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ANASTASIA  作者: 桜依 夏樹
Dear Moonlight 明世界編
21/133

1-13 終わりの夜





「花の楽園へようこそ、月見一颯ちゃん」


 楽園の在処を示す美しき花の化身。

 長い白髪を彩る異彩は大地に撒かれた永久の花より可憐で雄々しい。

 陶器や浮かぶ雲にも遜色ない白い肌は法衣に包まれているが、髪の長さといい長い耳といいどこか見覚えがあるような気がする。

 "あなたは誰だ"。

 簡単な質問は喉を通らず、言葉にすらならずに掻き消える。


「あ、あぁすまないね。君の存在権と発言権を許可していなかった。───ほらこれで話せるだろう?」


 小さく呟かれた言葉によって、ふ、と息すら満足にできないような感覚に囚われていた一颯の肉体が楽になった。

 声も少しずつ出るようになり、視界がとてもクリアだ。目の前の幻想を模した男の姿がさっきよりはっきり視認できる。

 この場での自由度がぐんと上がったことをしっかりと確認し、改めて"あなたは誰だ"と問う。


「誰か、かぁ……さっき名乗った通り、僕はマーリン。こんな世界に引きこもっている大昔の魔術師だよ」


 彼──魔術師・マーリンは軽薄そうな笑みをやめず、大人のクセに足をバタバタさせて疑心を宿す一颯を見つめる。

 花の楽園とはどこかと彼女に問われれば「誰も知らない夢の中」だと言い、岩から離れて彼女の手をとり花畑に繰り出した。

 血が通い、温かなはずの手は不思議と冷たくて人らしさがまるでない。もちろん彼は人の形はしているし、手から通じる肉の感触も外見に違わない。

 なぜか形は借り物なだけの人外、なんていうイメージが湧いてくる。


「君が夢を見ているんじゃなくて、僕が君に夢を見せているんだ。本来の君は楽園に辿り着けるほど高位の魂ではないからね。……尤も僕も大した霊格は持っちゃいないけど」


 悠々と花の道を往く男は洒落っ気を醸しながらやけに難しい言葉を並べ続ける。


「毎晩外に出て疲れるだろう、腕も足も擦り傷ばかりですまないね」


───そんなことはない、自分は好きでやっている。


 彼女は自分から願い出てオリオンを手助けしている。責任を果たしているだけなのでコイン一枚の報酬すらない。

 だが、お金や幸せは手に入らなくても彼と夜の世界に赴くことは嫌いじゃなかった。本当ならこれからも隣で、剣を振るい魔法を放つ彼の燦然と輝く星のごとき勇姿を見守っていたいほど。

 それも今日で終わる。

 変異体を倒し、宵世界に帰れば彼の魔力不足がなんらかの方法で解決するだろう。となればもう一颯はお役御免。無事一般人に元通りというわけだ。


「そうだね…君は君の意思であの子の助けになってくれた。僕は嬉しいよ、彼が出逢ったのが君みたいな優しい子だったことがとても。……さて、そんな愛らしくて美しいヒトの子に、僕からひとつ、感謝と労いの気持ちとしてプレゼントを贈ろう」


 手を出して、と言ったマーリンは一颯が広げた右手に自らの大きな手をふわりと被せ、全身から花の香り立つ魔力を練り上げる。

 オリオンや璃音より更に濃密の魔力は一颯の身体を巡る陽光のエネルギーと重なり、花畑を揺るがすほどの力が溢れ出てきた。

 ───そう、これは月の光が差した夜、彼から受け取ったものと同じもの。

 確かに握られた光を湛える結晶体は彼を象徴する燃え盛る赤とは違う楽園の主に相応しい桃色の花のようだ。


「これは僕の"追想結晶"、君やオリオンがピンチになった時きっと力になるはずだ」


 微笑みを絶やさない男の手が完全に離れたと同時に、身体と意識が薄暗く遠ざかる。話を聞く間もなく始まったブラックアウトのせいで声と手は伸びようとしない。

 二つ目の結晶──それだけが微かに残り、ゆっくりと世界は途絶えていく。


 男の背後から射し込む太陽の輝きが彼女を楽園の端から元の世界へ。夢の中から現実へと全てを引き戻して朝を迎えた。


 カーテンの隙間からゆらゆらと太陽が入り込み、彼女の目覚めを促す。

 そして開いた瞳が最初に見たものは、夢の中で優しげでヒトらしさを失った男に渡されたあの小さな花の象徴であった。





「だぁから、ンなモン使わなくていいっつの」


 深夜11時55分。

 寝静まった月見邸内で密かに行動を開始した彼らは、一颯の両親の睡眠をより深い状態に保つために魔法を使い、自らのダミーを準備したところまで終わり、真っ暗なリビングで待機していた。

 ……のだが、オリオンは非常に不愉快そうな態度と苛立ちを隠さずに困った顔の一颯と対面中だ。


 今朝一番に一颯が見せた結晶体。中身の魔力感知程度なら造作もない彼はなんだこれくらいの気持ちで目を通した瞬間、目が覚めるより先に凍り付いた。

 朝起きたら持ってて夢の中で男の人がくれたと一颯から聞いた時点で何者の仕業かはある程度は予想していたが、まさか本当にそれがアレであることに眩暈すら覚えるほどの衝撃。

 しかも一颯が挙げたのは彼の予想や脳内イメージ図になんの違いもない「マーリン」という男の名前。

 この頭の痛くなる事態に楽園の隅で腹を抱えて爆笑する姿が目に浮かぶようで心底腹が立った。


 しかし前提としてマーリンとオリオンの関係など一颯は微塵も知らないし、一言も接点には触れていないので、勝手にあわあわしている彼はとても滑稽であったとか。


 ここまでが今朝のやり取り。

 では、現在なにをしていたのかと言うと、追想結晶と呼ばれた追想武装を収納した魔力の石を戦いの場に持っていくべきか置いていくべきかの相談をしていたのだ。

 一颯は追想武装なら使えるかも、という理由で持っていく派。オリオンは先程言い放った通り、必要ないという理由で置いていく派となっている。最終的に決めるのは結晶の所持者たる一颯だが、戦闘面では自身より圧倒的に上回る彼の判断を仰ぎたかった。

 曰く、この追想武装は一颯が一度纏ったわけじゃないため、どんなものになるかが戦っている最中に判明してからじゃ遅い、とのことだ。


「それにイブキは魔法の特訓なんてほとんどしてないだろ。剣がちゃんと使えるんならそっちだそっち」

「なによそのアヤフヤな説得は」

「ミスったらあぶねえって言ってんだ」


 「持ってってもいいけど出番はねえからな」とだけ伝えた彼は時計が12時を指しているのを確認してリビングを出ていってしまった。


 彼の後を追う前にテーブルに転がされた二つの追想結晶と向き合い直す。

 内に炎を宿した赤い追想結晶はオリオンから受け取ったはじまりの力。どんな宝石より美しい剣と真紅を靡かせる漆黒の装束は、真夜中の魔を斬り穿つ宵の剣士の姿を模している。

 以前一度だけ月光を彷彿とさせる黄金色を纏ったこともあったが、それが発現するのを期待はできない。

 隣の桃色の追想結晶は中身の知れない贈り物。彼はああ言っているものの、必要ないと断定するのは送り主ことマーリンに申し訳ない。

 二つの結晶を両手に握り、ポケットに突っ込んで玄関先のオリオンを追った。


「先輩、ちゃんと来るよね?」

「口は悪ぃけど約束破るようなヤツじゃねえよ」


 口が悪い(それ)を君が言うか、と半ば苦笑気味に言い返す。


「そりゃあ俺が誠実だって言ってんのか? ……間違ってないけどな!」

「……うん、貴方そんな感じするわ」


 小学生かと見間違うほど子供っぽいドヤ顔を見たら一颯も「違う」とはとても言えなかった。


 玄関を施錠し、しっかりと戸締まりがなされているのを確認した二人は武装状態を整え、星宮高校の方角へ。

 最終決戦とは銘打っているが二人の間に緊張感は大してない。否、なくていいのだ。普段と違うことを意識するだけで体の動き方は変わってしまうもの、それが原因で命を落とす結末になってしまうことになっては死んでも死にきれない。

 ただ、敵がいつもと違うスタイルである、とだけ頭に入れておけばいい。

 なにも変わらない。やることは同じ。

 異形を斃す。介在する要素はなく、それ以上もそれ以下もない。


 二人が自宅を出てから異形の姿はない。しかし星宮高校に近付くにつれて特有の獣臭さと魔力の気配を感じられ、引き寄せの結界が早速効力を発しているのが実感できた。

 校内は当然ながら真っ暗。

 校門前の電灯がささやかに照らす黒い影が視界に入り、上手いこと近場に着地して待ち合わせのポイントに向かう。

 暗黒に潜む暗影のごとく薄暗い彼は相変わらず一颯としては見慣れない魔装束(スペリオルメイル)を着込んでいた。


「待たせた!!」

「遅い」

「怒んなよ。怒りっぽいと嫌われるぜ」

「先輩お待たせしまし───た?」


 オリオンの後から着地した一颯の眼が捉えたのは先日の璃音の手にはなかったモノ。


「ああ前に言ったっけ。リオンはな、宵世界(むこう)じゃ魔法専門のクセに弓の名手ってんで"銀弓の魔術師"なんて異名で呼ばれてんだよ」

「その呼び名はやめろ、恥ずかしい」


 しかもその白銀の弓は伝承に名高き遺装(アーティファクト)の本物に勝るとも劣らない贋作(レプリカ)らしい。

 一颯は以前、弓道部の顧問と華恋に話を聞いたことがある。彼は弓道部に入部する前、つまり体験入部の時点ですでに一流の腕を持っていた、と。当時の部長が驚愕した一射は形こそ弓道的には素人のそれであったが、確実に的の中心を射抜いていたそうだ。

 昔から弓道を嗜んでいたわけではないことを自ら称する彼が何故?と色んな人間が疑問視していたが、これなら合点がいく。

 黒弓璃音(リオン・ファレル)は元々遠い別世界で動くモノの急所を的にしていた。だからこそ、動かないモノの中心を貫くことなど造作もないのだ。

 そして彼の腕を確固たるものと証明する"銀弓の魔術師"という異名。

 オリオンが遠距離支援型を欲していたが、最早支援という型には嵌まってすらいなかった。


「念話でパスを通すから、どうしても俺が間に合わない時はリオンに助けてもらえよイブキ」

「貴方が間に合わないのに先輩がって無茶ぶりじゃ」

「矢は全て魔力で生成している。俺の意思で速度強化くらいは問題ない」

「む、無茶苦茶だわ……」


 改めてこの不思議な先輩から常識はずれを感じた。

 だが心強いことには変わりない。一度は彼女も殺されかけたが安心して背中を任せることができそうだ。


 璃音は学校の裏山に位置する鉄塔に待機、ここから異形に気付かれないよう不意打ちと二人が身を守りきれない時には支援攻撃。

 オリオンと一颯は校門を開き、屋外エントランスエリアのど真ん中に立って、吸い寄せられやってくる異形を迎え撃つ。

 その中に変異体は必ずいる、いるはずだ。

 それぞれが所定の位置に移動する際、オリオンが何度かまた腕を振ったり詠唱したり奇怪な行為に勤しんでいたのを一颯は目撃した。

 最初に魔力の完全回復を臨めた時点から魔力をまた消費してしまった現在、未だ剣が出せていないらしい。

 剣さえあれば変異体など怖くない、一颯に相手をさせるまでもないというのに。非力に弱体化した彼が自身が憎たらしいと拳を握る。


「オリオン、やっぱり剣は貴方に渡した方が……」

「いいやダメだ。剣がないとイブキは自分を守れないだろ、俺に気なんて使って手放したりすんなよ。それに……来たみたいだ」

「来た……?」


 西の方角から微かな魔力の反応───異形だ。

 そよ風が一颯の頬を掠める、そうそよ風が。


 ピリッと、右の頬が痛む。


「血……?」


 思わず押さえつけた箇所はだらだらと出血している。

 オリオンの目線からはカッター系の刃物で切ったような裂傷に見える。


 いつ誰がそんなことをしたのか?


 璃音だって魔法を使う時には魔力を発起させるし、普通の矢は持っていない。オリオンが反撃できる距離であるため、彼が裏切った可能性は限りなく低いだろう。

 異形の場合、通常個体にそこまでのスピードで攻撃する絶技はない。自然現象によるかまいたちとも思えない。

 ────変異体は?


「まさかッ!」


 キャロルから聞き及んだ変異体の特徴は"超スピード"。一颯の隣をオリオンや璃音も気付かない速度でなんらかの攻撃手段を用いながら通り抜けたのだとしたら、風の発生もするはず。


 振り向き見つめた先にはなにがいる。

 いつの間にか現れて背後に立って笑っているだろう変異体の姿をついに捉えて────。


『ニンゲンは、トロすぎルなァ』


 背後の魔物の気付いた時には遅かった。

 すでに間合いは必要以上に詰められている、足を後退させても間に合わない位置取り。

 あまりにも迂闊だった。魔法の準備もせずに振り返っただけでは敵に腹を見せているのと大差はない。

 密着しすぎて纏めて倒されては元も子もないと事前に話を合わせていたため、一颯に届かない距離だったのが救いか。

 いいやそんなことを言っている場合じゃない、攻撃を仕掛けられている。間に合わないことを判っていてもかわすか、相討ち覚悟で反撃か。決めあぐねる時間は残されていない。

 人型らしきソイツが振り抜いた拳を、どうにか────間合いを遠ざけ回避する──!!


(50cm後ろに跳べッ!)


 脳内に響いた璃音の声に従い、大きくステップし後ろへ。

 その瞬間、校舎の遥か向こうにある鉄塔から飛行機のようなチカチカする光が三回してオリオンと何者かの間の大地を抉り抜く。


 土煙が晴れてようやくちゃんとした形で姿を確認し、オリオンは人型の何者かがなんたるかを知って目を剥いた。


変異体(シルフ)なのか!?」


 四大精霊のひとつにも数えられる風の精霊シルフは宵世界にも変異体として存在する。

 優しげな名前からはまるで想像できないが、戦いになれば四大精霊と呼ばれるに相応しい風を操り、素早い動きで敵を撹乱し切り刻む恐ろしい異形だ。


『風ノ妖精、シルフねェ……ボクが、そウ見える? 嬉しイなア……。デモ心外だネ。ボクハ()()()。新たナ神に選ばレタ全てノ命の上位ニ立つベキ異形なのサ』

「喋った!?」


 一颯は人語を話す異形に会ったことがなかった。

 まだ子供のようにたどたどしく外国人の訛った日本語のようだが、それにしてはやけに難しい言葉を使いこなす辺り自分がどんな意味の言葉を発しているかをちゃんと理解している様子だ。


「はぁ? 異形風情が偉そうな口利きやがって、進化種だと笑わせる。ワケわかんねえこと言ってんじゃねえぞ」

『ヒヒッ"異形風情"ッて言ってモ、オ前だッテ似たよウなものジャあないか』

「ッ黙れよクソ野郎」

『ソれニね、ボクは神サマからチャアんト名前をモラってルんだヨ。だカら……()()()()()、ッテそう呼んデよ』


 ゼピュロス、ギリシャ神話における風の神々(アモネイ)の中で西風を司るそよ風の一柱。攻撃時に吹いたそよ風といい、確かに風を操るこの変異体には似合った名前だ。


「じゃあゼピュロスくんよぉ、戦う前にひとつ聞かせろよ」

『イイヨ』

「他の仲間はどうした」

()()()

「そうか」


 無差別に異形を引き寄せていて、気配まで感じていたのに変異体しか現れなかった謎が解かれた。

 共食い野郎め、ぼそりと呟いたオリオンは戦闘準備と一颯に目配せする。


『ダから今日ハボクが全員殺シて食ウッ!!』


 宣言間もなくゼピュロスは姿を消した。

 違う、とてつもなく速いスピードで移動している。肉眼ではとても追いきれないほどの高速さは瞬間移動に匹敵するほどだ。

 なにより驚異的なのはその際に発生する風だ。これだけのスピードで動けば暴風のひとつやふたつは吹き込んで当然のはず。しかし吹かない、そよ風だけが周囲を流れるだけで、重い剣や魔法の予備動作を構えても風がどこから来るのかが判らないので反撃のしようもない。

 オリオンはかろうじて動体視力の強化で見つけられるが、一颯にそんな魔法を使っては眼球が潰れて失明してしまう。

 ここまで速いとはキャロルやアーテルの大馬鹿を呪わずにはいられない。

 璃音には間違いなく見えているが、伝えている間に移動されては結局同じ結果だ。


開始(anfang)防御(Schild)!!」

「ちょっオリオンなにこれっ」


 一颯の周りを覆う盾らしき幻影は防護魔法による物理攻撃を弾く守りだ。

 これで彼女に攻撃が来てもゼピュロスは弾き返され怯むだろう。その糸を通すような僅かな隙を狙いどちらかが一撃を食らわせる。確実に急所は難しいので、動きを止めるためならまずは足を狙ってもいい。

 一方視認できているオリオンは防護魔法なしだ、無駄に魔力を消費してはまたスカンピンになってしまう。

 とにかく一颯だけは守らなくてはならない。彼女を死なせることは彼自身が死ぬよりタチが悪い悪夢だ。守り切る、そう決めた以上は必ず。


氷結(Eis)───鏡面(Spiegel)壁化(Wand)!」


 障害物を召喚し動きの阻害、ついでに鏡を配置ことであらゆる位置からゼピュロスの姿を視る。

 しかし────、


『無駄ァ!』


 猛烈なスピードは壁をぶち抜いて侵入を果たす。

 グリグリと回る巨大な眼球が術者であるオリオンをしっかりと標的に選んだ。先程と同じくこのスピードで間合いを詰められたら今度は背後の氷で逃げ場はない。


『まズは魔法使イ、お前カラ───!!』

「やらせる、かッ!!」


 ゼピュロスが地面に触れたことを深海の青が目にし、突然オリオンは地べたに屈み込む。


『ギッ……!』


 グラグラ揺れる地面は裂けて割れ、その内側から氷山に似た尖った氷の塊が出現し、獲物を前に油断した怪異を串刺しにした。

 オリオンの狙いは的中だ。

 ゼピュロスは自分の速度に自信がある故、絶対に正面を狙ってくる、ならば正面に罠を仕掛ければいい。

 凄まじいスピードを目の当たりにした時から壁を破壊して抜けるのも彼は予想している。だから鏡面壁化を利用し、最初に詠唱した氷結の魔法攻撃を同時詠唱で発動させたフリをした。


「すごい…」


 騙しの一撃に一颯も観客と化して息を呑んだ。

 自分が手出しする必要すらなく終わってしまい、呆気なさで逆に困ってしまう。

 さらさら風に流される怪物の遺体を見上げながら、二人はすっかり警戒を解いて肩の力を抜く。


「ほれ見ろ、やっぱりテメエはただの異形だ」



 ───ただし、璃音だけはこの状況でいまだ弓を構えていた。

 

 いくらなんでも呆気なさすぎる。これなら自分はいらなかったはずだ、一颯を守るための保険にしたっていらない過保護ではないか。

 異形は消える時、灰になって消えてしまう。形は残らず、存在の形跡は失われる。……そうだ、消えるのだ。あれだけ行動や言語をはっきりさせた変異体なら仲間が死ぬ時に起きる現象も理解している可能性は……?

 背筋に寒気が突き抜けるのを感じた。

 

 神に名前を与えられた変異体。

 ソイツが()()()()()()()()()()()()を持っていたとしたら、今も高速で動き続けている。


 そして見つけ出したゼピュロスはあの人物の左斜め上の位置で止まった。


 弓に矢を番え、射ち放つ。

 一か八か間に合うか分からない。いや間に合え、間に合ってくれとどこか心の中では思っている。


 同時に一颯も敵の動きに気がついた。

 彼女がすぐに勘づいたのは距離。僅かではあるが、ゼピュロスのスピード相手では間に合わない。


「オリオン!!」


 叫ぶことしかできなかったが、その行為がどんな意図を持つか彼には十分伝わった。

 魔力のパスをすぐに切り、鏡面壁と氷結魔法を一瞬で破壊したオリオンは上空から奇襲にかかり突貫する悪魔に炎熱の強化を施した右腕を振るう。


 ふたつの黒い影が重なった時、璃音が放った魔法を宿した矢が届いた。

 着弾し氷で崩れた地面が煙を上げる。

 この時点でまだ姿は見えない。どっちがどうなったのかが分からない──はずだった。


「っ……!」


 一颯の意識しない場所でなにかがまたあったのか、オリオンから授かった追想武装が粉々に砕けていく。

 まるで、彼の危機に呼応したかのように。


『タダの、異形……ザンネン、とテも残念。強サと自信ニ驕っタオマエの負ケダ』


 腹と背中から滴る鮮血と嫌な汗が装飾された地面に落ちて隙間を流れていく。

 全く痛くはない……が、下半身の感覚が機能せず、まともに立っていられない。かろうじてゼピュロスを擦った炎熱もすでに途絶えてしまった。

 貫かれた腹部はトゲを持つ拳が()()()、引き抜くまでもなく肉と中身らしきものが突き刺さっている。


「ぁ……っ」


 最悪だ、この結末は最悪すぎる。

 オリオンはきっと酷い顔をしているからと思って一颯をまともに見れそうもない。璃音に強引に引き入れたことを詫びるのもままならない。

 いつから変異体がこんな力を手にしたんだ、今際の際に考えるのはおかしいかと自嘲しながらもその降って湧いた疑問が頭から離れなかった。

 次に着任する顔も知らない誰かも恐らくコイツに殺される。次も、その更に次も。

 

 なら、せめて巻き込んでしまった一颯だけは逃げて、生きて帰ってほしい。


 ぐちゅり、と肉や液体の混じった不快な音が聞こえたのを最後に彼の意識はプッツリと絶え、身体は星の粒子となって消えていく。


 彼はいない、その生は終わってしまった。


「嘘、嘘よ……こんな、こんなのってないでしょ……」


 悲鳴や嗚咽、吐き気なんてなにも出てこない。ただその出来事が信じられないという絶望感だけが一颯に遺された。

 赤かった追想結晶は真っ黒に黒ずんでいる。明らかにオリオンの魔力は感じられない。


『ウソじゃナいヨ、キミぃ』


 ゼピュロスの声が忌々しい。耳を塞ぎたい。聞きたくもない。

 だが繋がりを失い、一般人に戻ってしまった一颯は体が硬直し動かない。目の前の殺人鬼に恐怖を覚え、膝をついて涙が溢れた。


『怖いネ、悲しいネ、でも大丈夫ダヨ。すグにマタ会エるカラ────』


 ひんむかれた人外の眼と目が合い、ヒッと小さな悲鳴が漏れる。

 ゼピュロスは恐怖を煽るため、一本一本の指を見せつけるように折り畳み拳を作ってゆっくり近付く。もう光の速さで動く必要もない、と笑いながら。


『じゃア、さよウなラ』


 口裂け女みたいな大きい口で笑い、一颯の顔面目掛けて拳を振り下ろす。




 月の差さない夜に花弁が舞い落ち、男が小さく微笑んだ。

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