表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ANASTASIA  作者: 桜依 夏樹
Prologue
5/133

0-4 Prologue.4




 夢を見る。


 此処は如何なる世界か。

 其の地には花が踊り、草木が歌い、青空は悠々と広がっている。

 辺り一面を埋め尽くす可憐な模様は赤、黄、ピンクと明るい色が大体を占めていて、目に優しくどこか暖かさを感じた。


 そこにいないはずなのにまっすぐ歩いているような感覚に導かれるまま、少し離れた場所にある屋敷に立ち寄る。

 赤レンガで造られた屋敷は世界史や美術の授業で習う中世の建築様式に似ているが、それとは異なる不思議な構造をしている。


 やはりここは別世界なのだろうか?

 わけも分からないまま立ち尽くしていると、ないはずの背中に視線を感じた。


『やぁ、初めましてお嬢さん』


 いつからそこにいたのか、白いローブを纏った男は岩に腰掛けていた。芳香剤がよく銘打つ自然の香りというのだろうか?男からはそんな香りが漂ってくる。

 彼は誰かに語りかけながら本心の読めない微笑みを浮かべている。では誰に語りかけているのか、無論目の前の()()にだ。


『君の未来はすでに決定した』


 かつて"予言者"と呼ばれた男は静かに彼女へ指差す。


『いいかい? 未来は決まった。でも選択するのは君だ。君の物語を紡ぐのは神や他人じゃない、君なんだから、どうするかは君次第。決められた未来に流れのまま進むのか、信念を持って自らの意志の力で新たに未来を切り開くか。どちらにせよ、僕とひとつ約束してほしい』


 独りよがりに話す男の言葉に、彼女が返事を返すことはできない。男は彼女を見ているが、彼女は男を見ているわけではないから。

 それでも彼女は理解している。これが夢であることも彼が言う言葉も。


『この先、残酷な未来が待ち受けていたとしても目を背けないでほしい。泥まみれでも、傷だらけでも、絶対に揺らがないでほしい。そこにあるのは真実だ。君が君の未来を手にするために必要な代償。それらと向き合い、必ず君が勝ち取るんだ』


 彼女になにが待っているというのか、男はそれだけは言わない。

 しかし彼女は言葉や仕草で返事を返すことはできずとも自身の中に強い肯定感を持つことができた。

 この男は信用できないが、男の言葉は信用できる。と何故か確信を持って思える。もしかしたら男の巧みなマインドコントロールかも、なんて微塵も思えないくらい強い確信だった。


『君はもうじき目を覚ます。起きたら僕のことは忘れて、いつもの君だ』


 朝が近付く。

 薄くぼんやりと光る太陽は夜の終わりを告げていた。


『じゃあね、愛らしい人。またいつかこの楽園で会おう』


 男の声と楽園は途切れて消える。テレビの砂嵐が画面を遮るようにブツブツと音を鳴らしながら。


 男が意味ありげに言った言葉を残すこともなく、彼女は目を覚ます。

 いつものような新しい朝が今日も始まるのだ。


 目覚ましが午前8時のアラームを鳴らしている。





 デジタル時計の機械的なアラーム音が近所迷惑も考えずに容赦なく鳴り響く。


 音を止めようとする手が何度も空を切る。うるさい、静かに。言葉で訴えても停止を自動化されてはいない時計は問答無用で鳴り続け、数十秒後に偶然右手が当たったことで部屋は静けさを取り戻した。

 布団から潜り出た手だけの少女は黙り込んだ時計を睨み付ける。自分で設定しておきながらこいつめ、と憎々しげだ。


 現在は午前8時。いつもの起床時間だが、気だるい体は起き上がることを拒否している。

 原因はとても分かりやすい。若者の特権たる夜更かしを堪能し、ネットサーフィンに明け暮れ、たまたま行き着いた都市伝説サイトで見た都市伝説を試してみようとベッドに入ったのがすでに午前3時30分頃だった。単純に普段より睡眠時間が短く、寝不足なのだ。


 彼女が見つけ、実践していた都市伝説とは『夢の世界』と呼ばれるものだ。幼女向けコンテンツのようなファンシーな通称だが、実際このままの意味らしい。

 まずはベッドサイドに花を用意する、なるべく満開の花を。次になんでもよいので"白い液体"をコップ一杯飲み、空が明るくなる前…つまりは夜明け直前に眠りに就く、すると夜と昼の間にある世界に迷い込み、そこにいる白い男と話ができる。寝ていなければならないという条件から「あれは夢だ」と解釈できたことで、『夢の世界』と呼んでいる。これがサイトにあった都市伝説の内容だ。

 いかにもウワサ、都市伝説といった雰囲気の話だ。創作じみている。

 それでも彼女を惹き付けたのは、事前準備が少なく実践しやすい点と彼女が住む地域特有の都市伝説に通ずる点が多かったからだ。退屈な毎日の刺激になるに違いないと子供のような好奇心が擽られた。

 コメント欄には「やってみたけどダメだった」「創作乙」「主の頭の中がお花畑説」などかなりきつめなコメントが多かったが、世の中には"百聞は一見にしかず"という諺もある。試してみなくては分からない。なんて思いながら実践した。


 結局都市伝説は失敗したらしく、落胆もあって気分はかなり低下気味。思い出すだけで起きるのはますます億劫になっていく。


「やだもぅ…最悪」


 暴言じみたコメントの数々を思い浮かべ、それらを書き込みたくなる心理を理解した。今すぐサイトを見つけ出して「騙された」とコメントしたい気分だ。

 もう一度布団の中に潜り、うめき声を上げながらじたばたと小さく暴れる。

 夢の内容をすべて完全に把握はできないが、目が覚めた時に印象的な部分が鮮明に残る部分もあるはずだ。そこから結論付けられるのは、夢なんて見なかったという事実。


 落ちる気分のせいで睡眠が足りない体はまだ眠ることを選びたがっているが、目覚ましの時間がギリギリに設定されている以上は起きなければならない。

 ベッドから転がり落ちるようにして抜け出し、ゆらめきながらクローゼットの戸を開ける。中にはハンガーにかけられた夏用と冬用の女子制服が姿を見せていた。

 夏用の制服を引っ張って取り出し、オレンジ色の小さなテーブルに向かって投げる。

 着ていた薄いレモン色の可愛らしい寝間着を脱いで丁寧に畳み、他の学校では見たこともないような緑の襟が特徴的な制服を身に付ける。


 ピンク色のタイやワンピースの形をとった夏制服は「可愛い」とは思うが、駅や町中では目立って仕方ない。この辺の…尾野川町周辺に住む人間はあまり気にしていないが、乗り継ぎやらでたまたま見かけた人達がかなりの割合で振り向いてくるほど奇抜だ。

 以前どこかの情報番組の人気の制服特集なんかで紹介された時には学校の周りにカメラやスマホを持った怪しい男たちがいて逃げ帰ったこともあった。

 中学時代の友人たちが「羨ましい」とよく言うが、慣れてしまえば多少地味でも良いと思えるようになってきた。


 しかし朝から学校指定の制服に一々文句を言っても仕方ない。さっさと家を出ないと遅刻ルートにまっしぐらだ。

 寝起きの癖が悪い髪を申し訳程度に整え、机の上に置かれた底が白い透明なコップを持って部屋を出る。


 彼女の名は月見一颯(ツキミイブキ)。ごく普通の、どこにでもいるただの女子高生。高校生活2年目の夏を迎え、年々上がる気温にうんざりしているところも一般人っぽい。

 怪奇現象や都市伝説とは縁遠く、それを非日常に感じて実践したくなる点は彼女を一般人たらしめる最たる証と言えよう。


 部屋を出た先の廊下から階段を降り、すぐ隣のリビングルームに入る。誰もいないことが分かっているので朝の挨拶はしない。

 朝の静寂を内包した空間に人の気配はなく、家族三人が食卓を囲むダイニングテーブルには短い文章が書かれた小さなメモの切れ端と封筒が置かれていた。

 それに対しなにか思いを抱くことなく、作業的に読み上げる。


『仕事で3日間帰れません。忙しいので日曜日の遊園地はまた別の日にしましょう。封筒の中のお金を食費にしてください。無駄遣いしないように。 母』


 女性的でない舌打ちを漏らし、丸めたメモ紙をゴミ箱に叩き込む。


「二人とも嘘つきだ」


 そう吐き捨てて封筒を鷲掴み、棚に置かれたカバンの中に乱暴に仕舞う。


 この一連の動作は一颯と両親の関係を明確に表していた。

 仕事に追われ、と言うより仕事を追いかけ娘を蔑ろにする親。そんな親の在り方を時間をかけて理解して嫌悪する娘。

 いつからであったか、昔はこうではなかったはずだ。 

 小さい頃は色んな行事にも顔を出し、運動会には重箱に一颯の好きなものをいっぱい詰めてやって来た。習い事の発表会も参加していたし、なにかで表彰されれば我が事のように喜んでいた。だがそれも小学校までの話。中学に進学した途端、両親は突然一颯の日常生活に見向きもしなくなった。最低限の会話と必要に応じたお小遣いを渡し、家にいる時間は減り、気付けば一日二日帰ってこないことが当然のようになっていった。

 中学時代は留守番の様子を近くに住む祖母が見に来ていたが、足を悪くした今ではこの広い家に一人取り残されている。

 何度か「たまには家族でゆっくり休まない?」「働き詰めだと身体壊すよ」と言ったが、返事は「今度ね」「今は忙しい時期だから」だ。愛想を尽かして当然だろう。


 今日は祖母の家に帰ろうか、と少し悩みながら自宅を出る。


 尾野川町の朝の雰囲気はとても良い。道を行く中学生や出勤前のサラリーマン、スズメたちのさえずりが日常の風景を描写している。

 梓塚市の中でもベッドタウン的な役割を担うこの尾野川町には産まれた頃から住んでいるが、ご近所トラブルに遭遇したことはない。むしろ皆顔を合わせれば挨拶してくる優しい人ばかりで、両親の暖かみを小さい頃に忘れた一颯にとっては近所の奥様たちや年配の方がよっぽど家族のように感じられる。


「あら一颯ちゃん、おはよう」

「川村さん、おはようございます。ずんだもおはよう」


 一颯に返事をするように犬が鳴き声を発する。

 川村さんは月見家のお隣に住む一人暮らしのおばちゃんだ。毎朝この時間帯に愛犬と外に出て軒先の掃除をしているので、両親がいない日に朝の挨拶を始めに交わす相手だ。

 今年で15歳になるらしい愛犬のずんだは軒先に出てきても運動するわけではなく、日向ぼっこが常だ。とても可愛らしく、幼少期には一緒に散歩もしたことがあった。


「今朝はまた随分としかめっ面ねぇ…なにか嫌なことあった?」

「いやぁちょっと寝不足で…。ごめんなさい、心配させて…」

「そこは気にしなくていいのよ。でも寝不足はダメ! まだ若いんだから、お肌を大事にしないとおばちゃんみたいにカサカサになっちゃうわよ!」

「気を付けます…」


 もっちりと潤った肌のどこがカサカサなのだろうと疑問に思いながら一礼してその場を去る。 

 「いってらっしゃい!」という声がなんだか本当にお母さんみたいだった。昔一緒に遊んでもらった実の娘さんたちはきっと快活な母に見送られ爽やかな朝を過ごしていたのだろう。


 住宅地を抜け、賑わう尾野川駅前に着く。ここからはバス移動だ。

 制服を着た女子と男子の姿がちらほら見える。

 友人同士で時間を共にし、楽しそうに会話している姿を羨ましく思うことはあるが、一人で音楽を聴きながら登校する方が一颯の性には合っていた。


「ねえ知ってる? 松田屋の前の電柱曲がってたんだって」

「え、あそこでしょ? マジで?」

「マジだって。ウチも警察来たし」

「あー…アンタ家近いもんねー」


 バス停で前に並んだ二人の女子高生の会話が耳に入った。

 自宅からは反対の方向にある松田屋は尾野川町では美味しいと評判の弁当屋さんだ。気前の良い豪快な旦那さんと料理の上手い奥さんが毎日手作りで100食ほど作っている。

 話によれば、その松田屋の前の電柱は重いものを叩きつけられたかのような折れ曲がり方をし、そこの塀が砕け、アスファルトはクレーターのように凹んでいたようだ。

 昨日人が出歩いている時間にはそんなことはなかったらしく、人がいない深夜帯に起こったと警察が調べているらしい。

 尤も、深夜帯に目撃者なんているわけないのだが。





 8時38分。始業約20分前の校内は賑わっていた。

 今は部活の朝練、委員会の会議、生徒会の仕事が全て終わって自分のクラスへ移動する時間帯だ。全学年の生徒が蒸し暑い廊下を忙しなく動き回っていた。

 立ち寄った女子のロッカールームは更衣室代わりに使っている籍を置いているだけの似非運動部女子に占拠され、ここは我々が占拠したと言わんばかりの空気が扉の隙間から漏れ出している。

 扉の前で入りたくても入れない状況を迷惑そうにしている女子の群れの中から見知った顔を見つけ、背中を叩いて声をかけた。


「なにしてんの?」

「わっ一颯先輩! 脅かさないでくださいよ~!」


 桜色のロングポニーテールが今日は一段と可愛らしい彼女は白鐘華恋(シロカネカレン)。一颯の一つ下で一年生だ。

 彼女も部活から戻りカバンを取りに来たところ、自分のロッカーの前で集団に屯されて困っていたらしい。一年生という立場が上級生に声をかけることも難しく、トラブルになったらどうしようと悩んでいた。

 周囲の空気の悪化も特に気にせず、一颯は「あっそう」と言ってそそくさと扉を開けて中に入る。

 帰宅部で委員会や生徒会にも縁のなかった一颯にとって上級生との関わりは薄く、華恋や辺りの下級生のの困惑ぶりに同意を得れそうにはなかった。というよりも、上下関係を気にしてはっきりと自分の意見を言い切れないことを理解できなかったのかもしれない。

 一颯が真横を動くことに不快感を覚えて睨み付けてくる上級生を掻い潜り、声だけでかい同級生を尻目に自分のロッカーへ辿り着き、さっさと荷物をまとめて退場する。

 話し声がちらほら聞こえたが、所詮は噂話にかまけたただのミーハーどもだ。最近流行りのアイドルとかどのイケメン俳優がかっこいいとか、興味を惹くような大した内容ではなかった。むしろ毎日毎日よくも話題が尽きないものだと一颯は感心してしまった。

 それより扉を開けて出てきた途端華恋に肩を掴まれたことの方が驚いた。


「せんぱぁい…ものすごーく睨まれてましたけど大丈夫なんですか…?」

「別に気にしなくていいじゃないあんなの。邪魔なら邪魔って言ってやりなさいよ」

「言えたら苦労しませんよぉ!」


 「邪魔なのは屯したまま動きもせず喋る方、こちらは勉強するために学校に通ってるんだから道を開けろ!くらい言ってやんなさい」と捲し立てるように続ける。華恋は若干引いていた。

 キツい言葉に聞こえるがほぼ正論だ、反論の余地はない。…それが言える度胸が一颯以外にもあればの話だが。


 時間もギリギリなのを知ったのか、扉の奥から前も見ずにぞろぞろと女子たちが出てきた。その波が収まるのを待ってから待っていた側が次々とロッカールームに入って授業の準備を始めた。

 すぐそこにある一年のロッカーから自分の教科書を持ち出した華恋と共に教室へと急ぐ。


「今日みたいなのに限らず、なにかあったら呼びなさいよ。懲らしめてやるから」

「一颯先輩の懲らしめるって穏便に済むんですよね?」

「それは相手の態度次第でしょ」


 まだ一年目の夏なのに何故か華恋の周りはトラブルが絶えなかった。

 二人の付き合いは中学時代からだが、中学では持ち前の明るさと愛らしさで男子にモテることはあれどトラブルに巻き込まれていたことは一颯の記憶にはなかったはずだ。

 しかしこうして高校に入学してきてからは女子の上級生に目をつけられているらしく、因縁を付けられたりしている姿がよく見られた。そのせいで中学上がり以外の友達も上手く出来ず、梅雨前までは一颯が華恋と付き添うになることが多かった。

 校内では友達が少ない、もとい作らない一颯は目付きも良くないし授業も寝ていたりするし話を振れば「ふーん」で終わるとかなり孤立した存在だったのでボディガードとしては結構効果はあったらしい。

 ある日を境にそんな案件の頻度は減ったが、今日のように上級生の溜まり場にはあまり入りたくないと本人は言っている。

 どういう経緯があったのかは不明だがかわいそうな話だ。


「今日は部活?」

「はい、弓道部にお邪魔します」

「なんだってあんな地味な部に…」

「いいじゃないですか。素敵ですよ、弓道部」


 華恋は陸上部だが、練習がない日は弓道部にいることが多い。

 その理由は聞いたことはないが聞けばさっきのような返事が返ってくる。つくづく不思議ちゃんだ。


「一颯先輩は部活しないんですか?」

「興味ないし」

「ですよねー…」

「仮入部とかもダルくてサボったし今更ね…」


 一部に興味は持てど中学時代も部活に入ったことはない。

 先ほども彼女は言ったが、学校は勉強する場所だ。最低限それを果たせれば細かいことに参加する必要性はないと思っている。…授業中寝ていることもあるが。


 廊下を抜け、西側の階段を登りながら華恋の部活の話を更に聞いていた。

 部活に興味はないが華恋の話は好きだ。

 この前の練習はどれが大変だった、昨日はこれを頑張った、今日の朝練では一番速かった等々、誇らしげに語る彼女の姿を見ていると今朝の荒んだ心も癒された気がした。


「一颯先輩、今度弓道部見に来ませんか?」

「えっ!?」

「見学してるのは私も同じですし、ちゃんと許可もらいますから!」

「話がだいぶ飛躍したわね…!?」


 突然の振りが一颯の思考力を一瞬でかっさらう。

 興味を持っていない生徒が入部希望でもないのに見学などしていいはずがない。華恋の誘いではあるが結構無理がある。

 ちゃんとNOで返事をしようと二歩ほど後ろを歩いていた華恋の方を振り返った瞬間、


ドンッ


と、誰かとぶつかる音がした。


「あっ」


 不運な事故だ。相手の体格が良かったのかそれとも走っていたのか、はね返された一颯の体が後方に倒れる。

 真っ青な顔をした華恋の表情がスローに見えた。

 片足が宙に浮いた体は重力に逆らわず、ごく自然な流れで十段ほどの階段の一番上から下に落ちて━━━。


「先輩!!」


 グッと正面の誰かに腕を力強く引っ張られ、階段の縁に残った右足と浮いた左足に力が戻る。

 助かった、と思い顔を上げた瞬間に正面の彼に気付いた。


「すまん、前を見てなかった」


 俗に言う"イケメン"とは彼を指すに違いない。青いメッシュが入った短い黒髪は色白の肌と見事にマッチし、猛禽類を彷彿とさせる金色の鋭い瞳は彼の表情と裏腹に煌々と輝きを湛えている現実の人と思えないほどに整った顔立ちの男子生徒がそこにはいた。

 彼は黒弓璃音(クロユミリオン)。先述の端麗な容姿に加え、ばか騒ぎするわけでもなくどんな時も大人しく裏になにかを隠しているようなミステリアスな雰囲気は、学校中の女子がターゲットする理想の男子だ。

 今の状況も、普通の女子なら羨むほど素敵なんだろう。場所が学校の階段でなければシチュエーションは完璧に王子様との運命の出逢い。

 …ただ実際この状況に置かれている本人はそんな風には全く思えていないわけだが。


「え…えっ?」

「無事か」

「……だ、大事ないです」


 一颯は突然のことに動揺しきっているが璃音は特に表情も変えず掴んだ腕を引っ張り、彼女の両足はしっかり床に着く。

 何事もなかった、いや今この瞬間という名の大事があるのが階段から落ちて大事故なんていう悲劇は起きなかった。

 しかし周囲の気配は一颯へ妬むような視線を送っている。さっさと手を離してもらった方がいいだろう。


「あの…離してもらっていいですか」

「そうだな。…すまなかった」


 少女とはいえ一颯の背丈や体格は良い方だ。落下していくのを片手で止めて元の位置に戻すなんて並みの人間では難しい。そういった計り知れない部分も女たちが彼に惹かれる要因なのだろうか。

 素敵だとか、かっこいいとか、助けてもらった側ではあるが一颯にはイマイチ解らなかった。


 一度俯くように頭を下げた璃音は少しだけ横を向き、一颯の隣の華恋に話しかける。


「華恋、今日はどうする」

「もちろん璃音のかっこいいトコ見に行きますよ」

「そうか」


 華恋と話し始めた途端、堅苦しい表情だった彼が少し笑った気がする。

 二人は所謂"お隣さん"らしい。彼が梓塚に越してきてから毎日のように顔を合わせていたからか、態度は少々軟化…どころか人目も憚らずイチャイチャしているように見える。


「じゃあまた放課後。頑張れよ」

「はーい! 璃音も頑張ってくださいね!」


 呆気にとられている間も二人は短く会話を続け、軽く手を振って璃音は階下に消えていった。


「…アンタら、どういう関係…? 絶対お隣ってだけじゃないわよね?」

「ふふっヒミツです」

「なによそれー!」


 他愛ない会話の中に混じってチャイムの音が鳴る。

 それを聞いた二人はしまった!という顔で足早に教室へ向かう。上の階に教室がある一颯は特に全力疾走だ。


 この後に分かったが、その鐘の音は始業5分前を告げるものだった。



 時計は午前9時のチャイムを鳴らした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ