1-58 聖なる槍
見上げる夜空には依然雪が舞っている。
痛い、けれど痛くない。そんな奇妙な感覚に襲われながらも起き上がったオリオンは嫌な汗をかいていた。
全身が怠いのは限定開花の後遺症で、痛いのは足首と半身のひび割れ。見えないのは左目だけと特に変わった様子はない。
頭を抱え、なんとかして先程まで起きていた出来事を思い出そうとするが……直前までだ。逆に言えば直前は分かるからこそ、何故無事に立ち上がれたのかが不可解だった。
自称マブダチのオリオンからしても即死以外なら治癒可能ってつまり不死身じゃね?と思っていたあの璃音が、実際生きてはいたがあぁも簡単にしてやられたのと似たシチュエーションで同じ攻撃を食らっているのに無傷で終われるはずがない。むしろ延命してくれるような義手や回復系限定開花がない分、死なない方が不自然なのだ。
なので実は身体が死んでいて、所謂幽体離脱状態なんじゃないかと疑ってみるが────。
「……いや、マジに無傷だな」
オリオンだけならまだしも、直前に受けた手首の傷だけで事が済んでいる一颯がすぐそこにいた。
マーリンの幻術が理由だったらそもそも彼女が怪我をする前に発動しているはずだし、シキやキャロルといった宵世界の面々が駆けつけたならすぐにでも声をかけてくるか交戦を開始するだろう。
……これは一体どういうことだ?
魔力の反応もないため、璃音が復帰してきた訳でもない。
ならば完全に未知の第三者が現れたということになる。このタイミングで、だ。
「イブキ、起きろ!」
「……んん? ……ちょっ、私生きてる!?」
「あー生きてる生きてる。さっさと明星のクソ野郎追っかけんぞ」
「えっ、ええ!?」
一颯の言葉になんとなくデジャヴを感じたが今は放っておこう。
竜人と化した明星の姿は一度見た、翼を広げた時に余波で魔力も感じ取った。何分寝ていたかにもよるが、仕留めたと思い込んでいるとしたら下手な動きはしないはずなので探し出すのに時間はそうかからない。
周囲を見渡し、道路に出ようと塀に手をかけた──時だった。
「あれ?」
「どうしたの?」
「あのさ、ここの塀は明星がブッ壊したよな?」
「そう、ね。ここが壊れたから羽根が……でも傷ひとつない」
「もしかして」
猫みたいに軽快な身のこなしでブロック塀によじ登り、道路を挟んだ反対側を見る。
「…………やっぱりだ」
そこに広がっていたのはその"もしかして"が現実となった光景。
塀は砂になるまで粉々にされ、庭に埋められていた草花や木は引きちぎられて土にまみれていた。
なにより恐ろしいのはあの鋭く尖った羽根はその先にある木造の平屋の壁面を中が完全に見えるほど破壊していたこと。窓ガラスが粉々になった家屋からは小さくもざわめく老夫婦の声が聞こえてくる。
「瞬間移動?」
「それっぽいな。瞬間移動ってこたぁ空間魔法か」
俗に言う"瞬間移動"を魔法の形式に置き換えると"空間移動"と同義だ。
十五円環の内円環に属する魔法なので必然的に第三者の正体は絞られてくるが、短距離とはいえギリギリの位置から二人を転移させるような魔力を惜しみ無く消費できるのだとすれば──オリオンには心当たりがある。
「早く行こう」
余談だが、彼は明星東以外にも怪しいと感じる人間が一人いた。
怪しいと言っても黒幕候補としてではなく、正体が知りたいだけで何事もなければそれでいい程度。
さすがに性別が性別なので尾行はしていないが、魔力が流れているのか、ただ似ているだけなのかを学校生活でなるべく近寄らないように観察してきた。
結果として分かったのは本当に似ているだけだということだ。外見も、性格も、────魂のカタチまでも。
魔法によって"魂"を見極めることができる宵世界では、こちらの世界でよく言われる「この世には自分にそっくりな人間が三人はいる」という通説が科学的ではない方向から解明されている。
赤の他人なのに同じ顔なのは、遺伝子が似ているからではなく魂のカタチが似ているから──といった風に。
特に彼女は異常だった。
オリオンが知っている方の"彼女"は異形だから人間のそれと少し違っている。もちろん彼自身もそうだ。
しかし彼の知らない"彼女"は人間のはずなのに異形と同じカタチをしていて、本来異形はいないモノのこちら側では絶対に在り得ない魂であった。
結果は似ているだけ、だが結論は違う。
「ねえあれ!!」
一颯が上げた声に反応し、長い長いモノローグを終えた彼の目線の先には確かに邪竜と化した明星東。
そして──────。
「明星くん、お話をしましょうか」
────高町黒枝だ。
「お話って、冗談よしてくださいよ高町先生?」
「なんにもおかしくなんてありません。私は先輩教師として、生徒たちの見本に相応しくない行為を見過ごさない、と言っているだけよ。それともアナタ、明星くんじゃないのかしら」
「ははっ……面白い人ですね。しかし正論だ、返す言葉もない。本来の貴方は真面目な方ですから、僕の行いは当然許せませんよねえ?」
この邪竜の姿を見てもまだ明星東を一人の後輩教員として糾弾しようとしているのか、それとも全く別の意味で粛清する気なのか。どちらとも取れる発言の高町からは未だ不穏な動きは見られない。
しかし、明星の背後約10mの位置から彼女を見ていたオリオンにはなんとなく香ってきた。
同胞──異形の魔力が。
「高町先生、どうすれば……」
「いや、このまま見てていい」
「えっ……でもあのままじゃ明星先生にやられちゃう!」
そうだ。人間の高町黒枝に対抗する手段はない。
一颯のように追想武装を纏うわけでも、明星のように真の姿を持つわけでもない彼女はこれから為す術もなく殺されるであろう。
ただし、戦う力を持つ彼女であればその未来も覆る。
「残念ですが貴方のお叱りを受けるつもりはありません、後ろにまだ敵がいるんでね。大丈夫。痛くしませんからッ!」
夜の黒に神速が紛れ込む。
霞んで消えた男の影が次に現れたのは高町を照らす街灯の明かりの下。
牙を剥いた悪しき竜の人が仄暗い爪を突き立て、無抵抗のか弱い女に対して頭の上から振り下ろす。
そして、一颯が高町の名を叫ぼうとした次の瞬間────草花の香りが天空から降り注いだ。
「そうね、誰だって痛いのは嫌でしょう」
彼らが見たのは手のひらを翳す女の姿。
ひらひらとロングスカートが風に舞い、シニヨンの要領で束ねられていた長い深緑は衝撃でさらさらと踊り雪が積もったかのようにその色素を失っていく。
一瞬にして彼女が着込むのは黒の国が誇る"聖槍の女帝"が纏いし胸元に咲く花が麗しい最強の魔装束。
有り体に言えば女は無傷。むしろ明星は当たり負けてしまった。
それも当然だろう、彼女が自らの魔装束を身に付けるためだけに放つより強力な魔力が明星のそれを圧倒的に上回っているのだから。
見事に弾き返された邪竜の体はオリオンたちの遥か後方へと吹き飛んでいく。
そうした結果、一颯の視界に彼女の全身図はあの別世界で見たあの人に信じられないほどよく──いいや、完全に同じものだった。
「ごめんなさい。私、手加減はできないのよ。だから痛みを感じる間もなく、地獄に送り返してあげましょう」
普段の優しげな瞳とは真逆で大胆不敵に笑みを浮かべる高町黒枝、ではなく、彼女の本当の名はクロエ・メア・ヴィンセント。
オリオン・ヴィンセントの義姉であり、同時に月見一颯が通う学校の教員でもある。
「……って、格好つけてみたけどどうかしらオリオ~ン!」
「こんな時にンなコトで声かけてくんな!!」
「そんなこと言わないで、久々にこうして一緒に戦うんだから士気を高めるくらいはいいじゃない」
「痛い痛い痛い!」
あんまりなほどぐいぐい来る姉は相変わらずも相変わらずだった。
一颯の目があるにも拘わらず正面から突撃してきて肉の塊を顔面に叩きつけてくる。どうやらあれだけ百点満点のかっこいい登場を決めているのに緊張感の欠片もないらしい。
それでも彼から離れると再び神妙な面持ちで顔を覗き込み、至極当然な質問をした。
「限定開花、使ったのね?」
「……おう」
いくら街灯があっても暗くて今まで気付かなかったのであろう。
限定開花の後遺症──時間が経つにつれて半身だけだった赤いひび割れが全身に迫りつつあったのを、クロエは体に触れて気が付いたのだ。
普通に皮膚が割れているだけならまだしも、魔力ひいては生命力が漏れ出すように内側から身体が割れているため、このまま徐々に身体機能が低下し衰弱していく。こればっかりはもう手の施しようがない。
「それがアナタが選んだ道なら、仕方がないわ」
「高町先生……」
「気にしなくていいのよ、月見さん……いいや、一颯ちゃん。それより私はアナタに感謝しなきゃ」
「一体なにをですか?」
「アナタが教えてくれたから、私はここに来ることができたのよ」
一颯は昼間の出来事を思い出す。
明星の名は出さなかった、オリオンのことも、なのに高町はすべてを容易に理解できた。
何故かと言えば、それこそがクロエと黒枝という二人の同一人物の謎の根底を明かすことになるのだが、彼女は同じ魂を分け合い産まれた時からこの日のための人生を送ってきたからだ。
転生する前、つまり元々の魂は一つだけであったが、神々が予見した二つの世界の災厄──邪竜の到来を阻止すべく白命界にて選ばれ、まず魂は半分に分けられた。
そうして、明世界に産まれた高町黒枝は1990年から出現した異形たちを裏で操る黒幕をいずれ突き止め、宵世界に産まれたクロエはそれを打倒すべく、神によって最高峰の力を与えられ、最後に二人は互いに"夢"を通じて二つの世界や互いの思考を見ることができる能力を得る。
しかし神は世界の調和を保つ体で矛盾した行動も取り、彼女らに互いの過剰な干渉は認めなかった。"見る"ことは許しても、"話す"ことは許さなかったのだ。
だから高町がオリオンを知らず、クロエがオリオンの行方を知らないという現象が起こってしまったりもした。
今回もパターンは同じ、眠りに就いた高町は夢で彼女に出会いクロエは生徒の悩みに悩む彼女の記憶を知ったのである。
一颯が話した例え話の殺人鬼が明星であるとまでは理解していなかったが、彼らが今夜中に黒幕とぶつかることはすぐに解った。
クロエは今こそ天命を果たす時であると、すでに自らに使命があることだけは理解していた高町黒枝の意識と身体に潜り込み、こうして二人に合流するに至った。
意図せずしてではあったもののあの時に一颯がお悩み相談しなければ彼女はオリオンの動向を知る機会がなく、駆けつけることさえできなかったのだ。
「あの瞬間移動はやっぱり……」
「ギリギリ間に合ってよかったわ!」
「さすがだぜ、ホント精度高いな」
「た、助けてくださってありがとうございます!」
「本当に気にしないでちょうだい、無事な姿を見られるだけでいいのよ」
彼女は槍使いの側面が目立つが、魔力量も純度も千年以上生きた夢魔と最強の女剣士から血を分けたオリオンをも上回る勢いで、魔法使いとしてもかなり優秀だ。
攻撃力は元々あるので特に空間系の魔法に長けている。自他を問わず距離も基本自由な瞬間移動や空間移動など、先の話を踏まえるとなんだか運命的にも思える魔法の数々に一颯は驚きを禁じ得ない。
「────さて」
談笑もそこそこに、遥か向こうで倒れたまま動かない邪竜を見つめた彼女は二人の横をすり抜けて近付いていく。
あの程度で死んでくれたならそれでハッピーエンドだが、生まれ変わってまで暴虐を尽くす諦めの悪い男が簡単にくたばるわけがない。トドメを刺してやる必要がある。
「……っ、そうか。"創造者"が選んだのは、貴方だったのか……」
「ええ。でも少しハズレね、私を選んだのは創造者ではなく月の女神の分身よ」
「はは、死に損ないの女神に遣わされたんですか。やっぱり飽きさせない人だ、貴方は」
明星は立ち上がり、璃音との交戦時と同じく自らの魔力を肉に変えて身体を修復した。
まだ生意気な口が叩けるのは余裕の表れか、はたまた最も注意すべきだった人間が目の前に現れたためか。
「地獄に送り返すと言っていましたが、やはり冗談がお上手だ。確かに今の僕は貴方には敵わない、ですがさっきの一撃で致命傷を与えられなかったということは貴方はその程度ということです」
そう、魔装束の再構築で自らの体内にある魔力をほぼ全放出したクロエは逆に言えばそこが限界だ。
魔力放出の反動で弾かれた明星も確かに痛恨の一撃を食らったかもしれない。しかしそれはあくまで治癒が可能な範囲で手痛いだけに過ぎず、今のが最大級のパワーならば璃音の銀弓操作のような爆発力が全くないため、クロエに決定打は撃ち込めない──と、明星は予測している。
「アナタの言う通り。私にはお前を一撃で還すほどの力はない。けれど……邪竜の弱点はよく知っているわ」
「何……?」
「さて、明星くん問題よ。何故、私は"聖槍の女帝"なんて渾名で呼ばれたのでしょう?」
この問いを投げられた瞬間、明星の脳内に駆け巡ったのは"聖槍"という単語だ。
そしてそれは聞いていたオリオンたちも同じで、特に姉の装備についてはよく知っている彼にとっては最早問い自体が答え合わせになっていた。
「聖槍、ロンゴミニアド」
「えっ?」
「姉さんの遺装──竜殺しの槍だ」
ロンゴミニアド────といえば、カムランの戦いにおいて反逆者を貫いた王の槍だ。
美しい穂先には常に血が滴り、どこか不穏な雰囲気さえ漂うその槍にはかつて同じ王により邪竜ヴォーテガーンの命を奪ったという華々しくも血塗られた過去がある。
クロエがそんな逸話を持つ遺装を手にしたことは、彼女に約束された災厄の打倒のため。
明確な逸話を持つ遺装になんらかの能力が付与されていることは銀剣・クラレントの支配者に対する攻撃性増加を見れば明らかだ。
じゃあ大昔に邪竜ヴォーテガーンを討伐した聖槍・ロンゴミニアドにはどんな能力があるだろうか。
「因果的消滅、知っているでしょう?」
「ッ!! や、やめるんだ! それは、それだけは……!!」
「アナタはロンゴミニアドの限定開花には耐えられない、そういう"作り"になっている。これこそが弱点ではないかしら?」
「確かにそうだろう、だがそんな事象が起こり得るのはあの男と同等の力があればの話! 貴方にはあるのか、アーサー王と同じ力が!」
「ええ、ないわ」
クロエはあっさりと断言した。
自分にはアーサー王ほどの力はない、だからロンゴミニアドだけでは邪竜を消し去ることはできない、と。
しかし────。
「だけど、私の命で賄うことはできる」
夢魔の命を費やした魔力でなら可能であるとも言い切った。
「そんな、ダメです! 高町せんせ──!!」
声を遮るようにして築かれた防壁はガラスのように堅く、女では体当たりしてもびくともしない。
一颯が止めたくなる気持ちがオリオンにも分かる。だけども彼は動かなかった。
今の明星はなにがなんでも限定開花を防がねばならない状況に置かれている。勝手に近付いて反撃を食らい、盾にでも利用されたら彼女は動けなくなってしまうだろう。
自分の命を犠牲にしてでも目の前の巨悪を討ち果たす覚悟を決めた者を前にして、それを有耶無耶にする行動はできない。
「イブキ、もういいから」
「でも!!」
「梓塚に住んでる人たちのために、姉さんのために止めないでくれ」
「…………」
本当だったら加勢すべきだ。分かっている。
しかし一時は邪竜の翼に殺されそうになった身でなにができると言えるのか、悔しいが今は自らが行かなくても手段があるのだから動いてはいけない。
「起動せよ、聖槍・ロンゴミニアド────!」
綴られた言葉に乗せてクロエの手に呼び出されたのは伝承の通り、透き通るような透明感と暖かみのある輝きを兼ね備えた白銀色の大きな槍──聖槍・ロンゴミニアドだ。
聖槍は柄を握り締めた瞬間から穂先に魔力の煌めきを蓄え、徐々に巨大化していく光はやがて魔方陣らしき円形に拡がっていく。
「そんなものっ、発動前段階で消し去ってしまえばッ!!」
「甘いッ!」
バサリと翼を広げた明星が放ったあの刃状の羽根は聖槍の輝きに退き、突き上げた槍を持つ右手とは反対の左手で小さな雷を撃ち飛ばす。
無論こんなちゃちな攻撃にかすり傷を付けさせまいと逃げ回る明星はならば射程外へと夜空の向こうへ飛んでいこうと大地から離れたが、これも彼女は読んでいた。
なんと、自らが得意とする瞬間移動で彼が向かう先へと聖槍のエネルギーを溜め込んでいる状態で先回りしたのだ。
「覚悟なさい、邪竜ヴォーテガーンッ!!」
「くっ……高町黒枝、貴ッ様ァ!」
拡散する円形の光から漏れる粒子により、神々しい光を纏う女騎士は自身も体内から柔らかくも雄々しい深緑色の魔力を放ち、男の姿を捕捉する。
全身から溢れ出す最強たる由縁と聖槍本来の力が混ざり合い、ついに光は空を包んだ。
「──完全解放・極天──────」
彼らが見上げた世界は、真昼のように輝いていた。
無慈悲に突き出された槍が発する濃密な魔力の奔流は発動者である彼女をも巻き込み、真っ白な竜の形を成して邪竜を飲み込んだ。
言葉も出なくなるその威力は空中でなければ恐らく住宅や住民を巻き込んでいただろう。
眩しさに直視していた目は自然と閉じられていく。
強烈な爆風と耳が軋むほど甲高く鳴る音に身体が支配され、なにもかもが真っ白に溶けてなくなったその後に────。
「また会いましょう、愛しい子達」
どこかで、優しい声がした。