第1章第1節 エルフ
遅筆。
最初に目に映ったのは金色の絹で編んだような美しい髪だった。
さらりと解ける小川のように下り、横顔を見え隠れさせ、碧玉のように濡れた眼がその流れの中に薄く浮かぶ。小動物的に怯えをはらませ、その色が一層、暗い美しさを昼間の明暗の中に際立たせる。
何ともなしに立ち寄ったのは、人買いの軒先だ。庇のこちらは日光が当たり、日傘を必要とするほどであったが、屋根の下は薄墨に染められたように暗く見通しが悪い。その暗さの対比が、さしずめ、人身売買の業に後ろめたさだとか、よこしまな考えを含んでいるのだと言外に弁解でもしているように、開き直っているように感じられた。
「これはエルケ様、このようなむさ苦しいところへ…。何なりとお申し付け下され」
何気ない景色に過ぎないものの、暇を潰していたところに丁度、店主が現れた。男は世辞にも洗練されているとは言えない風体だが、どこか我が兄にも似たやり手の雰囲気を感じさせる。慇懃な言葉づかいの中に粗野な響きが混じるのは、生計がそうさせるのかもしれない。いずれ、神殿には居ない種類の人間だ。
「ええ、助かります店主。奴隷を一人、雇いたいのですが」
油で濁ったような目を見据えながら、挨拶もそこそこに要件を伝える。
「労者派遣ですか。宜しいですとも!丁度、肉体労働に優秀な者に空きがありまして…」
「いや恥ずかしながら、家事のできる者が良いのです。可能ならば女性が」
私がそう言うと、男は奴隷を全員は把握していないのだろう、帳簿を取り出し白髪交じりの薄くなった頭をポリポリと書きながら唸った。
「ううん、女か…女? ふーむ…」
「難しいのでしょうか」
「あは、いや…女房の仕事なら知らず、エルケ様のお召しになる物と言えば男の仕事でありましょう。しかしそれに優る女となりますと、これが中々」
「成る程、これは愚問難題を失礼しました。市井の事に疎い身の上でございますので」
平民の間では、女が料理を作ることなど珍しくも無いと聞いたのだが、どうにもやはり神殿の常識から逸脱するものでは無いらしい。存外に店主を困惑させたようで、口を尖らせながら帳簿を睨んでいる。見た目に似合わず高い声で唸るものだから、こちらが申し訳なく思えてくる。
「申し訳ない。戯れをついと口に出したまでのことです。世俗の事は不慣れのことで…」
「いや、いや、大変申し訳ございません。あたしらの勉強不足でご迷惑をお掛けして」
額に汗を浮かばせながら、店主は顔の皴を深く歪ませて平身低頭する。
…こうなると少し哀れでもある。別に何かを買うつもりで立ち寄ったという訳でもない。ただ、物珍しさから道々に立ち寄ったに過ぎないというのに。そこを行くと、私は客ですらないのだ。だというのに目の前のこの男は、こんなにも必死になっているのである。おそらくだが、商人にはこういった小手先の芸が必要なのだろう。その辺りの機微をくみ取るような才能は、残念ながら私には与えられなかったが。
「商い事はお互いさまでございましょう。身共の勝手に、あまり思い煩わされないで下さい。それでは」
そう言いながら踵を返そうとするや、視界の端に碧玉が引掛った。先ほどは伏しているばかりであった筈の瞳がこちらを捉えるのが、何か興味をそそり、ついと足を止めて目を向けた。
確かにこの瞳は私を捉えている。それも、先ほどのように、薄い布を隔てたような視界にではない。はっきりと、私の姿を小さな光の中に掴みとっているのだ。
別人のようにさえ感じた。そして、今まさに初めて見るかのように、彼女の姿を認めた。
白磁のように透き通った肌。それは、土と黴に汚れた布に対比して、よりいっそうの自己主張をせんがばかりに美しい。尖った耳先は、それがデミであることを間違いなく証明するが、どうしてか、まるで幼子の小指の先のように愛おしさすら感じる。赤い唇の端にかかる金糸の艶に、先ほどの小動物的な印象が急速に失われる。
早い話が、この人ならぬ何者かに、私は女を感じたのだ。
ハリの教義に染まった私に、その事実は大きな衝撃と動揺を与えるのに十分だった。
先ほどの優劣さえも何処へ。汗が額を伝い、鼓動が強く胸を押す。眼前のただ一人の少女に、足を退く事もできずに、胸中はうろたえるばかりであった。
「貴様っ!!」
浮いた埃さえ静止して見えるような刹那は、店主の怒号により破られた。
店主は、目を真っ赤に剥きながら力任せに女の首根を掴み、蹴り上げる。それで、金縛りからとけたかのように指先に血が通った。
途端に息苦しさを覚える。それに気づかないほど、硬直していたのだと改めて思い知らされる。
これが、あのエルフとの最初の出会いであった。
2021/09/13 改訂。