第1章第2節 エルケ
遅筆。
一言で表せば、これは恋煩いであろう。
鏡に映る不機嫌な顔を漠然と見つめながら、そのような事を考えていた。
ハリの教えによれば、デミは人ではなく、人の形を真似た動物である。彼らは思考する馬であり、また、我々の生活の道具である。
もちろん、そんな乱暴な話を鵜呑みにするほど盲目ではない。しかし、我々がいかに生活をするか頭を捻らした結果、養える者に限りがあるのは必然だろう。
そもそもの話をしよう。デミはこの国で生まれることはない。大抵が、飢えや戦乱で流れ着く者たちである。言葉を話す者も居るようであるが、この国の言葉を解するとは聞いた事がない。しかも、ただ怯えるだけで反抗することもほとんど無ければ、我らの指図通りに動くのだ。換言すれば、彼らからは意思を感じられない。巷には人権派の団体が活動をしているということだが、彼らが専ら主張するのは奴隷の労働環境に関する事柄であり、デミの扱いについて触れた試しは無いという。
有り体に私情を曝け出すと、私は彼らが嫌いである。
意思も言葉も持たず、ただ誰かに従うのみの生。何を成し遂げるも無く、自ら研鑽を積む事すらせず、街に流れ着いては徒らに我らの神経を逆撫でしてくる。その怯えた態度も、言葉を解さない知性も気に入らない。加えて、彼らが勝手に住み着く事で街の衛生にも悪影響が有るし、時に人の土地であることを無視して寄生するのだから始末に負えない。それを追い出そうとすれば、またあの目だ。
恐怖に縮小した眼。涙を滲ませ、己の悲哀を嘆く表情。まるで自分だけが被害者で有るかのように、言葉も無くこちらを見据えてくる。まるで、全てをこちらで察しろと言わんがばかりに。却ってそれが、殊更、その矮小な生物の悪しき傲慢な精神を際立たせ、火に油を注ぐが如く、嫌悪感を加速させる。
実に忌々しい。
私はエルケだ。神殿の祭司だ。神の子たる帝王を祝い、祀る事を仕事とする者だ。
ハリの教義だと?
私はそれを説く者だ。長き世を経た教えには、人の生活に根付いた真理が幾重にも織り込まれている。これを紐解いていけば、なぜデミを虐げ、そして、嫌悪しなければならないのかが見えてくる。
私はそれを一番理解している者だと自負している。誰よりも。議会の老人たちよりも、立太子の折にしか説法を執り行わない神官長よりも。
鏡に映る顔が、さらに険しく歪む。頭に鈍い痛みが走る。硬い物の擦れ合う音に、知らず、歯を食いしばっていたのだと自覚する。胡桃を握っていなければ、手のひらに爪を食い込ませていたかもしれない。化粧で覆いかぶせていなければ、額に汗のひとつも滲んでいたであろう。
煩う…誰が?
私がか?
あのようなデミに、エルケである私が煩わされているのだと言うのか。
怯えるような態度しかとれない、あのつまらない生き物に。あのような、下らない瞳に…。
あの、碧玉の…。
「エルケ様。そろそろ、ビルバーン公がお着きになりますが」
ノックの音に続き、扉の外からは落ち着いた女の声がする。きちんとした教育を受け、貴人たるに恥じない、聡明さを秘めた声だ。
その一言に、動悸を伴う深刻な思索は中断された。あるいは、助けられた。自問の袋小路に迷い、果てに明瞭な風景を得た試しなどないのだから。
「はい、母上。只今出立の準備をしようと思っていたところです。」
途端に現実へ戻ってこれたような気持ちになる。これならば、いつもの態度をとる事などわけが無い。
「そのようですね。侍従も何人か参りますので、ご不便なさらないで下さいね」
「お気を配らせてしまいました」
エルケだ。体から言葉まで、どこを見回しても、私はエルケ然としている。今まで、そう育ってきたように。そのように教えられ、学んできたように。
教養もなく、形成すべき人格すら手にせず、漫然と生を貪っているようなデミとは違う。
そのようなつまらない者に思い煩わされる事こそが間違っているのだ。それは、悪魔のささやきのような物。
その囁く声に気分を害されはすれど、悪魔よ、私を揺るがすようにはできはしないのだ。
再び、ノックの音が聞こえる。
凛と声を張り、そして、いつもそうするように、私は扉の外へ声をかけた。
「母上から伺っております。お入りなさい。」
失礼しますと、三人ばかりの女が衣服を手に、部屋の中へ入ってくる。
どの者も、あの不躾なデミと違い、人の顔を直視するようなことはしない。
恋仲でもあるまいに、女が男の顔を見つめることが、そもそも間違っているのだ。そう、教育を受けた女とは、このように慎ましやかに有るべきで、そして美しい。
これこそが、真に美しいということ。そう思えば、落ち着き始めた心のさざ波が、さらに凪ぎ、そしてもう既に湖面のように静謐である。
「今日もよろしくお願いします。公の御前に恥じぬように。」
はい、と答える声を聞くのは、もはや先ほどまでの自分ではなく、正真正銘のエルケであった。