1-21 望まぬ開幕 1
暗い影が増えた。
一人、また一人と数を増すごとに吐き出す血の量も増える。
薄ら笑いで下品な言葉を投げ掛ける黒い男たちは飽きもせず抵抗できない小さな身体に暴行を加えていく。まるで自分達の行いが正しい行為であると言わんばかりの表情で。
すでに陥落したヴァルプキス西地方最大の王国において彼らこそが絶対の存在。いくら暴力や犯罪に手を染めようがその法を築く側であるがために罰は与えられない。
逆に言えば被害を受ける者達を守るものもない。たとえそれが何一つ罪を犯さず生きる街の住民や、────自由を奪われ薄暗い地下室に幽閉された少年だったとしてもだ。
「なぁ剣士さんよ、生きてるか?」
四人グループのリーダー格と思わしき男が乱れた青髪の頭頂部を鷲掴み、すっかり項垂れたむりやり顔を上げさせる。
かろうじて呼吸はしているが、返事を返すほど余裕はない。腹部には靴の汚れが付着しその土の汚れがなにを意味しているかは状況を見ずとも明白だった。
男たちはアクスヴェインの思想に惹かれた過激な元兵士たち。一年ほど前に城の若い侍女に乱暴したため、城を追い出された。
当時、彼らの侍女に対する凶行を止めたのが他でもないオリオンだ。実際睡眠を邪魔された怒りで動いていた彼は事件性を気にしたり王や各隊隊長に報告する気など更々なかったが、状況が喧嘩に発展したせいで侍女が逃げ、救いを求めに行ったことで事件が発覚した。
四人はオリオンに逆恨みしたまま城を去った。ところがアクスヴェインは彼らに手を差し伸べる。恐ろしい反逆に「手を貸せ」と、「そうすればヤツを痛めつけるチャンスをやろう」と。
半ば半信半疑ながら協力した彼らはこうした形でオリオンと再会した。
肉体の操作権を奪われ、思考ができて言葉を話せても満足に動けない彼を見て心底笑いが止まらなかった。
「返事しろよッ」
リーダー格の男は中々声を発しないオリオンに痺れを切らし、強く踏むような蹴りを胸部に見舞った。
直接呼吸を止められるほどの強烈な衝撃に噎せ返る。僅かな息に混じって冷たい床に生暖かな血液が吐き出され、咳き込む度にあばら骨が痛むほど悲鳴を上げた。
「オイやりすぎだぞ」
「さすがに死ぬんじゃないか? アクスヴェイン様にも殺すなって言われてるだろ」
後ろに控えている仲間たちがリーダー格の余りある暴力に引き気味な声を漏らす。
「お前らは甘いなぁ……コイツは人間じゃないんだから簡単には死なねえよ、普通の異形どもだって無駄に丈夫だし───なッ!」
楽しげに笑いながら腹を蹴り上げ、次第に弱っていく様を愉快そうに見る男の言葉に同調した仲間達は"それもそうだ"といった顔で引き続き様子を見守る。
そう、この場にいる全員がオリオン・ヴィンセントは人間の形をした怪物だという事実を知っていた。
アクスヴェインから伝え聞いたのか、彼らは部屋に入った時真っ先に特徴的な長い耳をちぎれそうになるほど引っ張り弄んだ。そして今もオリオンが人間より若干丈夫な異形であることを理由に普通なら死んでいるかもしれないくらい苛烈な暴行を加えている。
とにかく痛む腹を押さえたくても両手を拘束する魔法を帯びた枷が許さず、なかったとしてもそもそも自由に体を動かせない。
「しかもコイツは仲間殺しだ。ヴェールでよ、なにトチ狂ったか知らねえけど味方の兵士10人くらい殺ったらしいぞ。異形なのに異形も殺して回って、気色悪いにもほどがあんだよな」
彼らの会話など初めから耳に入っていなかったオリオンの反応が微かに変わった。
────事は昨日、森聖領域"ヴェール"で起きた。
明世界での出来事があってからアクスヴェインが最初に行ったのはヴェールへの侵略と精霊の虐殺だ。西地方各国で真っ先に緑の国を指定した理由は戦闘力の低さだけではなく、人間のフリをして生活している異形が気に食わないかららしい。
ヴェールの女王"アルメリア"からは精霊の森を黒と白の国境にする代わりに国への不可侵を提示されていたが、王が死に暴虐の時代に巻き戻ったアーテルにはなんの抑止力にもならなかった。
自らの持つ遺装が精霊の森の結界を破壊できることを知っていたオリオンは必死に抵抗した。しかし魔法抵抗力を無効化して体を蝕む操作魔法が下した命令には逆らえず、対抗手段を用意していない無防備な彼らの国への侵攻を許してしまう。
逃げ惑い悲鳴を上げる精霊を本当なら助けたいはずなのに強制力を持った命令に従う彼には"殺さない"という選択肢は最初からない。
助けて。
殺さないで。
願いを聞きたいのに、殺したいのは自らの手を下さずにうすら寒い笑みを浮かべる男なのに。
自分ではどうにもならないと解っていてもオリオンは解決策を模索し、唇を噛み締めて悔しさに足掻いた時だった。
────その想いが天に届いたのか。
逃げる精霊の少年に斬りかかった瞬間、身体を支配していた重たい"なにか"がブツリと途切れ、同時に女王の声が頭に響いた。
"どうか一人でも多くの命を救ってください"
女王アルメリアは捕らえられる直前に、オリオンにかけられた魔法を一時的にすべて解除する逆転魔法を発動したのだ。本来敵の強化や守りを無効化するために使われる魔法は、確かに彼を自由にさせることに成功し、精霊を襲う兵士に剣を向けた。
生き残って集団になっていた精霊たちを深い森の奥に逃がすため、オリオンは次々と味方だった兵士たちを斬った。
彼らに対して嘆くこともなければ命を奪うことに抵抗もない。精霊が忌むべき異形の種だとしても生きている、そのか弱い命を軽んじる彼らの方がよほど邪悪だからだ。
結果的にオリオンに殺された兵士は9人、負傷した兵士は20人以上にも及び、最後はアクスヴェインにも襲いかかったが魔法効果の時間切れで殺し損なった。それでも少数ながら生き残った精霊は森の奥にあると云われている"白命界"に逃げ去ったそうだ。
どんなに彼が非協力的であろうとアクスヴェインにとっては裏切り者に変わりない。
精霊の女王たるアルメリアは捕らえられた身であろうがあらゆる手段を用いてオリオンとのコンタクトを図るだろう。
だから彼を戦力に使うのはやめて、常人とは比べきれないほど蓄積された魔力を吸い出す方向にシフトした。彼に流れる異形の魔力は融合体の実験にちょうど良く、どうすれば人間と異形が上手く交わるのかを解析して外部から譲渡させるつもりだ。
現在のオリオンは常に魔力を消費し、全身が途方もない倦怠感に襲われる中で兵士の鬱憤ばらしに理不尽な暴行も受けている。このままではいつ死んでもおかしくない。
「結局オマエはどっちの味方してんだよ。人間も殺して異形も殺して、あん時の俺たちより悪いこといっぱいしてるよな」
「──────」
「女とヤりたいってのは当然だろ? 男なんだし。でもよ殺人ってのは異常者のすることだ。オマエはおかしい、イカれてんだよ」
「────そう、だな」
否定はできない。
変異体が意思を持つとはいえ元が異形だ。いくら人間的に振る舞おうが異常性を隠せないし、温厚な精霊も理由のある"殺し"自体には肯定的だ。
「……でも……おかしいのは、てめえらも同じだろ」
「は?」
「ほんっと、下らねえよな。……自分より弱いヤツしか狙わねえ、強いヤツにはゴマ擦って────立場が逆転した途端に強気になりやがる」
体の大きな兵士四人で怯えて震える小柄な少女を乱暴し、侵略という大義名分を得て逃げる精霊を殺し、以前は敵いもしなかった剣士が剣を握れない状況で優位になったつもりでいる。
オリオンは異常になりきれずとも圧倒的な敵に立ち向かい諦めなかったあの凛々しい月の少女の背中を知っているが故に、弱い者いじめしかできない彼らこそが真に許されざる存在だと認識していた。
「真っ正面から殴り合えねえヤツが粋がってんじゃねえよ。俺はてめえらになにされようが痛くも痒くもねえ────この卑怯者ども」
渾身の力を振り絞った夜色の瞳がどろりと溶け落ちる。
無理に言葉を捲し立てたせいで呼吸が荒く、時折咳き込んでまた吐血する姿を心配するような人間はここにはいない。
挑発にしか取れない言葉に怒りを覚えたリーダー格の男は後ろの仲間たちから出る制止の声が全く耳に入っていないのか、鬼の形相で腰に差した剣を抜いた。
「なにが卑怯者だクソッタレ!! 夢魔の分際で人間サマに楯突いてんじゃねえぞッ!」
「おいやめろ! 剣はマズいって!」
「うるせえ! 殺すなって話なら急所は外してやんよ、その方が苦しいだろうしな!」
と言ってはいる血走った目の男が持つ剣はうなじの辺りに狙いを定め、突き刺そうと刃を立てる。明確な殺意が籠った眼光は青の隙間から見えた白い肌に真っ直ぐ向けられその瞬間が訪れた。
────が、男の剣は刺さることはなく代わりに肉が落ちるような重い音と金属が鳴った。
「おやめなさいな、はしたない。捕虜の言葉に煽られて剣を抜くなんてレベルが低すぎるわ」
「あ────あ、あ……?」
落ちたのは剣を持っていた男の両腕だった。
壁に刺さった剣は役目を終えて消滅し、それを呼び出した術者の女はため息混じりに近づいて男の腕を拾い上げる。
周りで震えながら女の白い装束が鮮血に染まるのを見ていた仲間たちは振り返った魔女の笑みに恐怖し、リーダー格を残して逃げ去った。
「……信用されてないのねアナタ。ごめんなさい、命令に違反しそうなのを見たらついつい手を出してしまったわ」
優しげに微笑みかける女に自らの死を予感して絶望しきった表情でうずくまる男は喧しい声を上げて泣き始めた。
「安心なさい、こんなことをしてから言うのもおかしいけれど私は寛大よ。アナタが安らかに白命界へ逝けるよう祈ってあげるわ」
「た、助けてぐれぇ……!! ぁ、あ、あやまぅるがら腕ぇ……づなげてくれぉ!」
「───そうね」
背を向けつつも肯定的な返事を返した女へ希望を感じ取った男は泣きはらした顔で彼女を見上げて目を輝かせる。
自分は生きる、腕を繋げて生きていられる────彼はきっと産まれて初めて心の底から喜んだだろう。
ただし女は己を助ける天使であるとも女神であるとも初めから言っていない。
持っていた両腕を地下室の天井高く投げ飛ばすと指を鳴らし、出現した剣が男から切り取られた肉を賽の目状になるまで切り刻んだ。
バラバラになった肉片が男の頭上に降り注ぎ、一瞬なにが起きたのか理解できなかった彼は女と塊を交互に見て半狂乱になりながら地下室の壁に頭をぶつけ始めた。
「アナタみたいな自分勝手に場をかき乱す存在は戦場で多く犠牲を出す……もう用はないわ」
この後男は死ぬか、融合体の実験体にされるだろうが彼女には関係のないことだ。
狂ったように暴れまわる男が血を撒き散らして地下室を出ていくのを見守った女はピクリとも動かないオリオンの顔を覗き込み死んでいないことを確認した後、腹部に手を添えて傷の治癒を始めた。
死ぬほどの痛みを与えて苦しませるのは許容範囲だが実際に死なれては困る。痛い思いをさせた後は致命的なダメージを取り除いてやらねばならない。
たとえ彼女にとってそれが不本意であってもだ。
「────ぅ、っ」
「生きてる?」
「……うっせぇ」
「ちゃんと話せるなら問題ない、か」
食事や水分摂取も満足にさせていないため声が掠れているが、別の方法で生きるために必要なモノは揃えているので治癒さえすれば死にやしない。どうやら危険な状態は脱したようだ。
「本当はお前なんて死ねばいいと思ってる。アクスヴェインが殺せと言ったらすぐ脳天を串刺しにしてやれるほどね」
「───あっそ」
「つれないなぁ……今日はお前に特報を持ってきたのに」
長い髪から覗く耳が"特報"にぴくっと動く。
女は待ってましたと言わんばかりの顔でオリオンの顎を撫でて続きを話す。
ついさっき高密度の魔力反応が精霊の森付近に観測された。
そこから現れたのは魔装束を纏った二人の男女。どちらも特徴的な魔力の流れをしていたため、正体はすぐに判明した。
一人はリオン・ファレル。行方不明になっていたかの名高き銀弓の魔術師だ。
そして彼が連れていたもう一人の人物───。
「月見一颯って言えば、お前は分かるかな」
「イブキが!?」
「いやぁ実に楽しみだ、捕らえたらお前の目の前で楽しませてもらうから楽しみに待っててちょうだいね」
女は言いたいことだけ言い残し、生臭い肉片を放置したまま地下室を後にした。
残されたオリオンは握り潰されるような倦怠感など完全に無視して明けの世界にいた彼女を想い描く。
助け助けられ、剣を取って共に戦い、明るい笑顔と優しさで包んでくれた人であり─────最後には謂われのない彼の罪に怯えたごく普通の少女。
こんな形で自由を奪われて、恐らくまだ複雑な心情を秘めたままであろう彼女にどんな顔をして会えと言うのか。
恐ろしい死が蔓延する世界に飛び込んできた一颯に笑って応えたりはもう───絶対にできない。
肉体の操作権を奪われていても喋るなどの微々たる動作は今までもできていた。
魔力の吸い上げる鎖を力いっぱい揺する。何度も、何度も、何度だってボロ切れになった身体を奮い立たせて壁に枷ごと腕を叩きつける。
不愉快な金属音が地下室に響き渡り、ゆっくり反響して消えて────枷には傷一つ付かない代わりにオリオンの手首には血が滲んだ。
「…………イブキ……なんでだよ」
オリオンの存在そのものが、普通の少女に戻ったはずの一颯を再び宵の世界へ引き戻してしまった。彼女はあくまでもあちらの世界で太陽の光を浴びていてほしかったのに、夜の星を追って闇に踏み入ってしまって───死と隣り合わせの戦いに身を投じようとしている。
親友がいるから心配ない、なんていうのは二流の考えだ。彼がいくら強くても彼女は弱い、戦いは強いけれど心は戦士のものじゃない。
いっそ見捨ててくれた方が楽だった。
戦った日々を拒絶して、明世界でなにもかも忘れてくれていたら虚無感を得てもこんなに胸が苦しくなったりしなかった。
必要以上に彼女を心配することもなく、リオンかアクスヴェインに始末されて一生を未練なく終われたかもしれない。
彼女がいるのなら────このまま終わるわけにはいかなくなるじゃないか。
────どうして?────
決まっている。
一颯にもう一度会いたいから、無事に明世界に帰してあげたいから。───彼女と話がしたいから。
薄暗い地下で一人、未だ知れぬ思いを抱えて眠りに落ちる。
どうか異世界から訪れる二人の訪問者が無事でありますように、と静かに願いながら─────。
彼が望まぬ彼女には微かに声が聞こえた気がした。