表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ANASTASIA  作者: 桜依 夏樹
Dear Moonlight 明世界編
17/133

1-9 想いの息吹 1




 ドサリ、と重いものが落ちる音がする。それは一颯が持っている学校指定の鞄が一颯の手から離れ、床に落ちた音だった。

 彼女は今、鞄が手から滑り落ちたことに気づかないほど動揺している。

 何故。どうして。そんなのは決まっている。

 彼らこそがこの一軒家の家主であり、この一軒家は彼らの帰る場所なのだ。決して他人や泥棒と呼ばれたり間違えられる筋合いはない。


「私達が自分の家にいてなにか悪いのか」


 父から放たれた言葉は正論だ。

 ごく自然で当たり前な日常風景の断片を見ているはずなのに、それがおかしいと認識する一颯の動揺こそがおかしい。

 ただし唯一彼女の認識に正しい部分があるとすれば、そこに今いる彼らは一週間近く、一颯の前に姿を現さなかったことに関してだ。その一点においては、何食わぬ顔して堂々と居座る姿には違和感がある。

 いつも通りに冷たく日常を謳歌する両親の姿はモヤつく心に苛立ちに募らせ、次第にこの前の出来事を一颯の中に蘇らせていく。

 冷ややかな彼らの家庭を想わぬ心が一時は(いぶき)を命の危険に晒したというのに、何食わぬ顔で昼食を食してノートパソコンを鳴らしているのが腹立たしい。


「あっそ、勝手にすれば」


 修復不可能なまでに険悪なムードの中、両親をなるべく視界に入れないようにリビングを通ってキッチンに立ち入り、冷蔵庫から適当な食べ物と麦茶、棚から二人分のコップを取り出す。

 親の食事や栄養管理はどうでもいいが、オリオンはきっとお腹がペコペコだろうし一颯だって空腹だ。

 真夏に一食抜くだけで今後の活動に支障を来す場合もある。


「一颯待ちなさい」


 母の呼び掛けにムッとしながら振り向く。

 さっき出てきたばかりのキッチンで彼女は指を差し、目で「こっちに来い」と言っている。


「なに?」

「どうして食器が二つ浸けてあるのかしら?」

「二つ……?」

「乾燥機も、これ昨日の晩御飯の皿でしょう。箸も茶碗も二人分……どういうことか説明しなさい」


 水の底にジャムが沈んでいたことから朝の食器を洗わずそのままにしてあったことに気付き、今はリビングの入り口と廊下の死角で身を潜ませているであろう彼に一瞬殺意が沸いた。

 しかし今はどうでもいい。

 食器乾燥機の中には昨晩の皿が丁寧に並べられている。これは一颯がやったことだ。

 さすがに「異世界から来た少年と一緒に住んでいる」なんて説明はできない。信じてもらう云々の問題ではなく、知らない男性と住んでいる事実を知られた時点で彼が追い出されかねない。


「昨日友達が来てただけよ」

「はぁ……お友達が泊まりに来るならちゃんと連絡するように言ってるでしょう」

「お母さんたち帰ってこないんだから連絡しても意味ないじゃない。私小学生じゃないし、別にいいじゃん」

「また!そうやって屁理屈ばっかり言って!アナタも、黙ってないでなにか言ってください!」


 キッチンで繰り広げられる口論に対し、ノートパソコンに向かいネクタイを緩めた父は関心のなさそうな顔をしてこう言った。


「一々喧しいぞ、文恵」


 あっ…と声を漏らした文恵はバツの悪そうな表情で一颯から顔を逸らした。

 そして、また彼は口を開く。


「一颯、そこにいる子は誰だ? 学校の友達じゃないだろう」


 一切オリオンの方を向いていないが、この場にいる第三者は彼しかいない。父・七貴は今の今までなんの動きも見せなかったオリオンに気付いているらしい。

 なにを言っているのか理解が遅れ、ポカンとした一颯を見てノートパソコンを閉じて立ち上がる。

 その様子をずっと見ていたオリオンも隠れていても仕方がないことを察し、リビングの隅に姿を現した。


「一颯はさっき自分で"小学生じゃない"と言ったろう。こんな時間から私服の男の子を連れ込んでなにがしたいんだ」

「ッ──別になにもしないわよ!! 勝手に勘違いしないで!」


 一颯だって年頃だ、父はあの見知らぬ彼を彼女の恋人だと思い込んでいるのだろう。

 そんなわけは全くないので彼女の否定する語気は強い。一颯から見える位置にいるオリオンも「いやいやいや」と手で表し、首ももげるんじゃないかという勢いで左右にブンブン振っている。


「じゃあ彼はなんだ、どこの子だ?」

「お父さんには関係ないし教える必要もない」

「一颯、聞き分けなさい。私は一颯を想って話をしているんだ」


 ズキリ

 胸にナイフを突き付けられたみたいに心が痛む。


「素性を親に教えられないような子と一緒にいて将来困るのは一颯だ、分かるな?」


 ───一颯を想って。将来。

 言葉によって心がきゅっと締め付けられ、身体が熱を帯びていく。


 今、この男のなにが正しいのか。

 今、自分のなにが間違っているのか。

 なんだかごちゃごちゃして、処理が追い付かない。

 あの日の震えと悪寒が同時に襲いかかってくるのを感じ、我慢していた負の感情が堰を切ったように溢れ出てくる。


「ちゃんと説明できないなら今すぐに彼を帰らせて……」

「うるさい! こんな時だけ父親面してなんなの!? 私が誰となにしようが関係ないじゃない! 親の立場があるからって偉そうにしないでよ!!」


 捲し立てる一颯の強い口調に驚き呆けた七貴だったが、表情のない顔が徐々に赤みを帯びて、生意気な娘に対する怒りが爆発した。


「なんだその口の利き方は! そんな子に育てた覚えはないぞ!」

「なにが"育てた"よ!! 家にも帰ってこないで仕事ばっかりで、学校行事にも来ないどころかご飯も用意しないクセに!!」

「仕事の何が悪い。将来の一颯のためにしていることだ、今頑張れば5年後10年後の一颯が助かるんだぞ」

「私の将来のため? どうせ自分たちの老後に楽したいからでしょ? そんな先のことのために今を蔑ろにしないでよ!!」


 これは最早感情と感情の叩きつけ合い。

 二人が理知的に、理論的に話し合うことは叶わない。

 彼らは見ているモノが違いすぎるために歩み寄ることができない。特に一颯は溜まりに溜まった不満や怒りがあまりに強く、心の制御が全く利かなかった。


「一颯……全てはお前のためだ、信じてくれ。今私達が頑張れば良い大学に入れるしいつか結婚して子供ができても困らない」

「お父さんすぐ嘘つくし信じられない! あぁいや私が邪魔だから早く出ていかせたいんだ? やっぱり私いらない子なんでしょ! なら────」


 パンッ──と破裂音が響いた。

 突然無音の世界に落とされ目を白黒させる一颯の頬がフライパンで熱したように熱を持つ。

 感情のコントロールが急に働き出したせいで状況が上手く把握できず、キョロキョロと周囲の様子を窺う。

 文恵は両手で口を押さえて黙り込み、オリオンも顔をしかめていた。彼の目が見ているのは───一颯の父親だった。


「……"いらない子"だなんて自分で言うんじゃない」


 掌を薄い赤に染めた七貴は眉間にシワを寄せ、見たこともない怒りの形相で一颯を見下ろしている。

 寒気がするほど息が詰まる空間に耐えきれない。

 ───なんで目の前の男は私を打つのか。

 その一点の疑問に思考が集束するが、頬の熱さが痛みに変わるせいで次第に散り散りになっていくのを感じた。

 痛みが原因で生理的な涙がポロポロと流れていく。

 怒っているはずなのに申し訳なさそうしている父親を自称する男が口を開こうとした瞬間、身体が条件反射のように動いた。


「イブキ!!」


 階段上まで駆けて行った一颯を呼ぶオリオンの声は彼女には聞こえていないようだ。

 唐突にその場から逃げ出した彼女だが、顔を合わせるのが嫌になったのか本能が暴力に恐怖していたからかオリオンには判らない。


 その場に取り残されたのは家族と他人の三人。

 立ち尽くしていた文恵は恐らく部屋に恐らく部屋に戻った一颯の様子を見に行こうとしたが、七貴に制され彼の二歩後ろに下がった。

 そして七貴はオリオンに近付き、肩を掴んだ。


「さて、君は一颯のなんなんだ?」

「俺は───」


 一颯によく似たラベンダー色がオリオンの藍色を突き刺す。

 だが彼はそれを意に介さない。

 今の彼には彼女の家族なんて自分の正体を明かしたり嘘をついて身分を偽って株を上げようと思えるほど価値のあるものには感じられなかった。

 だから一息で、無遠慮に、無作法に、言いたいことをはっきり言うことにした。


「少なくとも、アンタらより"今のイブキ"を理解しようとしてるヤツだよ」


 それだけ伝えると、七貴の力の篭った手を退けてオリオンは階上の部屋へ向かった。


 彼女はきっと怯えているだろう。

 親から受けた暴力は身体に残らずとも、心には一生残る傷を残す。適切なケアがあってもトラウマになりかねない。

 オリオンが行ったところでどうにかなる問題ではないが、薄情で人の気持ちを理解できなさそうな母親に任せるよりかは自分の方がなんとかできる気がした。

 二階の廊下左側にある部屋の扉は完全には閉まっておらず、薄く中の様子が見えている。

 すぐドアノブに手をかけようとしたが啜り泣く音が聞こえ、ドアを開くことが彼女の心に触れることになる予感がして躊躇した。


「……いいよ、入っても」


 中からか細い声がする。部屋の前にいるのがオリオンであることに気付いているらしい。

 彼女の許可を得て中に入り扉をしっかり閉める。向こうは神経の図太い大人だ、いつ来て神経を逆撫でしてくるか分からないので扉には鍵をかけた。

 壁に沿って置かれたベッドの端で踞っている一颯の隣に寄り、無闇に音を立てないようにして腰かける。


「ねえオリオン…」

「なんだよ」

「全部終わったら、私を連れてって」

「───宵世界にか」

「うん」


 オリオンにそれを肯定して彼女を連れて帰る権利はない、むしろそうして国へ戻れば罪人として二人揃って処刑されてしまうだろう。逃げても機械文明のないひとりぼっちの世界に身を投じればいずれ一颯が死ぬことになる。

 二つの世界が理由なく干渉することは許されないし、彼が私利私欲のために行動を起こす権利もない。

 だからと言って彼女を放置することがオリオンにはできなかった。


「無理だよね…ダメってさっき言ってたし。…なんかもう嫌になっちゃった。あんな感じで仕事ばっかしてる親だから上手くいかなくて、3年くらいちゃんと会話してないの。……やっぱり邪魔かな、私」


 吐露された本心は喧嘩の時と同じで、自身に対する自己否定の強迫観念だった。

 実際彼らが本当に未来を想っているからだと薄々解ってはいる。だが将来ばかりを見ている親は、今現在を歩む一颯の姿になんの興味も抱かない。逆に将来に希望らしい希望を持たない彼女から見れば、どうなるかも分からない未来の娘ばかりを気にかける両親の思想には耐えられない。

 期待には応えられない自分の存在に嫌気が差し、同時に両親の冷ややかな目は彼女を更に追い詰めている。

 めちゃくちゃになった思考を纏めてようやく出てきた言葉に、彼の胸は苦しくなるのを感じた。


 ───誰も彼女の"今"を見ていない。

 それは今朝のオリオンも含めてのことだ。

 一颯を知ることに強く戸惑ったことは彼女への侮辱に等しい。

 死への恐怖、別れへの恐怖。戦場に身を置くなら普通にあるだろう。しかし、そもそもの間違いはそこだった。

 ()()()()()()()を知ることになにを怯える必要があっただろう。


「───イブキは邪魔なんかじゃない」

「オリオン…?」

「未来なんか誰にも判らない、俺は現在(いま)のイブキを知りたい。あの親がイブキを必要としなくても俺が必要とするから、邪魔だとか要らないだとかもう思うな」


 一颯が真正面から除き込む夜空より青く美しい瞳には、彼の見せなかった人を想う心が見えた。

 彼は心から嘘を吐けない。表面を取り繕うことはできても、実際に自分を偽ることができないのだと、彼女は直感的に理解した。


「…本当よね? 信じて良いよね?」

「当たり前だろ。イブキは俺のこと知ってくれた、だから俺もこれからはイブキをちゃんと知ろうと思う。───約束する、俺はお前を棄てたりしない」


 彼のあどけない笑顔はまだ大きな世界を知らない幼い子供のようだった。

 嘘偽りのない彼の想いはきっと届いただろう。優しげに微笑みながら笑顔を返した彼女にはもう不安や恐怖は張り付いていない。


「それと、宵世界には連れていけないけど、俺の故郷には連れていってやるよ」

「オリオンの故郷……」


 花と草木が踊り歌う世界から閉じられた秘密の楽園。

 明世界と宵世界の狭間にあるというその世界には不可侵のルールは適用されていない。そこの住民にしか扉を開けないこと以外は特に決められた条件も存在しない。

 ならば、いつかは彼女に見せたかった。

 時を失い終わることない美しい光景を、自身が最初に生きた夢の景色を。


「じゃあ変異体を倒したら連れてって、絶対にね」

「おう、もちろん」


 小指を重ねて指切りげんまん、これで約束は永久に誓われた。


 あと五回のその後には必ず彼女と共に───。

 そう心に決めた今日も夜は訪れる。



 誰かが階下で目覚める音がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ