1-61 Epilogue
邪竜は心を知らない。知る必要がなかったから。
邪竜は愛を知らない。理解する必要がなかったから。
かつてひとつの国を支配した彼が知っていたのは己の中の欲望と野心、そして全てを叶えられる力を自身が持つことだ。
異なる思想を持つそれぞれの民草を扇動し、戦争という混乱に陥れ自らを崇拝させて絶対的な存在へとなりつつあった邪竜は、理解できない感情ごとヒトを押し込むことで王の立場を明確にした。
しかし、その理解できない感情を持ち合わせた新たな王は彼の悪辣な行いを断じて許さない。
聖なる剣を手にした王は円卓に集いし勇敢な騎士を連れ、邪竜に立ち向かい最終的には勝利した。
絶対に敵わない幻想の竜を相手に、騎士はなにを想い戦ったのだろうか。
結果だけ言えば邪竜は聖なる槍に穿たれ敗北しこの世を去り、王がその後に築いた穏やかな国さえも自らが信頼していた騎士によって滅亡へと追いやられた。
邪竜は神々による裁定と罰を受け、幻想が生きる世界──宵世界に魂を縛り付けられた。
明世界は幻想が失われゆく世界だったがゆえに邪竜が適性できなかったと判断したのだろう。この時はさすがに神々の愚かさが群を抜いていることに対し彼は大笑いした。
なにより彼は再び竜として転生し何度も繰り返す内に、世界にできた小さな綻びを見つけたのだ。
彼は綻びを叩き、叩き、世界の壁を崩し、それを100年続けた。
綻びは次第にひび割れ最後には崩壊し、明世界と宵世界は意図しない形で扉を開け閉めする感覚で繋がってしまう。
この瞬間に彼の野望は加速するように動き始めた。
だが────彼はまたもや失敗した。
今度も同じ聖剣、同じ聖槍、同じ選ばれた魔術師が持っていた自身が持たない感情によって野望は絶たれ、すべてが終わってしまった。
なぜ?
なぜ、我は二度も?
応える者はいない。
……あぁ、なるほど。そういうことだったのか。
揺蕩う意識が答えを告げる。
この自問自答に応えてくれる人がいることこそ、"愛"という知り得ない心に近づけるのだと。
意識や記憶がすべて地獄の深淵に沈む前に彼は理解した。
自らが野望に掲げた終焉戦争の再現を、イリヤ・レヴィナスの因子でしかも同じ異形に止められるなんて────なんて馬鹿げた皮肉だ。
愛ゆえに世界を御しきれなかった男より、知らぬがゆえに果たせなかった男の方がよほど滑稽ではないか。
もしも次があるのなら、きっと知ることになるだろう。
愛……その全てを知った上で必ずや世界を支配してみせようと手のひらを掲げる仕草をしてみせて、最後の最後に笑みを浮かべた。
────どうかこの世に、支配という名の存在の承認を。
そうして孤独にさ迷った邪竜は、夜空の果ての世界からも太陽が照りつける世界からも消えて地獄に送り返された。
◇
少女が目覚めた時、空はまだ黒い闇に覆われ月明かりが世界を照らしていた。
どこか霧がかった思考を晴らすために窓から飛び出してみるが、変わった様子はない。
なにもない静かな町中。静まり返った夜の梓塚。人気はなく、まるで世界にたった一人生き残った最後の人類のような錯覚に不思議と身体が軽くなる。
どこかに行こう、どこに行こう。
そうだ、会いに行こう。
なんとなく彼に会いに行きたくなった彼女は町を駆けた。
一人しかいないと思える世界でどこにいるのかが分かるなんておかしな話かもしれないが、少女には不思議と分かるのだ。
なによりも今会わなければ二度と会えなくなる気がした。
「オリオン!」
やってきた丘の公園には夜風に吹かれる長い髪、闇に溶けてしまいそうな鮮やかな紅色に目を奪われる。
少女の──月見一颯の気配に気が付いて振り向く横顔は見たこともないくらい穏やかで、水底より深い青の瞳には冷たさよりも暖かさを感じ取れた。
「もう、こんなところでなにしてるの。もう異形は出ないんだから、見てたってなにも起きないわよ」
「まぁそうなんだけどさ、これで最後だから見納めってヤツかな」
「……そっか」
梓塚は平和を取り戻した。
オリオンたちの手で異形を喚ぶ元凶となった邪竜は倒され、彼が築いた世界の扉は正しい形に修正されようとしている。
その事実が示すのは、宵世界と明世界は完全に断たれ今後一切交わることなく時が流れ出すということと、オリオンと一颯はついに別れを迎えるということだ。
本来、宵世界の住民は明世界への干渉が許されない。ただしこのような異常事態が明らかになった段階で世界の均衡を保つため、黒の国で剣士に選ばれた者を梓塚に送り出すことを許されていた。
しかし事態が終息した今、宵世界を支配する七の意思は剣士が明世界に干渉する行為を許さなくなるだろう。
オリオンが町を見て回るのは、もう二度と訪れることない世界を記憶に留めておくためでもあるが、今日はきっと別の意図があるのだとなんとなく一颯には感じられた。
「覚えてるよな、初めて会ったあの夜」
「ええ、もちろん。魔法を使ったり剣で戦ったりする男の子がいるなんてすごく驚いた」
「ここに連れてきた時とかぎゃーぎゃー喚いてたよなイブキ」
「ちょっそれはオリオンが急に飛んだりするから……大体クソ女ってなによ!」
「お、覚えてた!?」
「当たり前じゃない! ほんと失礼よね」
「ごめんごめん……」
まだ半年しか経っていないのに、正義感に駆られて夜に触れたあの夏の日が懐かしい。
確かに一颯は間違えてしまったけれど間違えなければ彼に出逢うことはなく、一生を自分という寂しい殻の中で生きていくことになっていただろう。
もちろんオリオンも同じだ。産まれた理由を知ることができた、母親から憎まれていた自分に意味なんてないと思っていたのに彼女の心に触れているだけで生きている価値があるのだと信じられた。
────彼らは他愛なく語り合う。
一夏の記憶、たくさんの出来事があった。見知らぬ世界で旅をして、一人の男の永遠の愛と一人の女の変わらない想いを見た。
夜の世界で生きる多くの人に出会った。蒼い剣の彼、いつも飄々としていた彼女、……同じ世界で生きていた慕うべき先輩もそちら側だと知った時にはさすがに驚いたが。
一度別れてしまったけれど、二人は秋に再会しこの冬まで一緒に生活した。
彼には世界を守るために悪を倒すという大きな目的があって、最近見事に果たしてみせたのだ。その背中はとても誇らしく素敵なものだったと彼女は思う。
それも、今日でおしまい。
……おしまいに、したくない。
「でも、また会えるよね。まだ神様がダメって言ったわけじゃないんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ秋の時みたいに特別にって、そんな感じで会えるかも」
「いいや、お別れなんだ」
「……」
彼は言う。
イブキには会えない、ここにはもう居られないから──と。
「わかってる。やっぱり、そうよね……無茶なコト言って……」
「違う」
「えっ」
少しだけ低い背を伸ばし、額を重ねた彼は優しく言葉を繋ぐ。
「大丈夫、イブキになら思い出せる。ここがどこで、俺がどうなったのかも全部全部」
「なに言ってるの。ここは梓塚、私たちはみんな無事で……無事じゃ、ないの……?」
「……」
「ねえ、教えて。違うの? ここは、違う世界なの? 私たちは、どうなって────」
「俺から言っちゃダメなんだ。イブキが思い出して、ここから出てきてくれないと」
一体なにを思い出せと言うのだろう。
すべてが穏便に終わったはずの世界で、誰も傷つかずにオリオンもここにいるんじゃないのか。
……違う、そうじゃない。
この世界はこんなに優しい世界じゃなかった。
誰もいない町、二人だけが幸せな時間、そんなものはありえない。だって──最後に彼女が見たものは、あの星の輝きは────。
「あ、あぁ……」
すべてが記憶に還ってくる。
優しすぎたこの世界が偽りで、魔術師が見せる泡沫の夢である事実。
一颯が願ってやまなかった誰も死なずに彼も死なずに時が進んでいたならどんな未来になったのか、を形にしただけのなにもない世界。
時間はなにひとつ進んでいない、すべてが決着した宵世界の湖から。
つまり彼は、オリオン・ヴィンセントはどうなった?
「じゃあ、オリオンは……」
言葉と共に足元には水が満ち、町の風景は一切失われて虚無へと消えた。
そこにあったものは初めから存在しない。
「……ごめん」
支配者は彼を罰し、聖剣も彼を認めない。
最後の戦いで魔力の全てを限定開花に束ねて放ったオリオンは確かに邪竜ヴォーテガーンを討ち果たしたが、代わりに肉体は蒸発した。つまりここにあるのは意識と仮初めの体だけ。
更に一颯を連れて宵世界に帰還したことが理由で、七の意思からもなんらかの罰が下されるであろう。
この両面が引き起こすのは文字通り永遠の別れ。
本能的にすべてを理解していた一颯は最後の光景が終わるその前に願ったのかもしれない。幸福な幻想を見せ続ける力を持つ魔術師に、あり得たかもしれない未来の夢の中で生きることを。
しかしそれには限界があった。
甘い夢に魅せられればその者は二度と目覚められない。幸せな時間を永久に続けられるかもしれないが、気付いてしまった時に壊れるのは世界ではなく願ってしまった心だと夢魔である彼は知っている。一颯にそんな結末を迎えてほしくなかったがために最後の時を費やした。
夢魔は体が死んでも多少意識は残るらしい、マーリンから学んだ時にはどうでもいい知恵だと思っていたがよもやここで役に立つとは誰も思わなかっただろう。
彼は自分の願いは叶えておきながら彼女の願いは壊してしまった。だが後悔はしていない、一颯が生きる未来がなくなってしまったら、命を賭して戦った意味がなくなってしまうから。
「……なんで、世界を守ってくれた貴方がいなくならなきゃいけないの……」
「……ごめん」
「謝らないで、謝らないでよ……ばか」
みるみる内に姿がぼろぼろになっていく彼からは戦いの激しさが感じられた。
長かった髪はバラバラに散らばり、全身が切り傷だらけで、左の瞳はもう長らく光を映していない。
ここまで頑張ったのに、なんの報酬もなく彼は爪先から溶けてなにもかも消えてしまう。
「……ずっと怖かった。最初に人が死ぬのを目の前で見た時から、誰からも気付かれない場所で誰にもなにも思われないまま死ぬのが、怖かった」
価値がない命だと嘲られ、死んでしまえばよかったと産みの親から断じられるその前から彼の中にはひとつの恐怖が取り巻いていた。
それは孤独に死に、なにひとつ残せないままこの世を去ること。
長く戦っていく中でその恐怖は明確で大きなものになっていき、徐々に命を蝕まれているのを知った時にはあまりにも酷い運命に自棄になったこともあった。
明世界で一颯と出逢ってからも死を恐れていないようで本当は彼女よりもなんなら町に住む顔も知らない人々より一番怖がっていた。……否、どうせ死ぬなら同じだとやはり自暴自棄になっていたかもしれない。
望まれて産まれたわけでないことを知った時、恐怖は思考の更に奥深い場所で嗤っていた。
"お前は無価値で、意味のない生き物だ"。
一度は抑えたはずのそれは震えるほど肥大化し、押し潰されそうで────だとしても、彼はとある存在に変えられた。
「イブキが信じてくれた、想ってくれたから俺はこんなあんまりな命でも意味があったんだって思えるんだ」
最初はなんとも感じなかった月見一颯の存在は、日々と絆を重ねてなによりも大きな影響を生んだ。
この世からいなくなるその時まで寄り添うと言ってくれる、戦うためだけに在る命を愛してくれた月明かりより優しい彼女の想いに触れて膨れ上がった恐怖は遠ざかった。
「ありがとう、こんな俺でも好きになってくれて本当にありがとう」
もう感謝は言葉だけじゃ伝えきれない。だからといって抱き締めるための腕はもう形だけになっているから、きっと一颯にはなにも伝わりやしないだろう。
朝日を待つ空の下、薄い水が流れる湖から浮き上がる無数の光が夜の星みたいに輝いて、同化していくように身体が泡に似た粒子状に消えていく。
なのに彼女は──なにも迷わずに彼だったカタチに優しく触れて、確かめるような仕草で手のひらを重ね合う。
「私もオリオンに出逢えて好きになれたから変われたの、ありがとう……だから、また……」
「うん、必ず会いに行く。それまでは────」
爪先を伸ばし、最後のつもりで笑ったオリオンは一颯の額に口づけた。
長い長い時間にも感じられる一瞬。
終わってほしくないと思ってしまうけれど、夢はいつか覚めるもの。だからさようならをしよう。
金色に染まる世界で、最後の誓いを遺そう。
「此処で、──君の夢の中で生きている」
空に導かれるようにオリオン・ヴィンセントは光に満たされそのカタチを失っていく。
その表情に人生への後悔はなく、ただひとつあったとすれば産まれた世界も生きてきた日々もなにもかもが違ったのに惹かれ合ったたった一人の少女に対する誰にも負けない想いを抱いた笑顔。
意識が消える最後の瞬間まで彼女の未来を想い、一人こんなことを考える。
俺は、星に、誰かのための光になれたかな。
幼き頃に見た夢の答えは出ないまま、白く白く染まって全部がなくなって小さな黄金色だけが世界に落ちてきた。
「…………忘れない、ずっと忘れないよ」
空が明ける。
朝焼けに消えゆく彼女の視界には、剣士だった星と残された聖なる剣。
────すべてが終わった。
ここから、また新しい日々がはじまる。
◇
────速報です。去年7月に梓塚市で発生した高校生男女四人が何者かに殺害された事件で、行方不明になっていた立花雪子さんと思われる遺体が、現場付近で発見されました。
警察によりますと遺体には全身に強く掴まれた痕があり、亡くなってからまだ日が浅いとのことですが、詳しい事情は明らかになっていません。
「…………き……」
────また、犯人が明らかになっていないことから去年10月の星宮高校文化祭での爆発となんらかの関係があると…………。
「一颯!」
「うっひゃぁ!? ななななに!?」
「どうしたのテレビ見てボーッとして、朝ご飯できましたよ」
「あ……うん、わかった」
朝がやって来た。私の朝は変わらない。
今日はお母さんの作ったスクランブルエッグとサラダに加えてバターの香りが食欲をそそるトーストが朝食メニューだ。
テーブルに規則正しく並べられているとお腹が空いていなくても食べたくなるのが不思議で不思議で仕方ない。家庭科の授業でも教えてくれないからこれがまたミステリーだと思う。
お父さんが今朝の新聞を読みながらコーヒーを啜る。これも変わらない。
お母さんが私の分のホットミルクを持ってキッチンから出てくる。これも変わらない。
椅子に座り、テレビを眺めながら家族が揃うのを待った。
「おや、文恵どうした」
「え? どうかしましたか?」
新聞を読み終わり丁寧に畳んだ後、顔を上げたお父さんが目を丸くしているがお母さんはよくわかっていない様子。私にもよくわからない。
「うちは三人家族だぞ、四人分作ってどうするんだ」
……テーブルの、私の隣の位置には確かに同じメニューの朝食が置いてあった。
「あら? おかしいわ、……なんでかしら。四人分必要だと思ったんだけど……」
そう。お母さんは間違ってない、でも四人目の家族なんてここにはいない。……もういないんだ。
「どうしましょう……」
「いいよ、私が食べるから」
「一颯そんなに食べられるの?」
「大丈夫! こう見えて胃袋大きいのよ!」
目が覚めた時、彼はもう隣にはいなかった。
竜から受けた傷もなければ痕跡もない。見ての通り、お母さんたちの記憶にもオリオンの存在はなくなっている。
ニュースには雪子が見つかったと速報が流れ、昨晩に起きたあの異形に関する出来事はなかったことにでもなったみたいに騒ぎらしい騒ぎは聞こえてこない。
唯一残っていたのは私の枕元で光を失って赤色が黒ずんだ追想の結晶。
意味するのは、紛れもない彼の死だ。
────続いてのニュースですが……。
昨晩未明、日本中……ではなくなんと世界中で観測された流星群の映像が届いています!
まずはこちらをご覧ください。
「おぉ、すごいな」
お父さんの言葉に乗せられてテレビの画面を見た。
そこには────。
「……星だ」
満天の星空。昼も夜も関係ない。ニュースキャスターが読み上げた流星群に相応しいくらい夥しい量の星が空に流れていく。
一瞬なのにどんな宝石よりも綺麗で眩しくて、手に取りたくても届かない空の果てにある輝ける光。もう、どこに手を伸ばしても見つからない過去の流れ星。
「ちょっと、一颯」
「あ……なに?」
「……なんで、そんなに泣いているの?」
お母さんに言われてはじめて気付く。
ぽろぽろ落ちる滴がどこから溢れているのか、ようやく自覚した。
これが、彼──オリオン・ヴィンセントが最期に世界に遺したモノ。
聖なる剣に宿った彼の技と同じ、黒い夜を流れる星。すべての世界に降り注いだ優しい優しい贈り物。
剣士がいなくても世界は続く。
この流星が忘れられても人々は生きていく。
それでも、私だけは忘れない。この世界を守ってくれた孤独だけど一人じゃなかったあのぶっきらぼうな彼。
いつか私がおばあちゃんになってこの世を去る前になにかの奇跡でもう一度出逢うことがあるとしたら、必ずこの想いを伝えよう。
だからその日までは、どんなに辛いことがあっても前を向いて生きていく。
「素敵だな、ってそう思ったの」
泡沫が産み出す奇跡の憧憬。
その輝きを、胸に抱いて。
end
桜依夏樹です。
『ANASTASIA』をここまで拝読いただきありがとうございます。
元々この作品はフリーノベルゲームとして三つのルートを公開するつもりでしたが、ネット環境が揃わず製作が難しくなったためメインヒロインの一颯のルートだけをこうした形で出すことにしました。
小説として展開を考え直す内に当初の予定と違うものになりましたが、結末は最初から決まっていたものが出せてホッとしています。
今後も上手く纏められたら残り二つのルートも形にしていきたいとは思いますが、まずはこの本編から続く後日談を二つこれから公開していく予定です。
ツイッターの方で少し前からイラストと一緒にキャラクターや一言あらすじを小出ししておりましたので、予定通りまずは後日談第一弾として「afterglow」編を開始します。
よろしければこれからもお付き合いいただけると嬉しいです。
改めまして本編を最後までご覧いただきありがとうございました。