2-25 キミは騎士に非ず
時間は数十分前まで遡る。
タレイアとグラセが激しい女の戦いを繰り広げる中、船内を走り抜けるレオンは最下層に辿り着いた。
彼が屍の山を築き上げて進んできた道には人の姿はない。あるのは世界を濡らす血だまりと、無数に切り刻まれたかつて人間であった骨と肉の塊だけだ。
最下層に降りてからは目に見えるほど敵の数は少なくなり、そろそろ待機兵が全滅したのか隙を見つけるために潜伏しているのか定かではないが、やっと一息つけたというのが彼なりの感想である。
「薬品……ここか」
しばらく細い道を奥に進んだところの壁にひっそり配置されたプレートには「重要薬物関連保管庫」の文字が記されている。
中の様子を窺える窓はなく、扉は鉄製で分厚い。
見たこともない謎の基盤には文字盤も用意されているが、それをどうやって操作するのか全く分からず首を傾げた。
明世界に3年間滞在していたリオンならキカイの扱いに慣れているだろう。
しかしレオンには扱い方に皆目検討がつかない。
いっそ文字盤ごと中身の線や金属を串刺しにして破壊すれば楽に中に入れる、そう思い立った矢先だった。
「わっ!?」
レオンが正面に立った途端、横にスライドしながら鉄の扉が開いた。
見たことないキカイ類が勝手に動くとどうしても反射的に体が驚いてしまうのはやはり困りものだ。
数秒の間フリーズした後、次なる行動を開始する。
中は薄暗く奥まで様子を確認できず、扉が開いたままなのでひんやりとした空気が室内から廊下に漏れ出す。
ここが開いたのが敵の罠でない確証はない。
だが悩んでいても仕方ないのが現状だ。
時間をかければかけるほど外で足止めをしているタレイアが不利になる上、助けられる命も助からなくなる。
なんとしてでもここで決着をつけたい。
それに薬品保管を謳うからには奴らの言う血清もここにあると考えるべきだ。
まずはこの部屋を隈無く探してみよう。
立ち入る前から暗いのは分かっていたが、下から照らす青い炎に似たネオンのせいで部屋は想像以上に不気味だった。
足元から上がってくる光に反して薄暗さが残るこの空間には人の気配がなく、あるのは薬と書類。
奥を進んで更に扉を開けば、冷蔵庫のように寒い保管庫が待ち受けていた。
中はガラスケースが並び、小瓶に入れられた怪しい液体がいくつも専用のスペースに納められている。
名称とおぼしき単語が彫られたプレートから薬品の効果を把握することはできない。
ただし、ある一点を除いて。
「これ……『Regurgitation』か」
逆流──そんな意味を持つ単語が記された小瓶の中身は、濁った薄い赤色と形容すべきどろっとした液体。
文字の意味合いから考えてもこれが件の毒薬と見るのが妥当だろう。
こんなものを開発したヴェルメリオ帝国の技術力は、確かに宵世界を支配する可能性を秘めている。危険な存在に間違いはない。
……ところがレオンには疑問がある。
思い出すのは旅路の途中、リオンが銀の腕の力を取り戻してからのことだ。
彼は度々興味深いことを口にしていた。
明世界の勉学や哲学、文明の発展度の違いなどなどを惜しげもなく語り続ける姿はそれはそれは楽しそうだったのだが、頭の良さではリオンに数段劣るレオンには左へ聞き流すしかできない話題ばかり。
そんな中で唯一気を引いた話がある。
あれは港町を出てちょっと後、休憩中に独り言のように口にしていた話だ。
『七の意思は神どころか、『奇跡』の概念ですらない。明世界での奴らはすでにそのかりそめの神秘性を暴かれ、科学的に存在を否定された。……だったら、魔法以外の観点から物事を証明しようとする……そうだな、明世界に近い感性を持つヴェルメリオはその事実に気が付いていると俺は思っている』
だったらどうした、その時は思った。
リオンが言う光の屈折と空気中の水滴によって生み出される虹という現象がいくら科学的に証明されたとしても、なにも知らない宵世界の大衆にとっては奇跡だ。それ以上にも以下にもならない。
しかし彼の言葉を言い換えればこうなるのだ。
『ヴェルメリオ帝国は魔光の宝玉など使わずとも、神の支配を打ち砕いて世界の支配者になれる』
七の意思の本来のカタチが世界に暴かれれば『奇跡』と謳われていた神々の支配は崩れ去る。
最初は王の一人でも、ねずみ算式に事実を知る人間が増えていけばその在り方は『天の奇跡』などではなく『人が造れる奇跡』に擦り代わり、神は力を弱めて次第に消えていく。
今だってリオンが全世界に向けて発信すれば半信半疑でも事実が広まり、最後は七の意思の支配から人間が勝つだろう。
ヴェルメリオ帝国が本当に支配を求めるならば、魔光の宝玉で魔法を封殺する必要などない。真っ向から根本の概念に挑み、ヒトの手で神を殺せばいい。
科学のあらゆる分野を研究するなら自ずと虹のメカニズムは解明されていくので、わざわざ薬を開発し、キカイを用いて侵略を繰り返すとは愚策にもほどがある。
であれば、本当の狙いは支配や侵略ではないのか。
今まで姿を見せたことがない第三者が裏で糸を引いている、あるいはヴェルメリオ帝国の言っていることがすべて建前である──なんて、さすがに考えすぎだと思うが。
……まさかあのしょうもない将軍が黒幕なんてことはない……と信じたい。
それに裏があるとすればエタンセルはどうなる?
騎士として皇帝に仕え、嘘偽りに縁のない高潔な魂を抱きながらも間違いなどあり得ないと崇拝してきた男が騙されているとは、不思議ながら思いたくない。
「帝国の目的は一体……────ここは?」
手を壁に伝わせながら歩いていると、一ヶ所だけ不自然な場所があった。
ちょうど行き止まりの隅にある目を凝らしたらやっと見える程度の切れ目を境に壁のざらつき具合や温度に明確な違いがあるのだ。
約60cm四方の不自然な壁は暖かく、指先で触れるとツヤツヤしていて僅かながら内部が鳴動しているのを触覚で感じ取れる。
「まさか隠し扉?」と、思いながら罠の可能性など一切切り捨ててまずは右手を壁に押し付けた。
「うわ、どんな仕組みで動いてるんだ?」
音もなく開かれた壁の先には更に暗い、暗すぎる部屋が隠されていた。
目当てのものが保管庫になかった時点でこの先にある可能性はかなり高まっている。それでもわざわざ隠し部屋に用意するとは、やはり誘っていると見るのが妥当だ。
自然と銀剣を握る手に力が篭る。
暗闇に目が慣れ、進んだ先は飾り気のないシンプルな白の机や本棚が並び、棚の配列的に奥がまだあるようだったが、それ以上に気になるものが見つかった。
薬品を並べていたガラスケースを小型化したものと思われる専用の保存庫に入った薬品入りの注射器が二つ。
それらの傍に置かれた本の状態にまとめられた10枚ほどの紙束。
淡く光を放つ保存庫のおかげか机に置いたままであれば、文書の内容を重要部分だけでも読むのは難しくなさそうだ。
タイトルは「魔力逆流活性化促進剤『Regurgitation-type2』に関する被検体A・Bの経過報告及び、被験体への血清剤の投与・管理取り扱いについて」。
一ページ目から数ページに渡って一ヶ月分の日記らしき文章が手書きで記されている。
◇
×月×日。
被験体への投薬に成功した。
Aの比較対象として、東ヴァルプキス地方にて捕らえた比較的に魔法抵抗力の高い捕虜を使用。この捕虜を仮にBと呼称する。
皇帝陛下から、将軍には秘匿せよと命じられているので監視のない個人的な居室にて実験を行う。
両者共に初日の変化はなし。
×月×日。
四日目。
Aは依然として変化なし。
一方で逆流現象が確認されたBの体温が上昇傾向にある。それ以外には目立った異常は見られないため、投薬を続行する。
×月×日。
十三日目。
Aはベレー将軍のもてなしで精神的に衰弱しているが魔力の逆流現象が確認できていない。やはり神造遺装の力は侮れない。
Bは発汗による脱水症状を起こしている。危険な状態であり、本日の投薬は中止。
×月×日。
十五日目。
Aに変化はほとんどない。強いて言えば疲れている。
Bは危険な状態が続いている。魔力の流れが元に戻りつつあるので手遅れだろうが、そろそろ血清剤の使用を命じられるだろう。
そして、明らかにBの方が進行が早い。
同じ薬を打ち込んだAと比較してではなく、旧型の実験で死亡した被験体Cの進行速度と比べて、だ。
Cの場合は発症に二ヶ月ほどかかっている。
個人の魔法抵抗力の差もあり得るが、半月もかからずに末期の症状が確認されているのは最速の事例と言っていい。
間もなく死ぬだろうが彼女は十分に我が国の研究に役立った。
×月×日。
十七日目。
Bが死亡した。血清剤の投薬のため医務室に運んだ時点で心肺が停止していた模様。
皇帝の指示で遺体から血液を採取し、残りは海に廃棄することになる。ありがたく貴重なサンプルをいただこう。
×月×日。
三十日目。
Aの魔力逆流は未だに確認できていない。
神造遺装による治癒能力は毎日の投薬すらも無に帰すと言うのか、やはりその力は人間が得るものではない。
先日、尋問に口を割らないのを見かねた将軍は痺れを切らし洗脳薬による記憶の切除を試みると仰っていた。
そろそろこの記録も終わりに。
◇
文章はそこで途絶えていた。
斜め読みでもその衝撃的な内容を把握できたレオンの肌には汗が滲んでいる。
きっとこの記録者は、今は亡き被験体が苦しむ様を長い時間をかけて見続けたのだろう。助けてほしいと命乞いする姿すらも淡々と記録に収めていたのだろう。
許されざる非人道的な行いに吐き気を催すのと同時に、被験体A──即ちリオンがあの一ヶ月間は魔力の逆流現象を発症していなかったことが分かった。
シキにはああ説明していたが、彼はアガートラームで浄化していたのではない。はじめから危険な状態に陥ってすらいなかったのだ。
もし自分で自覚があったのならそれは毎日のように繰り返されていた将軍の言葉巧みで姑息な誘導による思い込み、「病は気から」と似たような状態だったと推測される。
「ヴェルメリオ帝国はどこまでも人の道を外れているな」
ページを捲りながらそう口にする。
次の項には血清剤について詳しく書かれていた。
血清剤の取り扱い。
常温で放置した場合、約10分で薬液内の魔力を正常化する成分が死滅する。持ち運びは5℃以下に設定された冷蔵装置に保管し、強い衝撃を避けろ。
また、個別での持ち運びを余儀なくされた場合は冷却機構にて凍結させてから取り出せ。
投薬はひとつの薬品を10回に分け、10日間行う。
一度にすべてを投薬すると今度は魔力が一気に正常な流れに戻り、衰弱した体組織に負荷を及ぼす。ショックにより死亡しなくても後遺症が残る可能性が高い。
これは現在開発段階の稀少な薬品である。
持ち出すのであれば、規定に従い薬品開発部門の管理者を同伴しこの書類を携帯せよ。
「じゃあ、これが血清で間違いないな」
装置とやらにセットされた半透明な薬品の数は二つ。
連中とのやり取りから察するにリオンと父エルシオンの分だ。
見た目よりも軽い冷蔵装置の取っ手に手をかけ、机から自分の方に引き寄せて持ち上げた。ここまでは完全に計画通り。
「これでよし、早く帰ろう」
不安はない。
間もなくリオンを救うことができる今、この薬を安全に船まで持ち帰ること以外に集中する事柄もない。
片手の中で輝く銀色に一層強い警戒心を宿しながら出口への一歩を踏み出す。
その時だった。
「駄目ですよ。僕以外が血清剤を持ち出すのは規則で禁じられています」
部屋の奥から低い男の声が呼び掛けた。
踏み出した足がそれ以上動くことを拒否し、潜んでいた敵に対して切っ先が牙を向く。
「おや、非戦闘員にまで剣を向けるとは騎士の風上にも置けない方だ。安心してください、僕はこの通り武装していませんから」
穏やかで冷静ながらも生意気な口調で告げ、奥から現れた男は魔装束ではなく白衣を纏っている。
だがレオンの銀剣が男の喉元から視線を逸らすことはない。
ここは敵の腹の中。なにをされるか分かったものではないのだから。
「僕はオロラ。薬品開発部に所属し、赤き騎士団の一員でもあります」
どうやら研究者と思わしき彼の正体は、あのエタンセルと同じ第二部隊に籍を置く実力者のようだ。
しかし非戦闘員とはどういうことだろう。
赤き騎士団は騎士の名の下に集った精鋭部隊──たしかにそう記憶しているのだが……。
「……エタンセルの部下だな」
「いいえ。僕は部下ではなく、彼の家族です。僕たち赤き騎士団は共に幼少を過ごし陛下に尽くす仲間であり家族なのです」
「なんでもいいさ。悪いけど俺は戦えない人間だろうと容赦できないタチでな、ここで死んでもらうぞ」
たとえ宿敵と家族同然に生きた仲間だと言われようがこちらは本物の家族に危機が迫っているのだ。邪魔はさせない。
喉に向けたままの白銀の剣を振りかぶり、オロラの頭にめがけて振り下ろす。
そこに特別な感情は一切なく、ただの邪魔者を殺すだけの一刃はまっすぐに頭をカチ割る。
「いいのですか。僕が死ぬとロクなことが起きないことをお約束────」
ぐしゃり。
いともたやすくオロラの頭は潰れた。
血濡れの表情には笑みが浮かび、まるで殺されるのを楽しみにしていたような顔をしている。
なんとも気分が優れない。
「……戻ろう」
罪悪感というより後味と気味の悪さを感じつつ、隠し扉の方に体を向ける。
だが、扉はなかった。
開け放たれたそこは──壁に戻っていたのだ。
「このっ時間稼ぎを……っ!!」
銀剣から放たれた剣が壁を串刺し道を切り開かんとする。ところが壁はまるで傷付くことはなく魔力残滓の光で光沢を放つ。
なんならこの船を沈めるほどの雨あられを降らせることも吝かではないのだが、これ以上激しい攻撃を繰り返すと今度はタレイアを危険に巻き込みかねないのでどうしようもない。
露骨な舌打ちをかまし、壁をぶん殴るがうんともすんとも言わなかった。
なんてことだ。
閉じ込めるのが目的だったとすれば、トリガーはあの男が死ぬことか薬を持ち出すことか……あるいは両方か。
タレイアを始末したら次はレオンがあのグラセという女騎士の餌食に、そういうシナリオだとしたらすべて計算してのことだ。趣味の悪さが作戦に表れている。
しかもオロラと名乗った死体の正体も口から出任せで、薬すら偽物の恐れが出てくるのを視野に入れなければならない。
本物を一から探すとなるとまた時間がかかり、控えているであろう援軍が押し寄せる──そんな気がした。
どこかに扉を開ける方法がなければこの部屋は一方通行、完全に詰みだ。
「クソッ!」
叩き込んだ拳がヒリヒリと痛む。
こんな場所での足止めに苛立ちが募る中、どこからともなく声が聞こえてくる。
『あ、アーアー、聞こえていますか? 確認は取りません、どうせ僕は死んでいるでしょう。身を切る覚悟で貴方をここに追い込みましたから』
「ッ一体どこから……!!」
ノイズ混じりに部屋中を支配するオロラの理知的な声の発生源を探り当てることができない。
手元の保存庫がなんとかランタンに似た役割を果たすおかげでどうにか自分の周囲だけはぼんやりと照らされているものの、錯乱に近い精神状態ではあまりにも意味がなかった。
それでも声は無情に続く。
だって音は過去のもの。彼が死んでからスイッチが入る録音装置から流れ出す死へのカウントダウンだから。
『先に宣言しましょう。僕はリナルドとは違います。貴方は我ら騎士団が認知する中で最も危険な人間になりつつある、そんな男にエタンセルと決闘なんぞさせるわけにはいかない。たとえ彼が再戦を望んでいたとしても、ここで僕が殺します』
恐らくスピーカー越しに放たれている声に多少の含みを感じる。
かつて記録されただけのそれが持つ"感情"が家族を心配する親兄弟のようだと、彼はその時気付いていたか気付かなかったか。
ともかく、エタンセルが再戦を望んでいることはレオンもよく分かっていた。
立ちはだかるなら決着を着けるべきだと考えているし、なによりも互いの信念を賭けて命を削り合わねばならないと思っている。無論騎士として、守るべきモノを守る者としてだ。
だがしかし、顔の見えない騎士団その他が彼らの殺し合いをどう思うかと問われれば、オロラが言うように「戦ってほしくはない」と答える者がいるのが自明の理。
オロラの言葉が事実なら今の騎士団は二分化しているのだろう。
エタンセルに好き勝手させたいメンバーと、彼の安否を心配し不安要素を排除したいメンバーの内、今回は後者が襲いかかってきたと見るべきだ。
『ではこのアナウンスが終了すると同時に処刑を開始します。数分の余生をどうか穏やかにお過ごしください』
「ふざけたことを────」
シューッという空気が抜ける、あるいは勢いよく噴出するような音が耳に届き、天井を見上げる。
なにか霧に似たクサいモノが通気孔から流れ出している……?
あからさまに怪しいにも拘わらず、警戒もせずにくんくんとにおいを嗅いだ瞬間──そのおぞましい猛毒は牙を剥いた。
「ッ……ぅぐ」
両手に持っていた剣と装置を床に落とし、踞って口を押さえつける。
それでも漏れ出てくる血は塊のように溢れ出てレオンの耐える意思に反して止まることを知らない。
食べたものだけでなく体液も含めて胃腸の中身がすべてせり上がり、脳内がグルグルと回って狂って、これ以上の思考を許さない。
立ち上がろうにもガクガク震えて上手く足が動かず、唐突な虚脱感に襲われて目を開くことすらままならないのだ。
呼吸が苦しくて息ができないのも辛かった。
『アー、死ぬ前に伝えておきます。恐らく今貴方が吸い込んでいる毒は「Regurgitation」の改良品、type3と便宜上は名付けましょう。……type3は従来よりも更に逆流を促進させ、1分ほどで体内の循環は逆転します。と、言っても代わりに致死性が高くなりすぎて実験もサンプルもあったものじゃありません。なのでそれはボツってヤツです』
魔力の逆流現象によって引き起こされる症状は記録やリオンの状態を見ていればよく分かる。
強烈な疲労、発熱、自律神経は乱れて免疫力が低下し、最後は異常を察知した体が元に戻そうとして体力が追い付かずに死亡する──だとか。
まぁ今回の場合は元に戻るのを待つまでもなく耐えられずに死ぬだろうが。
『急速に逆流する魔力に普通の人間の体は耐えられません。ほら、元々魔力とは体組織の成り立ち……生命力ですからね』
解説している過去のオロラの声が聞こえない。
彼がそんなことをしている間にも口から血と胃液を吐き出し、目の前が霞む。
「ぐ……ぁ……」
ほら、気付けば周りは血の海だ。
胃酸のにおいと毒が混ざって部屋中が悪臭を放つ。
すでに体は横たわり起き上がることもままならないが、さ迷う片手は命を賭けてでも持って帰らねばならなかった薬が入った保存庫に触れ、微かな力で本能的に引きずり引き寄せる。
『そろそろ1分です。いや、残念でしたね。僕を殺さなければ薬はちゃんと持って帰れたでしょう?』
きっと録音中のオロラはドヤ顔中だろうが、聞こえないから言い返してやりたいとも思えない。
逆に言えば致死性が高くてボツになったと言うこの薬の恐ろしさを実感せざるを得なくなったとも言う。
こんなことでまたリオンとの約束を果たせないのか。
こんなことで死んで、決着もつけられないのか。
なんて屈辱。なんて悔しさ。
歯痒さが身に沁みたところでもう遅い。
この身体を瞬時に治す方法でもない限り、レオンはあと数分もしない内に生命活動を終えるだろう。
本能が手にしていたそれに触れていた感覚が薄れていく。
触っているのに感触のないキカイ仕掛けの箱は何故か酷く冷たかった。
間もなく呼吸できない苦しさから解放されようとしている彼の脳裏には"走馬灯"らしき記憶が甦る。
リオンから信用はされてなかったが信頼はされていた。どうやらその大切な信頼関係すらも、ついに彼は裏切ってしまうらしい。
タレイアもどうしているか。
戻ってこなければ時間稼ぎの意味がない。多分殺されるだろう。
よもや戦場ではないところで死ぬとは────そんなことを考えると、彼はついつい思い出してしまう。
『レオンは体がとても丈夫な子ね』
『兄上は昔から丈夫だったから』
身内の誰もがレオンの美徳と称して口々にその事実を述べてきた。
確かに言われてみると目立って病気にかかることは同年代に比べたらほとんどなく、リオンと比較しても目に見えるほど健康体。
怪我をしてもすぐに治るし、いっそ屋根から落ちても擦り傷だった。
最近なら──エタンセルに撃ち落とされ、限定開花同士の対消滅にも巻き込まれたがほぼ無傷で帰還して────。
あぁ、そうだ。
身体が丈夫なら、人よりもっと耐えられるはずだ。
レオンとは違う誰かを使って実験しても同じ結果になると、一体誰が決めたのか。
ほんの少しだけ力が戻っていくのが分かる。
手が動く、足も少し動く、息もできる、ちょっとだけなら移動もできる気がする。
それならやるべきことはひとつしかない。
だってそこには二つの薬があるのだから。
曰く、「血清剤は10日に分け10回投与せよ」とかなんとか書いてあったか。
「く、ぅぁあッ……!!」
そんなの関係あるか。
こっちは急を要するのだ。チマチマやってる暇があるなら一気に全部打ち込んでくれる。
こういう時だけ妙に手際よく進む準備をまずは淡々とこなす。
そしてこの禍々しい空気に満ちた世界で息を大きく吸い込み、注射針が突き出した薬剤をなんの躊躇もなく…………。
「──────」
突き刺した。
多分ちゃんと血管に刺さっている。歯を食いしばって中身も注ぎ込んだ。
頭がまたグルグルする。また吐きそうになり、また虚脱感がやってくる。
死ぬ。これはどう考えても死ぬやつだ。
一日に二度も同じ症状が全身を襲うとか普通に洒落にならない。
せっかく死の危険から脱したのに呼吸が乱れきり、過呼吸に陥りそうな状態で全身を奮い立たせる。
いくらなんでも無茶をしすぎた。
身体の丈夫さを過信しすぎてこんな目に遭うとか普通は思わない。やっぱりバカだ。
──だとしても、終われないのだから立ち上がるのだ。
なんのために剣を取りなんのために騎士になったのかを今一度思い出せ。一体誰のためにこんなにも辛く険しい道を選んだのかを。
大切なものがあるからだ。
すぐ近くにあり、すごく遠いその背中に手を伸ばしたあの夜の先がこんなに近くにあって、願わくば再び絆が結ばれる。
騎士は生きたいと願う弱き者を守る。
たとえ、敵が弱者だとしても悪辣な侵奪者を許すことなど決してできない。
奮い立つ。心も身体も強い意思で再び大地を踏みしめる。
「い、ッたいんだよッ!!」
瞳に確かな輝きを宿した彼は、悪態をつきながら中身が空になった注射器を無造作に投げ捨てた。
「臭い……趣味の悪い香だな」
一気に血清を注入したせいなのか、空気に蔓延した濃密な毒が回ってこない。
『さて、5分です。そろそろ死にましたかね』
毒が抜け、暗闇にも慣れて落ち着いたレオンには音の発生源がよく分かる。
オロラが出てきた部屋の奥……棚に隠れた小さなスペースへと進行すれば、明世界で言うところの「ラジカセ」のようなキカイが若干の光と音を放っていた。
『はぁ……エタンセル、聞いてくれ。僕の死は無駄死にじゃない。キミのために命を尽くし、陛下が見たい明日のために人生を費やした。だから後悔なんて微塵もないよ。……なぁ、たとえキミが彼と殺し合いたいと願っても、僕はキミが安らかに生きていく明日がほしかった。家族として、グラセやリナルドと一緒に人並みの生活を取り戻してほしかった。それだけなんだ。……ごめんよ、最期に僕はキミの信頼を裏切った。さようなら、騎士団長』
ブツリ。
録音が止まる音が鳴り、照明が点く。
部屋を害していた毒薬は強烈な風に吹かれて廃棄孔に消え、いつしか花の香りが漂う白い部屋がそこには在った。
扉が開いている。
彼はなにも言わず、なにも壊さず、剣と薬だけを手にとってその場を後にした。
もう音は聞こえない。