1-8 彼女について 3
授業が終わり、放課後がやってきた。
明日は一学期の終業式。清掃活動や書類提出、部活動に勤しむ生徒たちで校舎内はごった返している。
騒ぎ声が絶えない廊下を無言で抜けていく彼の姿を、女子たちは憧れや恋慕の眼で見つめていた。
かっこいい、素敵、といった発言は聞き飽きているし反応する必要はない。
どうでもいい女から受ける一時の感情より、早く職員室に行きたいという一心で早足で廊下を歩いていたいつもの彼は、突然曲がり角から現れた二人の男女によってその冷静さを失う羽目になった。
紙束が手元から崩れ落ちる。
それは人生で類稀に起きる大事件、中でもトップクラスに厄介な出来事であった。
「先輩!? 大丈夫ですか!?」
果たして一颯の声は聞こえているだろうか。
呆けている黒弓璃音の視線は、一颯の後ろにいた青髪の彼を真っ直ぐ貫いている。
オリオンも同じく。前で璃音が落とした紙を拾い上げる彼女など気にもせず、唖然とした目の前の男を見て、親しげな笑みを浮かべていた。
「その節はどーも」
「────」
感謝を述べていると思われる彼に対し、璃音の口は動かない、しかしオリオンを映していた金色は彼を睨み鈍い輝きを放っている。
冷たい気配を感じ取り、ふと顔を上げた一颯はそんな二人の状況に全く理解が及ばず、集めて纏めたプリントの束を落とした張本人に渡そうとした。
「先輩…この子、変なことしましたか…?」
「──なんでもない。すまなかった、月見」
一颯から落とした分のプリントを全て受け取り、やや冷静さを欠いた彼はその場をそそくさと後にする。
ミステリアスな雰囲気に違わぬ多くの謎と噂を抱えている先輩生徒だが、全く生徒とは関係のないオリオンと睨み合う絵はさすがに不思議な光景だった。
もしかしたら一颯が結ったポニーテールが華恋の髪型に似ていたことに驚いたのかもしれない、と一颯は勝手に解釈して納得することにした。それ以外に特に目立った理由がなさそうだったのもある。
「なにかしたんじゃないでしょうね?」
「なんにもしちゃいねえよ」
糾弾するような一颯の目に謂れのない申し訳なさを感じる。
実際なにもしてないのは事実。思い付く程度の言葉を伝えただけで勝手に動揺して逃げていったのはあちらだ。
───疚しいことなどなにもない。そう、今の彼にはないのだ。
怪しげなやり取りを終え、生徒たちのヒソヒソ話をやや不快に思いながらなるべく早くオリオンが目的としている場所を転々とする。
最初の応接室、図書室、2年A組教室、途中の男子トイレ、教室棟屋上階段の一番上、最後に一颯の荷物を置いているロッカールーム。どこもオリオンがどうしても見たいと言ったので彼女は仕方なく連れていった。
ところが到着した途端、一颯に後ろを向けと要求したり掃除しきれない埃の目立つ部屋の隅に詠唱を繰り返したり、不可解な行動が目立っていた。
曰く、「転換魔法をある程度使える者なら、結界や吸血行為を介することで他人の生命力を奪い取ることができる」とのことだが、彼が悪人でないのは一颯が一番分かっている。
おそらくそのような結界かなにかで人様に迷惑がかかるようなことはしていない──はずだ。
探索が終わるまでに30分もの時間を費やし、学校を出た頃には疲れたオリオンがストレッチの要領で力強く身体を伸ばしていた。
「これで準備完了だな」
「ちょっと、なにしたのよ?」
「別に大した魔法じゃねえ、今はな」
それっきり彼が校内で行った魔法の行使については話そうとしなかった。
一颯からしても、これから彼と始める一問一答に比べたら今の出来事に大した重要性は感じられず、なるべく早く彼の詠唱や奇行について忘れることを決めた。
「で、どこまで決めてくれたの?」
───ここからが本題である。
一颯が彼に対し、"下校時間までに考えること"と無理な条件を提示した上で課した"私への5つの質問"。
彼がどこまで質問を選んだかというと、──ゼロ。全くのノープラン戦術だ。
元々思考を張り巡らせた知能戦や作戦会議が苦手なオリオンは敵の懐に潜り込む時、必要とするのは剣と魔法だけと豪語する脳筋剣士。今この瞬間も、彼女と心理的な部分で張り合う気は一切ない。
……なにも思い付かなかった、と言ったら負けだ。決して、質問を考えてすらいなかったわけではない。
まずはジャブ、適当なのを入れていく。
「そうだなぁ…好きなものと嫌いなものとか」
「……あのねぇ、小学生じゃないんだからもっとちゃんとしたのがあるでしょ」
「どうせ5つもあるんだし一枠くらい無駄に使ってもいいだろ」
「もう、屁理屈ばっかり…しょうがないわね」
好きなものはチーズがたっぷりと入ったハンバーグ。
レストランでステーキ皿に乗せられたまま運ばれてくる熱々の肉の塊、溢れ出るキラキラとする透明な汁と絡み合うとろけたチーズは想像するだけで食欲をそそる素晴らしい逸品だと彼女は言う。
脳内でイメージするだけで涎が出そうになる。オリオンは後で今夜の晩御飯にチーズインハンバーグを提案しようと決めた。
一方、嫌いなものはハンバーグの付け合わせにさも当然といって現れるコーンだとか。
フォークで食べるのが自然たるそれに対し、突き刺しては食べづらいクセに数が多いのでイライラさせられる。家なら抜くことはできるが、外食では残すのも忍びなくちまちまと食べなければならないのが悲しい。
共存の難しい二つの食べ物の持論を多く語り聞かせる一颯に、オリオンは強く肯定心を露にする。
彼女の気持ちが彼には解る。いくら食事が野菜中心でも一切肉が出ないわけじゃない、ハンバーグだって何度も食べた。その度に姿を見せる黄色い魔物を退治するのにいつも難儀したものだ。
これにて一つ目の質問は終了。
最初に無駄な枠を消費してしまったため、これからは真面目に絞り出す必要がある。
「ほら、乗るよ」
一颯に促され、思考中のフリーズしていた体が思わず動く。
到着した駅前行きのバスに乗り、行きと同じく二人がけの席に帰りは二人で座った。
「それで二つ目は?」
「──一颯は得意な勉強ってあんのか?」
「あるに決まってるじゃな…もしかして、またテキトーな質問?」
「いーや、俺も答え用意してるから」
宵世界にある学校は明世界で一颯が通う"知識を学ぶ"場所ではなく、"戦う術を得る"組織だ。
オリオンは学校に通いはしなかったが実際の授業に近い形で習うことくらいはしている、その中で彼が得意としたのは意外にも剣術より魔法だった。型に嵌まった正式な剣術は彼のような大雑把な人物には向かなかった、ともいう。
特に"自他を強化する"ことを得手とし、強化に関する事象なら多様な"属性魔法"による属性付与も使いこなすことができた。
強化は十五種類ある魔法の内、"操作魔法"に該当する。
肉体の限界を魔力で操作することにより、彼は常人には到達できない身体能力を得ていたのだ。
重い攻撃と素早さを同時に保ち続け、異形を瞬殺するほどとなれば当然ながら元のスペックや魔力量も重要視されて来るため、彼が相応の手練れである事実には違いない。
「さ、これで俺は答えたぜ」
「今の話、バスの中でしていいの…?」
「そのための小声だろうが」
座ったまま腰を曲げて前方の座席で身を隠し、肩を寄せ合いこっそり話す二人の姿は絶妙なシュールさだ。
二度と顔を合わせることもないその他大勢はともかく、同じバス停から乗車した星宮高校の生徒がどんな気持ちで自分達を見ているのか、一颯はわざわざ顔を上げてまで知りたくはなかった。
だが、彼から最初に言われた「想像力」の理由がようやく理解できた。
オリオンが一颯に鍛練をつける時、具体的に流派が存在するような剣術を教えていない。どうすれば敵から身を守り殺せるかの二つ、最低限必要とされる動きだけだ。
二つを踏襲した上で想像力による補助、カバーを加える。イメージを現実にするための能力があるか否かは人によって変わるので、戦術としては微妙なところだが。
一応、一颯は常にパニック状態でありながら毎日怪我なく安全に戦いを終えている辺り、彼の伝える技術そのものは間違っていないらしい。
「じゃあ私の番、授業の科目ってことでいいのよね?」
「うん」
「なら国語とか歴史かな。英語はよくわからないし、理数系は論外だから」
「案外フツーだな…」
「聞いてきたのはそっちじゃないの」
典型的な文系だから、と付け足す一颯は自称"頭は良くない"高校生である。
オリオンは知らぬ情報だが、星宮高校の偏差値は県内でもそれなりのレベルだ。学力が底辺だとしてもそこまで頭が悪いはずないが、彼女はわざわざ頭が良いアピールをするような人間ではないのだろう。
「そんじゃあ三つ目だ」
「用意してるの?」
「うーん……宵世界に行ってみたいって思うか?」
宵世界──魔法の存在が発展と文明に影響を及ぼした別世界。
もうすぐ17歳になる一颯は、魔法だとか剣で怪物と戦うだとかそういう非科学的なものをファンタジー系RPGの世界にしか通用しない常識だと認識していた。だから最初はオリオンについても怪しい人だった。
今は違う。もしもそんな世界が実在するのなら────当然、見てみたい。
「きっと素敵な場所でしょ? なら行きたいかな」
「そっかぁ…」
瞳をキラキラさせる一颯に対し、オリオンは遠くを見ている。
自分から話を振っておいてまさかホームシックだろうか?と気になった一颯が彼の顔色を窺うように覗き込む。
「ま、宵世界にゃ行けねえけど」
「えっ…!? 連れていってあげるとか、そういう風に続くんじゃないの?」
「明世界に俺みたいなのが来てるのには理由があるから」
魔法や機械の文明が異なりすぎているため交わってはならないとして、基本的に二つの世界については不可侵なのだと彼は語る。
それじゃあなんのために聞いてきたのかは分からない。
質問を聞いた時、もしかしたらと思った一颯はがっくり肩を落とした。
四つ目に関しては一颯は記憶から抹消した。オリオンもだ。
一体なにがあったのかと言うと、彼女が次の質問を要求した後に一分近く悩んだ彼は迷いや遠慮の一つもせず、こう一言だけ放った。
「イブキって友達いんのか?」
分かる。一颯は自分でも分かっている。
いくらオリオンを家に待たせているからと言っても彼女は遊ばなすぎる。
確かに昨日は帰りが遅かったし、今朝は年下の友達がいるとは言っていたが、彼女の即帰宅率は尋常ならない。しかもオリオンは今朝以外に──雪子については触れていないが──友人の存在すらほとんど聞いたためしがなかった。
なので思い切って聞いた結果、「いないから早く帰ってるんでしょ」と真顔で言われてしまった。
その目の死に方に自分と似た何かを感じ取ったオリオンも、友達いない同盟なるものを勝手に作り、この一連の流れを記憶から消すことにしたのだった。
「つ、次ね……最後よ…」
「最後って、もうなにも───」
あった。
"一颯ちゃん、七貴と文恵さんはいないの?"
"ごめんおばあちゃん、今日は仕事なんだって"
祖母の家を訪ねた時のやり取りだ。
今日は、ということは仕事がない日があるはずだ。しかしオリオンはこの約一週間で一颯の両親と鉢合わせたことはない。
彼がやることを終えたら部屋でずっと寝ていて、家に入ってきたことに気付いていない可能性はある。が、一颯の帰宅時には鍵を開ける音を聞くことができる。
結論としては、彼女以外に鍵の開く音がしないので、両親と呼べる存在が帰ってきたことはない。
「───親は、どんな人なんだ?」
「親……?」
未だ見たこともない一颯の両親。
仕事と結婚でもしたのではないかと思うほど熱心で、娘をほったらかしたまま何日も家を空ける人達。
始まりの日━━あの喧嘩の日以降、顔を合わせていない。
「…最低よ、あんなの親じゃないわ」
一颯の一言は、オリオンに月見家の関係を伝えるに十分すぎた。
その返答を終えてからは彼女が彼に話しかけることはなかった。
悲しそうな顔をする一颯を見て、酷く後悔しそうになる。両親の話題は彼女が最も嫌がるものだったのだろう、だから今まで彼女が自分から話そうともしなかったのだ。
終点に辿り着いたバスが駅前に停車する。
乗客全員が降りてから席を立ち、二人はどこにも行かずまっすぐ自宅を向かうことにした。
沈黙が支配する夏の昼下がり。足取り重い彼らの歩む道は熱されて陽炎がゆらゆらと立っている。
そういえば、一颯も彼に対してなにか質問を考えていると言っていた。それはどんな内容だったのだろう。
まさか黙っているのは両親の話をしたせいではなく、すでにオリオンが質問に答えてしまって聞くタイミングを見失ったせいなのか。
「あのさ、イブキ。俺に聞きたいことあるんならさっさと聞けよ」
「……聞きたいの?」
「当たり前だろ。先伸ばしにされてお預けなんて気になって夜眠れなくなるしな」
どこぞの魔術師に何度同じ目に遭わされたことか。懐かしき日々を回想すれば、似たような出来事がわんさか溢れ返ってくる。
目の前にいるのは人の心を理解できない人外ではなく普通の人間。ちゃんと聞き出せばお預けなんて古くさい真似はしないだろうと彼は理解している。
「──実はねオリオン、私も同じこと聞きたかったの」
貴方、両親はいる?
一颯の問いは人として生きているなら当たり前のコトであり、とても簡潔に済まされた。
そしてオリオンにとっては19年の生で何度も聞かれた問いであり、とても答えやすかった。
「いない、顔も見たことない」
父はオリオンが産まれた直後に死に、母は行方が知れないのだという。
義理の親はいるが彼らは血の繋がりを持たない。暖かさを分け与えてくれる優しい家族でありながら、本質的には赤の他人としか彼は認識できなかった。
「それ、寂しくない?」
「別に…普通だと思ってる。いないモンはどうしようもねえし、今までいなくても生きてこれたんだから実の親なんて大した問題じゃ…」
「そんなことない!!」
オリオンが常に当たり前だと感じていたその寂しさは、一颯には理解できない。
たとえ両親との関係がどうであれ、一生の縁たる繋がりはそこにいるだけで大切なものだと彼女は思っている。
だから親がいないことを普通だと感じる彼を、縁を持ってすらいなかった彼を、孤独を恐れていない彼を許せない。
苛立ちで思わず言葉に熱が入り、自分の意見を正直に述べてしまう。
「ッンだよ。じゃあイブキは最ッ低な親と一緒にいたらそれで満足か?」
「それは……いや、今は関係ない! 貴方お母さんは生きてるんでしょ! だったら会いたいって思わないの?」
きっとオリオンだって内心は会いたがってるんだ。
一颯は彼の心を分かっているつもりだった、あくまでも"つもり"だったわけだが。
「思わねえよ、そんなん」
明確な嫌悪、彼は言い放った容赦のない"答え"はその感情を隠そうとしなかった。
「今更会いに来られたって遅すぎるからな」
「…遅い…?」
「あっ……」
それは産まれてから19年間、一度も顔を見せなかった実母に対する怒りなのか。オリオンはそれ以上の言葉をつぐみ、真相は分からずじまいだ。
だが俯いた彼の青い瞳からは焦りを感じ取れた。それは、"今更遅い"の意味を示しているように見えた。
一颯とオリオンの血を分かつ人との不和はどこまでも深い渓谷にも似ている。
抱えている原因が二人とも異なっているせいで互いにその悩みを理解し合うことはできない、共有することもままならない。
その中で唯一二人が合致したとすれば───家族に一切触れないこと。
あっさりと相互理解が不可能であることを自覚できた彼らは、わざわざ喧嘩をしてまで思想の押し付け合いをする気にはならなかった。ならばタブーとして扱うことが最も関係を良好に保つ方法だと判ったのだ。
「今日、晩御飯どうしよっか」
「ハンバーグ」
「さっき話してたからね、私も食べたいな。今夜は近くのファミレスまで行こうよ」
「飯が旨いならどこでもいいぜ」
「気楽でいいわね貴方は。じゃあお昼は──」
出費を抑えるために家にあるもので美味しいチャーハンを作ろう。彼が食べられるようにみじん切りの玉ねぎをこっそりと入れた絶品を。
熱々のご飯をイメージしていたら何故だか腹の虫がぐうぐうとうるさく鳴き始めた。
話していると歩く距離も短く感じるもので、もうすぐそこまで来た家に早く入りたくなった。
玄関先に着き、ふぅとため息を吐きながら一颯が自宅の鍵を開ける。
───その時、ふと違和感を感じ取った。
鍵を捻り鍵穴が動く時に抵抗がない、つまりドアが開いている。
隣のオリオンはちゃんと戸締まりを確認したとアピールしている。怪しい気はするが、さすがにそこまで疑うのはかわいそうだ。多分彼は無罪なんだろう。
じゃあ誰が?───一颯がそう考えた時には手は力強くドアを開き、足は軽やかに動き出していた。
そんな、ありえない。
その予感はあまりに今更だ。
今までいなかったことがおかしかった。こんなことは驚くまでもなく、十分にあり得ることだったじゃないか。
彼らは一颯と同じ家族なのだから。
「お父さん、お母さん────」
非日常の青い影がちらりと覗く。
そこには誰かも判らぬ二人の何者かが存在していた。