輝く流星が空を発つ姿が綺麗だと思ったその瞬間、すべてが黒く潰されて世界のどこも見えなくなったことまではよく覚えている。
何度でも言うが、負けはつまり死ぬことを指す。
死ねば命だけでなく未来も終わり後を知ることはもうなくなってしまう。ただし、普通の人間じゃなかった場合を除いて。
俺はどこへ向かうのだろう。
敗者の記憶を抱えて、七色の支配者が待つ果てに行くのか。それとも全て失った上で白命界で生まれ変わるのを待つのか。
答えはただ一人だけが知っている。
『ANASTASIA afterglow』
──瞼が、いいや全身が重い。
怠さが体を支配して、指の一本たりとも動く気がしない。
未だ開ききらない瞼の奥にある瞳が見つめる視界の中にはとりあえず高そうな位置に天井と、明らかに高価なシャンデリアがある。
……そもそもここはどこだ。
花の香りが寝起きの嗅覚には少し刺激的で暖かな羽毛のシーツは睡眠欲を誘う。しかし空は雲ひとつない青空、もう寝ているような時間ではなさそうだ。
ただ、困ったことに起き上がろうにも体に力が入らない。柔らかいベッドの魔力とかではなく両手足が思うように動かず、寝返りも打てないのだから本格的にマズイのは明らかだろう。
なによりだんだんと思考力が取り戻されていく中で、自分の置かれている状況があまりよくない気がしてきた。理由はない、勘だ。
早く、早く動きなんとかしてこの場から脱出したい。
そうこうしている内にギイッと木製の扉の音がして……。
「おや、目が覚めたようだね」
男の声が降ってきた。
こんな無遠慮で不躾な男は彼が知る範囲では三人いるが、消去法で考えれば今は一人しかいない。
だから発声のやり方も忘れているくらい掠れた声で、彼はこう言ってやったのだ。
「俺は──生きているのか」
あれから半年。
リオン・ファレルは、魔術師が笑う花の楽園で目を覚ました。
なんとか上半身を起こすまでにかかったのは約五分、そこから右腕を動かせるようになるのにまた五分。
半年間も手入れしていなかった髪はすっかり伸びてしまい、元から長かった前髪がばさばさと目の前でやかましく後ろに至ってはあちらにいた頃もしばらく切っていなかったからか、女にでもなった気分がして少し不快だ。
ちらつく髪の毛を嫌そうに何度かはね除けようとする光景を尻目にマーリンは淡々と半年前について語り始める。
邪竜との最後の戦いは終わり、世界は再び正しく二つに分かたれた。
梓塚に穏やかな日常が帰ってきたことは異形が現れなくなってから三日もしない内に明らかになり、半年経った今や深夜の町には僅かながらも人が歩き深夜営業を再開した店も多いと言う。人間は案外図太く作られているものだ。
多くの犠牲は出た。しかし本来あるべき姿に戻った明世界は、きっと彼が望んでいた形になったのだと思う──とマーリンは語る。
リオンが生存できたことに関しては、神造遺装こと銀腕・アガートラームの自律発動型限定開花"治癒神の祈り"による延命治療がかなり効いた、どころかそれがなければ即死だったらしい。
ギリギリで命を繋いだ銀腕はこれを最後に機能を停止したため、実際に瀕死の状態から本格的な治癒魔法を施したのは自分であるとマーリンがやたらと誇らしげにしているが、改めて神造遺装の怪物ぶりを垣間見たせいであまりすごく感じない。
魔術師のために補足すると、全身の皮膚がズタズタに引き裂かれていたことを考えれば十分すごいことだ。優れた医師であっても皮膚移植には相応の時間を費やすというのに半年眠っていたのを入れなければほんの数分で修復は完了している。
「とは言っても、完全に修復したわけじゃなくてね……触れば分かると思うけどどうだい?」
「……なにかが違う」
「一から皮膚を作って張り付けるなんてやっぱ無茶をしたなぁ僕。悪いね、良い男が台無しだ」
「別に気にしていない」
生まれついてか日を浴びることがあまりなかったせいか、リオンは日焼けとは縁がないほど色白だった。
しかし頭部や首のマーリンが修復した痕跡は明らかに色が違っていて少し浅黒い。
彼の傷はあまりに大きく、延命されていたとはいえ時間が経ちすぎていたせいで再生は叶わず、できたのは新しい皮膚をそれこそ手術のように縫い合わせること。細胞をなるべく真似たらしいが、それでも外付けとなるとなにかが違うのか今は落ち着いるものの肌色がだんだん変化していったそうだ。
内側の血や肉、臓器の傷、物見の心眼に必要で最も重要な両目は正しく治ってちゃんと通っているというから安心したいが、半年しか経っていないのでいつどうなるかはまだ分からない。
そして最も重要なのは彼の左腕について。
色を失った義手は少なくともいつもの柔肌ではなく、硬そうな銀色に覆われ思うように動かすことができない。まるで自分のものではないみたいだ。
「機能を停止したと言ったな」
「あぁ」
「接続が切れたのか、参った……」
リオン自身の推測だが、体内の魔力を繋ぐことで定着させていた銀腕・アガートラームは瀕死の状態で魔力を失っていったのが理由で接続が切れてしまったのだと思われる。現代的に言えばコードの断線、といった風に。
「そればっかりは僕じゃどうしようもないよ。精霊の女王様じゃないと」
「アルメリア女王は呼べるのか?」
「ヴェールがそれどころじゃないことくらい分かるだろう?」
「……だろうな」
森聖領域ヴェールはアーテル王国──というよりアクスヴェイン・フォーリス一派による襲撃で多くの命が失われ、都市は壊滅し女王も捕らえられてしまう事態に見舞われた。
一颯とリオンで城に突入した際、女王は救出されカエルレウム連合公国に避難はしたが終息すると共に帰還した彼女らは人間やそれに近しい生物から自分達を守るため、より強力な結界を用いて完全に世界を閉じてしまったのだ。
銀腕は元々女王アルメリアに授けられ、彼女の手で定着の儀式を行ったことから素人が半端に真似ようとすれば成功するかどうかなんて結果を見なくても分かるだろう。
つまり、今のリオンは片腕だけに戻ったも同然。当たり前だが両腕が機能しなくては銀弓・フェイルノートも使えない。
結果論とはいえ邪竜に勝ったのはいい、しかしとんでもない爆弾を置いてヤツは逝ってしまった。
義手は今も左肩から先にくっついているがあくまで固定するために魔力を通しているだけ、下手に魔力が軸からブレればすぐにでもぼとりと落ちてしまう可能性がある。それは魔法の詠唱と発動を妨げる要素に他ならない。
リオンは現在進行形で完全に弱体化している。もしかしたら一番嫌いで考えたくもないあの不適合者もどきと同じ程度には。
「……ま、世界は平和になったんだししばらく腕が使えないくらいどうということはないんじゃないかな!」
「随分と楽観的だな」
「そりゃあそうだろう。戦地に赴くのが急務であるならともかく、今はようやく落ち着いているところなんだ。君だって生きている限りは肩の力を抜くべきさ」
まったくもってマーリンの通りだ。
たとえばここが戦地の外れに設置された休息地や待機所だと言うならば治療できる箇所は大急ぎで治して戦場に叩き出す必要があるだろうが、花の楽園はあらゆる世界と可能性から切り離された僻地であり、邪竜亡き現在は明世界がーなどと理由をつけてわざわざ異形に殴り込みにいく変人はいない。
いや、平和になったといってもあくまで基準は異形にある。正しくは世界中で問題視される紛争だとかそういった深刻な問題は解決していない……が、そんなものは国家レベルの話であってまだ生きているリオンにはなんの関係もない。
銀弓が必要な場面は終わった。だから腕がないとか使えないという理由でしばらく休んだって誰も文句は言わないはずだ。
当然ながら、それは聖剣使いにも同じことが言える。
だからリオンはマーリンに問うたのだ。
「オリオンはどうした」
「──死んだよ。邪竜と相討ちになってね」
「……そうか」
実際は邪竜にやられたわけでなく、聖剣の限定開花に必要分の魔力を命で支払ったからであり、同時に剣が発する呪い──即ち肉体への負荷に耐えきれず身体が蒸発したことによる自滅だ。どちらかといえば巻き込まれたのは邪竜ヴォーテガーンの方である。
彼は守るべきモノのために最期の瞬間まで逃げることなく戦った。
選択肢自体はあったはずだ。一度逃げてから体勢を立て直す、限定開花を使うのは本当に最後の時だけ、最初から一颯を置いて一人で往く──彼はそれらとはすべて逆の方法を取った。確かに二度も限定開花を発現させたせいで逃げても死ぬという状況には追い込まれたが、手段なんてものは後からでも十分用意ができる。
だとしても、持てるすべての選択を投げ出してでもオリオンは宵の剣士としての正義と個人としての感情を抱えて竜を討った。
結果は自己の死。七の意思が強いた制約を派手に破ったことで死はより重い罰となり、夢魔の性質である意識だけで生きる能力も失われ明世界での功績と記憶は人々の中から奪われた。
果たしてこれは正しい結末だったのか、知っているのは世界から霧散した彼だけだ。
「案外冷たいじゃないか。親友、なんだろう?」
「邪竜を討つという目的は果たされている。……誰も死なず全員が生き残るのを夢想するほど俺はロマンチストじゃない」
その夢想が許されるのは平和な世界に生きるはずだった月見一颯だけ、彼女だけは形はどうあれ宵の世界から来た者がそれぞれ在るべき場所に在り、愛する彼が共に生きる未来を願うべきだった。
一方彼女と比べれば圧倒的に現実主義なリオンからすれば──本当は二人だが──犠牲は一人、生存が二人と上々な結果だと感じる。さすがに一般市民の犠牲には思うところはあるが。
「大体いずれ死ぬのが判っていたヤツが死んだくらいでそう驚くものか。月見が死んだわけじゃないだろ」
「彼女は無事さ、元気にやってる──君の恋人もね」
「…………」
「待て待てそんなに睨むなよ」
「睨んでいない。……いや、この顔で睨みを利かせてると思うということはなにか疚しいことを考えているんじゃないか」
「ゲ……バレてる」
生来表情筋は硬い方だと思っているリオンが恋人と戦闘以外では喜怒哀楽に貧しいのは知り合いなら誰でも知っている。
オリオンについて聞いた時には顔をしかめたものの今はもうほぼ無表情だ。
恋人が元気にやっているなら別にいい。むしろ良いことだと言えるし、自分がこうして半年も行方知らずになっていても気丈に振る舞える相変わらずさは褒めてあげたいと彼は心底惚気ている。
ではマーリンがわざわざ睨んでいると解釈した理由についてだが──。
「実はこんなメッセージが君宛てに来た」
「手紙か」
「あぁ、君の父……エルシオンからね」
「……父上……?」
受け取った紙に記されていたのは確かにリオンへ宛てた手紙だ。
曰く、彼の父たるエルシオン・ファレルが魔法を用いて楽園になんらかの意思疏通的な干渉を行ったので内容を分かりやすく字で残したという。
────我が息子リオンに告ぐ。もしも楽園にいるのなら、今すぐカエルレウム連合公国ファレル領へ帰還せよ。
現在、我らが領地と当主候補のジュノンは"奴等"に狙われている。このままではカエルレウム全土が侵略者の手に落ちるのも時間の問題であろう。
これはかつてない危機である。七の意思に選ばれたお前の力が必要であり、我々は迅速な決断と帰還を心待ちにしている。
「ふざけるな、こんなもの……!」
「ほら怒らない怒らない。それはただの言葉なんだ、当たっても良いことないよ」
「侵略者に対抗するために帰ってこいとは呆れたな。一体なんのために魔術師としての力を研鑽してきたんだ、あの男は」
「……エルシオンは病床に伏せているのさ」
「なに?」
「もう二ヶ月前になるか──」
エルシオンからの伝言が届いたのは半月前だが、マーリンが観測した最初に起きたカエルレウムの異常は二ヶ月も前になる。
リオンの弟ジュノンが、何者かに二度も誘拐されかけた。一度目は町へ出た際に怪しげな男たちが、二度目は直接犯行を予告する手紙が届き一時的に屋敷内は混乱に包まれた。
事態が公になる前に当主自らが解決に乗り出したことで誘拐は未遂に終わったが、問題はそこからだ。
ファレル領には異様な事件が次々と起き始め、文言が送られてから三日後にはついにあってはならない出来事──エルシオンが原因不明の病に倒れるに至った。
体内の魔力が本来の流れに逆らい逆流を始め、思うように身体が動かなくなる謎の病は過去の例がないに等しく、魔術師としてどころか人間としての命をも蝕んでいる。
「ファレルの一族は最大戦力を失った。ジュノンくんは護衛がなければ外にも出せないと言われている──だから、君が必要なのさ」
実力的にも長男より次男なのは周知で、長男レオンはあれだけの事件の後も変わらず行方不明。だったら少なくともどこにいるのかは判っているリオンを呼び戻そうとするのは十分理にかなっている。
だが呼び戻されようとしている彼の意思はどこに介在しているだろう。
なにも言わなかったからなにも知らない、なんてそういう問題ではない。リオンはなにか原因があって家を出たのは間違いない事実で、それを認めてからでなければ頼みごとをするにしても筋が通らない。
そしてよく考えてほしい。
彼はどうやって明世界に行ったのか──そう、剣士にのみ開くことを許された世界の扉をオリオンにわざわざ開けてもらって一緒にあちら側に行ったはず。
七の意思はもう扉を開くことは許さない。マーリンなら例外で開けられそうなものだが、外部から花の楽園に到達する術ももうないと言っていいだろう。
────これは選択だ。
ここから明世界に行き魔術師の才も銀の腕もすべて失って恋人……華恋と生きるのか、宵世界に帰り彼女を失って故郷を守るのか。
一度進めば戻ることはできない。
「君はどうする?」
決まっている。華恋のもとへ、あの世界から逃げ帰る。
そもそも今更なにをしろというのか。
逃げ出したリオンになにを期待しているのか知らないが、リオンの方は自分の家に恩義はなければ恨みしかない。
それに生きていられる限り幸せな人生を送りたいとは誰だって思うはず。どうせ死んだらロクな目に遭わないんだから今だけは、安らかで穏やかに生きていたい。
だから関係ない。……関係はない。
────────。
「…………いいだろう、帰ってやる」
「おや? 逃げないのかい?」
「逃げなかった男の話を聞いたからな」
かつて恐れを抱いて逃げ出した彼を受け入れた友がいた。
自分を見る目が怖く、伸びてくる手に震えていた小さな子供の凍った心を溶かして優しく手を引いた小さくも大きな、今はもういない友。
本当なら逃げたかったのは彼のはずだ。近づいてくる死神の影から、否応なしに押し付けられる運命から逃げ出したくなるはずなのに、彼は最後まで逃げずに戦った。
宵世界ではタナトスの誘いとも呼ばれる死は誰だって恐れをなすもの。たとえ剣士、夢魔であろうとも。
その誇り高き友の背中に倣ってもいい──そんな気がした。
「恋人は?」
「…………俺は別世界の人間だ。こんな男より、幸せにしてくれるヤツがいずれ現れるかもしれない」
「わぁ無責任」
「いずれ迎えに行っていいなら、必ず行くとも」
華恋のことは愛している。
いつまでも変わらない、できるなら永久にその愛を誓える。
だが今はお預けだ。逃げ出した過去の自分への清算を終え、再び明世界にたどり着くことがあるならばその時は──彼女と結ばれることを信じて。
「ともかく、まずはこの腕だ。アガートラームがなければただの人間だからな」
「ハハッそういうと思ったよ」
一応返答によっては銀の腕を定着させる必要があると分かっていたマーリンはすでに手筈を整えている。
「精霊の森、アルブス南東側に住むディアという女性の家を訪ねるんだ。地図はあとで渡そう」
「ディア……か」
「それと関係ないんだが──君の魔装束ね、捨ててしまった!」
「…………おい」
「か、勘違いしないでくれよぅ!?」
被疑者曰く、彼が愛用している藍色の魔装束はズタズタにされて修復もできなくなっていたので回復用の魔力リソースに変換してしまったとか。
死ぬよりはマシじゃないかな、と供述している。
「くっ……作り直しか」
魔装束とは着る者が己の魔力を編み、自分に合ったデザインや重要な守りをより強固に構成した鎧だ。なので大体の魔装束は本人が作り本人が着ることになるが、キャロルのように魔力がない不適合者や魔力の精密動作が苦手な人物は専用の魔術師にオーダーすることもある。
リオンの場合、というかファレル兄弟は魔術師の家系なので基礎の基礎とも言われる魔装束は当然自家製だ。
特にリオンは魔装束が完成するまでまともに部屋から出してもらえなかったという過去の虐待が効いているのか、ぶつぶつと何日必要か……と呟いている。
「ま、まぁお詫びと言ってはなんだけども、君の魔装束は僕が用意した! どうだ!」
「……大丈夫なんだろうな」
「ねえ、僕信用がなさすぎない?」
投げ渡された魔法結晶からは微かだがリオン自身の魔力反応がある。どうやら眠っているところから魔力を掠め取ったらしい、やはり信用ならない。
しかしオリオンの魔装束を作ったのもこの男だ。
役職の都合上大怪我ばかりをするから大した性能には見えなかったが、実は精神干渉系の魔法の無効化という鎧に付与するには余りあるえげつない能力を秘めていた。まるでアクスヴェインに利用されるのが予知できていたのか、と今ではマーリンのあなどれなさを垣間見るひとつの要素でもある。
ベッドから出て、両足の感覚を確かめつつゆっくり立ち上がったリオンは軽く念じて結晶を握り壊した。
「──おおーう! さすがは僕、よく似合っているよ」
「……悪くないのが腹立たしい」
かつての藍色とは全く異なる空色、元から長ったらしかったマフラーは更に長く白に、装飾はやたら大きいが全体的にスマートで少し現代的な雰囲気だ。
彼自身も認めるようにオリオンと同様に着ている人物に合わせているため決して悪趣味なデザインではないし、悔しいが魔力の繊維はより精密に編み込まれ頑丈性が増しているようにも感じる。
「あっ、君に渡さないといけないものがあるんだ」
マーリンはそう言って懐をごそごそし、取り出した黒いものをリオンに手渡した。
帯のように長く、端が破れたそれは────。
「これは、まさか」
「オリオンのものだ。一颯ちゃんに渡したかったけど、七の意思が許さなくてね」
「……大切に預からせてもらう」
遺体も魂も残らなかった友が唯一形あるものでこの世に残したのは、髪留めとして眼帯として最後の時まで身に付けていた黒いリボン。
千切れているのは限定開花の余波で焼けた跡だろう。半年経っているのに微かに焦げた臭いがした気がした。
銀色が眩しく黒いカバーに覆われた左腕ではなく、特に装飾がない右腕に巻き付けておく。
ただ魔力にして持ち運べば落としたりしないだろうが、こちらの方がモノとして機能しているし彼がいたという証になる。
「準備ができたら出発するかい?」
「いや、すぐに出る。……世話になったな」
「世話したのは一瞬だけどね。じゃあ、扉を──」
「と言ったが待て。ちょっと邪魔だ、これが」
目線の先には伸びきってボサボサになった長い長い髪。
いくら弱体化していても下位の低レベルな魔法まで扱えなくなったわけじゃない。風が薄く空間を切り、ばさりと落ちる黒い髪束にマーリンの表情がぎょっとしていたがそんなの関係なく髪を切り落とし、見事にすっきりさせた。
「これでいい、出立だ」
倒れる前より短く、面影は残しつつも傷が残る右頬と頭部は開き直ってさらけ出す。
どうやらこれが新星リオン・ファレルらしい。
「よし、じゃあ扉を潜りたまえ。その先に、君だけの新たな物語が待っている」
仰々しい言い方だがその通りだ。
オリオン・ヴィンセントや月見一颯にも同じことを告げたのだから、この先にはまだ見たことない彼だけの物語が必ずある。
────上等だ。
本当は故郷が恐ろしい、帰りたくない。そう思いながらも彼は扉を潜る。
かつて見た剣士の背中をどこかで思い描きながら。
◇
久々に浴びる日差しが眩しい。
扉から出た先は道は敷かれているものの人っ子一人いない大草原のど真ん中だった。
「一体どの座標に設定したんだ」
太陽の日差しの暖かさからして"白の国"アルブス王国の領地に出たのは分かるが、どう考えても場所は適当だ。人里らしい人里が近くにあれば魔力で感知できるがとりあえず1km圏内にはなさそうである。
呆れながら地図を広げてマーリンが「じーぴーえすー」などとほざきながら残した小さな光の点が示す現在地を確認すると、やはり都市部からは相当遠い場所だというのが判明した。
「仕方ない、か」
馬車か列車の駅を探して、それまでは徒歩だ。
嫌がらせなのかと文句を言いたくなるくらいには病み上がりに堪えるがやるしかない。
カエルレウムに到着するまで一体何日かかるか──あとはやる気と根気の問題になるだろう。ファイト、というやつだ。
風吹く草原の声を聞きながら一歩を踏み出し、草木の歌に耳を寄せる。緩やかな午後の日差しは間もなく訪れる夏をちょっぴり早く感じさせるようだ。
もう少しだけここにいてもいいなんて思いつつ、リオンは銀腕・アガートラームを再び自らの力にすべく謎の女性ディアの元へ──────。
────そう考えた瞬間、ぷつりと意識が途絶えた。