1-43 夢の終わり
「アクスヴェイン。貴方は、花畑を見たことはありますか?」
突然であるが、アクスヴェイン・フォーリスは不適合者だった。
バルファス王朝時代、王族との関係が友好であった名門貴族"フォーリス家"に生まれた彼は先天的に魔法が扱えない弱者としてカーストの最底辺に落とされたものの、必死に勉学に励み両親に認められ、城勤めを始めた──ただの召使いとしてだが。
彼は今も昔も頭が良く、たかが魔法が使えるか使えないかの差で判断されるのを嫌い、不適合者であろうと国を動かせるという絶対の自信を持っている。
しかし自分が本来就くべきだと思っていた職務の理想とはかけ離れた雑用という立場に置かれ、兵士たちには嘲笑されながら仕事をこなしていく日々が続き、プライドは傷付き精神を磨り減らし、苦悩を抱いてきた。
────彼女と出逢うその日までは。
「まぁ! アクスヴェインさんはなんて勤勉なのかしら! 魔法が使えず学もない私とは比べることさえできません」
部屋を掃除するアクスヴェインに彼女は毎日色々なことを聞いた。
アーテルの都市部を知らない村娘からすれば、貴族という自分より圧倒的に身分の高い存在が従者として目の前にいること自体現実味のない出来事。
最初の内は彼の一族が王にも繋がっていることを恐れていたが、常に誠実に接する彼に胸打たれ心を開き、以降はアクスヴェインと親密な関係を築いていった。
王は二人の関係がただの王妃と召使いのそれでないと感づいていたが、所詮は負け犬の遠吠えだと嘲笑い無視を決め込んだ。
「待っていました、今日は早いですね」
時には彼が自分の邸宅から持ち込んだ紅茶を楽しみ、庭で羽を伸ばし、力強く咲く一輪花を愛でた。
彼女は何者より美しい。
この世のどんなものより純粋で、人の悪意にも負けない心がある。気丈であり、故郷を想う優しささえも兼ね備えた女性に彼は惹かれた。
だから日に日に彼女を暴虐の限りを尽くす王の下から解放したいという気持ちが強くなっていったのだろう。
どんな手段を使ってもいい。二人で逃げ出し、なるべく遠くに行き、花の咲く地にひっそりと暮らそうと伝えようと決めた。
「──ごめんなさい、私は行けません」
彼女は万人のために踏み倒される花になると最初から決めていた。
アクスヴェインと逃げ出せば幸せにはなれるだろう。ただし多くの罪なき人が腹いせに殺され、なにも知らない人を絶望の中に立たせることとなる。自分の存在が王を鎮め、僅かな時間であっても人々に苦しみのない穏やかな生活が約束されているなら喜んでこの身を捧げる────とそう言った。
声が出なかった。
言い分に納得し、頭を下げ、身勝手に彼女だけを案じた己を恥じて後悔した。
代わりに彼女は彼に優しく言葉を紡ぐ。
「貴方は、花畑を見たことはありますか?」
花畑、言葉だけなら誰だって分かる。
広大な大地に数え切れない大輪の花が咲き誇る地上の理想郷。この世界にはない楽園にはそんな夢のような光景が広がっているとも言われている。
アクスヴェインは知らない。都市部の煙臭く傲慢で生きることに精一杯な空気しか知らなかった。しかし彼女は知っている。
生まれ故郷の小さな村には春になると色とりどりの花が咲き、花弁は空を舞い、人々は笑顔で花の祝福を受けて育つ。
「いつか王が心を入れ換え、民に安寧をもたらす善き王へと至ったのなら──花畑に行きたい。その時は、貴方と共に」
彼女──セレーニアはそう告げてアクスヴェインを解任した。
文句一つ言わずに彼は処分を甘んじて受け入れ、辺境に送られた。両親は表向きには王妃に無礼を働いた彼を二度と息子とは呼ばなかったが、それも反乱が起きるまでの話だ。
すべてが終わった後に、彼は一つずつ過ちを犯した。
彼女を殺されたことへの怒り、約束を果たすことも許されなかったことへの怒り、異形などという汚らわしい存在を受け入れた王に対する怒り、そして──声の導き。
「君は彼女を愛しているのだろう? だったら、できるさ。ヒトの感情には力があると言われているが……"愛"は時に奇跡さえも可能にする。君の愛が本物であるなら君は神をも越える奇跡の代行者となり、永遠に彼女と生きていく」
最後の鍵は"心"だった。
強い感情、意思──それこそが死者の魂を肉体へと還す。
アクスヴェインは研究に没頭していく最中、彼女への愛が抑えきれずついには狂ってしまったのかもしれない。
彼がなにを想い、なにを描き続けたのかは結局誰も知らない。分からない。
顛末が描かれる前に彼は終わったのだ。
黒いモノに覆われる空の下、セレーニアを喪った哀しみから逃れ心地よく終末を泳ぎ、薄汚い人間の腸を抉り出すことだけを楽しみに己を神に喰らわせた。
自分を認めない世界、彼女を殺した世界などもうどうでもよかった。
死ぬのは分かっている。代わりに多くを道連れにしたくて子供みたいな感情で動き回っていたのが事実だ。
だが、最後に見たものは忌々しい夜空の星だった。
「────わたし、は……かのじょと、生きたかった……だけ、なのに」
なにもかもが消え失せた草原で、怪異の残骸に埋もれ下半身を失った男は悲痛な本心を口にした。
聖剣が放つ星光は確かに悪魔を砕き、中枢部のアクスヴェインをも切り裂いたはず。今はまだ異形の生存能力が残っているのだろうが、邪悪を退く輝きを受けた者が長くは持たない。
近付いて下手な真似をされた時を考えれば、酸という毒沼の中に一人置き去りにされた彼を見つめる他なかった。
神は彼を救わない。
冥界を支配する白命霊は一人で死んでいく男に浄化を授けず、向かう道は地獄という魂の終わり。
なにがセレーニアと同じ、だ。最後まで清らかだった彼女にはきっと浄化が約束されていただろう。アクスヴェインも、想いだけを秘めていれば同じ道を歩めたはずだった。
「……オリオン?」
か細く生きる男をじっと見ていたが急に動き出し、その手に小さな結晶を握り毒沼を突き進んでいく。
オリオンは小刻みに動こうとする姿は短くもまだ当分は生きていられると判断したらしい。
そうして中心に立ち、見下ろした。
「キ、サマ……なにを……」
「ほらよ、死に損ない。王サマからプレゼントだ」
放り投げられた結晶は小さく光を放ち、小型テレビの液晶のようなものがアクスヴェインの視界には広がった。
魔法結晶。以前、レオンがキャロルに対抗するため用意した秘密兵器。基本無害だが、扱い方によっては国家犯罪者に渡るような危険な魔法を秘めている可能性があるため、取引を禁止されている代物。
よほど古い結晶なのか画面は砂嵐が飛び、劣化しているようだ。
しかしよく見るとドレスに身を包んだ若く美しい女性が映っている。ざわざわとしていても、ぼんやりとしていても彼にはその女性が誰なのかがすぐに理解できた。
「セレー……ニア、さま」
──────アクスヴェイン、聞こえていますか?
私です。セレーニアです。
この魔法は新王が展開してくれています。いつか貴方に見せるためのものです。
あの時は本当にごめんなさい。
貴方を酷いやり方で突き放し、悲しませてしまいました。
許してほしいとは言いませんが、よかったらまた私に色々なお話をしてください。
今アクスヴェインはどこにいるのでしょうか? なにをしているのでしょうか?
貴方はとても理知的なお方です。もしかしたら新しい王様を支える程の役を任されているかもしれませんね。もし本当にそうなっていたら私は嬉しく思います。
私は──残念ながら前王の妻として民を苦しめたということでこれからこの世を去ります。
最期に貴方に会えなかったことは悲しい。でも、きっとこれが正しいのです。貴方は私に会ってはいけない。私は貴方を突き放した時に、もうこの想いを捨てねばならなかった……でもできなかった。
だから会えば私は生きたいと言うでしょうが、他の皆さんを置いて身勝手に逃げ出すことはできません。
もちろん私に未練がないと言えば嘘になります。
アクスヴェインに会いたかった。一緒に、花畑に行き、あの美しい世界で二人で……生きたかった。
──ですが、哀しむことはあっても、誰も恨まないで。
これは私が自分で決めました。檻の中でとはいえ生きる選択がある中で、強要された訳ではなく死を選びました。実はいるんですよ、牢屋に行くって言ってた方。
私は……死ぬことで終わらせたかった、悪が支配した黒き国を。ワガママかもしれないけれど生きて遺物になるくらいならそれが一番スッキリすると思ったの。
だから恨まないで。もう、同じ過ちは繰り返したくない。
貴方は優しい人だから諦めきれずに試行錯誤するかもしれないけど、必要ないの。連鎖する間違いは終わらせないといけない。その辺は私たちで、終わらせます。
────最後にお願いがあります。
もしも貴方が生きている内に生まれ変われたなら、私はまた人間に女の子に産まれて、新しい王様と貴方が変えたアーテルで生きたい。
時が来たら、この国に大きな花畑を用意しておいてください。
そこで私は、貴方と幸せになりたい。
きっとできるって信じています。だって今この国は笑顔の人々がたくさんいると聞きましたから。
…………あ……もう時間みたい。
死ぬ、って言ったらちょっと怖いから、言い方を変えてみましょう。
……そう! 旅に出ます! これでどうでしょうか?
旅立ち、いつかちゃんと自分の足で帰ってくるかもしれないし、貴方とどこかで合流するかもしれません。
でもっおじいちゃんになったアクスヴェインはまだ想像できないわ!
……素敵な世界と大好きな貴方にまた出逢えるように、私は気長に旅先で待とうと思います。
じゃあ行ってきます。またいつか会いましょう。
「──王サマはこれをいつか見せるつもりだった。テメエを信頼してたから、コイツのために一生懸命だって思ってたからずっと隠してた。……なぁ満足かよ。答えてみろよッ!!」
行き場を失って出てきた叫び声は返事がないまま薄れ消えていく。
ゴドウィンは二人が悲恋という運命の糸で繋がれているのを理解し、セレーニアの願いを受け入れメッセージを残させた。アクスヴェインのために彼女だけを解放する特別扱いはできずとも、これくらいなら誰も知らないところに保管しておける。
しかして政治家として舞い戻ったアクスヴェインは華やかな経歴を積み重ね、本当にセレーニアの信じていた未来の彼の姿へと至り、彼の提案で国中に植えた大輪の花が咲いた頃にこのメッセージが埋め込まれた魔法結晶を展開しよう、と大事にとっておいた。
その判断が良いものだったか悪いものだったかはこの半月で出た被害と現在の惨状を見れば明らかなものだ。
王は遅すぎた。15年早く結晶の記憶映像を見せていれば、こんな惨劇は起きずに済んだかもしれない。
同時にアクスヴェインも同じくなにも知らずにいたのなら、あるいは彼女の意思を汲み取ることができるようになっていたなら間近に迫った愛する人の願いを果たせていた。
「あ、ぁ──きみ、の、ねがいを……叶え、て」
今更知ったところでもう取り返しはつかない。
時間を巻き戻そうにもそんな魔法は存在せず、後悔しようにも彼には死のタイムリミットが目前に控えている。
満足か? そんなことは言われるまでもない。
自尊心の往くままに大口を叩きながらなにも成し遂げられず、あまつさえ彼女の願いを知らず踏みにじっていたことを知らされ、やり直したいと望もうにも身体はとうに限界を迎えている状態。
彼の身は地獄に落とされて、もう花畑の約束すらも叶わない。
深い眠りがやって来る。
「まだ、だ」
終わりが見えていようとも関係ない。
最後の最後に判った彼女の願い。どれだけ少なくてもいい、かき集めたかった。
なんにもない灰のような瓦礫の中に彼女を囲うために用意した大量の生花が見えているのか、近付いていこうと両手を伸ばす。
「セレーニア……に……花を、やくそく、を」
ここに花はない。あるのは己自身が犯した過ちの最たる悪意が生んだ化身が吐いた害だけ。
無情にもたった数ミリ進んだ程度で男は力尽き、虚空を掴む手がゆっくりと溶ける海へと沈んでいく。
死に往く身体ではなにも成せないと分かっているのにまだ奔走しようと生にしがみつく姿は憐れみすら覚えるが、後世で彼が赦しを得る日は来ない。
大罪人には相応の罰を、苦痛を以て救済なき最期を────とはいってもそれは死んだ後に言えたこと。もう眠ることさえないのだ、生きている今くらい夢を見せたっていいじゃないか。
二度と出逢えない二人のために、花の約束を遂げさせても罪にはならないはずだ。
風が枯れ葉を拐い、雑音のない草原に取り残された彼らはなにを考えただろう。生き汚く蠢く男をとんだ極悪人だと糾弾する一方で、あまりにも救いようのない不幸な愛と結末に同情している可能性もある。
──その時、ここにいる誰かが願ったのだ。
『最後の夢……か。いいね、悪くない。その願望──楽園の魔術師として確かに叶えよう』
声は何者のものか。
次に静けさをかき消したものは天高く舞う花弁だった。
「これは……?」
瞬間──ぶわりと風が空を包み大地を揺らすと、草と酸と瓦礫が酷い臭いを放ち重なり合っていた地上は瞬く間に花の香りが彩った。
世界は色を変える。
楽園の主が笑い、今際の際の夢を見せようと魔法が持つ奇跡を存分に解き放つ。
数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどたくさんの花が一斉に開き、周辺の景色を次々に塗り替えて咲いたのだ。
瞳に宿った黒い影が消えていくような感覚と共に鮮明に焼き付いたこの光景が、まさにセレーニアが語っていた花畑であるとアクスヴェインが気付くのに時間はかからなかった。
「これが……見たかった。見た……かったんだ、な」
大粒の雫が毒素をも養分に変えた花に落ちて、日の光に照らされいっそう輝きを放つ。
地上の楽園。これが一時の夢であると解っていても彼女が見たかった世界がここにあり、今ようやく知ることができた喜びはどんなものより価値があったと信じたい。
花を植えて、花を植えて、いつの日か花が咲いた時に彼女と出逢えればそれでよかった。
切り取られた花を敷き詰めても彼女が満たされるはずがないと、感じられるこの"生"こそが意味のあることだったのだときっと今なら理解できる。
──セレーニアと同じ場所には行けずとも、ここで生を終えられるならいつまでも彼女の抱いた温もりを感じて永久を受け入れることができるだろう。
さぁ旅が終わる。
旅立った彼女と違う、汚れてしまった魂はいつまでも忘れずに終点に辿り着くのだ。
さようなら、セレーニア。
君が生まれ変わってでも見たかった世界は──私には、こんなにも遠く────。
身体は灰へ。
世界に色と思い出を残し、空の彼方へと消えて物語はひとつ終着を迎えた。
「じゃあな、アクスヴェイン」
*異形・融合体"レヴィアタン"
神話に名を連ねる七つの大罪を孕みし蛇神。
アクスヴェインが取り込んだのは不可視化する前の幼体で、基本的に無害。幼体は小さな黒い蛇の姿をしている。
命の危機に瀕したことで覚醒し超巨大生命体となって暴走するも、最後はオリオンの限定開花によって核が切り離され消滅した。
自己再生能力に優れ、触手を駆使した攻撃や酸の粘液を吐き出す。
海神という性質上、いずれは海に向かおうとしていたらしい。
*セレーニア
バルファス王朝時代の王妃。
都市部に買い物にやって来た際に見初められ無理矢理結婚させられた。
アクスヴェインとは恋仲であったことが示唆されているが、彼の逃避行計画には民のために反対して国に残り、反乱の後に後始末の形で服毒自殺する。
辺境の村の出身で花を愛していた。
*聖剣・エクスカリバー
アーサー王伝説に登場する世界で最も有名とされる聖剣。
彼の死の際に湖へと返還された後、永久にその存在は失われたと云われているが、作中では宵世界に送られ精霊の森の湖に沈められていた。
約20年前にユーサスの手で持ち去られ、幼いオリオンが所持者にされてしまう。
*聖剣解放・黒夜流星
聖剣・エクスカリバーの外装を解除して放つ真の限定開花。
威力の代わりに燃費は信じられないほど悪いため、追想武装を纏った一颯に使うことはできない。