1-22 望まぬ開幕 2
────此処は聖なる魔力が満ちる場所。
生い茂る草木や小さくも美しき花はどこかで見たことがあるようなないような不思議な色彩で彩られ、異なる世界の奇妙な感覚に襲われる。
しかしそれらはとうに失われ、ここにあるのは命の脱け殻だけ。
人とは似ても似つかぬ精霊たちが生きた千年都市は無惨にも煙と血の匂いが蔓延し、尽きた命が幾多も転がっていた。
「これは……」
眼前で現実のものとして広がるのは戦場と呼ぶにはあまりにも凄惨な光景。
血だまりに伏す精霊の姿は人間の死体となんの差もない。草木と瓦礫を赤く塗り潰すそれに吐き気を催し踞る一颯は、特に死臭や鉄の香りを気にすることなく死体の傷口を観察するリオンに人としての違和感を感じずにはいられない。
どういった感性を持てばここまで"死"に対して無反応になれるのだろう。
「──慣れてるんですね」
「アイツも同じだぞ」
「同じ、ですか?」
リオンは表情ひとつ変えず、精霊の背中に刻まれた裂傷を撫でながらこう言った。
「宵世界で生きる人間は生まれ落ちた日から死と隣り合わせの生活を送ることになる。理由は異形に襲われるから──だけじゃない。この世界には魔法がある。俺が月見を魔法で殺そうとしたように、明世界の兵器と違って魔法殺人は痕跡を残す方が難しいほど隠蔽しやすく同時にありえないくらい手軽なんだ」
当然だがアーテルやアルブス、カエルレウムなどのヴァルプキス西地方諸国のみならず世界中の国は、国という体を成している以上人を護る法律がある。場合によっては同盟による国際条例なるものもあり、果ては世界の理──神の支配すら存在する。
それでも異形による鏖殺以外の殺人が横行し続けるのはたかが言葉の羅列が破壊力を持つ魔法の圧倒的な利便性の高さが原因だ。
明世界で起きる殺人事件は大抵が凶器、または指紋などの証拠が残り足が付く。たとえその場で完全犯罪が成立しようと2015年現在の技術力が解決できない事件の方が少ない。ところが世界が切り替わった瞬間、安心感と常識は一変する。
リオンの言う通り、魔法殺人は証拠が残らない。強いて言えば魔法が帯びる術者の魔力残滓くらいで、それも時間経過で消失してしまう。
どれほどの殺人犯を裁こうが罰を与えようが、理由のない理不尽による暗殺めいた殺意は後を絶たず、減少しつつある日本の殺人件数と比べる必要がないレベルに肥大化した悪意は放任され、バレなければ犯罪と見なされない我欲にまみれた世界では死体さえ見つからないまま犯人がいつも通りの日常を謳歌できてしまう多くの未解決ケースが増えていった。
今回のヴェールにおける精霊虐殺はその括りには入らないが、これらに連なるアクスヴェインの暗躍は殺人を容認された世界が産んだひとつの結果なのではないかとリオンは考えていたのだ。
「──劣っているな、この世界は」
小さく呟かれた言葉は一颯の耳までは入らなかったが、彼女も聞き返そうとは思わなかった。
結局十分ほどかけて町を見回った二人の視界には武具屋に置かれたもの以外で武器の類や防具が入ることがなく、彼らが負った傷には攻撃を回避して浅くなったが結局致命的だったとも言えない。よって精霊たちは防衛戦を行ったというよりは一方的に殺されたと見るのが妥当だろうと判断した。
子供や女だろうが容赦なく血肉を絞られ、悲壮な表情のまま事切れた彼らにかけられる言葉はそう多くない。
ヴェールを擁する精霊の森を出るために都市の出口を目指す中で点々と落っこちている形だけになった魂の寄る辺が目に映り込み、一颯は思わず目を閉じてリオンが身に付けた空色の長いマフラーを握る。もしかすれば首を絞めているかもしれなかったが、彼も理解はあるらしくなにも言わなかった。
自ら望んでやってきた未知の異世界に感じた最初の感覚はまさに"恐怖"だ。死の危険から守ってくれる警察や家族はいない、むしろそこにいる誰もが殺人犯予備軍であるとまで言い切る出身者本人に一番説得力がある事実に震えが止まりそうもない。
────彼は一体どんな風にこの世界に立っていたのだろう。
オリオンも元はと言えば宵世界ではなく花の楽園という異界の辺境に生まれ育った血も闇も知らない純粋な存在だ。故に明確に過去を語ることが少なかった彼がなにを想い、なにを忌み、なにを俯瞰していたのかは一颯が知る由もない。
ただ──なんとなく彼はこの命を踏みつけるようなシステムを激しく嫌っていただろうと思う。喧嘩ッ早くて口が悪く乱暴で粗雑な彼だからこそ、その矛先を他の人命に向けさせない全ての目を奪って夜を滑空するきらびやかな流星の剣士になったのだと。
これはあくまで一颯の憶測だ。本人は別の意図を持っている可能性が高い。彼女のイメージによる途方もない美化だったとしても、その想像が彼への仕打ちに対する自身への罪悪感を落ち着ける唯一の方法だった。
「先輩……?」
ぴたりと止まった足に合わせ、一颯の歩みも止まる。目を開き、リオンの後ろ姿をじっと見つめているが数秒しても動く気配はない。
もうすぐ都市の出口だ。出れば今度は森に入り、彼女に道は分からないがきっとリオンは把握しているからすぐ出られるはず。──なのに彼は動かない。
「月見、一番重要なことを聞きそびれていた」
「えっ……?」
マフラーから手を離し、反射的に彼から距離を置く。
剣士の形を成した彼女の武装が気の迷いに揺られて少しだけ崩れそうになったのは彼女自身も気付いていない。
振り向いたリオンの黒を裂く青が混じる長い前髪がやけに重苦しく、開かれた口から告げられたのは後からよく考えてみれば当たり前の問いかけだった。
「月見は"誰か"を殺す覚悟があるか」
黄金色の眼光が心の淵まで見透かして弱者のすがるべき居場所を焼き尽くす。
ついさっきまで彼が語っていた宵世界の在り方は一颯への盛大な前振り。命を奪うという普通に生きる上ではありえない行為──つまりは一線を越える覚悟を決めて、この世界に踏み入ることを決断したのかと彼は問うて来たのだ。
この地に立ったからにはアクスヴェインに命を狙われるのは間違いない。異形以外にも人間の兵士が襲いかかってくるのはまず確実だ。彼女から攻撃せずとも奴らは必ず牙を剥いて、戦いになるだろう。その結果敵の命を奪ってしまった時、過剰だろうが正当防衛になるとしても一颯は前を向いたまま歩いていける自信がなかった。
「────ない、です」
正しい倫理観を持ち続ける限り、明世界のルールの枠をはみ出た行為を実行する勇気なんて初めから持ち合わせてはいない。異形相手だって人の形をしていたり、そこから特定の動物を連想できる姿の変異体だったら躊躇ってしまう。
「それ以外の方法がないのは分かるんです。でも嫌なんです。私は、──もう、一人殺してしまったから」
ここまでの流れで誰もが解るが直接的に一颯が手を下したことはない。殺してやりたいほど腹が立ったことはあっても実行に移すのは気後れする。
しかし立花雪子の死は、間接的ながら一颯が一因を担っていると言っても過言ではなかった。確かに一颯は彼女を助けた。異形の者共の魔の手から救い逃げたはずなのにいつの間にか立場はすり替わり、一颯を助けた雪子は最期に言葉を遺すことさえ叶わずこの世を去った。
見捨てようが助けようがどちらにせよ雪子の道はぷつりとそこで終わっていて、彼女を無理矢理にでも止めず中途半端に関与したせいで未来が最悪に繋がってしまったのだと思うと今でも息苦しくてままならない。
────もう一度言おう。一颯が直接的に誰かを殺めたことはない。だが彼女ははっきりと、自分が立花雪子を殺したのだと認識している。
「……そうか。すまないな、答えづらいことを聞いてしまった」
「いいえ、気にしないでください。でもオリオンを助けたい気持ちは本物です! 絶対に三人で梓塚に帰りましょう!!」
「そうだな。」
やけに行き詰まる問答が穏やかに終わったことで、肩に籠った力が一気に抜けた。
「先輩はやっぱり人殺しとかは……」
「あぁ、殺ると決めたら情はかけない。他人や友だろうと、──肉親だろうと容赦するものか」
どこか含みのある言葉の意味を根掘り葉掘り聞くつもりはない。
彼には彼なりの過去を抱えている。そうじゃなければこんなにも面の皮の厚そうな男が心が折れて異世界に逃げたりしないだろうから。
「──さて月見、とりあえず左に避けてもらえるとありがたい」
「はい────?」
相変わらず返事を待たない彼は、鮮やかな赤紫のショートヘアを掠めるほど近距離で詠唱なしの魔法攻撃を放った。
不意打ちにも程がある一撃に停止した一颯を尻目に背後からは「グヘッ」という悲鳴にも似た間抜けな声が響き、同時に地面になにか固いものが倒れる音がする。
数秒間の思考停止を経て現実に引き戻された少女はリオンの背後に回り込み、周囲を見渡す。剣士の追想武装なので視覚的な補助魔法は使えないが、彼の殺意しかない威嚇射撃によって漏れ出した敵意は素人であろうとあっさり感じ取れた。
「五人、いや六人か」
さっき倒した分を含めずに六人の影が瓦礫の奥や木々の隙間から現れる。敵は最初から二人の姿を捉えずっと監視していたのだろう。
あえて自由にさせておくことで僅かでも気を緩ませて隙を突く作戦の予定だったと推測できるが、残念ながら銀弓の魔術師はその程度の小細工に引っ掛かるほど箱入りではない。
リオンは左手に白銀の弓を持ち、動くこともなく一颯を背に隠したままじっくりと敵の武装や様子を窺う。相手に先陣を切られるならそれでも結構だと彼は内心笑っている。
なにせリオンは魔術師と言えど魔法より弓による攻撃が本分の男。どこぞの剣士も魔術師に寄った性能をしているクセに平然と剣をブン回す困ったちゃんだが、実はその辺りは彼の方がよっぽどロジックエラーを起こしている。
やれ魔法は形がない拘束具だのなんで遠距離専門に甘んじてるのか解らないほど武闘派だの頭が良いのに戦略家としては筋肉の塊だの、かつて自称大親友が彼を好き勝手言っていたのを思い出した。
一颯が不安そうに覗いた瞳には揺るぎない勝利への確信がある。──方法はともかく打開策はあることを今は信じていいようだ。
「貴様らはアクスヴェイン・フォーリスの手の者だな」
「それが判るアンタは銀弓の魔術師──リオン・ファレルか。大人しく取っ捕まってくれればその端正な顔面に傷は付かないと思ってくれ」
「なるほど……この顔に傷が付くくらい済むなら安いものだ」
自分の顔がどれほどイケメンと分類されるべきかを分かっていないのか、はたまたリオンの目の前で喋り始めた男がどちらかと言えば不細工であることを暗に示しているのかは分からないが、彼はやる気だ。
「そんじゃあ覚悟しな。あとで泣いて謝っても知らねぇぞ」
男たちが身構えた。武器はフレイルや短剣を始めとする兵士とは言い難いものばかりで、雇われ用心棒と言うべきところか。
敵に倣うように一颯も剣を出現させようと右手を構えたが、リオンはその動きを制止して振り向いた。
「月見はマーリンの追想武装を使って結界で身を守れ、お前が戦う必要はない」
「でも先輩は……」
「問題ない。変異体に比べれば大した敵ではないからな」
リオンが攻撃を開始したらまずは上空に高くジャンプして状況からの脱出、その後追想武装を変化させて円形の結界を自分を軸に展開し、敵が近付くことを防ぎながらリオンのアシスト。前線に出る彼がやるべきことは一颯が結界を張るのを見届けた後、敵の殲滅──これで決まりだ。
心の中で三秒間のカウントダウンが始まる。こういう時の三秒の長さに異常性を感じながらも、訪れるその時に向けて足を集中させる。
────そしてコンマゼロ秒の瞬間、二人は互いの作戦の下、行動を開始した。
「コイツッ!!」
戦力として数えていない一颯がまさかリオンと離れて行動するとは思わなかった男たちは彼女が自分達の頭上を跳んだことに気を取られ、全員が空を見上げる。それは明確な隙だった。
弓の使い手は大半──いや、ほぼ全てが接近戦を行えない。剣士という国ごとに最強クラスの勇士がいるこの世界では、戦場で弓を使用する時点で遠距離からのサポートしかできないのを露見しているようなものだ。
だがリオンはこの近距離での戦闘を選んだ。わざわざ前線に出られる一颯を下げて、弓と魔法しか持たない自らが接近して乱戦を行うと決めた。
その真意は、確かに彼の親友が言う通りのものだと一颯はこの後存分に目に焼き付けることになる。
「なッ、ぐェッ……!?」
青空の下の焼け野原で青い稲妻が疾走する。
プラチナの輝きを湛える魔弓はその形状を一部変化させ、持ち手を両手で握った彼は矢が発射される中心部ではなく、弦を張る和弓で言う両弭の部分を挑発してきた男の首元に叩きつけた。
リオンの背丈に勝るとも劣らない弩の重量は、装飾や大きさを計算に入れればアーチェリーや弓道で使われる一般的なそれらと比べてかなり重いと思われる。その重さだけでも首にはかなりの圧がかかっているはずだが、そこに加わるのが魔法で加速しただろうスピードだ。重力に従いながらも逆らう速度に殴り付けられた男は流れるように倒れて動かなくなった。
この一幕だけでリオンの接近戦における強さは知れただろう。敵対者たちの中はじりじりと後方へ下がる者も現れ出した。
逃げれば命が助かる、安直にそう思ったのかもしれないが逃げて距離を稼ごうという思考は遠距離武器の使い手にとって格好の獲物だ。どちらを選んでも男たちが助かる道はない。
ならいっそ幸運と欲望が彼を殺すことを願い、奴らは一斉に駆け出した。この時にはもう圧倒的な強さに魅せられ、隠れている一颯のことはすっかり忘れていた。
一人仕留めたところで口も開かないリオンは形状変化した銀弓を一度手放し、四方から集団で迫る敵の一撃目から逃れるべく魔力の風圧を放つ。まずは風で正面が見えなくなった二人目の背後に回り、後頭部に銃弾のごとき破壊系魔法を見舞う。
額から迸る血肉と一緒に貫通した魔力の残滓に怯んだ三人目の持つ短剣を奪い、脇腹に突き刺した後傷口を抉る勢いで回し蹴りを放つと、男は近くにあった石造りの家に叩き付けられ意識を失った。
止まってはいられない。ほぼ同時にフレイルと棍棒を振り下ろした大柄な四人目と五人目から距離を取り、足に矢を撃ち込む。末端を射られ跪いて痛みに苦しみもがく二人の正面に立ったリオンは金色の瞳を太陽のように煌めかせ、指で銃の形を作り魔力を込める。
「勘弁してくれ! 俺たちゃ金で雇われただけだ!」
「そう! アンタの強さは大いに分かったから、なっ?」
「──金は前払いだったか?」
「えっ、そうだけ……ッ」
二人に向けられた銃口からは命の灯火を消すに十分な一撃が放たれる。
アクスヴェインから金が支払われている以上、彼らは失敗しようが成功しようが生き残れればいい。──が、捕らえて連れ帰ったとなれば更なる大金が手に入るだろう。一度油断させて背後から攻撃される可能性を考えて、リオンは返答がどちらでも殺すつもりでいた。慈悲はかけない、情けはいらない、殺されるなら先に殺すだけだ。
銃声に似た音が聞こえた瞬間に耳を塞ぎ、目をそらした六人目はリオンが振り返る前に森の奥へと消えていったが、そう簡単に逃がすわけにもいかない彼は遠慮なく矢を撃ち、反響する男の断末魔を聞いてから弓を下ろす。
たった数分の戦闘において全く出番がなかった一颯は瓦礫の山からひょっこり顔を出し、それはそれは無惨な現場を一目見てまた吐き気を催した。
「月見……頼むから死体には慣れてくれ」
「絶対に無理です……」
生死確認のためだろうが死体を蹴りながら返り血を浴びて真顔で声をかけてくる先輩が末恐ろしい。これが宵世界最強クラスの魔術師の実力と残忍さか、と半ば忘れたい記憶として心底に留めておくことにする。
ともあれ、敵対した男たちは皆殺しにしてしまったわけで──死体からは現在のアーテル王国について有益な情報を得ることはできるわけもない。
「先輩、どうしましょう」
「まだいるぞ」
「えっどこに……?」
リオンが指差したのは彼が最初に撃ち抜いた間抜けな男。言われてみればあれほど密度の高い魔法の弾丸を食らったのに出血はしていないし、どこか致命的なダメージを受けた様子もない。
「あの男に当たる直前、魔法を消した。ヤツは勝手に驚き勝手に転んで頭を打っただけだ」
「えぇっ!?」
「じきに目を覚ますだろう。腹も減った、少し食料を調達してくる」
「う、うそぉ……」
魔法を消したと簡単に言うが、すでに手元から離れた魔法の発動を直前にキャンセルするなんて人間の技ではない。男の間抜けぶりは中々だがリオンの腕前も常軌を逸している。
一颯は一度彼から殺意ある追跡を受けたが、その時に「本気じゃなかった」と言ったのが見栄張りではなく事実だとは正直信じたくなかった。同時にすぐ味方になってくれて良かったと安心もした。
────とりあえず、男の目覚めを待つとしよう。その後またリオンの異様な一面を垣間見るかもしれないが、なるべくスルーの方向で。
「オリオン、私……どうしよう」
未だ現状が知れぬ彼を思い、白い骸布と長い髪に埋もれながら非常識な先輩を待つ。
もし男から良さげな情報が出てこなければちょっと怒るかもしれない、彼女はそう考えながら宵の世界の太陽を見上げた。