1-27 再会 3
森聖領域ヴェールを擁する広大な森の中にはかつて聖剣が沈められていたとされる湖がある。
昼はヴェール都市部をこっそり抜け出した精霊達が憩いの場として集まり、夜は月影に隠され誰の目に触れられることなくそこにあるだけの静寂に包まれた湖は、20年前に何者かが沈められた剣を持ち去ったことで水底で揺らめく不思議な輝きこそ失われてしまったが、元よりあった神秘性は絶えることなく聖なる魔力が満ち溢れている。
太陽が完全に落ちきり、欠けた月が藍色の空を煌々と照らす深緑の隙間で彼らは羽を休めていた。
オリオンは精霊種の異形とは異なる人に害を及ぼす種の存在なので湖の神聖な魔力とは相反するはずなのだが、元々ここに沈んでいた剣を所有しているおかげなのか森の中に溢れた大気中のマナを取り込んでも大したことはなく、むしろ現在は回復がとても捗っている。
────というのも、城からの脱出後も体力がないクセに火事場の馬鹿力でひたすら暴れた彼にそろそろキレたリオンがアルブスに一時退却する予定を変更して精霊の森に立ち寄り、頭を冷やせと言わんばかりに湖に叩き込んだら先ほどの事実が発覚したのだ。
冷水を被ったおかげかオリオン自身も少しずつ冷静さを取り戻し、今は水辺に座ってすっかりおとなしくなっている。結果的にはこの判断が正しかったらしい。
《オリオンくんが無事だったのはよかったよ。でも一颯ちゃんについては僕の判断ミスだ、本当にすまない》
「気にするな。この程度で済んだならまだ想定の範囲内だ」
《ははっ心強いなぁ……》
そんな君も実は内心焦ってるんじゃないか、とはさすがのシキも言えない。
事実リオンとしては失敗が許されないと言っておいて成功とも失敗とも言い難い結果が残り、空の上から眺めている七の意思がなにを考えているか想像するだけで気が滅入っていた。なんなら現在進行形で現実逃避中と思われるオリオンに便乗したいくらいだ。
《彼の回復が見込めてるのは分かったけど、朝までには一度戻ってきてね。僕だって召喚しっぱなしで疲れてるんだから》
「あぁ」
《──そうだ、もう一つ聞き忘れた》
「なんだ」
《キャロルは見当たらなかったかな》
一颯がオリオンのところへ向かっていた間、リオンは敵勢力と交戦しながら地下に降り、ヴェールの女王アルメリアや融合体の素体として捕らえられていた子供たちをあらかじめシキが用意していた転移系空間魔法の術式で安全な地域まで避難させていた。
現在の彼らはアルブス王国の都市部から少し離れたとある町で保護され、アルメリアとアルブス軍の医師団による怪我の治癒や不衛生が原因の病の快復、精神のケアなどが行われているはずだ。
「……いいや、残念だが」
例の襲撃事件以降行方不明になっているキャロルも捕らえられていて発見できたなら保護の対象であったが、牢屋エリアを隅々まで探しても彼の姿を見つけることはできなかった。
もしや時すでに遅し──かと思いきやそもそも彼がいたという痕跡すら見当たらず、たまたま一人で襲いかかってきた兵士を尋問したところ「そんなヤツ牢屋にはいない」と命だけは助けてくれと訴える眼差しで断言されてしまったため、嘘ではないことも判っている。
なら彼は一体どこなのか。それこそ間に合わず、すでに死んでいてどこかに投げ捨てられてしまったのか。はたまた異形・融合体の実験に使われたか。
なんにせよ彼の象徴とも言える"蒼剣"すら見つからないのは逆に不自然だ。もっと注意深く牢屋以外にも様々な箇所を見回るべきだったとリオンの反省の色は濃い。
《そっか……わかったよ。じゃあ、気を付けて》
堪えるような声色を最後にシキの念話は途絶えた。
──彼女がキャロルにどんな感情を抱いているのかは彼の知るところではない。
それでもうっすらとなんとなく分かるのは、リオンが華恋に対して想う心に近いものであるということだ。アルブスの双璧としての相棒意識ではなく、互いを深く想い合えるパートナーだからこそ現状の彼の所在を心配し、口や態度に出さずとも胸を痛ませているのだろう。
他人にシキ・ディートリヒという女を完璧に捉えさせないスタンスを崩すこと自体が自分で許せない彼女は、どうしても人前で泣いたり不安がったりすることはない。
そんな在り方がリオンの心境を複雑にさせる。──これでよかったのかと。
「それで……お前はいつまで不貞腐れてるつもりだ」
「うっせえ誰のせいでびしょ濡れだと思ってんだよ」
「あーはいはい俺が悪かった」
「心が込もってねえ……まぁいいけど」
あからさまな棒読みに眉を顰め、水面がばしゃりと跳ねるほど蹴り上げたオリオンは確かに不機嫌だ。
様々な要因が絡まった結果起きたことだ、仕方ない──では片付けられないほどの事態に、苛立ちを隠す気がないらしい。
あまり女性との接点を望まない彼がいまだかつてここまで一個人の少女に入れ込んだことがないのはリオンもよく知っている。彼女との接点の多くは運命的な成り行きでもあっただろうが、性格に反して意外にもドライな彼がたかがその程度に感情的になりすぎているのは珍しい。
かわいそうだがブリュンヒルデが彼の女性に厳しい性格を表す最たる例だ。
彼女が好意を寄せているのは明白なのに彼は種族的な相性の悪さを理由に逃げている。その光景はお馴染みの域を越え、ブサイクならともかく絶世の美少女なんだから少しは応えてあげてもいいんじゃないかと誰もが思う。
ではそこまで辛辣な彼が一颯に向けているのはどのレベルの感情なのか。こればかりはオリオン本人にしか分からない上、下手に「一颯が好きなのか」と聞いたらぶん殴られること必至だが少し気になる。
一方、オリオンにはもっと重要で聞かねばならないことがあった。
「お前、あの時なにが視えたんだよ」
「──なにも」
「は……?」
扉に手をかけたオリオンを止めてまで城からの脱出を選んだ理由。
てっきり物見の心眼が扉を開いた後の未来を映したのだと思い、無理矢理自分を納得させていたオリオンからすれば「なにも」なんていう返事は想定外の域を外れた更なる想定外だ。
「なにも視ていない。代わりに扉の先から母上に似た魔力の流れを感じた」
「ちょっと待て、なに言ってんのかさっぱりだ。未来が視えたから逃げたんじゃねえのかよ」
「全く違う」
リオンの主張は、状況はシキから聞いていて到着の際も非戦闘時だったので未来視をする必要がなく、扉の奥になにが待ち構えているのかは魔力を感知しただけでよく分かったため、オリオンの魔力不足も鑑みて一度体勢を立て直す必要があったから────とのことだ。
加えてその魔力がリオンの母──つまるところカエルレウム連合公国の御三家に連なる血筋の者と似通っているのだから彼は警戒せざるを得なかった。
彼の母の名はライラ。エルシオンが妻に迎え、ファレルに嫁いできた同じ御三家ことエレリシャス家の次女だ。
次女、ということは長女がいるわけだが、彼女は家を継いで新たな当主となるため日々奮闘している────なんて事実はない。
長女は約20年前に禁忌を犯し追放されたのだ。
今年で18歳になるリオンは詳しい事情を知らないが、彼女から産まれた赤子がエレリシャス家で定義される"悪魔の子"だったというのをライラが語っていた。
当時の婚約者からは破談を言い渡され、怒り狂った両親から領地を追い出された姉に「古い風習を気にする必要はない。一緒にファレルの領地でその子を育てよう」と言ったが、両親から教えを強く刷り込まれた彼女が聞く耳を持つことはなかったそうだ。
そうして島国から姿を消した彼女は、誰かと見違えることのない特徴を一つだけ有していた。
「──それが魔剣・アロンダイトという巨大な剣だったらしい」
「遺装……か」
シキから聞いた女の剣と母に似た魔力の流れを追放された長女と照らし合わせれば、緊迫した状況でも瞬時にその人物の正体が割り出せた。
身の丈に合わない魔剣を振るい、一国の主になる血筋に生まれた女の名。
それは────。
「シャムシエラ・フィオレ・エレリシャス、カエルレウムの元剣士だ」
「剣士!?」
「あぁ、人類で敵う者はいないと母上は言っていた」
「な、なんじゃそりゃ……」
一颯の魔法が効かなかった理由は御三家が有する"異端殺し"の中で、エレリシャスの血を流す者のみに発揮される"対異血脈"と呼ばれる魔法抵抗力の延長能力だ。
能力の詳細は異形の魔力を帯びた攻撃を無効化するという極めてシンプルなもの。一颯は異形ではなく逆に異形の不浄を焼く陽魔力だが、身に付けた追想武装が半夢魔マーリンのものだったのが原因だと推測される。
余談だがエレリシャス家出身のライラから産まれたリオンは何故かこの能力は備わっていないのに、弟はしっかり発現しているらしい。しかし今や母もこの世にはおらず、その理由を問い質すことはできない。
「まず勝てる見込みはない。次に突入するなら絶対に接触は避けるべきだ」
「……魔法が通らねえとなるとやっぱり剣か。でもアレ相手で接近戦はキツいし、限定開花は効くかな……うーん……」
「おい」
「なんだよ。今考え事してんだから話しかけんなよな」
「いや、そうじゃない」
オリオンの独り言を彼が聞き間違えていないとすれば、その内容には人の話聞いてんのかと軽くどやしてしまいそうな言葉の数々が並べられていた気がする。
「お前まさかシャムシエラと……」
「おう!! やられた分はしっかり返してやんねえとな!!」
「……よもやそこまでの阿呆とは思わなかった」
「ひでえな!?」
リオンは頭を抱えた。本当に人の話を聞いていないなんて……と。
シャムシエラという剣士の強さは一合撃ち合った時に気付いたはず。彼とてアーテル国王に選ばれた手練れの剣士、それくらいは分かって当然だ。
自分が敵わないのも最初の段階で理解したからあの扉の前で尻込みしていたんじゃないか。
まさかこの湖に酒と同じ成分が含まれていて、冷静になったような全く冷静になってないような酔っぱらいになり「これ俺でも勝てるんじゃね?」と普通そうはならないだろという頭のおかしな思考に陥ったのか。
────否、オリオンは酔っていなければおかしくもなっていない。精神状態もいたってまともだ。
本来の目的はアクスヴェインの野望を止め、彼を討ち平和を勝ち取ること。異形・融合体などという人の在り方を外れた怪物を直ちに全滅させ、民の心の安心を取り戻す。それらは全て忘れていない。
だとしても彼には許せない事がある。
別世界で平穏に生きる一颯を巻き込み、諸悪の根源が根城にしているであろうあの場に置き去りにしてしまったことを。
更に言えば最初の一合でシャムシエラに勝っていればこうはならなかったのだ。現役剣士としての屈辱もさることながら、伴った代償が重すぎる。
だから次があるなら絶対に勝つ。主目的が別でもそれだけは譲れない。
「正体が割れたんだから次は負けねえよ、大丈夫大丈夫」
とは言ったものの、顔を見合わせて話さない彼の水面に映る表情に先程と同じ笑顔はなく、どことなく自信がない。
リオンに向けて言った「大丈夫」も、まるで自分に言い聞かせている様子だった。
こうなるともう彼は止められない。次は力ずくの制止を振り切ってでもシャムシエラとの一戦に臨むだろう。
「……分かった。言っておくが俺は手助けしないぞ」
「むしろ手出しすんなっての。──ありがとな、リオン」
「それは終わってから────」
言い終わる直前で何者かの気配を感じ取った二人がその場から即座に退避する。
瞬間、木々の隙間を縫うように駆け抜ける魔力の反応が、熱波となって草木を燃やし、水辺を蒸発させんと更に炎が投下された。
「来やがった!!」
「おい、はしゃぐな」
フィールドが森の中であることを理解していないらしいアクスヴェインが差し向けた追っ手はひたすら火焔の魔法を放ち続ける。それしか使えないのかと思うほど。
正直すでに臨戦態勢の二人にはそんな炎がまるで効いていない。──が、それを差し置いてもあまりに熱すぎる火柱にオリオンは見覚えがあった。
──いいや、これは魔法じゃない。
自分の中に確信を得た彼は炎が飛んでくる方向に向かって、リオンを置いて全速力で駆け出した。
「待て──っ!!」
ところがオリオンを追うため一歩踏み出したリオンは更なる第三者が放ったであろう三本の剣に阻まれ、その足を止めた。
そのことを知らないオリオンは燃え盛る爆炎の一撃をひとつずつ回避し、時には防御も交えながら止まることなく進行を続ける。
こんなちゃちで倒し甲斐のない熱風を纏わせた男など彼が知る中では一人しかいない。
真っ暗闇を裂く灯火を頼りに本命を探し、彼は無人の廃墟と化した森聖領域ヴェールへと踏み入った。
◇
無音のさざめきを残した月下の泉には、残された者が一人────否、二人。
「"飛んで火に入る夏の虫"──とは、アレのことを言うのかしら。」
嗤う女の語る言葉が虚飾に彩られたものであると彼は知っている。
「いつからそんな趣味に目覚めたんだ。少なくとも俺がいた頃は普通だったと思うが」
木陰から姿を表す長い髪は夜風に揺れて、闇の色に染められた空と対比する赤は次第に失われた。
残ったものは"彼"によく似た黒い髪と大空を思わせる白。
「ハ……馬鹿言うなよ。あんなもの、趣味なわけがない。それともお前はそう見えてたか?」
「あぁ、本物かと思って危うく見逃すところだった」
輝ける銀の剣を携えた白い騎士────まさに麗しき正義の使者といった風貌のこの男こそ、名無しを名乗った赤い襲撃者の正体。
銀剣・クラレントの持ち主であり、リオンにとっては因縁深い存在。
今度こそ、その真名を見紛うことはない。
「待っていたぞ、兄上」
月明かりに照らされた黄金の瞳は輝かず、ただ一点──憎らしき最愛の弟を見つめている。