1-25 再会 1
黒の国の城壁は朝の日差しを受け入れない。
かつてはヴァルプキス西地方の闇夜の象徴とも呼ばれ万人より畏れられた大国は、かつての悪しき王は失せ、優しき王の手で平和の下に統治されていた。────それが大昔のことのように感じる王城都市の薄暗い雰囲気はまとわりつく梅雨の湿気のようだ。
巨大な鳥型の悪魔の背に跨がった一颯とリオンは遥か上空から城内部の様子を観察していたが、正直言って成果は芳しくない。見張りの兵士たちが顔を出しているものの、窓の奥はカーテンに遮られ門や扉は全て閉まっている。
以前オリオンが言っていた通り、住んでいる住民たちも顔を見せたりはしていない。その時はアクスヴェインが指揮する兵士たちを恐れてのことだったのだろうが、今は街中を闊歩する異形・融合体から身を守るためだろう。
パニックスリラー映画のゾンビのように目的なさげにフラフラと街を練り歩く異形たちは時々奇妙な呻き声を上げたり、そこら辺に転がった石ころを追いかけたりとまるで子供みたいだ。
無論、それは比喩でもなんでもない。素体になっているであろう多くは10歳前後の子供たちだ。首がなくなり顔が肥大化しているが、異様に垂れ下がった目尻が表す悲壮な表情にはアンバランスな幼さがちらつく。
たったの数日前まで彼ら彼女らの両親だった人々はあの姿になにを思うだろう。
────考えるだけ無駄だ。憐れんだところで状況が良くなることなどない。それならばこのようなシステムを組む元凶を討ち果たすことを優先すればいい、結果的にはそれで全て解決する。
しかしこの状況下においても、月見一颯という異界の少女は疑問に思うのだ。
アクスヴェイン・フォーリスが自らに課した究極の矛盾を。オリオンの怪物性を忌み嫌う彼が何故、人と異形の雑ざりモノを使役しているのか。
《はいはい聴こえる? 聴こえてなかったらネコの鳴き真似頼むよ》
「聴こえているぞ、シキ」
二人の脳内に直接響くシキの声は、彼女がこの近くにいないことを示している。
彼女は顧問錬金術師など役職に就いていながらキャロル・アクエリアスと同じくアルブス王国の軍師でもある。故に全ての策の頭脳となり、己の城の護りを第一優先にしなければならないため、都市周辺を離れることは許されない。
だが魔術師の真髄たる魔法は超遠距離であってもはっきり悪魔の"像"を描き、圧巻の存在感を放つ。
二人が騎乗した巨大な鳥は"アイポロス"。悪魔の七十二柱に連なる地獄より出でし異形・変異体。
召喚魔法で呼び出せるものは千差万別。ジェーンドゥの女は剣を召喚し、シキは悪魔を召喚した。つまりは"召喚"の体を成しているならなんでもいいのだ。……極論過ぎるが。
さておき城から離れられない彼女はアイポロスに彼らの同行を願い出た。上空からの襲来となればアクスヴェインも面を食らうはずだ。それにアイポロスの位置が分かれば二人を正確に捉えることが出来、こうして国と国の都市間でも念話が届く。
《あのねぇ……ちょっとは遊び心ってものを理解してくれよ。それくらいの余裕あるだろ、君》
「空だとしてもここは敵地だ。箱入り娘は殺しには馴れていようと戦場の緊張感を知らないようだな」
《えっ、それめちゃくちゃな喧嘩の売り方じゃない? いいよ。買うから今すぐ戻ってこい。ヌアザの聖腕ごと焼き殺してやるから》
声は笑っているが言っている言葉は物騒だし本人が目の前にいたらどんな姿かの想像は難しくない。
余裕を見せていてもシキ・ディートリヒという女性はまだ子供だ。
「それよりもシキ、中はどんな感じなの?」
《ん──? あぁごめん。そうだね、兵は少ないよ。待機している分と実験に立ち会ってる分含めてざっと100人。異形・融合体も待機してるのと街で動いてるヤツが合わせて30体。非戦闘員……子供と捕虜も80ちょいかな。アクスヴェインも確認できた。……こういう五感共有は僕の"眼"の良いとこだよね》
シキの眼にはそれぞれ強力な力を宿している。以前キャロルが明世界に来た際に発起したのは彼女の魔力を他者に流す"琥珀色"。今回は五感情報を全て共有し、シキが望むならその者の肉体を内側から改造または破壊できる"蒼玉色"を発動した。
現在一颯が見て、聞いて、触れているものはシキにも伝わっている。それを駆使して彼女は魔法で城の外壁を透過し内部解析を行った。
観察していたのは当然中の様子を知るためだが、くまなく"観る"ことでシキの解析をより効率的かつ確実なものにした。これで中身は二人に筒抜けだ。
「合計130……先輩……」
「月見、予定通りに突入するぞ」
「無茶言わないでください!! そんな数を先輩一人でどうにかできるわけないじゃないですか!」
リオンの練った策はあまりにシンプルだった。一颯がオリオンを探し救出するまでの間、たった一人で足止めし、可能なら殲滅する。
全くもって馬鹿馬鹿しい。
少数だったならともかく絶対的な数の暴力はどうにか出来るはずがない。狙いが遠距離からの広範囲攻撃狙いだとしても数が多すぎる上、街中にまで拡がった敵を狙い民間人を撃ってしまう危険性は十二分にある。
「────シキ、捕虜は全員地下か」
《……そうだけど…………って君、アレをやる気か!? 本気!? というか馬鹿なの!?》
「出し惜しめばこちらに勝機はない。俺たちは逃げ帰ることすらできないんだ。なら、多少は本気で挑むとも」
太陽に照らされた銀色の弓が光を反射し白く輝く。
模倣品といっても性能は折り紙付き、その一射でたかが城ひとつ落とせないなんて笑い話にもならない。
「ただ足場が悪いな。これでは威力が落ちる」
《なんか言ったかな!?》
「いいや最大火力で撃てばもろともだからな、十分だ」
《全く君はさぁ……あぁもうなにも言わないよ。僕は一颯ちゃんのアシストに専念するから、あとは一人で頑張って》
「了解した」
流れのない風がリオンを中心に吹き荒れる。
追想武装の影響で伸びた一颯の髪が乱れるほどの強風は、次第に濃密な魔力を纏い未だ矢を番えていない弓に力として吸収される形で蓄えられていく。
────銀弓・フェイルノート。この贋作遺装は悲劇の騎士が手にしていたというその名を与えられた。
《一颯ちゃん伏せてしっかり掴まって》
「えっ?」
《すごいのが来るから》
「ええぇっ!?」
さっきまでのシキとうって変わった真面目な声に怯んで咄嗟に頭を抱える。
弓に収束した魔力はゆっくりと矢の形に変質し、リオンが弦を引いた瞬間に完全なものとして成立した。
空の世界には的となるものはない。四方八方が青と白に満ちた天空で一体何をするつもりなのか、彼は弓を城が鎮座した大地ではなく自身より更に上の位置──更なる彼方に向かって弩に番われた光の矢を撃ち放つ────!
「銀弓操作・流星雨────ッ!!」
かくして解放された輝きは雲を穿ち果てへと消え、何事もなかったかのような静寂が訪れた。
「……あ、あれ?」
シキの警告に反して無音の空に、一颯は一度顔を上げた。
巨大な鳥の頭部で弓を構えたまま動かないリオンは特に声もかけてこないし、シキからも念話はない。
もしかしたら耳と目を塞いでいる内に終わっていたのかもしれない。だから今、下の都市にはたくさんのクレーターが出来上がっているはずだ……と思い、ひょいと白い羽毛の影から街を覗こうと体を動かす。
「月見」
「はいっ!?」
突然の呼び掛けに不意を突かれ、思わず正座になってリオンの背中を見つめる。
「いいか、月見の目的はアイツだけだ。この先なにがあっても俺には構うな。捕らえられたとしても無視しろ、……ないと思うが」
「それってつまり……」
「俺も月見を助けない」
「ですよね!! わかってました!!」
作戦において彼が最初に決めたのは、互いにやるべきことを成し遂げるまでは互いの危機には関与しないということ。
リオンはこういった状況への対応力がありそうだが、一颯は完全な素人だ。彼が一人で百を相手するのも無茶だし、彼女が助けを無しに敵陣へ単身乗り込みオリオンを救い出せるのかは不安要素の方が多く残る。危険性の高い賭けだ。
それでも彼は一颯を信じた。この奇跡と運命に導かれてここまで自分の足で歩いてきた彼女なら成功の結果を残せる、と。
「じゃあ健闘を祈る。──必ず生きて合流しよう」
少しだけ笑みを含んだ声を発し、別れの挨拶感覚で手を振り指を鳴らすと、リオンはアイポロスの頭を思いきり踏み締め空へと躍り出た。
「せ、先輩ッ!! ────なッ!?」
空より上の遥かな宙にキラリと輝く星が産まれ、ひとつふたつと増えるその数は数秒後には目視しただけでは数え切れないほどにもなっていた。
なんて綺麗なんだろう、なんて真昼の星に魅了されたのも束の間。
雲ではない光は一颯のいる位置まで近づいている。否、近付いているのではなく降ってきたのだ。
まず最初に出てきたのは「ヒッ」という短い悲鳴で、叫びが声にならず唖然とする一颯は星の雨が停止したアイポロスをわざと避けていることを気付かず通り過ぎていくそれにどんどん青ざめる。
──そういえばこの雨の原因であろう彼は無事か? とにもかくにも考える暇がない。
さっきから一颯を心配するシキの声が響いているが、轟音から鼓膜と自分を耳を塞ぐのに必死な彼女には全く聞こえていないようだ。
一方で地上からは続々と地面を抉る音や融合体の悲鳴、そして「敵襲だー!!」と叫ぶ男たちの声と擦るような金属音が聞こえてきた。
《一颯ちゃん平気?》
「あ、ぁえっ……と、うん……」
《だいぶ慌ててるよね、落ち着こ。リラックスするまで深呼吸だ》
シキに言われるがまま息を吸って吐いて繰り返す。乱れた気持ちが落ち着くまではとりあえずこれをやめなかった。
ようやく心に余裕が持てた時には落ちる流れ星は品切れになっていたらしく、地上から鳴る音が激しさを増している。どうやらリオンは無事に着地して兵士や融合体と交戦しているようだ。
"銀弓操作・流星雨"────、見ているだけで体が凍る恐ろしい絶技であった。
《アレも限定開花の一種だよ、すごいでしょ》
「すごすぎて腰が抜けたわ……」
《だよね、気持ち分かるよ。じゃあ僕らも行こうか。今朝伝えた通りにできそうかな?》
「やってみるわ」
《よし!》
アイポロスがシキからの遠隔指示を受けて滑空する。
風を切り、雲を抜け、目指すのはド正面の城門──ではなく裏手の調理室に繋がる扉だ。シキの解析でその場所にシェフと兵士の姿は見当たらず、最も地下の入り口への通路に近いのがここを選んだ理由である。
空を駆け騒乱のただ中にある端をすり抜けた巨大鳥は草が伸びっぱなしになった扉の近くの庭に着地し、翼を傾斜にして一颯を優しく背から下ろす。
ありがとうと言ってやるととても嬉しそうに笑っていた。これが地獄から来た悪魔だとは思えなかったが、感謝の言葉はきっと誰がもらっても喜びに繋がるのだと解釈した。
数m離れた扉に駆け寄り、ノブに手を置く直前で声が一颯を制止する。
「あっ……そうよね、忘れてた」
《気を付けて。やり方はちゃんと覚えたかな?》
「うん、多分」
今日は剣士の武装ではなく魔術師の羽衣を纏った彼女は杖に自らの陽魔力を込め、祈るように言葉を紡ぐ。
するとみるみる内に一颯の体は薄くボヤけ、アイポロスの視界からは完全に消えてしまった。所謂透明人間だ。
幻想魔法を得意とするマーリンの追想武装を身に付けたということは、一颯もその魔法を得手とすることができるのだ。今現在、幻想魔法を使った彼女は他人から視認されない。さすがに接触すれば別だが。もちろん一颯自身には見えているため、おかしな事故は起きたりしない。
あのリオンが交戦しているので戦力はそちらに使われているだろうが、待機していたり見張り係をしている連中は出てこない。対人には抵抗を持つ一颯が遭遇しないためには透明になるのが一番効率的だ。
ごくりと唾を飲み、意を決して扉を開く。中にはやはり誰もおらず、食堂と思わしき広いスペースももぬけの殻。しかも白いクロスは埃を被り、まるでしばらくの間放置されていたように見える。
抜けた先の廊下にも人影はない。代わりに外の音がまた喧しくなった。
《彼がいる地下室は右手側に曲がって最初の扉の奥だ。見られてるかもしれないからその状態でも気を付けて》
「わかったわ」
ぐんぐん目的地に近付いているのに相変わらず人はいない。誘われている気もするが、リオンの強さに苦戦して増員を続けているのだと都合よく解釈を続ける。
シキに言われた通り、扉の先に入って長い廊下を進む。
途中から増してきたのはなにかが腐ったような酷い臭いと長らく掃除をしていなかった部屋にある独特な臭いが混じった最悪な悪臭だ。ここが小さな家ならまだしも大きな城で、決して廃墟ではないことを考えると嫌な予感が膨れ上がる。
彼なら大丈夫、絶対に死なせない。
一颯の信じる心と不安が反比例してゆらゆらと揺れる。
「……ッ」
長い廊下が終わり、城内の優雅な雰囲気とは明らかに釣り合わなそうなステンドグラスの扉が現れた。
いいや、城の内装ではなくどちらかと言えばその先から漂う死臭らしき悪臭と合わないのだ。
「……この先に、いるのね……?」
《──一颯ちゃん、その先の階段を降りたら僕との念話は途絶える。君の世界で言うなら"圏外"ってやつだ。それでも平気?》
シキからの励ましがなくなれば、ついに一颯は一人だ。この先に罠があっても一人で対処しなければならない。
怖い、でも進まなければ。
震える、でも踏み出さなければ。
前進するのが億劫になる。なにか恐ろしいことが起きる気がして、本能的に拒んでいる気がした。
「…………」
「なにが本能だ。そいつはいつも本心と違うことを言う、信じてやるものか」と誰かが背中を押している。
オリオンを拒んだ本能が扉の先を恐れるのは当たり前だ。
──ならば本心はどうか。彼女は拒んだ彼を助けたい、謝りたい。あの時苦しませたことへのせめてもの詫びがしたくてここまで来たのだ。
今更ビビって逃げたりなんてしたくない。
「シキ、行ってくる!」
《あぁ!》
臭いを堪え、扉を力強く開き、階段を一気に駆け降りる。ノイズと共にシキの声が消え、最後に発した「頑張れ」も途中で途切れた。
一刻も早く彼に会いたい。待たせたくはない。
階段先の最後の廊下も全力で走った。人がいないことを怪しむことすら今の一颯には邪魔な思考だ。そんな些細なことに気を使えばまた足がすくむかもしれなくて、足は絶対に止めなかった。
鉄のような堅い扉は最早障害にもならず、杖の先から迸った炎の刃が全てを刻み、溶かして破壊する。
そして一颯は一度息を整え、正面にあるモノをついに見た。
「────」
悪臭が立ち込める血と肉にまみれた地下の部屋の奥。
鮮やかな青紫の長い髪や赤と黒の魔装束は無惨に乱れているが、部屋の明かりを浴びて鮮明になるその姿は間違えようもないほど彼は確かにそこにいた。
「…………イブキ……?」
「──ッ!」
うっすら開いた瞼の奥から一颯の姿を覗き、何度も何度も繰り返しあの日以来に再会した彼女を見直す。
本当に、本当に"イブキ"がやって来た。
その事実をようやく理解した瞬間、肩を掴まれすごい勢いで引き寄せられた。
「……会いたかった……っ! オリオンに、会いたかったよ……!!」
「…………くるしいし、そこすげえ痛い……」
「また治してあげるから、もう少しだけ」
「──わかったよ」
ここは敵地。オリオンは未だ自由の身ではない。
分かっていても彼女は耐えられなかった。どうしても彼との再会という望んだ展開に、涙と想いが溢れた。
だから、もう少しだけ。
魔の手がすぐそばに迫っているとしても、この時間だけは絶対に譲らない。
扉を開く音がした。
安らぐ彼らにはその響きが聞こえることはない。