2-27 大司教フォルトゥーナ 1
ファレル領にも秋の少しだけ肌寒い風が吹き始めた。
寒暖差の激しい土地というせいか少しでも気温に変化があると急激に気候も変わるので、町では出掛ける前とっさに着込んだ住民も多かっただろう。
季節の変わり目に病が流行するのはこちらの世界でも珍しくもないし、着込む方を選んだ彼らの判断はとても正しい。
あと数週すればしんしんと雪も降りだすであろうこの地の管理者たちは今日も慌ただしく、父が遺した仕事を片付けながらそれぞれの鍛練にも勤しむのだ。
そう、ここからは彼らの帰還から二ヶ月が経ったある日の昼から始まる。
◇
────ファレル領、邸宅内修練場。
エリザ・メアリーが思うに、この兄弟はかつての仲の良さを失った代わりに想像絶する強さを得た気がする。
昔といえば修練場で立ち合うより図書館で並んで本を読むのが似合っていた。
向上心があって読み物が好きなリオンとそれを見守るレオンの姿を遠目で眺めては幾度となく心にあたたかいものを感じ、母性のような不思議な感覚を懐かしむこともあり────そんな二人が好きだったのもある。
ところが二人は長い家出から帰ってきてみれば主に弟が兄に対して反抗期真っ盛り。
口を開けば罵倒、返事には文句。
変わっていないのは唯一無二尊敬と皮肉の念を込めた「兄上」という呼び方だけ。
驚きを隠せない屋敷の人間を尻目に罵詈雑言を頭から被っているレオン本人がそこまで大したダメージがないのも謎だ。
……と、まぁとにかく主にリオンから険悪な雰囲気は漂うついでのように、彼が冠位を得た頃より魔法や武術の質も確かに向上している。特に魔法が使えないと思っていたレオンは数の暴力に二刀流ときた。
彼らはこの数年の間に彼女が知らない変化を遂げた。
なぜ仲の良いまま強くなれなかったのかと二人の間を取り持つのは簡単だが、逆に言えば無知だからこそできること。
今はもう老成したエリザにできるのは見守るだけ。
ファレルの一族への奉仕業務が終わるその日まで、母親のような面持ちのままあの本質だけはどうにも変わらない兄弟を見守るのだ。
そう、今日もまた──無手による鍛練を始めているところとかを。
「あに様たちすっごいんですよ」
「すごい、ですか?」
「ほら、見ててください!」
椅子に座って見守っていたジュノンが足をバタバタしながら彼らを指している。
魔装束とはまた別の動きやすい鍛練用の装束を身に付けた彼が相対しているのは同じく準備万端な様子の兄。
二人が朝から晩まで修練場に居座って殴り合っているのは珍しい光景ではないが、ジュノンが見学しているのはエリザをしても中々見たことがない。
……一体なにがすごいと言うのだろうか。
「────行くぞッ」
互いにどちらが先に出るのかを決めあぐねたまま一定の距離を保っていたようだったが、彼のそんな一声を皮切りに状況は動き出した。
まず懐に突っ込んでいったのはもちろん声を上げたレオン。
魔法による加速も物理強化もない純粋な脚力では素早さが若干心許ないかとも思われたが、50mはあろうその距離は一瞬で詰められた。
「ふんっ」
「くッ」
体を反らされたことで先制パンチは空振り。
代わりに待っていたのはそのふらつく姿勢から戻る際の隙を狙った足元への蹴りだ。
壊すのではなく崩す目的で放たれた俊敏なカウンター攻撃によってレオンは前面に向かって転ぶが、両手で上手く着地することで前転し、そのまま身体の向きも変えてリオンと再び正面で見つめ合う。
だが見ているだけの時間はほとんどなかった。
今度は低い姿勢に対しての滑り込むような蹴りが床を鳴らす。
それも次は横に回転して回避。
「──まだ!」
キュッと滑り止めを利かせてすぐさま立ち上がってきたリオンだったが、回避の流れでクラウチングスタートにも似たを走りを決めたレオンの回し蹴りの方が速い。
「いいや……!!」
後頭部を正確に捉えた足裏はすんでのところで頭を下げたことにより直撃せず、逆に足首を掴まれて勢いのまま投げ飛ばされた。
とはいえ人間の力ではそこまで遠くに激しく飛ぶわけもない。
柱を利用して衝撃を逃がし、再度距離を詰める。
純粋な速さと攻撃力だけならレオンに分があるのはその筋肉量と二人の魔法の腕を見れば明らかだろう。
ところが相手より劣るのを理解している人間はその劣っている部分を補う知恵を働かせるもの。
つまるところ、この勝負は隙を見せた側の敗北だ。
木製の床を踏み締めるふたつの音は戦いだというのに心地よく、いつまでも終わらないような気までしてくる。
それでも、終わりは唐突にやってくるものだ。
一進一退と思われていた状況に更なる一手を入れたのはレオンの方。
あまりにも無遠慮な拳が顔面を捉える。
……しかしそう簡単に行くはずもない。
物見の心眼で未来を視ているリオンは自らの頬より若干中心を狙っていた左拳をあわや直撃というギリギリで左手で掴み、そのまま肩より奥に向かって引っ張ったかと思えば──勢いでつんのめった兄の脇腹に膝を見舞った。
「……!」
膝が当たった確信はあったのに、何故か表情には驚きが隠せない。
それもそのはず。
レオンへの打撃は確かに当たっている。だが同時に、彼はまるで効いていないような顔をして笑っていたからだ。
代わりに脂汗がすごいことになっているが。
「痛く、ないッ!!」
「ぐあっ!?」
左側の手足がどちらも塞がっていて防御の姿勢が取りづらくなっているところに思いきった頭突きが炸裂。
ゴツンという骨がぶつかり合う音に周囲の観客二名の血の気が引くのが分かる。
額に若干の血を滲ませながら格好に似合わず派手に尻餅をついた後、バク転で距離を稼いだリオンが体勢を立て直すまでにレオンは更なる追撃を狙う。
ところがそれを許してはならないと、跪いた状態の魔術師の足には微かな青い光が灯り、次の瞬間猛烈な風と共に加速した。
「ちょっ……!!」
このタイミングでの強化魔法なんてもちろん聞いてない。
避けるとか逃げるとか守るとか小細工を労することもできずに懐への侵入と致命的な一撃を許したレオンは広すぎるほど広い修練場の壁まで吹き飛ばされ、気付けば背中と後頭部を派手に叩きつけていた。
「……お、お見事」
エリザの困惑したような感嘆したような複雑な心情が入り交ざる言葉と拍手が無音の空間に響いた。
これはすごい、ものすごい。
ジュノンもとてもきらきらとした羨望の眼差しで見つめている。
一方、壁まで飛んだレオンは参った様子で頭を擦り、困り果てたように弟を見上げているではないか。
「いって……おいリオン、なんで急に加速してきたんだ。ビックリするじゃないか」
「一撃食らわされた礼をしてやったまでだ。むしろ今まで強化せずに相手していたことに感謝しろ、存分にな」
「こ、こいつ……」
「分かったら座れ、治してやる」
圧倒的上から目線の弟にどうしてこうなったのかと分かってはいるが分かりたくないという意味のため息を漏らしつつ、大人しくリオンの正面に座った。
銀の腕による自動治癒は彼にしか適用されないが、一旦その自動性を解除すれば他人にも効果を及ぼすことができる。
激しい鍛練では殴り合いで──主にレオンが──怪我をするのも少なくはないため、一定の回数を打ち合った後はこうして傷の治癒を行うのだ。
この鍛練を始めて早一ヶ月。
言い出しっぺは意外にもリオンの方だった。
邪竜との戦いから半年。銀の腕を本格的に動かすまでに一ヶ月。魔力の流れの正常化に十日。
それぞれ長い時間を費やしてしまった結果、漸く本調子に戻った彼がまず感じたのは身体の重さだ。
無論重いと言っても体重が贅肉がではなく、魔術師としての戦闘時の動きや切れの良さ、状況判断能力を示す。
要は鈍ってしまっているというべきか。
弓を持つにしても、近接格闘をするにしても、どうもかつてのようには落ち着かない──そんな中、目に留まったのは朝っぱらから屋敷の外で二振りの剣を振り、鍛練用の案山子ゴーレムをかっ捌いて汗を流すレオンの姿だった。
あの兄上を頼りにするなんて。
そう思ったらなんとなく気が引けたが、背に腹は変えられないのも事実だと受け入れて彼は兄に協力を仰いだ。
互いに別の鍛練を的相手にするくらいなら二人で打ち合った方が実戦的で効率的だ、と。
当然ながら愛する弟からのお願いには良い意味で曲解に近い補正がかかるレオンはこれを大層な勢いで快諾。
現在では少なくとも七日に一回はこうして朝から晩までの広義の殴り合いと洒落込んでいる。
とはいえ、最初の頃は元々のスペックが段違いと言って過言ではない銀弓の魔術師に見習い騎士が勝てるわけもなく、ほぼ一方的なリハビリだったのも違いない。
だからこそ今のようにどうにか善戦できるまで持ち込めるようになったレオンにも成果はあっただろう。
「さてと、落ち着いたところで次に入るぞ」
「やけにやる気だな。そんなに一撃見舞えたのが嬉しいのか」
「あーそれも嬉しいけども今日は客が多いからな」
「……調子がいいと言うべきか、なんというか」
ジュノンから穴が開くほどじっくり見られているのはかなり前から分かっていた。いつの間にかエリザが来ていたのは少しビックリしたが。
才能の差は歴然でも自分を慕ってくれる末弟がこんなに笑顔を咲かせているのを実感すると喜ばしいのだろう。
「お二人とも、鍛練の最中で申し訳ありませんがお話が」
稽古再開のため立ち上がってきたところにやってきたエリザはよく見れば手紙のようなものを右手に持っている。
「リオン、頼む」
「仕方ない」
そう言って重い腰を上げたリオンは上手いこと言って興味を惹き、これまた楽しそうな顔をしたジュノンを連れて修練場を後にした。
エリザが割り込んでまで持ち込んできた案件ということは基本的に難しい話に違いない。
大人の話に子供を巻き込むのも気分がいいとは言えないし、ジュノンはまだなるべく遠ざけたいのだ。
「それで用件は?」
「こちらです」
手紙を受け取り目を通す。
エリザから手紙の補足要項をこと細かに説明され、内容を飲み込んだ彼の目付きはあからさまに悪い。
「フェガリ教会の大司教が、か」
「はい。エルシオン様に祈りを捧げたいと……内密ではありますが、入国許可を求めています」
「内密ってなんだ。内密って。キナ臭さしか感じないんだが」
「ごもっともではありますが大司教様にも立場がありましょう」
「まぁ、そうだけども」
エルシオン・ファレルの死後、カエルレウム連合公国には多くの著名人がその死に祈りを捧げにやってきた。
アーテルとアルブスの両国王から死を悔やむ手紙が送られ、葬儀には友好関係にあった一部の貴族が参列し挨拶を交わしたのも記憶に新しい。──ヴィンセント家の当主ともリオンは話していたのをレオンは知っている。
閑話休題。
父がフェガリ教の教えを嫌っていたことを知っていてわざと教会の形式に則った葬式を行ったのが逆に大司教の興味を惹いたのか定かではないが、どうやら彼女は祈りを捧げたいらしい。
だが行動に反し、今までカエルレウムの治世に関わった人間の死に彼女が深入りしたことはない。
つまり、簡単に言えば本来彼女は平等なのだ。
だからなのかまでは知れないが、できれば内密で入国したいとファレル領の管理者に要請している。
特に理由が明らかにされていない以上は慎重に扱うべき案件だろう。
それにいくら国際的で歴史もある宗教だとしても、今の当主──レオンの一存によっては入国拒否を下すのもそう難しいことではない。
正式な理由……と言うのはおかしいかもしれないが、公認の密入国をわざわざ国の最高権力者に所望している時点でなんらかの事情があるのは確かだ。
ファレル側はともかくエレリシャスとルミエールが納得できるような言い訳が用意されていない限り内密に関係を持つのは今後の治世にはデメリットになるだろう。
ただでさえ彼らは若い。
まだ当主の勤めがどれだけのものなのか分かりきっていないところからのスタートである事実はバレ切っている。
足元を掬われる要因は少ないに越したことはない。
であれば、大司教を領地に置くのはやはり良くない選択だ。
────さて。
「……仕方ない。じゃあファルレオールでの滞在許可を出そう」
「中立都市、ですか」
「あぁ。あの街なら政治的な話し合いはできないし、両家に知られても問題ないはずだ」
中立都市ファルレオールはこの島国の中央部、御三家の領地の線引きがちょうどぶつかる地域に位置する街だ。
その名の通り、この都市だけは御三家の領地であり領地ではない。
元々「ルフェイ」の一族が今の三つの家系に分かれる際、中立派であった「ファレル」が過激派と穏健派の動きを把握し合える環境を作ることを提案して造り上げた街だったと云われている。
現在でも一年に二度行われる経過報告や法整備を兼ねた議会以外にここでの政治は禁じられている他、普段は住民による民主化が推進され、たとえ御三家であろうと法を犯せば住民が罰する権利を与えられている。
そんな経緯がある以上警備はもちろん、異形避けや敵襲通達の結界も一級品のここであれば両者の安全性の高さを加味しても問題なかろう。
「ではそのように伝達しますから、手早く残りの業務を終わらせてください」
「うっ」
部屋に山積みになったままの書簡や魔道具を思い出すだけで頭が痛くなる。
エルシオンが病に倒れている間、政が滞っていたせいで手紙も提案書もなんの整理もされていなかったらしい。
部屋では紙のすべてに目を通し、問題がある地域に出向き、西へ東へ駆け回る日々は苦痛ではないが──ワンパターンすぎてそろそろ辟易してきた。
リオンとの鍛練は悪くない息抜きには違いないのに気が抜けないのは多分相手が強すぎるからだ。
「はーぁ……休みたい」
「エルシオン様は激務であっても顔色ひとつ変えませんでしたよ。……と言ってもレオン様は違う人間ですからお気持ちは察します」
父の人間性は今でも嫌いだ。嫌悪で吐き気を催す程度には不快だと思う。
同時に、当主としては本当に有能だったことを今になって実感させられているのも否定できない事実。
やはりもっと頑張らなくてはならないのか。
レオンも、リオンも、お互いが大人になることは即ちそういうことなのだと実感する。
「それで、出発は?」
ふと出入り口から彼の低い声がした。
「リオン様。ええと、船は三日後に到着予定とのことですが」
「分かった」
「えっなにが」
「おい、そこで無様に頭を抱えた仕事のできない無能な当主代理」
「待てッ! 二つくらい余計な文字が挟まっていたぞ!!」
「ふたつで済むのですね……」
戻ってきて早々にとてつもない罵倒が炸裂したリオンは噛みつかれてもまるでゴミを見るような目付きのまま、兄の両肩を叩く。
意図がまったく読めないのもあるがちょっと口元が緩んでいるのも不気味だ。
一体なにを言い出すのかと思わず片足が逃げ出す姿勢に入るが──────。
「手伝ってやろう」
「……えっ?」
「人が助け船を出してやっているのになんだ惚けたツラは。まさか頭と性格だけでなく耳まで悪くなったのか」
「…………ええええ!? リオンがッ!?」
「喧しい」
明日は雨の代わりに矢でも降るんじゃないかと思わせるような天地がひっくり返るほどの衝撃でレオンは立ち眩みを起こさざるを得ない。
あの──兄上をこの世のなによりも信用せず、甘えられようものなら鞭で返した後に言葉の暴力を浴びせ、ちょっと優しくしてくれたかなとご機嫌窺った次の瞬間にはもう睨み付けいる────あのリオンが!!
「お前……熱があるのか……? 医者に来てもらった方がいいんじゃないか」
「人の善意をなんだと思っているんだ!!」
「す、すまんすまん」
いや本当に天変地異の前触れなんじゃないかと思ったのも事実だ。
リオンは本当にレオンが大嫌いだということを一番よく分かっているのは彼ら自身なのだから。
「……大司教フォルトゥーナに会ってみたい、と言えばよかったか」
「そうなのですか?」
「野暮用でな」
「俺が仕事で手詰まりになってこの話がナシになるのが困る、って解釈でいいんだな」
「そういうことだ」
リオンはあれからしばらく考えていた。
海辺の教会で出会った執行聖女たちやあの胡散臭い神父はなにか隠している、あるいは裏に潜むものが居ると。
すっかり音沙汰がなくなったヴェルメリオ帝国のこともある。
故に──彼の旅はまだ終わっていない。
帰ってきたからといってゆっくりしていられなかったのはそれらを警戒してでもあった。
大司教フォルトゥーナが直接カエルレウムの大地を踏むというならば、彼にとってはある意味で待ちに待った接触であるとも言えよう。
すべての謎を解く鍵は間違いなくフェガリ教会が握っているはずだ。
「それに、だ。兄上が毎晩毎晩部屋の近くを通る時に気色の悪い声を発するのが生理的に耐えられん」
「疲れたと言ってるだけなんだが!?」
「言うだけなら分かるがな……俺の部屋の前でだけ言うのはやめろ、ぞわっとして眠るに眠れん」
「たまには労ってほしいなぁと思う俺の気持ちを察してほしかっただけなのに……」
「はぁ? 直接言われなければそんなこと分かるわけないだろうが、部屋に入ってこい」
「勝手に入ったら怒るだろ!」
「あぁ、その整った顔面に風穴を開けてやる」
「ヒドイッ!! ……いや、褒めてるのか……?」
気付けばリオンが八割ほど攻めているいつもの言い争いが始まった。
兄の今にも泣き出しそうな、でも少し楽しげな声色はそれがただの喧嘩じゃないことを裏付けている。
エリザが思うに、やはり二人の本質は変わっていないのだ。
弟を守りたくて愛したくて慈しみたいレオンと、そんな兄の在り方に憧れて同じ場所を目指したリオン。
昔のようにお互いがお互いを愛することで満たされるわけではなくなった。
成長し、離別し、再会し、分かり合えない主張を抱えた彼らはそれでもお互いを信頼しているからこそ、暗い海底のようなこの場所でもこんなにも美しいのだと、彼女はそう今でも思っている。