1-19 偽善の対価
青い空に雲は姿を見せず、ただただ眩しい太陽だけが白い光を放つ空。
ここには文句なしの晴天が広がっている。
昨日の夜のニュースでは最高気温37℃が予測され、熱中症には気を付けよと耳が痛くなるほど聞かされた。
とにかく今日は暑い、深夜に現れる異形なんて相手にならないくらい今年最強クラスの猛暑日だ。
それでも女という生き物は遠出するならオシャレに着飾りたいもの。
月見一颯は可愛らしく、大人っぽく、清涼感ある夏のコーデを昨晩から綿密な計算とネットサーフィンの果てに編み出し、"休日の少し背伸びしてみたスポーティ女子"風に仕上げた。
素でいても可愛い華恋がいるのだからこれくらい張り切っても問題ないはず。むしろ本格的なおでかけコーデは久々なので彼女の気分は上々、気温と共にホットになりつつある。
「背伸びしなくてもイブキはでけえだろ」
オリオンの超失礼でデリカシーの欠片もない発言に出鼻を挫かれるまでは。
午前10時の尾野川駅前は休暇期間特有の活気に満ちていた。
夏休みも始まって最初の週が半分経とうかというこの時期は、そろそろ帰省だなんだで見慣れない人間が多くなり見慣れた学生服やランドセル姿は逆に少なくなる。
今日に限ってはオリオンや一颯たちもその"見慣れない"大衆に紛れてちょっとした旅に出るのだ。
広場の木陰で仲睦まじく話をしていた璃音と華恋の仲良しカップルと合流。10時12分発の電車を待つ。
梓塚市はK県の中央部分に位置する。そこから約40分かけて海が広がる東部の有名な都市部まで移動し、お昼頃には目的のパンケーキショップに到着する予定だ。
深夜帯に行動していた男性陣が電車に乗る前から寝る気満々なのは少々難儀な話だが、璃音の様子を見ている華恋が気にする素振りはないので仮眠くらいは許すのが女子として最低限の優しさだろう。
「オリオンに振り回されてませんか、先輩」
「だから会いたくなかったんだ……」
童顔で小さく全体的に幼い年下にしか見えない───むしろ年齢が逆ではないかと疑いの目を向けてしまいそうな二人の付き合いは一颯が思っていたよりも短いらしい。
短い期間に彼らはそれぞれ一人では解決できない問題を抱え、解決のために協力しあったことがある程度。璃音の場合はオリオンにはこちらの世界に来る時かなり借りを作ったとか。
その話を聞いた瞬間から彼の諸々の態度がツンデレにしか見えなくなったのは内緒だ。
予定の快速電車に乗り、席が確保できた途端にすっかり眠りについた二人は兄弟にも見えるほど寝顔はよく似ている。
顔つきや性格はあまり似ていないはずだが、意識してみると雰囲気だけなら親戚同士っぽくも見える気がした。
「そういえば璃音って弟さんなんですよね」
「あー、前に言ってたわよね」
璃音から話を聞いた時にちらっと出てきた「兄上」の言葉。
こんなにかっこよくて周囲に世話を焼いたりする璃音が長男や一人っ子ではなく弟なのだから驚きだ。
「よく似たお兄さんかぁ……どんな人なのかしら」
「ホントにそっくりさんらしいですよ!」
「へぇ、会ってみたいわね」
「はい!」
華恋の笑顔は本心から溢れている。
兄の存在が事実だとしても、恐らく異世界にいるであろう彼と会う機会は残念ながら彼女らにはない。
また長い耳をチラリと見せるオリオンは"兄"と会ったことがあるのだろうか、今度聞いてみることにした。
流れる風景が住宅街を、畑や木々を、ひとつ町を抜けて電車は地下に潜る。
社内の人が少なくなった終点駅に到着してからまだ寝ぼけている二人を揺さぶり起こし、次の電車に乗るため急いでホームを移った。
改札口で四苦八苦しているオリオンの姿が現代に慣れていないことをアピールしていて面白い。以前バスに乗ったら降車ボタンが分からずバス停を乗り越していたこともあったし、彼は現代的な乗り物のシステムにはめっぽう弱いみたいだ。
次の電車は都市部に繋がることもあってかさすがに全員座ることはできなかったため、お昼寝も自動的にお預けになった。
《次は────、お出口は左側です》
電車が滑り込んだ構内にはサラリーマンや四人と同じく遊びに来た同世代が列をなして到着を待っていた。
お喋りしていると40分程度は短く感じるもので、気が付けばもう目的地にいる。
両親とは大半が車移動で、祖母の家も笹口にあるせいか電車での遠出をめんどくさがる性格の一颯だが、友人たちとならこうして出掛けるのも悪くないと思った。
地下にあるホームを出るとごった返す人の多さは尋常ならなくなってきた。一人でふらふらしたらそれだけで迷子になりそうだ。
今回の主催者と書いて主犯と読まれるべき華恋は、駅を出て早々に尾野川町や浜津よりよっぽど栄えている繁華街を見ただけではしゃいでいる。デートのたびにこうなるとしたら璃音はかなり苦労しているかもしれない、バカップルだから一緒に楽しんでいる可能性も高いが。
パンケーキショップは今いる繁華街を抜けた先にあるようだ。
「早く行きましょう!」
人の多さに辟易していた璃音の手を引っ張り駆け出した華恋を追って、二人も迷子防止に手を繋いで走り出す。
まるで青春漫画の一部始終かとツッコミ入れられそうなワンシーンは周りで見ていた知らない誰かからも四人がWデート中のカップル二組に見えているようで、特に付き合ってもいないオリオンと一颯にはニヤつく視線で背中が痛い。
────でも━━はちょっぴり嬉しいと思った。
折り込みチラシの影響か、はたまた最近流行っているのか、目的の店はかなり混んでいる。店内に入るのを待つだけで一時間はかかるそうだ。
だが、せっかくここまで来たのに食べずに帰る選択はない。
諦めの悪さには自信があるスイーツ系女子に乗せられて、ここから人が倒れるレベルの猛暑に身を晒しながら本当に待機することになった。
「みんな水分補給しなくて平気?」
「喉からからです……」
「俺も!」
「そのわりに元気がいいな」
「うっせえな」
家を出てから飲まず食わずで二時間となれば、熱中症の危険も出てくる。
すでに華恋、嘘か本当か分からないがオリオンが水分不足を訴えているのが現状。
走りながらコンビニの位置を確認していた一颯が「飲み物を買いに行く」と言い出して、列を離れて元来た道に戻っていった。
街が広いからといってそんなにすぐ迷子になるほど彼女は方向音痴ではない。
しっかり者だしさっさと買うものを買って帰ってくる、そう思って三人は一颯を普通に送り出した。
────そして、30分が経過した。
「ダメです、先輩ってば既読付きません」
スマートフォンの液晶には華恋と一颯のメッセージ画面が表示されている。
「もしかして迷子ですかぁ」「どこのコンビニですか? 迎えに行った方がいいですか?」「本当に大丈夫ですか?」というメッセージの後に通話が三回。どれも未読のまま。
「参ったな」
「スマホ置いていっちゃったのかな」
「カバン持ってったけど」
「あぁそっか」
駅前からこのパンケーキショップまでの距離は走って約5分、歩いても15分かからない。最寄りのコンビニの場所は不明だが、走っている間に確認できるならそう遠くはない。
長時間買い物しているだけならともかくメッセージに既読がつかないのは不可解な現象だ。
あの一颯が街中を彷徨く不審人物にどこかに連れ込まれた線もないと見ていい、護身用の体術は剣の稽古の合間にオリオンが教えている。一度璃音に殺されかけたこともあるため、異形や彼に比べたら頭がおかしいだけ犯罪者なんてもう怖くないだろう。
ただし、不審人物が明世界の住民の場合に限る話だ。
昨晩の話から始めよう。
オリオンと璃音は深夜12時からいつも通り異形の討伐と観察を目的にマンションの屋上で待機していた。
結論から言えば変異体は現れなかった。融合体も、アクスヴェインの手の者も。
宵世界からの使者が明世界に出現すれば亜空間の扉から魔力の反応があるため感知しやすい。梓塚市は特異点化しているからこそ扉を開ける、故に魔力感知が作動しなかったというオチはありえない。
いくらゼピュロスが魔力の気配遮断能力を持っていたからと言って、前線に出ないアクスヴェインにはそんな器用な真似はできない。これは彼がゼピュロスを創ったという仮定が前提になってしまうが。
では、昨日中に扉を開けた人物は誰だ。
そんなのここにいるオリオンだけと決まっている。
ならば彼が扉を開いた場所は?────アーテル王城のエントランス、敵陣のど真ん中だ。
これは凡ミスでは済まされない。
オリオンの行為はわざわざ敵のために自陣の門を開けてしまったようなもの。
二人に変異体の出現を警戒させ、魔力感知されず密かに行動すればただの人間が歩いているだけにしか見えない。異形をアクスヴェインがコントロールできるなら攻撃もされない。
そんな中で梓塚以外の地域に移動されれば璃音の高性能魔力感知でも見逃してしまうに決まっている。
これらの結果を総合し、一颯が今なにをしているかは最早想像するまでもないだろう。
「リオンいいか」
「……華恋」
「はい! なんでしょうか!」
「俺達は今から月見を探してくる。華恋は絶対にこの店から離れるな、店員以外からの声かけは無視していい」
「──わかりました、ちゃーんと三人で戻ってきてくださいね!」
華恋の返事に含みを感じたが今はそんなのを気にしている場合じゃない。
紛れ込んだ異界の住民たちを見つけ出せば一颯も自動的に見つかる。問題はその後だ。この街中で鉢合わせたら十中八九戦闘になる。
人権なんて気にせず実験に使う連中が街を歩く人々を巻き込まないという保証がない。
コンビニの位置はやはりかなり近かった。
川の上の広場の駅側から見て手前の場所、人は多いが広場が大きい分人混みに飲まれたりする危険性もなさそうに見える。
───ところが、かけられた橋の隅っこにはやたらと人が集まっている。
「君たち、お話いいかな」
制服を着込んだ警察が二人に向かって駆け込んできた。
曰く、橋から女の子が一人落ちたらしい。
目撃者によれば直前の彼女は自殺するような雰囲気ではなくこんな川に落ちた程度じゃ死ぬこともない。
一人で勝手に落ちてハプニング───でもなかった。
女の子は話しかけてきたスーツ姿の男に肩を押され、柵をすり抜けて川にまっしぐらだったとか。
石造りの柵を少女の体重で壊せるわけがない、そんなバカなと思うだろう。しかし同じ目撃証言が多数寄せられ、スーツ姿の男が駅から出てくるのを見たという人物もいた。
警察はまず消えた男を捜していて、二人にも声をかけたのだ。
「その女は浮かんできたのか」
「いや、全然だ。もうすぐ救助隊が来ると───」
警察の話を最後まで聞かないまま野次馬が集る橋の上、少女が落ちたという場所に移動する。
そこで見つけたのは驚くべきものだった。
「空間魔法……!」
周囲の人間には見えていないのか、橋と川の間にはガラスのようにひび割れた空間が浮かんでいる。
ここから落ちたらちょうどその空間にすっぽり入るようなベストな位置取りが意味しているのは、少女が川ではなくこの空間に消えた事実。それたなら浮かんでこないのも納得が行く。
そして空間魔法は一般人に見えていない。完全な推測になってしまうが少女には空間が見えていた可能性が極めて高い。
つまり、少女の正体は一颯だろう。
空間の先になにがあるかは分からない。もしかしたら牢獄や危険な動物のいる別空間に繋がっているかもしれない。
だとしても、彼女は明世界の善良な一般人。助けにいかないのは剣士の名折れというものだ。
「俺行ってくる!!」
「おい早まるな……全く……ッ!」
人の目も気にせず飛び込んだオリオンを追って璃音も柵から降りる。
突然の飛び降りにざわざわと騒ぎ立てる野次馬の声は、空間の中に入ったことで次第にかき消されていった。
意外にもすぐ出口に到着した彼らは、川の中ではなく空の上に出現した。
内部は先ほどと同じなのに誰もいない広場。灰色に染まり、陽の光と暑さをまるで感じさせない見た目だけを真似た無音の世界。
人の代わりに溢れているのは濃密な魔力の香り。
すでに明世界での服装という殻は脱ぎ捨て、魔装束を纏った彼らが密度の高すぎる魔力の流れから感じ取った情報はひとつだけ。
「この空間だけが宵世界になってる……!!」
世界の壁を越えた空間を造り出す上位魔法は明世界の太陽の光を完全に封じ込めている。
オリオンの脳裏には日が射しているのに射していないこの状況で起きうる事態もまたひとつ浮上してきた。
なによりも未来を視る"彼"の瞳がこれから起きることを正確に視認していた。
「来るぞ───!」
「おうッ!」
アスファルトに引っ掛かる爪の音。
繁華街の隙間から睨む眼光が二人の姿を捉えて広場へ飛び出した。
登場したのはむやみやたらに数が多い通常体に加え、人間の顔をした狼のような異形──融合体が10体ほどだ。
人面犬と化した幼い子供の表情は苦痛に歪み、鳴き声とも言い難い訳の分からない悲鳴を上げて突進をかまして来る。
璃音は攻撃されれば融合体であろうが容赦なく反撃し、喉元に向かって魔法を正確に撃ち込んでいく。オリオンから融合した者が分離できないと話を聞いている時点で助ける方法は考えていない。
ところがそれを伝えたオリオンは融合体に攻撃されても防御した後は無視して通常個体ばかりを斬り伏せる。
───彼は恐ろしいと思っていた。融合体の自我が壊れていたとして、攻撃された反動でまた復活してしまうこと。
一颯の身になにかがあったかもという状況でもバルトの一件が頭から離れない。
「オリオン、今は集中しろ。どうでもいい悩みで死んだら元も子もないだろうが」
「わぁってるって! ……融合体は任せる」
「勝手にしろ」
無鉄砲に駆け回っているだけのクセに数だけはとにかく多い異形をひたすら刻む。
建物や草木が空間を形にする際に必要だったおまけなら焼き払ったり破壊することに抵抗はない。炎や雷が剣舞と踊り、血飛沫を焼きながら合間にいるだろう第三者を探す。
アクスヴェインがどこかに隠れているのは融合体がいるだけで明らかだ。
怪物の魔の手を斬り、穿ち、その頭をバネにして上空から男の痕跡を見つけ出す。絶対に逃がしはしない。
雷鳴轟かす紅い流星は束になった異形相手にも臆さず果敢に立ち向かう。打ち上げられた白銀の光に乗って空からその全てを黒夜の輝きで討ち滅ぼした。
「見事だ。銀弓の魔術師と組まれればこの程度の数では傷すら付けられんな」
異形の灰が突風に流されると共にどこからともなくどす黒い男の声が響く。
「アクスヴェインッ!!」
現れた男は黒いローブの兵士を連れている。白いローブの剣使いや噂の女従者の姿はないが、たかが二人に対して十数人の兵士とはかなり警戒されているとしか思えない。
少し離れて黒ローブの中身を全て見たらしい璃音は一度息を吐き、オリオンの隣に戻ってきた。"アイツ"を探していたようだ。
「イブキはどこだよ!!」
「猛るな反逆者。……銀弓の魔術師も随分と久しい」
「挨拶は結構だ、それよりこちらの質問に答えてもらおうか」
「───では再会の挨拶は省かせていただこう」
アクスヴェインは背後の兵士に前を譲る。
そこには大柄な男に捕らえられた一颯の姿、頬を赤く腫らして項垂れていた。
「お前……ッ!! イブキになにしやがった!」
「オリオン・ヴィンセント、貴様は彼女に随分と入れ込んでいるようだな」
「はぁ……?」
「我々は貴様を誘うため、彼女を利用したに過ぎん。顔の腫れは捕らえた際に暴力的な手を使ったためだ」
オリオンが開いた扉を利用してこちらの世界に来たアクスヴェインは、コンビニから戻ろうとした一颯に道を聞く体で声をかけこの空間に閉じ込めた。
彼を誘い込むため彼女を捕らえようとしたが、思いの外抵抗されたため兵士の一人が独断で顔を殴ったと言う。
たった一人……オリオンのために一般人の少女を傷つけるなど世界の壁があろうがなかろうが到底許される行為ではない。
「コイツぶっ殺して───!!」
「落ち着け」
「止めんなリオン!!」
「下手に動けば月見がどうなるか分からない。少しは冷静になれ」
「────っ」
振り上げた剣を下ろし、一旦呼吸を整える。
あれは人質だ。戦力的に勝ち目がないとアクスヴェインは分かっているからこそ最初に一颯を連れ去り、二人の攻撃を妨げる理由作りをした。
彼はオリオンが一颯に対し好意的に接している事実をゼピュロスを通じて知っていた。
もし城から逃げるならマーリンのいる花の楽園ではなく彼女がいる明世界に行くだろうということも全て。
知っているならこれを利用しない手はない。
「────ん……っ」
「もう目覚めたか、君は魔法抵抗力が高いらしい」
「えっ……オリオン……!?」
周囲の状況を読めない一颯は首を振りながら辺りを確認し始めた。
敵を前にして剣を向けないオリオンや隣で笑みを浮かべるアクスヴェイン。自らがなにをされているかしっかりと理解した上で屈強な男に掴まれた両腕を振りほどこうと暴れるが、表情の見えない男は動きもしなかった。
「なにするのよ離して!」
「離してやってもいい。だが君が私の話を聞いてからだ」
「話って……」
「君はオリオン・ヴィンセントにどんな感情を持っている?」
一颯がオリオンに対して持つ感情、そんなものは決まっている。
彼は命の恩人にして非日常へ案内した張本人。非凡な世界の幕開けがバラバラになった家族を元通りにする機会となって、最終的には宵の世界に消えていった────一言では表せない存在。
強いて言うなら感謝するべき相手、だろう。異性として意識しているかはそれこそ彼女のみぞ知るところだ。
「まぁ好いていようが嫌っていようが構わん、今からあの浅ましい偽善者の正体を教えてやろう」
アクスヴェインの宣言にオリオンの顔が真っ青になる。
どうしても言えなかった自分の秘密。
嫌われると思って話せなかったその出自。
何故あの男が知っているのかを疑問に思う間もなく彼の足は動き出した。
開いた口を黙らせるべく、下ろした剣に今一度命を奪うという目的を持たせて璃音の制止を無視したまま最速でアクスヴェインの首を落としに向かう。
「いいのか。小娘を殺すことは容易にできるのだぞ」
「ッ……きったねえぞテメエ」
「貴様に流れている血に比べたら私の行いなどどうということはない」
彼の血筋に関わる話となると、両親がいないと自称していたことが思い出される。
どちらの顔も見たことがなければ父親は産まれてすぐ死んだとか、生きているからといって母親に会いたいとも思わないとか彼は言っていた。
一体、彼の正体とはなんなのだろう。
捕らえられた側の一颯は最初は聞く気もなかったが、今は何故か興味を持ってしまっていた。その様子に気付いていても手を出せない彼は剣を持たない左手を爪が食い込むほど握り締める。
なんとしてもあの忌々しい男の口を塞ぎたいのに動けば一颯が危ない。歯痒さに苛立ちだけが募る。
「君は夢魔という生き物を知っているか?」
「夢魔……? なによそれ」
「馴染み深い名で呼ぶならそう───サキュバス、だ」
正確にはサキュバスは女性体の夢魔を表す名称だ。男性の場合はインキュバスを指す。
夢魔そのものは名前の通り、夢に関する悪魔。
夢の中に現れて眠っている対象の人物と性交を行い、男女の個体によっては悪魔の子を孕ませるか精を奪うとされている。実際は個体差など存在せず、性別も思いのままに操ることができるらしい。
「あの男は同族殺しだ。梓塚に出現する異形を正義の下に狩り続けているが、本来ならば奴も刈り取られるべき存在なのだよ」
「なにが言いたいの」
「オリオン・ヴィンセントは異形・変異体───夢魔の混血児。精を好み吸い尽くす本能に抗えない怪物だ」
「……変異体……? オリオンが……?」
情報量が脳の処理に追い付かない。
梓塚を闊歩する変異体を倒すため、あれだけ躍起になっていた彼自身が異形でありましてや変異体だったなんて予想以上だ。
事実かを問おうとオリオンの方を向けば、無言で俯く姿が事の真偽を如実に表現していた。
確かに宵世界の変異体は梓塚に出現するものとはだいぶ異なる。以前も語られた通り、吸血鬼やサキュバス、竜なども異形・変異体と総称される。だから彼が混血児ということを鑑みずとも、人の形を成して人と同じ知能を持ち合わせていようとなんらおかしくはない。
しかし一颯はオリオンが本能に抗えないというのが引っ掛かった。彼は10日間一緒にいて一度も一颯に対してそうした感情を向けたりはしなかったからだ。
「そうか、アレといたのは10日間だけか。───それではまだ自覚できていないだけかもしれんな?」
「自覚、って……」
「こちらの世界には子を成したことが早期に判る薬があると聞いた。試してみてはどうだ」
「───そ、んな……うそ、っ……」
夢魔の本能はなにか、無論性行為だ。
精は魔力に変換できるため、彼らは性交を行えば魔力を増やすことができる。故に夢魔の魔力は膨大だ、これはオリオンも例外ではない。
そして当時の彼は力を使い果たして魔力不足。一方の一颯は豊富な陽魔力を有している。入れ込んでいるの意が異性に向ける感情だとしたら、彼すらも自覚しないまま本能を吐き出していた可能性がないとは言えない。
「違う、絶対……そんなことしてない!!」
当事者のはずのオリオンが声を震わせまだ真実と判明していない仮説を否定する。
「ない、と言い切るか。貴様の父は本能のまま貴様の種を吐いたというのに」
「なっ───!?」
「だから浅ましいと言っているだろう。貴様も人間を貪って、梓塚の異形どもとしていることは変わらんではないか。……いいや生かしている分貴様の方が悪質だな」
自覚できない自らの行いを父親の存在ごと誘導され、もう彼には嘘かどうかなにも分からなかった。
話を聞いた一颯は本当に解放され、呆然としたまま下腹部と口を押さえている。
「この……絶対殺してやるッ!!」
「来るか、いいだろう。その聖剣で私を頭から割いてみろ」
「んじゃあ、望み通りにしてやるよ────!!」
精神の揺れから流れた涙を隠さず目尻を赤く染めたまま突撃した。
一気に距離を詰め、赤雷迸る魔法の剣を黒い夜の色に沈めて忌むべき男の頭蓋に叩き込まんと高く振り上げる。
兵士たちは動かない。隙が大きすぎる男はすぐにでも頭を割られて絶命するだろう。
────が、
「なっ……なんだよ、これ……!」
ギチギチと震わせた両手に握られた剣はアクスヴェインの額を直前に動かない。
───否、剣だけではない。オリオンの全身が本人の意思に反して全く動こうとしていないのだ。大地を駆けた足も、剣を振るう腕も。
喋っているため時を止められたわけではないようだが、それが分かったところで状況が変わるわけでもない。
「私に攻撃した際に自動発動する操作魔法だ、玉座の間に入った時点で詠唱は完了している」
オリオンの首に巻き付いていた透明な魔力の糸は彼から彼の肉体を操作する権利を脳から奪い取った。魔法が解除されるまでオリオンの肉体を操れるのは赤の他人ことアクスヴェインだけだ。
全てはオリオンに直接攻撃させるための嘘っぱちだった。
彼の正体が夢魔の混血児である点を除けば事実とは全く関係のないフィクションがアクスヴェインの口から語られていたのに気付いた時にはもう遅い。
一颯は事実に気が付き顔を上げて剣を構えたまま硬直した彼を見たが、目を合わせることができなくなったオリオンには一颯の表情を読み取ることはできなかった。
「自分の意思では動かんだろう? では動かしてやる、最初の命令だ」
肩に手を添え、耳打ちするような形でアクスヴェインは彼の身体に語りかける。
「────月見一颯を殺せ」
一瞬ビクリと全身に震えが訪れた。
それが合図だったのか、オリオンの体は勝手に一颯の方を向き座り込んだままの少女に剣を突き立てる。
脳は必死になって抵抗しているが、体は自由にならない。
「ッ……イブキ、早く離れろ……!」
「あっ、いやっ……私は───」
「リオンッ!!」
彼の声は青い色の光を呼び込んだ。
銀の弓から撃ち出された無数の弾丸のごとき矢が二人の周りを余すことなく砕き消し、灰色の空には似合わない夜の群青が一颯を連れて煙にかき消える。
「月見、撤退だ」
「でもオリオンが……!!」
「今の俺ではアイツに勝つ自信はない」
最強の魔術師だと聞かされた璃音からあまりに弱気な発言が飛び出し、愕然とした一颯を抱えたまま空間魔法の隅に着いた璃音は背後に迫る兵士の気配を感じながら破壊力の高い爆裂系の魔法を解き放つ。
猛烈な一撃に全員の目が眩んだ間に破壊された世界の隙間から脱出する。
本当ならオリオンも連れていくべきだが今は命を狙ってくる彼を殴ってでも外の世界に連れ出すことは叶わなかった。
あるはずのない明けの宵世界に取り残されたアクスヴェインは自らの目の前で跪いた剣士を見てなにを思っただろう。
今はその真意を知ることはできない。
ただひとつ明確に分かることは、オリオンが完全に敵の手中に収まったという最悪の結果だけだ。
◇
帰ってきた。
「うっ……ぅ、あぁ……」
「───月見」
二人で、明世界に帰ってきた。
「私のせいでっ……オリオンが……」
彼女の代わりに彼がいない。
寂しげに降る予報になかった豪雨は、心を濡らして不安を満たす。
────まだ止みそうにない。