間章.3 イリヤ・レヴィナスの写本
────昔々、とある大きな山の麓に小さな村がありました。
村は平和そのものを体現したような穏やかな日々が送り、その年の畑が不作だろうと近所で喧嘩しようと住民たちはとても仲が良かったらしい。……たった一人の少年を除いて。
異様な白い髪、不気味なまでに紅い瞳、透き通って臓器が見えてしまいそうなくらい白い肌──女性と見紛うほどに艶やかで儚い少年は、所謂白化現象と呼ばれる個体だった。
当時の村は他の領域に比べて文明レベルが数十歩遅れていたのもあり、少年を美しいモノや庇護すべきモノではなく恐ろしいモノとして認識した。両親は彼が5歳になる頃、息子の容姿と村八分に怯えて育児を放棄し、村を出たそうだ。
少年もいつの日からか「自分は存在すべきではなかった」と思うようになり、その時期から彼には不思議な能力が備わった。
────虚空魔眼、イマジナリィゼロ。存在するモノに対し存在しないと否定し、この世から消滅させる眼だ。名前は後から付いたので、この時にはまだ"魔法の眼"としか認識していなかった。
何故魔眼の存在に気付いたかと言えば、村外れにある家からすぐにある木陰で野うさぎを撫でていた時、偶然通りがかった村の子供たちが大人を真似るように少年に暴言を投げ掛け、野うさぎに石を投げたからだ。怒りに震えた少年は「あんなやついなければいい」とリーダー格と思われる子供睨み付け、初めて魔眼を発動した。
文字通りこの世から消滅したリーダー格の子供は村長の息子だった。子供たちが必死に事の流れを説明したが、そもそも死体はなく、なにが起きたかもまるで分からない。
結局、特に誰が悪いと特定したわけではないのに村人はこの異物めいた少年の存在を更に畏れた。
少年が15歳になるくらいに、村は今までで一番の凶作の年を迎えた。村に住む100人にも満たない住民に行き渡るどころか、畑のある家庭だけでも足りず、分け与えることもできないほどの悲惨さに村人はついに決意する。
「君がいると村が不幸になる」
それだけ告げられた少年は少ない荷物をまとめて村を出た。
彼には知り得ない事柄だが、村は次の年から豊作の期を迎え、まさに幸福になったそうだ。
数年経つと、少年の存在はある地域では知らない者がいないほど有名になった。
魔眼を宿す不気味な白い男。人々は彼を"虚空の魔剣士"と呼ぶようになり、街を歩く無気力な彼をちらりと見てはざわついた。
その頃の少年の目的は、月に至ることだったらしい。
月には欲望を司る原初の女神がいて、どんな願いも叶える万能の力を持ち、あらゆる事象を見守っている──なんて、ありえない迷信だと誰もが思っている中、彼はひたすらに月を目指した。理由は誰も知らない。女神に会えればなにかが変わると思ったのだろう、と皆そう解釈していた。
数ヵ月後、街に彼は現れなくなった。きっと月に向かう方法が判ったのだ、と住民は彼のことを次第に忘れていった。
そして、真っ赤な月から災厄が訪れた。
降り注いだ災厄の種は世界中に根を張り、人々は生存競争のために争いを始めた。理由があるとすれば、生き残りたいからだ。
一方で一体どうしてこんなことになったのかと世界の終末に嘆き悲しむ人々の前に、彼はやってきた。
白い髪は黒く染まり、紅い瞳は穏やかな深緑の目に、それでも彼を知っていた者はその正体に気付くことができた。
──彼は月に至り、女神に出会うことで己を疎んじた世界へ復讐を遂げたのだ。
それから世界と生き物を楽しげに弄んだ彼はまさに魔王のようだったと云う。
初めは生存のために争っていた人々も、いつしか争う目的を忘れ、数百年の歳月の中で徐々に数を減らしていった。その様は本当に世界の終わりを意味し、戦争以外にも彼へ信仰を寄せる邪教の誕生やたかがパンの奪い合いにまで人間たちは翻弄された。
全ては復讐に身を焦がした魔剣士の仕業。それを最も理解していたのは、もしかしたら彼本人だったのかもしれない。
ある日世界はぷつりと呆気なく終わりを迎えた。
粒子となって光に溶ける世界には、月から"歌"が降り注ぎ、その時だけは本来あるべき穏やかな心と安らぎが確かに存在していた。
──世界が終わるということは、少年の人生の終わりも示している。
女神の腕の中で事切れた白い彼が、結局のところなにを望み、月に至ったのか、それは誰にも分からない。もしも彼以外が知っているとすれば、きっと彼を抱いて眠りについた淡雪のような月の女神──アナスタシアだけだろう。
終わった世界は神々によってやり直され、二度と彼のような人間を産まれぬよう、まず魔法文明と機械文明を完全に分けた。これによって二つの世界が産まれ、女神と少年も出会うことがないように呪いをかけられて、そうして新たな世界は始まった。
────これが、原罪者イリヤ・レヴィナスの物語の断片である。
◇
「おしまい」
そう言った女は静かに本を閉じる。
分厚いそれのタイトルは和訳すると「イリヤ・レヴィナスの写本」。宵世界ではメジャーなおとぎ話の一つだ。
内容の解りやすいようで異常な難解さから子供向けとは到底言えず、大人ですら結末に対しては解釈が分かれる作品で、研究者まで現れる始末なのだからこちらの世界とは分からないものである。
「私は、彼が意図的に世界を滅ぼしたわけではないと思います」
女の持論はこうだ。
イリヤは確かに月に至った。女神にも出会い、きっと当初の目的は果たしただろう。ところが女神の欲望を司る概念の部分が彼の知らないところにあった負の感情を呼び覚まし、自身の復讐心を止められなかった結果が世界の崩壊に繋がったのだ、と。
「……ですが、それこそが彼の弱さだ」
感情の暴走を止められず、心が赴くままに災厄を注いだことは彼の心が弱かったから起きたこと。他者から疎まれることを理解していたなら、その感情自体を自制できていたはずだと無理難題を女はベラベラと語った。
それと同時に、ある一言も付け加える。
──夢魔も同じだ、と。
己の本能を愛だと認識し偽って、知らない相手に押し付け欲望を満たす。彼らという種族は度しがたい悪にして救いようのない魂だ。
「貴方もそうは思いませんか」
厳しいながらもどこか母性を孕んだ口調で語りかける女の目線の先、本来の用途で使用するには少々大きすぎる鳥籠がひとつ。人が一人入るならちょうどいいサイズのそれにかけられた滑らかなシルクのカーテンの奥には、黒いフィッシュテールドレスに身を包んだ少女の姿がたしかに在る。
鳥籠に広がる柔らかな寝台のシーツを握っている少女は、短めの明るいワインレッドの髪がゆらゆらと視界に映り込んで目障りだと感じながらも少しだけ振り返って女の問いに答えた。
「──わからない、です」
少女、もとい月見一颯は返事を曖昧に返して女の方を向くために姿勢を正す。
立ち上がろうにも頭をぶつけそうになる天井の低さに戸惑い、狭苦しさで息も詰まってしまう気がした。
オリオンを救出するべくアーテル王城に突入し無事に助けたのも束の間、鎧姿の女騎士の手で致命的な一撃を貰って彼と離れ離れになった一颯は、おかしなことにその女騎士に命を助けられ、一応生きてはいる。代わりに自由を奪われて、いつの間にか着せ変えられていたが。
手元にあったはずの追想結晶も恐らく没収されたのだろう、今の一颯は微量な魔力しか放出されていない無力な明世界の人間だ。
「分からない、というのはおかしくはありませんか? 貴方なら夢魔がどんな生物か、よく知っていると私は思ったのですが」
「……少なくともオリオンは、そういう子じゃないわ」
一颯が知るオリオン・ヴィンセントの人物像は彼女が言うイリヤという人物や夢魔の特徴とは違い、あまりにも人間らしさに溢れたものだった。
食欲旺盛なくせに玉ねぎが大嫌いで、昼夜逆転した生活なのに寝ることが好きで、子供みたいに動き回るのが楽しみで、文句を垂れながらも毎日を笑顔で過ごす彼。確かに欲望には忠実かもしれない、しかしそれは人間なら持っていて当たり前の欲であって、夢魔特有の性欲に通ずるものではないし世界をどうこうしたいと思う復讐心から来るものですらない。
だから一颯は知らないのだ。夢魔の本質など、流れる血が異質だとしても純粋すぎるオリオンと一緒に過ごした彼女には全く理解の外の問題だった。
「そう、貴方は知らないのか……なら、よかった」
「は……はい?」
反論するかと思いきや、女は息を吸い込んで少し間を置いてから安堵の声を上げた。
「貴方が夢魔の薄汚れた悪意を知らないなら、私は間に合った、ということです。本当によかった」
「え、あ、あ、待ってください! なにを言ってるかさっぱりわからな…………」
そこまで言ってから一颯は思い出した。夢魔とはどんな本能を持つ生物だったのかを、目の前の騎士の性別が──女性であることを。
一颯の予想が正しければ、女騎士は妊婦の経験があり、同時に出産の経験もある。
もしかして、の領域を出ない予想を述べるために恐る恐る口を開き、一颯は女に短くこう言った。
────貴方は夢魔の子を産んだのか、と。
言葉を噛み締めるように聞いた女は無言のまま鳥籠に近づき、一颯と同じ目線になるために膝を折る。
不安げな眼差しの彼女に手を伸ばし、頭を撫でながら女は話を始めた。
「私の名はシャムシエラ。貴方の言う通り、夢魔を産んだ女だ」
女──シャムシエラ・フィオレ・エレリシャスは一角の戦士でありながら、長らく待ち望んでいた婚約者の子を孕んだことを歓び、妹や愛する人と分かち合った。
ところが産まれてきたのは耳が異様に長くシャムシエラとも婚約者とも似ていない誰の子かも分からない夢魔の男児。
まず浮気を疑われ婚約は完全に破談、夢魔などという穢れた悪魔の子を産んだせいで怒り狂った両親からは領地からの追放を言い渡され、別の家に嫁いだ妹には明らかな憐れみの言葉までかけられた。
追放されてからのシャムシエラは自らの息子を殺さず生かし、世話をしながら旅をした。何故か──無論、子供の父親を殺すためだ。
父親はすぐに見つかった。彼は心を理解できない獣のクセに、シャムシエラを愛していたためずっと陰から見守っていたらしい。
言い訳のような愛の言葉を並べる彼に激怒して、目の前で子供を殺そうとしたが、夢魔の男は幼子を抱いて逃げ出した。その後も結局は致命傷を与えることができず彼とは二度と会うことはなかった。
「私はその時からあの夢魔の姿を探し、10年前にあの男と出会った」
「アクスヴェインって人……?」
「そうです。私と同じく、夢魔を憎み嫌うアイツに協力しないという選択肢は当時の私にはなかった。故に手を組み、今に至るまで憎むべき敵を探し、……ようやく見つけた」
あの場で剣をぶつけ合った彼は、憎悪の対象たる夢魔の青年で、皮肉にもかつての自分と同じ立場に立っている異形の存在。
そしてなによりも、運命と言わざるを得ない関係で結ばれているいつかの幼子だった。
「じゃあ貴方の子供っていうのははまさか──!!」
声を荒らげた一颯を制すシャムシエラは先程消した分厚い本を再び取り出し、最後の項目を開いて指差した。
「イリヤの、因子?」
「貴方はこちらの世界の住民ではないから知りませんね。教えてあげます」
イリヤ・レヴィナスはかつて実在した。滅びたという世界も存在した。
二つに分かれた世界──つまり宵世界と明世界には神々にも対処できない問題がある。それがイリヤの転生だった。月に到達したからなのか、宇宙の理に存在を刻み付けてしまったイリヤ・レヴィナスはどんな形であれ、名前を姿を人種を時代を変えて必ずどこかに現れる。彼が産まれるのは約500年周期だと研究者たちは推測しているらしいが、実際何人の彼が産まれて死んだかは誰にも分からない。
──が、前回のイリヤは自らの能力を幼い頃に発現して明確に存在が明らかになったそうだ。
この書籍の執筆者はそんな彼らを総じて"イリヤの因子"と呼称し、それが研究者たちに広まっていった。
「オリオンとこれに、なにか関係があるの……?」
「もちろんです」
イリヤの因子には男性、虚空魔眼の他にも二つの特徴がある。それは世界を壊すイリヤ・レヴィナスになる可能性と、神々が授けた贈り物──短命だ。
「知っていますか?」
「なにを……」
「研究者は皆、今世のイリヤの因子は彼だと噂していること」
オリオンが、遥か彼方の大昔に世界を滅ぼしたイリヤの因子────なにを言っているのか分からないまま話を聞いていた一颯は、その特徴を指折りながらリピートし、否定すらままならないほどに呆然とした。
短命、たった一言だけなのに受け入れがたく耳にこびりつく言葉。
「実力は大したことありませんが、たしかにあの剣はそういうことですね。……特徴とやら、前回は逃げられましたが今度こそは試してみましょうか」
シャムシエラはそれだけ告げて、鳥籠だけが鎮座した大きな広間の扉の外へと消えた。
たった一人、真っ暗闇に一颯を残して。
イリヤの因子などただのおとぎ話だと割り切ろうと必死になるが、"短命"の二文字とシャムシエラの恐るべき"剣"を思い出すとやけにリアルな現実味を感じずにはいられない。
となると一颯にやれることは、彼がここに現れないことを祈るくらいだ。オリオンが来なければシャムシエラはとりあえず急いて彼に殺意を向けることはない、むしろ今は待ちの姿勢を見せていたようにも見える。
もう一つは、なんらかの方法で脱走し追想結晶を取り返してシャムシエラを倒す──正直言って一颯には到底敵わない相手だが。
遠くで輝く月を望み、少し前に出会った時と同じ夜の薄暗さに再会を望みながらも立ちはだかった新たな壁が邪魔をする。シャムシエラとアクスヴェインがいる限り、彼も一颯も前へは進めない。
だとしても、やるしかない。
彼女は一度決めたからには絶対に目的を果たす。諦めたりはいない。
「……オリオンは、絶対に死なせないから」
決意を新たに、誰もにとって長い長い一日がこの時ようやく終わりを告げた。
*イリヤの因子
前世界を滅ぼしたイリヤ・レヴィナスの転生体を指す総称。
世界を動かせる力と虚空魔眼の可能性を持ち、500年周期で誕生する。過去に現れた因子はいずれも短命の男性らしい。