第1章第4節 継母
遅筆。
赤色の台座の下に、星の祝福たるを知らしめん。
夜ごと、星は巡る。東の空から昇り、暁には西の空へと帰る。全てを知りえる神なれど、これに違うを知らず。全てに能う神なれど、これを逆らうこと叶わず。
世の理を賜り、この時こそ、生誕であるが如く、君らを祝福しよう。この言葉の届く限り、教えを広めよう。摂理を知ることは、生かすこと。歓びの中に生を見出すこと。即ち、幸福に他ならないのだから。
さあ耳を傾けて。言葉は疾く過ぐ。さあ目を向けて。時は速く流る。一瞬の間が、今この時は、この世の全て。積み重ねた今が、確かな過去になる。その営みは、徒労である筈もなく、雄大なる歴史がそれを示す。
それでは、神より福音を戴こう。
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「エルケの祭事は――」
説法の終わった私に、母が話しかけてきた。
薄い緑色の衣、濃く縁どられた目の輪郭。肌の色は、白磁のように透き通り、穢れの一つも感じさせない。
化粧の下に覗かせる顔に織り込まれた薄い皺は、本来であるならば性の老朽を感じさせるものである。しかし、彼女にとってそれは己を飾る装飾のひとつであると言わぬがばかりに、むしろ、妖艶な魅力さえ醸し出している。
匂いが鼻につく。白いウェルアの花の油を首筋に塗布しているのだろう。彼女は公の場で、いつもそのようにする。既婚である彼女に必要以上に近寄る男は居ない。だからこそ、薄い匂いでは届かないのだ。そしてそれは、母がまだどうしようもなく女であるということを憚ることなく主張しているように感じた。
「まるで歌劇ですね。貴方の声のよく通る事。ついと、耽溺してしまいました」
目元は細まり、その赤い唇は今は袖で隠されている。その所作に、なにやら使い古されたものを感じながら、何と答えたら良いか思案した。そんな私の様子を見てか、彼女はゆっくりとした口調で続けた。
「兄上もお越し遊ばされればよろしゅうございましたのに。最近は、とみにご精勤のようで、ご自分のお時間を取られていないようですから…」
「国事に係うことを悪し様に申せはしませんが、少し、寂しゅうございますね」
寂しいという感情がどこからやってくるのかなど分からないし、気にも留めなかった。だがその言葉は、何やら母の意に沿わないものだったようで、「まあ」と小さく声を出しそのまま口元を抑えて笑ってしまった。
砂漠には蛇なる動物が生息し、人を欺き、喰らってしまうという。コルアロの砂漠にはそんな伝説が残っている。尤も、その蛇が居たのは砂漠になる前だというが…。
確かに笑顔ではあるが、今この女を喩えるなら蛇だと思う。飲まれまいと気を張っていても、するりと心の隙間に入り込み、そして陰から飲み込もうと狙っている。細めた目は、果たして私の何を見て―
「エルケ様。男がそのように弱音を吐いては、エーデルハイアットの名折れでございますよ」
思考を妨げるようにはっきりと、硬い芯を通した言葉が向けられる。口調こそ柔らかい綿布で包まれているが、内側に秘された冷たく固い感触に、冷やりとした空気が鼻腔を通過した。
花の香り。頭が痛くなる。目の前の継母の存在に、嫌悪感が渦巻いていく。
血縁に基づく愛が無いと分かっているからだろうか。目の前の女たる性に、一層の嫌悪を感じる。一種の汚らわしさすらをも。潔癖なエルケという職に在って、このようなものに触れる機会が希少なのだから尚のこと際立つ。
何か言おうにも、感情からくる身体の反応が、それを阻害した。唇を何度か開きかけたかもしれない。それを察したのだろう、女は、私の返事に構わず言葉を続ける。
「ご気分が優れないようで?さすがにお勤めにお疲れのようですね。宮中の煩わしさがここには無いので、ついと察するを怠りました」
「わらわの様な者との会話に、あまりお困りにならないでくださいね、エルケ様。またここには参りますゆえ」
母はそうして世辞をいくつか並べ、頭を下げて顔を伏せたまま、神殿の出口へと向かった。彼女の共も、それに倣う。辺りには次の祭りを待つものが椅子に座るばかりで、他に話しかけるような者はいない様子であった。或いは居たのかもしれないが、母と長話をしていたのであればそれも叶うまい。
全知たる神の言葉。全能たるこの世の理。それを教え広める私が、情けなくも、そんな事すら知りえないのであった。