1-60 泡沫の夢 2
夜明けを望む宵の空にはひとつの存在が落ちてきた。
両翼のない竜人は瞬く間に水面へと叩きつけられ、水滴を纏いながらゆっくりと立ち上がり広大な宵世界の大地を見つめる。
"戻ってきた"。そんな風に脳が認識するが、記憶があるわけではない。かつてそこでひとつの生を幾度も終えたという不思議な感覚が帰還を歓迎しているように思えるのだ。
細かいことはともかく明星東──邪竜ヴォーテガーンは見事に逃げ仰せた。
明世界で多くの傷を受け剣士や魔術師には散々な邪魔を受けたが、所詮劣化した現代人と玩具の無意味な抵抗に過ぎない。
転生を繰り返しながらも常に成長を遂げ、25年どころか千年にも及ぶ野望を成就させるに相応しい力を得た彼にとっては随分と些末で些細な出来事だ。
結果的にはあちらはほぼ全滅。ほら、なんの問題もないだろう。
負った傷はいずれ治るものばかりだ。
今は大人しく計画を組み直し、神と名乗りのさばっている七の意思をいずれは蹴り落としてこの地とあちらの頂点に立つことで、必ずおとぎ話を再現してみせる。
────終焉戦争。イリヤ・レヴィナスと月が起こしたと云う、最後にして最悪の物語を。
「だから、僕はいずれ帰ってくる」
彼が最も敬意を表する原罪者イリヤが唯一間違えたとすれば、支配しきれなかったことだろう。故に彼という名の罪をも越える極地に立つことこそが邪竜ヴォーテガーンの真の目的だ。
世界をたった一人が起こす混乱で支配する──、そんな途方もなく身勝手な目的を実現するだけの力が明星にはある。
だから今は、この後はこの地で静かに傷を癒し心を穏やかに身を隠す算段を決めようじゃないか。
「……でも、星はそう簡単に逃がしてくれないらしい」
宵世界に降り注ぐ二つの流れ星は明星東の姿を捉えている。
特に文字通り燃えるような赤色に身を焦がす聖剣の持ち手は、夜空を抉り雲をすり抜け空気を切り裂いて翼無き竜の核に狙い定めて一気に天空を駆け抜けた。
わずか2秒。たった2秒で地上の明星を撃ち抜かんと現れたのは全身をズタズタに引き裂かれてもなお立ち上がる不屈にして無謀な終わりを視ている剣士。そして遅れて到着したのはそんな彼を愛する月明かりのように優しい少女。
夜明け前の湖はかつてない殺気と、彼らが放つそれぞれ特徴的な魔力に満ちている。
「逃がすわけねえだろ」
深海よりも深く水面よりも透明な瞳が貫いた視線の先には紛れもない元凶の姿。
崩れ落ちた手先に感覚らしい感覚はなく、剣を握っているのも最早本能に近いのかもしれないが、なんにせよオリオン・ヴィンセントは生きてこの地でヤツを追い詰めた。
ここまで来たからにはもう逃がさない。
たとえ命に代えてでも、目の前の怪物を討つ。
「ここまでです、明星先生」
それでも、先に前へ出たのは一颯だった。
彼女にはどうしても伝えたいことがあり、それはオリオンの剣が明星に触れるより優先されるべき事柄で、着けておくべき彼女なりの決着がある。
あちら側の世界でただ平凡に暮らしてきた彼女にしか分からない感情の、決着を。
「お互い満身創痍だけど人数で勝敗が決まるなら確かに君たちに分がある。これ以上の逃げ場もないし、認めざるを得ないな」
「だからもうやめましょう。先生が悪い人だって十分理解しました。私は……最後まで信じたかった、あの世界の誰も黒幕なんかじゃないってこと」
「でも僕は黒幕だった。君は失望したのかい? それとも、まだ僕以外の誰かが裏で糸を引いているとかそんなお花畑を夢見ている、とか」
「いいえ、今は梓塚を守るのが私にとっても一番です。私が先生に言いたいのは、戦うのはもうやめて……認めてほしいんです、自分の間違いを」
一颯に深い傷を遺す立花雪子の死すら、彼にとっては愉快な見世物に過ぎなかった。今夜の大量殺戮も恐らく認識は同じだろう。
──命は自然の流れで尽きるもの。
誰かが易々と踏みにじり、平然とその上で舞い踊るのはその命への紛れもない冒涜だ。
彼女は多くを知った。
戦いの中で己の信念で剣を振るい屍の上で後悔に膝をつく彼の姿や、得られなかった幸福と愛に対する苦痛から憎しみで牙を剥いた彼らの姿を。
ただの支配欲で命を踏み潰す明星の行いは、見つめてきた命の重さゆえに許すわけにはいかない。
それでももし、彼が罪を認めるというのなら……未来は良き方向へと舵を切ることができるはず。
「間違い? あぁ、間違いはあったか」
「……」
「見世物とか自己責任だと言ったのは謝ろう、アレは正しくない表現だった」
明星は冷めた様子で少しの期待に満ちた一颯を見る。
「ヒトは、どうしようもなく弱い。なにもしなくても、あの魔術師や槍使いですら触れるだけで勝手に死んでいく。だから彼女たちの死は必然だ。僕に落ち度はない、あるのはヒトという種の異常な脆さだけだろう?」
そして彼女の意には全く沿わない返答をした。
当然といえば当然だ。
自らを食物連鎖の頂点に立つべき、我を食う者など存在してはならないと考える明星が下位に立つ人間という哺乳類の意見をそう易く受け入れて改心するなどそもそもあり得るわけがない。
野心と実行する力を持った段階でなにかを愛する、なにかを想う心を失い、自身の野望を叶えること以外を知る機会さえなかった邪竜が今更善性を得ることはなく、淘汰されるべき悪から逸脱することもないだろう。
こうして一颯は彼と対話し心を分かち合う行為が無駄であると知った。
であれば、後ろに控えたオリオンの出番だ。
元より対話などする気もない彼らからすれば、ようやく長話が終わったかといった思考なのは今の彼女にも十分伝わっている。
「へぇ」
迸る稲妻に目を細めた明星は未だ剣を手放さないオリオンに感心したのか、意味ありげに声をあげた。
実際明星が知る限り、彼は二度も限界を迎えている。そんな状態でもまだ立ち上がり、まだ言葉を話し、まだ殺意を放つことができるなんて感心する他ない。
「んじゃあ、テメエが死んだら文句言うなよ」
「どういう意味だい?」
「テメエが俺より脆かった、ってコトになるからな」
「……面白いジョークだ。死に損ない風情で、僕を殺しきれると言うつもりか」
「雑魚に任せてずっと隠れてたヤツが言っても説得力がねえなオイ」
「ハハハッそうかそうか」
にこやかに微笑んだ黒鉄の顔。
反して瞳の奥に満ちるのは笑みとは程遠い狂気と怒りが入り交じった二色の感情。
「オリオン・ヴィンセント、君はひとつ忘れていることがあるんじゃないかな?
「……そうか、姉さんの槍……!」
彼はすっかり忘れていた。
姉が最期に放った限定開花は彼女の身体を焼き尽くしたが、最も重要となる本体の遺装──聖槍・ロンゴミニアドそのものは魔力を失うと同時に地上に向かって落ちていったはずで、元々二人はそれを回収するために落下地点やってきたのだ。
明星が生きていたせいで交戦せざるを得ない状況となり頭からすっぱり抜け落ちていたが、確かに聖槍はその場になかった。
つまり、オリオンたちより先に回収した人物がいる。
「聖槍に因果的消滅を引き起こす力があるなら、因果に記された過去の形を呼び出すのも可能だとは思わないかい?」
そう言った明星の手が握ったのは──白金に輝きし極天の槍。
「な、てめ……!!」
「見せてあげよう。僕の真の姿、邪竜ヴォーテガーンをッ!」
迷わず踏み出したオリオンは唐突な爆風に歩みを止められた。
まだ一応は人の形を成していた明星東から溢れ可視化し渦巻く黒い魔力は、かつて誇りという名の光輝に満ち選ばれし者の手の中に収められていた気高き伝説の断片をも粉々に砕き溶かして自らの力へと転換していく。
そして彼が言ったことが事実として発生を始める。
翼をはじめとしたあらゆる部位を切り裂かれていた邪悪で歪な竜人は突如空間に現れた巨大な球体に呑まれ、喰らわれ、過去の姿に取り込まれた。
────寒気が襲ってくる。
正体の分からない恐怖が全身を包むように握り潰し、月見一颯の胸の奥に眠る彼女のものではない本能が「アレを消せ」と叫び声になり耳を裂く。
野放しにしてはいけない悪が、此処に立ってはいけない巨竜が復活すると直接思考に語りかけられる。
「っ、おいイブキ!?」
読めない状況からさすがに静観していたオリオンより先に駆け出した一颯は一体なにを考えていたのだろうか。
踏み締める度に黄金色が跳ね上がり、璃音の追想武装を纏っていたはずの彼女は距離を詰めていくにつれ、その姿を大きく変えた。そう、父を救おうと駆けたあの日に纏った女神の衣──月花礼装に。
「これ以上は必ず止めるっ!!」
彼の目に映る彼女はまるで女神のようだ。
美しく、誰よりもいとおしく、ずっと背中を見つめていたくなるほど力強い。
見るもの全ての目を奪うほど目映く輝いているというのに、月の静寂を表すかのような落ち着きを感じさせる黄金の剣は、その厳かな煌めきを以て、まだ蛹の中にいるであろう在りし日の邪竜に容赦なく斬りかかった。
同時に、彼女を追って突風を突っ切り始めたオリオンも魔力をブースターにして加速し、構えた聖剣にまとわりついて弾け飛ぶ雷を振り下ろす。
月と星の二つの光が交差し、朝日よりも眩しく湖に写る世界すら飲み込んで竜の繭を白に染め上げる。
まさに先手必勝。
さしもの邪竜でも、不完全な状態で月の女神の戦装束と伝説に連なる聖剣の連撃を食らえばただでは済むまい。
『フッ……月の女神も落ちたものだ。あの頃に比べて、ほんとうに』
────彼が、不完全であったなら。
「え……っ」
ぼたぼたと水に向かって落ちる血はどこから出ているのか、彼女には彼には判る。見なくても解ってしまう。
逆に邪竜はどこへ行ったのか、彼女には一瞬分からなかった。ただし彼にはすぐに分かってしまった。
『我は頂点に立つ者、女神などもう必要ない』
一颯の背後で嗤う一人……いや、一匹と言うべきであろう竜は、彼からすればあまりにも小さなヒトの体に先程まで新品のように真っ白であった爪を突き入れ、かち上げるような形で少女の背中を抉り裂いた。
「そん、な……」
やけに軽くなった身体が血飛沫と共に宙に舞う。
黄金色の月花礼装は、そして璃音の残した追想武装は彼女の身を離れ霧散し世界に解けて消えていく。
最後に水の上に落ちてきた一颯を竜は興味なさげに蹴り飛ばした。
ばしゃばしゃと音を立てて水面で踊る彼女を離れる前に視界に収めた彼は、なにも言わずに小さくなった身体を抱えて離脱する。
生々しい感触さえ、今のオリオンには全く伝わらない。それでも溢れ出るものを視認すると恐怖が湧いてきた。
「イブキ、おい……!! いくな、俺より先には……絶対っ!!」
「──大丈、夫……」
伸びてきた手を必死で掴んだ。
「……ごめんね、最後、まで……めいわく、ばっかり」
「馬鹿、馬鹿言うなよ……!!」
「なんか……いつもと、違う。わたしのセリフ、取られちゃった……」
「後でいくらでも言わせてやるから……頼むから、死ぬな……っ!」
ぽたぽたと、なにか熱いものが流れて落ちて、彼女に伝う。
「……泣かないで」
「……俺は……」
「夢を、かなえて……約束……して……」
「──あぁ、絶対に叶える。だから、イブキも」
「……うん」
安らかな表情で眠りに就いた彼女はまだ暖かく、冷たくなるまで時間はある。
きっと誰かが救ってくれる──もうただの他力本願だけど、力のないオリオンにはそう願うしかなかった。
だから、自分にしかできないことを、彼女に伝えた彼女だけの未来のための夢を叶えよう。
『さ、これであと一人だ』
「……違う」
『何?』
ふらりと立ち上がった彼の背は決意に満ちていた。
死に恐れなどない。唯一恐れることがあるとすれば、それは彼女のいる未来が叶わないことだけ。
今こそ、かつての聖剣が敵わなかった伝説にオリオン・ヴィンセントは立ち向かおう。
「リオンもいる、姉さんもいる……イブキもいる。俺はみんなの想いを背負って、俺自身の叶えたい願いも抱いて────今度こそ邪竜を討つッ!!」
力を寄越せ、異形として夢魔として産まれた力のすべてを。
全身に舞い上がる魔力の波動。
遥か昔に産まれ、幼子の誕生と共に死んだある男の忘れ物は力なき彼に力を与え、怒りと絶望が復讐の刃を研いだ最強の剣士に流れていた血は確かに彼の身体に今も刻まれている。
『何度も言わせるな。調子に乗るなと我は言っただろう、なぁッ!!』
マグマにも達するほどの熱量を以て吐き出された炎に臆さず突っ込んだオリオンは、そこに凝縮された異形の魔力を受け付けない。彼の力だけを塞ぐ栓となっていた対異血脈は真に起動し、たとえ幻想の種たる邪竜の火炎であっても問答無用で無効化する。
口元に迫っていることを知らないヴォーテガーンはニヤリと大きな目を細めたが、瞬間すさまじい速度で喉を捉えた一撃に悶絶しじたばたと暴れ狂いのたうち回って彼を弾き返した。
『おのれ、なにをする……ッ!!』
竜になっても変わらず生えていた刃のごとき鋭さを持つ羽根も、まるで読んでいたと言わんばかりに華麗な動きでいなされる。
その時のオリオンの瞳がなんだか"彼"に似たような不思議な輝きを放っていたことを、邪竜は気づいていない。
『なんだ……なんなんだ、オマエのソレは……愛か、それも愛の力かッ!? 不確定要素の分際で、我の弱点にでもなったつもりか……!?』
「知らねえよンなコトは。……でもな、俺は好きで戦ってんだよ」
『────ッ!!』
いつだってそうだった。
千年前に邪竜に立ちはだかったのは愛国心、民を守るという心。
今回も、愛、誰かを想う心が邪魔をする。
くだらない信号のクセに、裏には自分と同じくらい薄汚れた欲望が隠れているクセに、愛などという体のいい言葉はそれでもなおきらびやかで邪竜には眩しすぎた。
「ッ……!!!」
全力で魔力を回せば聖剣を酷使することとなり、肉体の崩壊は加速する。
崩れかかる皮膚をなんとか維持し続けるのもじれったくなるほど燃え盛る闘争心と邪竜を殺す絶対的な意志に、彼はついに侵食から肉体を守ることを諦めた。
すべてを聖剣に授けよう。
代わりに、その大いなる絶対の勝利を我が手に。
『ッアァ!!?』
邪竜の肉が悲鳴を上げる。
聖剣の放つ無限の輝きを前に、悪しき力は全て葬り去られるのだ。
『僕、僕は、我は……っ!!』
ぶつかり合う剣と翼、爪や牙と魔法が白く染まる空に火花を飛ばし新たな色を産む。
そしてわずかな交差の際にできた隙は聖剣に最後の魔力を注ぎ込むに十分な時間を与えてくれた。
星の輝きを、命の輝きを、全て束ねて。
ここまで来た思いの丈を乗せて、今こそ完全なる限定開花を放つ──!!
「聖剣解放ッ!!」
『愛、心、人間などに…………!』
「──黒夜流星ァァ────ッ!!」
黒い闇に包まれた夜という竜を、夜空に打ち上げられた白金の流星は瞬く間に呑み、世界は星の光に照らされる。
軋み、砕け、落ちる身体はその星の名を叫んだ次の瞬間────熱に焼かれて、溶け落ちた。