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ANASTASIA  作者: 桜依 夏樹
Prologue
7/133

0-6 Prologue.6



「すまなかったな、本当に怪我はないか?」

「大丈夫です! こっちこそすみません、ごちそうになっちゃって…」

「遠慮するな。原因は俺で、助ける義務も俺にあっただけのことだ」

「そうです! お言葉に甘えちゃいましょう先輩!」

「アンタ自然な流れで先輩に奢らせたわね」


 駅前のチェーン喫茶店に入った三人は一番奥のテーブル席に腰掛ける。

 「フローズン抹茶×つぶ餡 夏の定番ドリンク今年も登場!」と銘打たれたポスターに惹かれた華恋の提案と朝のお詫びだと言って聞かない璃音の奢りで三つのドリンクを注文した。

 店内に入る前に何度か止めたが半ば強行で三つ注文されてしまい、さすがに奢られてから遠慮するのは気が引けたのでいただくことにした。

 まず一口目、見た目とポスターの和風で苦味と甘味があるだろうというイメージを一蹴するほどの激甘っぷりが喉を糖分過多に追い詰めんとする。しかしその甘さがだんだんクセになり、人気商品として大々的に紹介されるのが理解できた。

 一颯の正面に座った璃音は一口飲んだだけでそれの糖分に耐えきれなかったらしく、隣に座る華恋に差し出して「コーヒー買ってくる」と席を立った。彼女も「分かりましたー!」とか言って自分のものより先に璃音の飲んだドリンクに口をつけていたが、…ナチュラルに間接キスだ。恐ろしい。


「先輩は甘いもの苦手なの?」

「いや? でもこれは甘すぎですね、美味しい」


 この二人のカップルを見ていて判ったのは、マイペースで自由人な華恋を引っ張る真面目な璃音という至極単純な図式。彼女の明るさが常に無表情でなにを考えているか分からない彼に周囲にもはっきり分かる心情変化をもたらしている、と考えれば相性が良いのではないか。

 朝や部活中、帰路で華恋の話を聞いていた彼は表情は変わらないもののとても楽しそうだった。

 こんな出来すぎたカップルは世の中にそういないものではあるが、実際に身近にいると彼氏がほしいとかほしくないは関係なく少し憧れてしまう。


「ねえ華恋、聞いてもいい?」

「なんですか~?」


 そんな二人の姿しか知らないからか、一颯は校内でよく聞く"黒弓璃音"の話と、今こうして一緒にいる彼とでは色々違いがあると感じた。だから華恋に聞きたいのだ。


"黒弓先輩ってどんな人なの?"


 華恋は「うーん…」と唸りながら首をかしげ、一颯の疑問に答えようとなにやら頑張って最適解を絞り出している。隣人かつ恋人がどんな人間か聞かれてこんなにも悩むとは、そんなに難しいことなのか。


「璃音は璃音です、いっつもこんな感じですよ」


 こんな感じ、とは今現在の彼のことを示しているのだろう。


 まず、見た目はとにかくかっこいい。黒い髪は下手に茶色や金に染めた髪よりよっぽど綺麗で、少し前に流行ったヴィジュアル系バンドにいそうだと思う。青いメッシュも染めたのではなく地毛というのも、()()()()()がなく惹かれる要素だ。

 と、どれだけ彼がイケメンと称される部類であっても、とにかく感情の動きが読めないあの無表情ぶりは筋肉が固定されているのかと疑ってしまう。

 だが実際に彼と面と向かって話すと分かるのはクールで近寄りがたい雰囲気と裏腹に、根は優しそうだということ。階段でぶつかったことを何度も謝罪しお詫びをする姿なんて、以前まで廊下ですれ違う度に見た眠たげな顔をした彼を思うと想像すらできない。良い意味でだ。


「なんの話だ」


 ブラックコーヒーを片手に戻ってきた璃音が二人の会話の輪に入ってきた。


「今ですね、先輩に璃音がどんな人か聞かれてたんですよ!」

「…どんな人、か」


 先程の華恋と同じように唸りながら首をかしげた璃音はこれまた長い間を開け、若干苦笑してこう言った。


「普通だよ、俺は」


 さすがの一颯も絶対嘘だ、と一瞬で思った。どう見ても謙遜している。

 アニメや漫画に出てくるような才能の塊で町中の女の子が振り向くくらいイケメンで、非実在二次元的な彼のどこが普通だと言うのか。


「周りに人生を決められたくない、そんな理由で勝手に家を出て、…むしろ負け組だと思う」

「負け組!?」


 ()()()()()を持った人間というのは、敷かれたレールの上でしか生きられない。それに人権もない。だが、レールから降りたところで優しかった人々は逆に蔑んだ目を向けてくる。だから今まで進んできた人生を壊してここまで逃げてきた。家族の目が届かない場所に。


 そこまで言い切った璃音は一層暗い顔をしていた。

 常人を越える才能があるのは彼を知る人物の誰しも分かっている。それは無論、彼を産んだ親も含めて。

 彼の言い方から解釈するに、規律の厳しい家庭で育ち周囲の期待に押し潰され悩んだ結果、家族と距離を置きこの町の学校に入学した、ということだろう。

 ミステリアスな彼には真偽不明な噂が多いが、その中でも信憑性のあった"親と不仲説"はどうやら正しいらしい。


「あの時期は兄上と喧嘩して居場所もなかったからな、今思えば勢いだったかもな」

「え、お兄さんいるんですか?」

「あっ…いや、まぁ…よく似てる兄がな…」


 何故かしどろもどろになっている璃音を不思議がりながらも、"兄上"という呼び方に育ちの違いを実感した。


「自分から言い出しておいて悪いが、こんな話を聞いてもつまらないだろ?」

「そ、そんなことないです!色々意外なところが知れてビックリしてますし」

「そうか」


 彼はテーブルに置いたまま手をつけていなかったコーヒーを一口飲んだ。

 隣の華恋の反応からして、彼女は今一颯が聞いた以外の全てを知っているのだろう。彼の話をずっと頷きながら聞いていた。


「そうだ! 先輩、進路どうするんですか?」

「決まっていない」

「えっ!?」


 三年の夏といえば、もう進路に関する準備が始まっている。場合によっては決まった人間もいるものだ。

 璃音は何一つ決めていないと言う、三年にもなって弓道部に居続ける理由もそれだと。

 二年生の時、進路担当教諭に有名大学を勧められ、それを断ると今度は別の大学も勧められたが断った。

 結局自分のしたいことをするからと言って進学も就職もしない道を選んだ。何人かの教師に無職というレッテルを貼られることを心配されたが、心が動くことはなかった。


「もしかして璃音、帰っちゃうんですか?」

「少なくとも華恋がいるうちは帰らない」

「じゃあずっと一緒ですね!」


 華恋は細かいことを考えていないようだ。


「意外でした。…実は今、私進路で困ってたので貴重な話が聞けてよかったです」

「そうか。…困ってるなら一度逃げてみるか?」

「い、いやそこまでじゃないです!」

「冗談だ」


 嘘だ。本当は逃げてみてもいいと彼女は思った。彼のように逃げ出して、誰も知らない場所に行ってみたい。学校や会社とは隔絶された世界に消えたかった。

 ほんの少しだけ、逃げてみようかと本気で考えた。だが、それを許さないのが世間体だ。きっと行方不明だと言われ探し出されて、見つかれば今より世界が狭苦しくなるだけだと思うと次第にその気は失せていった。

 璃音のように生まれ持った才能に苦しんでいるわけではないが、平凡がゆえに人生に悩むことだってある。それを理解されたいのだ。


 璃音の話があってからずっと重苦しいことを考え、一旦落ち着こうと見上げた壁掛け時計は18時前を示していた。

 意外にも長居していた事実に気付き、空になったプラスチック容器を持って立ち上がる。


「ごめんなさい、そろそろ帰ります」

「ええーお帰りですかぁ」

「帰るわよ、夜歩きは危ないもの」


 梓塚にはいつどんな不審者が現れるかも分からない。

 まだ晩御飯の買い物もしていないのだから、そろそろ頃合いだろう。陽が落ちきる前に帰ればその分安全だ。


「こんな時間まで付き合わせてすまなかったな」

「もう謝らないでください。こちらこそありがとうございました」


 感謝を述べて少し頭を下げ、「それじゃあまた週明けに」と言って席を離れる。二人はもう少しだけここに残るようだ。


 彼の話は貴重な意見だった。大人が決して提示しないような内容に心がちょっぴり動かされた。

 夏休み明けの進路希望プリント提出で適当に進学を選ぶと決めていてもいざ手渡す時にはまた教師から色々言われるだろう。"逃げる"という選択はプリントの提出に対し、重かった気持ちを軽くした。


 夕方だというのにまだ燃えるように暑い陽の光を浴びながら駅前を後にし、とりあえず今日は適当に済ませよう、と一颯は自宅近くにあるコンビニを目指した。







 夕方の18時55分、陽も落ちて空が茜色から薄暗い黒に染まりかけた頃に一颯はようやく自宅の三軒先辺りまで戻ってきた。

 コンビニでデザートを選ぶ際アイスにするかケーキにするかで悩み、10分ほど時間をかけた結果帰りが予定より遅くなってしまった。しかし反省はしない、だって女の子だもの。

 それに帰ってきても暖かく迎えてくれる両親はいないのだ。一颯が不審者を怖がって夜遅くまで外にいることをしないだけで、一日帰らなくても心配されることはない。


「あれ……?」


 そう思っていたが、見えてきた自宅にはリビングの明かりが付いていた。もしかして消し忘れてしまったか?などとも考えたが、そもそも朝は明かりすら付けていなかった。

 血の気が引き、心臓がバクバクと鳴り出す。

 本当に不審者が家にいるのではないかと疑い、隣の川村家に事情を話して避難しようか悩んだが、もしも泥棒だとしたら大変だ。自分の家を他人に荒らされるなんて考えただけで恐ろしい。

 意を決し、カバンからスマートフォンを取り出し110番を用意したまま家の鍵を準備する。もし鉢合ったら身を翻し逃げ出して、すぐに通報だ。


 ごくりと唾を飲み込み、ゆっくり家の鍵を開けた。


ガチャリ


 手応えがある。鍵はちゃんと閉まっていたらしい。内側から閉めたのだろうか。

 玄関で足元を見た時、肩から力が抜けるのを感じると同時に、彼女は混乱した。


「…は?」


 そこには見慣れた靴が二足規則正しく置かれていた。堅苦しい革靴と高級そうな黒のハイヒールは明らかに両親のものだ。

 今日は帰ってこないと書き置きしたのはどこの誰だ、悪態をつきながら学校指定のローファーを適当に脱ぐ。

 もしかして仕事が無しになったのか、と少し期待しながらリビングに入った。


「ただい…ま…?」


 両親はダイニングテーブルに並んでなにも言わずに座っていた。食事や書類は置いていない、見た目も仕事に行く時のスーツ姿のままだ。

 不審がる娘を見て、母の文恵は小さく手招きをする。


「話があります。はやくいらっしゃい」


 ようやく分かった、これは説教だ。しかしなんのためだろう?

 意図を理解できないままカバンをラックにかけ、110番が表示されたままのスマートフォンと買い物袋を棚の上に置き、両親の正面に腰かける。

 一颯が座ったタイミングで文恵は食い気味に話し始めた。


「一颯、あなた進路希望調査を提出していないんですってね」


 一颯は驚愕した。プリントの存在は教えていないはずなのに、未提出であることまで知っているなんて完全に予想外だ。

 動揺したまま俯いてなにも言わない彼女を見て文恵はため息を吐く。それは軽蔑からくるものだった。


 16時頃、二人の職場に一本の電話が来た。

 私立星宮高校──一颯が通う学校からの発信には文恵が出た。相手は担任の井上。彼から手短に、「月見さんが進路希望を提出していない」と伝えられ、プリントの存在を知らなかった文恵は一瞬なんのことかと思ったが、少し前に進路をどうするのか聞いて口論になったのを一颯が気にしていることに気付いて納得した。

 「提出期限を延ばしたが、彼女以外みんな提出している。家庭でもう一度よく話し合っていただきたい」。井上はそう言って電話を切った。


「忙しいのにわざわざ職場に電話してくると思いませんでした。一颯、あなた学校でなにをしているの?」

「…別に」

「"別に"じゃない。それと、人と話す時はちゃんと目を見て話しなさい」


 娘のはっきりとしない態度で文恵の表情に怒りが表れる。語気もだんだんと強くなってきた。

 隣に座る父親…七貴は目を閉じて話を聞き入り、なにも言わない。そんな父親を見ると分かりやすく怒っている母よりよほど怖い。


「あなたはそうやっていつまでも子供気分で…これから大事な時期でしょう? あなたの振る舞い次第で将来が決まるの。どうでもいいなんて言える時期はとっくに終わってるのよ」


 正論にまみれた母の説教は一颯の心にも苛立ちを産み出す。


 "大事な時期なのにどうして私と向き合ってくれないの?"


 抱えていた思いが時限爆弾のようにちくたくちくたくと爆発の瞬間を迎えようとしている。

 しかし文恵が娘の危険物と化した心理に気付くことはない。何故なら文恵は正しいから。正論を武器にしているから娘には耳を貸す必要がないのだ。


「いい? 大人はね、自分で選ぶの。誰かが一颯の代わりに就職先を探して、面接をして、採用通知を持ってきてくれると思う? 絶対にないわ。そんな自立性がない人は社会に出られない…ニートっていうのかしら? あなたは今そうなりそうなのよ」


 捲し立てる母の言葉は重く突き刺さるように痛い。ナイフになって刺さった言葉は一颯の心の爆弾のタイムリミットをどんどん早めていく。

 彼女にも自覚できない理不尽な怒りは体の芯を熱くし、抑えようにも抑えきれない。


「もっとちゃんと考えなさい。解ったわね?」

「…はい」


 逆らえば余計に面倒な説教が待っていると思い、思ってもない肯定を口に出す。

 どうせ一過性のものだ。次に会う時には互いにけろりとしているし、今は耐えていれば話が長引かずに済む。とにかく黙っていればいい。


「全く…お母さん達だって仕事で忙しいの。一颯に構ってる時間なんてないんだから、しっかりやりなさい」


───母のその言葉が出るまでは。


"娘より仕事が大事なの?"


"仕事が忙しかったら娘を放っておいていいの?"


 爆弾は爆発した。

 息苦しさに頭がズキズキと痛み出す。先ほどから高鳴って大人しくならない心臓と冷や汗をかく身体が震え、体温が上がっていくのを感じた。

 声に出そうと思っていなかった言葉が勝手に漏れ出す。


「ねえ…仕事と私、どっちが大事なの」


 呆気に取られ、バツの悪そうな顔をする両親を見て言い出したそれを止められなくなった。


「いっつも仕事仕事って私のことほったらかしで、家にも帰ってこないし約束も破って、そんなに仕事が大事なの? 日曜日も休めないほど大事?」

「一颯、あの…」


 焦った文恵が口を開く。だが知らない内に心の時限爆弾が弾け飛んでしまった一颯を止められない。

 一颯が勢いよく立ち上がったせいでガタンッと椅子が音を立てて倒れる。


「邪魔なんでしょ? さっさと自立して出ていってほしいんでしょ?だったらそうハッキリ言ってよ!」

「違うわ一颯、私達はあなたを想って…」

「嘘つき! すぐ約束破るお母さんたちの言うことなんて信じられない! 大ッ嫌い!!」


 「大体今日だって…」と長い長い反撃が始まる。勢い任せに出てくる言葉は全て今まで言おうとして言えなかった両親への不満だ。この際多少理不尽であってもいい、言いたいことだけがあらゆる方向から脳を支配して言葉として出てくる。仕事ばかりで娘を見つめなかったことが原因で産み出されたそれらは一気に放出された。

 文恵は一颯に気圧され、口を開けない。七貴は物言わないまま反応もしない。


 全て言い切った頃には息切れを起こし、喉は水分を欲していた。

 そしてなにより、この場を今すぐ離れたかった。

 圧倒されている母を一瞥し舌打ちをかますと、ラックから奪い取るようにカバンを持ちリビングを出て扉を閉めた。


「ま、待ちなさい一颯!!」


 止める母の声も無視し、玄関を音がするほど強く閉め鍵もかけずに自宅を後にする。

 すでに月が輝く暗い夜だったが、今はそんなことはどうでもいい。一颯ははやく、はやく家から離れたかった。


 数分経ったが両親は追ってこない。代わりに車のエンジン音がした。どうせ話が終わったらすぐ仕事に戻るつもりだったのか、口では娘がなんだと言うが、所詮はそんなものかと心底がっかりする。自分は大切にされていない、両親は自分より仕事の方が大事なんだという結果だけが残ったのが悔しく、涙が込み上げてきた。

 道端だというのに堪えきれない声をあげ、涙を流す。辺りに人がいないのが彼女にとって救いだった。

 泣きながらどこに行こうか悩む。スマートフォンを置いてきてしまったから華恋とは連絡が取れない。祖母の家に行くと、心配して気を使われそうだから嫌だ。他に友達はと聞かれたら少し厳しい部分がある。

 さてどうしようか、考えていると背後に気配が現れた。


「…月見さん、ですよね?」


 優しげで聞き覚えのある声は一颯に対し発せられている。

 振り向けば、長くて揃えられた清楚な黒髪と特徴的なセーラー服を着た彼女が立っていた。


「…立花さん?」


 立花雪子(タチバナユキコ)。昼間に騒ぎ立てていた五人組の一人で、一颯とはクラスは違えど同じ学年に属している。


「よかった…人違いだったらどうしようって…」

「いや、そっちこそどうしたの?」

「あ…その、今帰るところで…家…」


 雪子が指差したのはすぐ目の前の二階建てアパートだ。防犯用に扉が設置され、一階も侵入防止の柵が設置されている。女性の一人暮らしが推奨された住居のようだ。

 彼女曰く、あのグループの遊びから解放され自宅までの道をゆっくり歩いていたら後ろから走ってきた一颯に抜かれ、家の前で踞っていたので何事かと思い声をかけた、らしい。

 恥ずかしいところを見られて一颯は赤面した。同時に、怒り狂っていた感情もすっと冷えていく。


「そっか、なんかごめんね」

「えっ…気にしないで、ください…」


 小さな声で話す彼女を見ているとますますあの喧しいグループとの違いを感じた。

 清楚で大人しめなイメージのある雪子と、騒ぐことしかできないその他大勢とではありゆる面で雲泥の差がある。しかも雪子は頭が良い。きっと彼らと一緒にいることは理由があるのだろう。


「なにか…あったんですか…?」

「えぇっと、ちょっと親と喧嘩ってとこかな。もう家にいないのは分かってるけど帰りづらくて…」

「そうだったんですね…」


 仲の良い友達ではないせいで会話が続かない。

 自分から喋ろうと思えず、むず痒い状況に困惑する両者で先に口を開いたのは雪子の方だった。


「もしよかったら…お家、入りますか?」







「おじゃましまーす…」


 アパートの二階、案内された雪子の部屋は物が少なくしっかりと整理整頓されていた。健全な青少年を絵に描いたようなワンルームは白や水色のアイテムが目立つ。

 どうぞ、と促され小さなテーブルの前に敷かれた座布団に座る。

 しばらく待つと雪子がジュースの入ったコップとプリンを二つずつ持ってやって来た。


「お母さんにお友達用って、もらったんです。でもお友達呼んだことなくて…使ったの、初めてです」


 恥ずかしそうに笑う雪子からコップを受け取る。手触りは確かに新品特有のざらつきがあった。

 やはりあの四人は友達ではないのか、気は引けたが聞いてみる。


「昼間の四人は?」

「お家狭いので…みんなカラオケとかファミレスに行っちゃうんです」

「なるほど」


 言われてみればワンルームに五人で屯るのは少し狭苦しい。特に彼らは騒ぎたい遊びたい動きたいの欲求がかなり強い。だからライブハウスやカラオケ以外の狭い空間に押し込まれたくはないのだろう。

 彼らは現在12時になるまでカラオケでどんちゃん騒ぎ中だが、雪子は別件があって抜けてきたらしい。

 彼女は説明しながらカバンの中身を掻き分け、取り出したのはファイルに挟まれた大量のレポート用紙だ。


「来週までに書かないといけなくて…」

「えっ!じゃあ私邪魔なんじゃ」 

「いいんです。近くに誰かがいると落ち着くので…。むしろ…せっかく来てもらったのに、始めちゃっていいですか…?」


 そう言ってプリンを頬張り、一枚目のレポート用紙に手をつける。ファイルの中に一緒に挟まれていた紙には「○○専門学院 入学事前提出物」と書かれていた。

 まだ2年生の内から宿題を出してくる学校があるとは一颯も知らず、一文字一文字に時間をかけ頭を捻る彼女を隣で見つめる。

 5分、10分、30分、1時間…白紙の紙に文字が埋まってゆくのを見ていると時間も忘れてしまいそうだ。

 素人の一颯では詳しい内容は読んでもよく分からなかったが、雪子に聞けば彼女の進路先に関する部分も含めて細かく教えてくれた。

 人を見た目で判断してはならない、その言葉通り文系だと思っていた彼女はかなり理系のようだ。


「立花さんは難しいこといっぱい知ってるのね」

「ありがとう、ございます…」

「学校の授業じゃここまでやらないし大変じゃない?」

「そうですね…でも、自分で調べて考えるのは、とっても楽しいです」


 雪子はベッドに内蔵された棚からノートパソコンを取り出すと、てきぱきと接続し、検索エンジンを起動させなにやら難しい単語を打ち込む。

 見ているだけなのに自分も勉強している気分になりそうだ。

 だんだん緊張が解けてきた二人は互いに長続きする会話を交わせるようになった。

 突然、雪子が「これはどう思う?」とネットに掲載された論文を指差し分かりやすく解説を入れ、一颯の意見を求めてきた。一颯が自分の意見をなるべくオブラートに包んで答えると、雪子は少し悩んだ後"その考え方も有り"といった顔をする。それから何度か同じように意見交換をし、三枚目のレポート用紙に取りかかる。

 たまにジュースのおかわりを注ぎに行ったり、身体をぐっと伸ばして柔軟体操をする彼女の姿はやっぱり彼らとは違う種類の人間に思えた。


「今日は、三枚でおしまいですね…」

「何枚でノルマ?」

「5枚です。もう時間がないので…」


 そう言われてふとパソコンの画面端に表示された時計に目をやるともうとっくに22時を過ぎていた。気付かぬ間に三時間も居座ってしまったらしい。

 レポートの三枚目をすらすらと半分ほど埋め、また一颯には読めない英単語を打ち込み、ヒットした英語しかない文章を読み込んでいく。作業に没頭する彼女はまるでテレビに出てくる専門家に見えた。


「ねえ立花さん、ホントに肝試し行くの?」


 唐突な質問に滑らかに進んでいたペンが止まった。

 

「…そう、ですね」


 彼女の表情は重く険しかった。本当は行きたくない、そんな顔だった。

 だったら行かなければいいじゃないか、一颯が言おうとしたが先に雪子が口を開く。


「一年生の時、お友達…本当にいなかったんです」


 気弱な性格とこの専門的な知識の多さが周りとの距離を遠くした彼女は一年生の秋まで友達と呼べる存在がいなかった。友達がいないだけではない。一部の生徒は彼女を"変わり者"と揶揄し、仲間外れにした。酷いときは物が無くなったりもしたらしい。

 一颯も似たように周囲とは壁を作っていたためそんなことがあったとは知らなかったが。

 ある日、くだらない理由で難癖をつけられた雪子はトイレで女子グループに罵声を浴びせられた。言い返したり抵抗する根性がなく、ただ怯えていた時だ。


"ちょっと雪子ぉ話あんだけどいい?"


 当時四人組の紅一点だったあの女子…松井エミに声をかけられた。

 女子グループに睨まれても臆することなくずかずかと近付き雪子はあっという間にその場から連れ出された。


"お話って…なんですか…?"


 今まで話しかけても来なかった松井に呼ばれて足の震えが止まらなかった雪子はすぐに聞いた。


"テスト寝てたらさぁ追試になっちゃってぇ教えてくんない? 頭いいっしょアンタ"


 勉強を教えてくれ、それだけ。

 裏に別の目的があるんじゃないかと疑心暗鬼になったが、松井はただ本当に雪子に教えを請いに来ただけだった。

 追試までの三日間毎日松井は雪子の元を訪れ、終わった後も残りの男子三人を連れてやってきた。

 冬には雪子に嫌がらせを繰り返した女子グループは完全に手を引いた。彼女に自分たちより強そうな仲間が付いたのが怖かったのだろう。


 故に、彼女らは大事な友人。たまに強引だが弱い自分を引っ張ってくれる優しい人達。

 肝試しは本当に危ないことは分かっている。しかし何度止めても聞く耳は持たなかった。だから自分が同行せず、彼女らがなにか酷い目に遭ったとしたら…と考えると恐ろしく、同行を決めたという。


「もし私にも、みんなを助けられるなら…こんな時くらいかなって…」


 返す言葉もない。

 彼女があの四人に強制されているなら一颯にも引き留める権利があった。だが雪子は自分の意思で友達と一緒にいることを選んでいた。


「そっか。…じゃあ、都市伝説が本当にただの噂だってこと信じてるから」

「うん、私も…信じてます」


 梓塚の都市伝説は本当に多くの犠牲者を出している。怪物の姿が監視カメラに映ったことだって何度もある。彼らは絶対に実在している、分かっていても親が子供の早寝を促すために流した嘘だと信じたい。ただの怪談話だと思いたい。

 なんとなく重たい気持ちになってしまったが、雪子の内心を知ることができたのはよかった。


「あの、月見さん…」

「なに?」


 あ、その、えっと、と中々続きを切り出さない彼女はカバンを漁り、白いカバーがされたスマートフォンを取り出した。


「アドレス…交換しませんか…?」


 なんだ、そんなことでいいならお安い御用。

 一颯はカバンからスマートフォンを出そうと手を突っ込んでから思い出した。


 ない。カバンの中にはない。何故なら買い物袋と一緒に置いてきてしまったから。

 電話番号すら曖昧なのにあんな長ったらしいメールアドレスなんて覚えているはずがない。


「もちろんいいんだけど、携帯忘れてきたみたい…」

「あっ…そう、ですか…」

「じゃあ週明けに学校で交換しない?!」

「はい…! お願いします…!」


 これで週明けも雪子と話す機会ができた。

 前述通り、一颯には周囲と壁がある。友達はかなり少ない。しかしなんでもかんでも遠ざける気でいるわけではない、こうしたチャンスは中々に嬉しいものだ。


「それと…あの…一颯ちゃんって、呼んでいいかな…」

「私こそ! 雪子って呼んでいいかしら?」

「も、もちろん…!」


 当たり前のようなやり取りで二人の距離はぐっと縮まる。少なくとも今日の今この瞬間だけで関係は赤の他人ではなくなった。

 しばし笑い合った後、疎かになっていた三枚目のレポートに手をつける。


 会話の中の彼女はさっきよりも口調が明るく弾んでいる。とても楽しそうだ。


「これで…三枚おしまい」

「お疲れさま!」


 拍手する一颯の姿を見て、雪子は大きく息を吐いた。

 雪子が「誤字がないか見てほしい」と言うので三枚の用紙を手に取り確認したが、あまりにも難しい言葉の羅列で頭はパンクしそうになった。

 とはいえ、友人の大事な宿題の半分以上が終わったのは喜ばしい。

 時計は夜11時40分を指している。やはり時間はかなりかかっていたらしい。


「ごめんね、私いなかったらもっと早かったでしょ?」

「いえ…一人だとすぐ集中力切れちゃうから…」

「分かる! 私も勉強なんて30分くらいで飽きちゃうし」


 雪子は苦笑してレポートをファイルに挟み、カバンに入れてベッドの端に置いた。

 その時、スマートフォンが設定された着信音を鳴らす。


「あ、松井さん…」


 どうやら待ち合わせの時間らしい。近くの喫茶店にいるから来いとのことだ。

 そろそろお暇しなければ、と立ち上がる。本当は付いていきたい。しかし都市伝説の実在性を考慮すると怖かった。死んでも怪物とは遭遇したくないという気持ちが勝ってしまう。

 それを察してか、雪子も誘ったりはしてこない。


「一颯ちゃん、お家の方向…どこ?」

「あっちの方だよ」

「じゃあ、反対方向だね…」


 二人は荷物をまとめて部屋を出る。

 しっかりと戸締まりし、ロックされた正面出口の内鍵を外して、真っ暗で街灯だけが照る深夜の梓塚に出てきた。

 沈黙が流れる。言葉はない。


「じゃあ、また来週」

「気を付けてね」


 こうして二人は反対方向に歩き始めた。一颯は家に帰るため、雪子は肝試しのために。


 暗い夜道に人気はない。皆この時間は外に出ず、怪物の足音に震えて耳を塞ぎ、眠りの世界にいる。

 月見一颯はこの世に産まれて17年経つが、こんな時間に出歩いたことはない。

 夜は夏でもここまで肌寒いものなのかと身体が驚く。風が強く吹いただけでもビクリと強張り、カランと空き缶が転がるだけで心臓の鼓動は跳ね上がった。


───怖い。夜がこんなに恐ろしいなんて。


 きっと都市伝説を知らなければこんな思いもしなかった。だが梓塚に住む以上は知らないなんてことはない。

 幸い、自宅までは歩いても10分くらいだ。深夜12時までには家に帰れる。帰ったらすぐに部屋へ駆け込んで、さっさと着替えてベッドに潜りたい。お風呂もご飯も明日でいい。早く、早く。焦りは体温を上げる。

 湿気た空気が張りつき、心はどんどん恐怖に飲まれていく。


 無意識に駆け足になっていたせいで自宅にはそれだけ早く着いた。

 電気が消え、真っ暗になった家もなんだか別世界のモノに見えたが、さすがに怖がりすぎだと自分を鼓舞し玄関の鍵をカバンから探す。


 どこだ、どこだ、どこだ。


 恐怖で生じた焦りは苛立ちに変わる。

 こんなことになったのは両親のせいだと身勝手な責任転嫁まで始めてしまった。


 あんなこと言われなかったら、あんな喧嘩しなければ、あんな逃げ出し方しなければ───。


 そこまで来て、唐突に雪子のことが脳裏に浮かんだ。

 彼女を置いてきてしまった。自分よりよっぽど震えていたのに、友達と一緒だからと言っていたからといって。


 今度は苛立ちが心配に変わる。

 雪子は今なにをしている?無事か?怖い目にあってないか?

 疑問が脳内を埋めつくし、鍵を探していた手が動くのをやめた。


「雪子を探しにいこう」


 そう思い、踵を返した───時だった。



「う、うわああぁぁッ!?」



 耳をつんざくほどの悲鳴が上がった。

 方向は今いる自宅から逆、恐らく雪子の家の更に向こうだ。

 カバンが手から落ちる。身体の動きは金縛りにでもあったみたいに完全に止まった。


 彼らはどう考えてもなにかに襲われている。


 どうする?決まっている。雪子を助けに行く。当然だ、友達なのだから。

 鉛のように重くなった足は駆け出した瞬間、急に軽くなりアスファルトの地面を蹴る。

 普段はとても出せないような最速タイムで雪子の自宅前に戻り、彼女らの姿を確認できなかったため今度は雪子が歩いていった方角を駆ける。待ち合わせ場所は喫茶店だと言っていた、その場所からなら多少広い道に出るため見つけやすいはずだ。

 悲鳴の主がどこにいるのかも分からないまま路地を抜け、広い国道沿いに出る。

 きょろきょろと辺りを見渡し、一瞬だけ異質な影を見て思わず小さな悲鳴を漏らす。


 二つ向こうの道にいる。なにか大きなモノ。


 人間はあんな形なんてしない。あんなに背は高くない。腕も、頭も、目もあんな大きくない。見てしまった()()の姿に震えが止まらなくなる。

 だが場所はおおよそ判明した。あの先だ。悲鳴を上げたということは奴らに遭遇したと言っているようなものだ。ならあの先に一行はいる。

 もう一度足に力を込めて全速力で駆け出す。


───急げ、急げ、急げ!!


 間に合わなくなる前に!


 喫茶店から二つ先の路地に入り、その向こうにあるコンビニの方向に走る。そこからまっすぐ行き十字路をまっすぐ抜けたら怪物より先に進めるはずだ。

 火事場の馬鹿力と呼ばれるほどのスピードで夜の町を走り抜け、コンビニ先の十字路もまっすぐ抜ける。


「っ!」


 十字路を抜けてだいぶ離れた場所から異臭。嗅いだことのないナマモノっぽい臭いが充満している。

 鼻を摘まんでその道を進み、見つけたのは予想通りのものだった。


 死んでいる。


「松井、エミ…」


 サイドに結われた橙の髪は乱れ、背中には最早千切れていると思うほどの大きな裂傷。瞳孔が開き、口から血を垂れ流している。

 臓物が覗く背中を見て、一颯は胃の中身が逆流してくるのを感じた。

 吐き気を堪えながら考える。こうして死体があるということは、間違いなくさっき見た怪物は人間を襲っている。何故ならこんなに大きな傷はただの刃物で切っただけでは付けられないから。日本刀で斬ったってこうはならないだろう。

 そして改めて判った。彼女らは襲われ、今逃げている事実を。


「探そう…!」


 申し訳ないが、一颯にはこの死体をどうにかする方法がない。今は無視し、雪子を助けに行くことにした。


 もう200mは走ったか、息も少しずつ切れてきた中でなにもない夜の景色には変化が訪れた。

 背中だ。大きな怪物の背中。そして怪物の股からは星宮高校指定の制服を着た男女の姿。五人組の中に女子は二人。間違いなく、雪子だ。


「雪子!!」


 叫ぶくらい声を上げて名前を呼ぶ。…聞こえていないらしい。

 分かれ道の壁際に追い詰められている状態の二人は男子生徒が雪子を庇うように立っている。しかし彼の決死の行動に対し怪物は無慈悲なまでに残酷だ。

 怪物の腕がゆっくり動いてなにかを掴み、男子生徒がじたばた暴れながら宙に浮く。


「うぁッ! あ゛あ゛!!」


 悲痛な叫び声を上げ、血を噴き出しながら首から下がボトリと落ちた。

 こんな間近にいるのに助けられない無力感にうち震える暇もない。次は雪子がやられる、殺されてしまう。

 悲鳴も上げられないほど硬直した彼女の姿がすぐそこに見える。怪物は一颯の存在に気付いていない。

 今なら助けに行ける──!!

 背中に辿り着いた一颯は左から怪物の足に回り込み、ガタガタと震える雪子の腕を掴んだ。


「雪子!」

「いっ、い、いぶきちゃ…」

「走るよ!!」


 大声で言われ少し遠退いていた意識がこちらに戻ったのか、強く頷いた雪子の腕を引いて全力で右の道に逃げる。

 後ろから怪物の足音は聞こえているが、相手はわりと鈍足らしい。疲れた二人でも十分距離を離すことができたが、まだ追われているのは事実、気は抜かず一颯は後ろを振り向かずに走った。

 現在地からなら雪子の家より一颯の家が近い。どっちにせよ家の中に入れば怪物は手を出してこない。ただ標的にされた以上は安全地帯にたどり着くまで逃げなければならない。止まることは許されない、とにかく走るしかなかった。


「雪子、怪我はない!?」

「うん…! でもっみんな…」

「過ぎたことはどうしようもない!雪子は自分のことだけ考えて!」


 「絶対に守るから」。そう言おうとしたが、口はまたもや小さく虚しい悲鳴を漏らす。


 目の前には巨大な怪物。まさか二体目!? と思う間もなく怪物の腕が一颯に迫ってくる。後方に逃げようにも100mもしないところにさっきのがいるのは間違いない。

 挟み撃ちだ。こんな一本道で挟まれたら脇を抜けるしかない。なのに目前に迫った腕で道は阻まれている。

 走ってスピードに乗った身体は吸い込まれるように怪物の手の中に収まって────、


「一颯ちゃん!!」


 一際強い声と同時に、一颯が掴んでいた腕が強引に振りほどかれてもう一つの手で服を掴まれ後ろに引っ張られる。

 体格で勝る一颯も突然の事態に身体がよろめき勢い余って後ろに倒れ、強い衝撃に目をキツく閉じた。

 痛がる暇はない。すぐに目を開き、周囲を見渡す。見えるのは3mを優に越えた怪物の足だけ、どこにも雪子がいない。

 弱く名前を呼んだが返事もない。その代わりに、かちゃんと音を立ててスマートフォンが落ちた。先ほど家で見た雪子のものだ。

 液晶がひび割れたそれを拾い、おそるおそる怪物の上半身を見上げる。


「雪子…?」


 怪物の手には腰から上のなくなった身体。そして汚ならしい咀嚼音。

 食っている、怪物が、なにかを。


 それがなんたるかを理解したくない。

 理解してはいけない。

 人らしくあるためには、それがどんな形をしていたかを思い出してはいけない。


 後ろから迫り来る怪物の影が街灯の光を覆う。

 ひりひりと痛むお尻を気にすることすらできなかった。

 急いで逃げ出す。その場から。雪子の手ではなく、遺品を片手に。


 最早一颯の中に雪子のことは頭になかった。あんな風に死にたくない、それだけが脳にこびりついて命令を下す。もう走れないくらい走ったのに、脳は走れと言ってくる。

 怪物との距離はもう僅か。手が届かないのが奇跡なほどに近い。


 しかし、


「あッ!!」


 曲がり角を曲がった瞬間、疲労でぐらついた身体はそのまま地面に叩きつけられた。


 もうすぐさま起き上がれるほどの体力は残っていない。

 二体の怪物はすぐそこにいる。走れないのに、立ち上がれないのに逃げるのは不可能だ。這いずっていてはとても間に合わない。


 あの時、雪子を見捨てて家に帰っていれば…。その後悔は浮かんでからすぐに消し去った。

 だって彼女は友達を心配して肝試しに参加していたじゃないか。家に帰っていたのだから彼女だって見捨てようと思えばすぐ実行できた。でもそうしなかった。それは大事な友達を想ってだ。

 一颯のことを助けたのだって、彼女は言っていた。"自分にみんなを助けられるならこんな時くらい"と。本当に命をかけて助けてくれた。そんな彼女をけなすことはできない。

 なら、一颯が雪子を助けに行ったことだって間違いじゃない。後悔する必要だってない。


 迫る怪物の姿を見て追想する。


 あぁ、雪子とアドレス交換できなかった。

 来週はもっと璃音や華恋と話したかった。

 今度会ったらお母さんとお父さんにちゃんと話、したかったなぁ。


 空が紅く染まる。

 死ぬ瞬間とは空がこんなに輝くのか。


───あぁ、綺麗。


 星のようだ。




 その時、紅い光が夜を包んだ。







 紅い雷は異形を抉り、鳴き声とも呼べない醜い叫びが木霊して消えていく。


 転んだらしく地面にぺたりと座り込んだ制服の少女を見て、オリオン・ヴィンセントは適当に声をかけた。


「無事かー?」


 返事がない。面倒ではあるが仕方がないので彼女に近寄ることにした。

 少し身を引いた彼女はあからさまに疑心暗鬼だ。素性の知れないオリオンに対して好印象というわけではないらしい。それこそ仕方ない。さっきまであんな化け物に襲われていたのだから多少警戒はするだろう。


「えっと…助けてくれたんだよね…?」


 やはりだ。この二体が狙っていた彼女という獲物を横取りしにきたとでも思ったのか。というかそんな風に見えたのか。


「まぁ、そうだな」


 そう答え、彼女の身に欠損がないことを確認した後、周囲の異形の気配をサーチする。

 今合計四体倒したが、その魔力に吸われたと思われる残り三体も近づいてきているようだ。しかも三体すべてが別の方角から。

 まずは離れて彼女の安全を確保したい。一度丘の上に戻るのが無難だろう。


 だがその前に、オリオンは聞いておきたかった。


「アンタ名前は?」

「えっ? ……月見一颯よ」


 月。

 なにか運命で定められたような錯覚を覚える。いや、まさか、そんなわけがない。月が付く名前なんてこちらの世界にはたくさんあるというのだから、彼女がたまたまそれだっただけに過ぎない。

 …それにしても言いづらい名前だ。オリオンは何度も声に出したが、上手く発音できる気がしなかった。


「じゃあ俺も自己紹介…」


 名乗らせたからには名乗らねばならない。自分の名前を一颯に伝えようとした瞬間、後ろで魔力の反応を感じ取った。

 まだ生きている。しぶとい奴だ。

 剣を握り直し、魔力を込めてブースターのようにして発射する。

 起き上がった異形は見えない速度で心臓を貫く剣に為す術もなく二度目の死を遂げた。


 驚き戸惑う一颯をよそに、オリオンは自己紹介を続けた。


「俺はオリオン・ヴィンセント。今夜限りだけど、よろしくな」


 今夜彼女を守れば、もう二度と会うことはない。

 オリオンは夜の梓塚を守る守護者で一颯はただの一般人だから。もう、会うことはない。




 この夜が、いつも変わらぬ夜であったなら。




これでプロローグは終わりです。

長くなってしまいすみません。完全に分割ミスしました。

まだ仕様に慣れませんが、これからもよろしくお願いします。

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