2-30 鳥はまだ飛び立たず
「────転換、開始」
外には露が滴る秋の朝。
修練場に一人、銀色の弩を構え言を紡ぐ彼がいた。
彼、リオンの足下で魔方陣のように展開した転換の術式が、複雑な紋様を描いて白銀の義手へと集束してゆく。
体内から発せられる瑠璃色が紅色に変わる瞬間、黄金の眼が遥か彼方に置かれた的を睨んだ。
この空間だけでも魔力の膨張はとてつもなく、弾けてしまえば化学反応のような形で爆裂するだろう。
そこまでの大魔法だ。なにをしようとしているか解るはず。
「銀弓操作」──特殊な経緯を持つ転換技法の限定開花の発現。リオンがその準備をしていることは、ここにいなくても誰が見ても聞いても明らかな状況だった。
血液を汲み上げられる未知の不快感に顔を歪め、彼はそれでも矢を持つはずの右手に更に魔力を注ぐ。慣れているのに未だ慣れない貧血の頭痛と吐き気に同時に襲われるのをリオン・ファレルの意地で耐え抜く。
そして、彼はその手に──剣を握った。
白銀の中に輝くラピスラズリがまるで夜空か深海か、白を引き裂く蒼は思わず目を奪われてしまいそうに美しい。
剣であるクセにまるで水中に沈められ太陽に照らされた宝石のように優麗な姿をしながらも殺意という重量感が確かに存在するそれを、彼は右手で器用に持ち上げて弓に番えた。
本来、剣は矢として撃つべき代物でないのは常識も常識だ。
剣は振るうものという固定観念ももちろんあるが、人が手動で、かつ連続して撃つには重すぎる上に照準が上手く定まらない。魔法による補助もできなくはないがそこまでして剣を放つ必要性は感じられない。
では、リオンは何故矢ではなく剣を手に取ったのか。それは他人に理解が及ぶ範疇にない、と彼の兄自身が諦め気味に称した。
まっさらな白銀色に重なる空色に似た白銀色が天を射抜かんと引き絞られ────赤い閃光を纏う蒼が放たれる。
暴力のごとき風圧が室内を暴れ狂い、目も開けていられないほどの嵐が彼らを襲う。
しかし、矢の代わりに放たれたはずの剣は暴風に支配されたこの場に反比例するように勢いを失っていき…………。
「ぁ……っ──」
カラン、と安っぽい音を立てて剣──クラレントが落ちた頃、彼の身体も震えて崩れた。
「──う、ぁぁぁ……っ!?」
なにか──神経を焼かれるような激痛に苛まれ、黄金に溶ける双眸を見開きとっさに彼は胸を押さえ込む。
肺が上手く機能してくれないせいか息苦しさで呼吸ができない。
銀弓はすでに手元から離れて床に転がっている。不可視化して消えないのは自分の魔力の扱いもままならないからだ。
痛い。苦しい。痛い。苦しい。
いつもの銀弓操作を手繰っている時、貧血とは常に向き合ってきたがここまでの苦痛を味わったことなどなかった。
相変わらず理由の分からない暴虐に全身が悲鳴を上げる。
「リオン!!」
風が止んで蹲って呼吸困難になる姿を認めたレオンが駆け足で傍に寄る。
それでもできることは彼が落ち着くまで丸まった背中を擦るだけ。心配そうに、表情だけは一丁前に。
……もう何度、こんなことを繰り返したか。
原因はクラレントにある。
レオンが振るう銀剣・クラレントは逸話の都合、元の持ち主がはっきりしない。騎士達の王が保管していたから彼のものか、奪い去って反逆に利用した騎士のものか、あるいはどちらの存在もあるから明確にできないのか。
オリオンの聖剣・エクスカリバーは言わずもがなアーサー王が、エタンセルの光剣・デュランダルは彼も名を冠する騎士ローランが所有したとされ、少なからず性質や選定基準に影響を受けている。
では、オリオン・ヴィンセントを文字通り殺した聖剣の呪いのような呪詛がクラレントに宿るかと聞かれればそれはない。
あれは唯一無二の王にのみ振るう権利がある、という確定した運命力が呪詛と変質しただけ。クラレントは持ち主の概念がないから良くも悪くも誰にでも所持することができる。
……レオンはたしかにそんな風に記憶していた──はずだ。
正確には、はずだった。
初めて剣を握った日──これほど馴染むものかと大層驚いた。まだ贋作遺装だからと思っていたからかもしれないが、今は互いに違う。
レオンがリオンにクラレントを預けたのはそんな過去の自分があってのことだったんだろう。
始まりは数日前に遡る。
フェガリ教の大司教フォルトゥーナの帰還を無事に見送り、二人も屋敷に帰ってきた直後だ。
『俺はやりたいことができた』
唐突に告げたリオンが求めたのは、その時もレオンが肌身離さず帯刀していた銀剣・クラレントの貸与。
銀弓操作は強力な限定開花だ。
かつてはその破壊力を以て遥か先の屋敷を粉砕し、魔法を拒絶する邪竜の化けの皮を剥がし、此度もまた群がる毒竜たちを殲滅してみせた。
なのに、足りない。彼は足りないと断言する。
まだなにも終わっていないから? と聞けば静かに頷いたのは記憶に新しい。
リオンの提案がそこからどんな形になるのかまで理解したつもりではなかったが、先程の通り、この遺装の貸し借りに危険性がないと知っている彼は何気なく貸し与えた。
結果はご覧の無様。
発動する魔法に対しクラレントが反発し、血液転換を行う銀腕を魔力を伝ってリオンの体内を掻き乱す。
それは──形違えど、聖剣のように彼を傷付けていた。
何度かやめないかと提案してみたものの、兄の言葉には反抗するのが使命だと言わんばかりの彼が聞く耳を持つはずもなく……結論は慣れるまで続行、だ。
何故クラレントが反発してリオンを傷付けるのか、詳しく調査していないので正しい理由は明らかにされていない。
──されていないが、レオンにはなんとなく感覚で伝わっている。
リオンの左腕は王の腕。王が王で在るために造られた銀色の偽り。
一方でクラレントは反逆の剣。王に振るわれ、王を殺した逆らいの到達点。
いつかに起きた限定開花同士の矛盾爆裂。
あの時はデュランダルの悪を殺す権能とクラレントの上位を殺す権能がぶつかり合って発生したものだったが、リオンに起きている現象も同じく矛盾が原因だ。
王になるための義手から発生する魔法を剣が半ば反射的に拒絶してしまう。
いくら魔法抵抗力が高かろうが本体が焼き切れては意味もない。
付け加えるなら、これも推測にすぎないがこんなことが起き始めたのはレオンが銀剣の名もなき限定開花を発現させたのも一因ではないか。
今の銀剣という遺装は基底状態になっていた深い反逆の側面が押し出されているから、余計に拒絶反応は増す。
「────もう、いい。大丈夫、大丈夫だ」
荒い呼吸を繰り返していたリオンの声はまだ掠れていて、とても無事だとは考えづらい。
発動が失敗しても一度矢に変えた、もとい触媒に注いだ血は戻っては来ない。意識がぼんやりするらしく、未来視を宿した金が揺れ動く。
手探りで銀弓を拾い上げ、立ち上がろうと彼は奮起する。
やめた方がいい。今この時だけではなくこの苦行そのものを。
続ければいつか軋む身体が崩れて壊れる。遺装という人間の理解を越えた超常であり頂上の聖遺物に殺される。……親友と同じく。
でも、それでも、今のままではいられない。
銀の腕を取り戻せば強くなるどころかあの決戦の夜を越えて身も心も弱く、浅く、脆くなってしまって──一度の限定開花にさえ耐えられないとはなんて体たらく。
まだ敵はいて、終わったはずなのに物語は終わっちゃいない。
だから強くならねば。
もっと先に、先に先に、先に先に先に進まなくちゃ。
…………このままでは兄にさえ。
奮い立つだけの理由がそこにはあると信じていなければ成り立たない変革は不安定極まりなく、強さ自体は確立された彼の行いは一見すると無意味に見える。
だが、誰も止められない。止めれば彼の意思を閉ざすことになる。
救われた命を救われたままにして、神々に召し上げられる死の瞬間までそれこそなにも遺さずに虚空へと。
ただ死ぬためだけの人間となってしまう。
故にレオンも、せいいっぱいに唇を噛み────その手を、レオンは押さえつけるような形で制止し首を横に振った。
「……朝食にしよう。な?」
────。
────────。
──────────成果は上がらない。
リオンが一夜にして思い付いた新たな銀弓操作は想定される破壊力だけなら従来のそれを圧倒的に上回っていた。
何故か、遺装のエネルギーを利用しているからだ。
血液掃射という時点ですでに意味不明ではあるが、元々彼は威力を底上げするために必要な直接の触媒がないのに半端じゃない火力を叩き出していた。
他人から見れば、彼の生命力がいかに優れているかを見せつけられるような一撃だったろう。
生命力が魔力に換わる時、無意識に生存本能がいくらかの自制をかけてしまうため結果として力は「劣化」する。
銀弓操作の場合は生命力を叩き込む一撃。その劣化自体が発生しないので一介の魔法とは比べ物にならない威力を発揮、これが魔力を介した一撃だったなら少なくとも国ひとつ跨ぐほどの長距離射撃は不可能だ。
生命力を撃つなら威力は下がらない、しかし生命力を撃つからこそ威力は上がらない。
彼は殺傷性に重きを置いたから銀弓操作を発現させたわけではないが、力を欲する今はそれ以上を求めている。
どうにかして上がらない限界を越えたい────考えた果てに漸く思い付いたのは触媒を介した神秘性の増幅。
シキ・ディートリヒが聖遺物「ソロモンの鍵」を触媒に七十二柱の悪魔を喚ぶのは、彼女だけでは召喚魔法の確立ができないから。
召喚魔法は会得しているが伝説の悪魔を喚び出し使役、更には長時間可視世界に滞在させることは難しい。そのための縁を強く結ぶために使うのが「ソロモンの書」なのだ。
リオンの銀腕も広義の意味では聖遺物であり、同時に触媒の役目を果たす。
それ以外にも魔術師は杖や本で魔法を補強できる。
見合った魔道具を一度仲介させれば威力は膨れ、または負担を減らす方法にもなるのは間違いのないメリットと言えよう。
しかし銀腕・アガートラームはただの魔道具でも義手でもない。神々に造られ、神の王が身に付けた正真正銘の神造遺装。
生半可な魔道具を使えば接続すらままならずそちらが粉々だ。
もしも使うなら本物の神剣・クラウソラスのような縁のある代物じゃないと、と思っても本物が見つかる確証なんてない。
だから彼は兄に、剣を借りた。
名を銀剣・クラレント──王と相反する反逆の星。
一度目は全身が焼ける痛みに絶叫した。血が足りなくなって頭が痛いとかいうレベルの問題ではなく、皮膚を1センチずつゆっくり剥がされるような苦痛に長時間苛まれた。
二度目は全身が切り刻まれる痛みに血を吐いた。血管が切れてしまった可能性も考えたがやはり違う、真夜中の戦いで目の前を黒に染め上げた邪竜の鱗が可愛く思えた。
三度目は全身が砕かれるような痛みについに倒れた。粉砕機で足から食い潰されていく苦しみで頭がおかしくなりそうだった。
四度目、五度目、六度、七、八九────。
試行回数は多くなく少なくない。
銀弓操作を初めて技として完成形にするために修練場に立った時も似たような騒ぎは起こしてもここまで冥界に近付いた覚えもないわけで。
気を病んだりはしないが気負うことはある。ただそれだけ。
ついでに──何度か本当に死にかけたのを助けたのは、皮肉にも彼を殺そうとするアガートラームだった。
銀が顔を逆さに映す。ひどい有り様だ。
食事が喉を通らない、のではなく元々食が細い方な挙げ句に朝から吐きそうになったせいで食欲が激減している。
しかも。
「では、手筈通りに」
「あぁ。リオンもそれでいいな?」
「────え」
なにも聞いていなかった。
顔をあげた時にはエリザとレオンの不安げな面持ちが視界に入る。
「すまない。食事に夢中に……」
「はぁ……嘘が下手か。いやヘタクソだったな」
いつか自分が言ったような言葉を返されてイラッと来る。
いや、悪いのは聞いていなかったリオンなのでここで怒るのはレオンを被害者にするだけ。加害者になって後から謝罪をするのはムカムカするしいつもの罵倒は飲み込んだ。
「では、一から説明を」、とそう言ったエリザが身振り手振りを交えて二度目の作戦会議を開始する。
結論から言えば、エルシオンが降りたと思わしき地下霊脈の入り口が見つかった。
カエルレウム全土で多く発見されている霊脈入り口の中からどうやって絞り込んだのかと言えば、人避けの魔法の有無だ。
地下霊脈は大気中のマナ密度の高さから立ち入れば五分足らずで死ぬとまで囁かれる危険地帯。なのに洞穴が点在しすぎて満足に人避けもされていないのが現実である。
ただそれは裏を返せば魔法の残滓さえ見つかれば痕跡を辿れるというヒントでもあった。
数こそ多いが条件を絞るなら調べられないほどじゃなく、ファレル領内で目の届かなそうな誰にも気付かれずに入れるような立地を探す。最終的に絞り込まれたのはたった一つ。
屋敷から5kmほど離れた土地にある小さな町が管理する林の中の洞窟。
かつてはそこでは潤沢なマナを溜め込んだ鉱石が発掘されていたが、霊脈に貫通した経緯があり閉鎖されたのだ。
以降は洞窟の大気汚染が著しく、侵入そのものが禁じられたため町の住民も近寄ろうとはしない。
────の、近寄ろうとしない理由が侵入禁止令などではなく、無意識に近付かないように気を逸らせる結界に守られていたからだということがエリザの調査で明らかになった。
結界はエルシオンの死により効力が徐々に薄らいでいく状態だったが、まだ効果がある頃に見つけられたのは不幸中の幸いだ。
さて、二十年の歳月を経てエルシオン以外の人間に見つけられた未開の秘境への入り口に入る準備を二日前から執り行っている。
準備というのは毒素となって体内を冒す見えない脅威を取り除く方法を探ることだが、なんとあっさりと見つかってしまった。
別にエルシオンの部屋を端から隅まで調べ──もしたけれども、もっと確実な方法をリオンが編み出すのは簡単なわけで……あっという間に中和用の魔道具を手に入れて今に至る。
「昼には出立されるとのことでしたので、こちらを確認していただきたく」
「……完璧だな」
「…………いや、これ食べるのか? 本気か?」
エリザが差し出した箱の中にはラウンド・ブリリアントカットの形状をしたラピスラズリ──らしき魔道具。
リオンがアガートラームの限定開花を掛け合わせた強化治癒魔法を結晶化したこの代物は、濃度の高いマナを常時循環しながら慣らす体制を整えるように回路を一時的に機能拡張させる。要は魔改造だ。
……ただ、代わりと言っていいか怪しい部分として、見た目は石である。噛み砕いたところで飴玉とも言えない食感がするだけの無味無臭の石。
リオンも石を食べる外見的な絵面を自分で気にしたらしく、透明感のある宝石状に纏めたのはその努力の証。味をつけるかどうかは最後まで悩んだ様子だ。
「効果時間はリオン様の見立てで五時間程度とお聞きしていますが、予備として一つずつ用意しております」
「助かる。これで問題なく探索できるな」
指でつまみ上げた結晶を陽の光に当てて目を細めると、より一層ダイヤモンドのように輝いて、やっぱり食べるのも億劫になる。
もったいない……いや、口に含むべきものじゃない。
「……リオン、やっぱり味を────」
「噛んで飲み込むだけのものだと思えばいいだろう。そら、薬と変わらない」
「薬の方が苦いだけまだマシじゃないか!?」
◇
「リオン様、少しお話が」
そう言って朝食の席から離れるリオンを呼び止めたのは他でもないエリザだ。
彼もまた母親より母親らしい彼女に出奔するまではよく世話になっていたし、彼女の気遣いは周囲の同情と違うのでとても邪険には扱えなかった記憶がある。
まぁレオンと比べると世話になった時間は短いが。
「なにか?」
「──また無理をなさっているのでしょう」
「……兄上か……」
侍女でありながら相談役も兼ねている彼女はレオンから聞く情報も多い。
今回は例の件について聞き出したようだ。
いくら二人だけと思ってもこう漏らされてしまっては近い内に磔にして的代わりに使ってやろうかと本気で考えてしまう。
「漸くお体の調子が戻ったとレオン様から聞きました。なのに新たな魔法に宝玉探し、と……産まれた頃から世話をしている身としては、無茶をされる姿は……見ていられないのです」
彼女は、息子を諭す母親のような表情で言った。
無理。無茶。無謀。
そう言われる覚悟はできていた。いつかは必ず指摘される、と思って毎日言い訳を考えていた自分がいることも否定しない。
正誤で問われればリオンの探求は正しい。
強さを求めて地を駆け、明日の未来のために心を鍛える──間違いなどと言えないはず。
「……俺は大丈夫だ。エリザは、兄上を支えてやってほしい」
リオン・ファレルは一人でも立てる。
言い訳にならない言い訳で彼は彼女の想いを置き去りにした。
「────どうか、ご武運を」
そして彼女も、彼を否定できなかった。
「あぁ、また後で」
◇
──ジュノンが屋敷の廊下から手を振る。
彼の目にはどんな風に映るか計り知れない兄たちの背中は凛々しい。
レオンとリオンはまだ不明の宝玉の在処を求める探索に旅立つ。見つかるかどうかも決まってない探求に。
けど彼らにはたしかな確信があって、太陽もまた祝福している。
だから彼はその姿にきっといつか憧れるだろう。
──────と、彼の人はそう言い残した。
魔法の触媒の設定に関して。
原文の設定を探していたのですが投稿までに見つかりませんでした。
内容自体は覚えているので矛盾はないと思いますが、原文を見つけたら修正しようと思います。