破蛇の剣士
自分で命名しておきながら、ヒロインの鏡子の名前が音読みで、あんまり中世風に感じられなくて修正しようと悩み中。○○子で訓読みにしたい……次回投稿時に一話から遡って修正するかもしれません。
追記:先日三話後半を加筆してたので、読み逃していたらそちらからどうぞ。
絶叫とともに舞を中断した鏡子は、開いた扇を地に落して立ち竦み、身を縮こめてかたかたと震えていた。
その視線の先では、丸太の如き太く長大な胴を誇る白まむしがとぐろを巻き、広場の中央に陣取っている。もたげた鎌首は、宿場町に並ぶ二階建の屋根に届きそうなほど高所に持ちあがり、鬼灯のように赤い目でぎょろぎょろと鏡子を見下ろしてきた。
「こ、来ないで……化け物!」
ひくつく喉から、辛うじて絞り出した言葉がそれだった。
「つれない事を言う。俺を招いたのはそちらではないか」
意外にも、大蛇は人語を発して鏡子に語りかけてくる。巨体に見合って大きく響く、厳かで淡々とした声音だった。
人語を解する化生に巫女は驚きつつも、気丈に反論する。
「私は舞っていただけよ。化け蛇なんて呼んでないわ!」
「その舞が俺を呼び寄せたというのに。あれほど力強き神遊びに、誘われぬ神があろうか」
「蛇の神……? もしかしてあなたは、源主大神なのですか?」
言葉遣いを正して慎重に問うと、大蛇は首を横に振った。
「当たらずとも遠からず、といったところか。俺は人に崇められておらぬゆえ、名はまだ無い。だが仮に大蛇丸とでも名乗ろうか。黄泉に隠れた源主から、出瑞山を守護するよう命じられた蛇たちの長である。いわば現世における源主の代理だ」
「そ、そうだったんですか……ごめんなさい、失礼な事を口走って」
源主の眷属となれば、同じ神に仕える巫女として敬意を払わねばならない。鏡子は先ほどの無礼な振る舞いを謝して頭を下げた。
それを頭上から見下ろす大蛇丸は鷹揚に応える。
「構わぬ。神に相対して怖れぬ人はいない」
寛容な態度に鏡子の恐怖は幾分か和らぎ、面を上げた時には落ち付きを取り戻した。
「ありがとうございます……でも、なぜ山の神様が私の前に?」
「お前の舞に宿る神通力に導かれたのだ」
「神通力?」
「とぼけるな。神霊を魅了して動かす、常人を逸脱した舞の神業を神通力と呼ばずになんと呼ぶのか。三度も事を起こしながら、自覚無しとはいわせぬぞ」
「わ、私は普通の人間で……」
「己を偽るな」
頑なに否定しようとする鏡子の言葉を、蛇神が遮った。
「ここで木霊に舞を捧げて花を咲かせた様子は、ちょうど近くに居合わせたしもべたちから聞いている。その翌日に大鳥居へ物見に遣ったしもべは、皮肉にも蛇の舞で昂ぶり暴れ出してしまった。そして今日賑姫神楽を舞い、源主の身代りたる俺を直に呼び寄せたではないか。舞の神業に秘められたる神に通じるその力、神に隠しだてはできぬ」
「やっぱり私は……舞うたびに異変を振りまく、人外の仲間なんですね」
認めたくなかった現実を神の言葉を以って明言され、鏡子の目に絶望の色が差し込んだ。
大蛇丸は冷淡なほど無機質に語る。
「俺は出瑞山の守護を任されし者として、豊瑞穂国の始まりから出瑞の人々を見守り、源主を称える国譲祭を見てきた。当然、お前が今年の賑姫神楽の舞人に選ばれた事も知っている。歴代の舞姫の中で、お前の力量は最も賑姫に近い高みにあると断言しよう。かの女神に次ぐ力を有する傑物なのだ、悲しむどころか誇るべきであろう」
「そんな風に褒められたって……私、もう怖くて人前で舞えません。たとえ神様でも、大蛇を呼び出してしまう女なんて普通じゃない。たった一度のお祭りの舞台なら奇跡で済まされるかもしれないけど、二度と日常で披露できない。みんな私を人間として見てくれなくなってしまう……お嫁にもいけないわ」
鏡子の嘆く姿に、それまで感情を表に出さなかった蛇神は急に同情を示す。
「その通り。平穏をありがたがる人間どもは、お前の舞い姿に感激してもその真価を受け入れられまい。一挙一動で神を動かすお前を疎んじて遠ざけるだろう。全く、人中に埋もれさせるには惜しい逸材だ。ああ、実に惜しい……隠したいほどに」
「なんですって?」
嘆く神の最後の言葉に、鏡子は聞き捨てならないものを感じて問いただした。
大蛇丸は、鏡子をじぃっと見つめて答える。
「人のいうところの神隠しだよ……お前を連れ去り、夫婦の契りを結ぼうというのだ」
「な……夫婦の契りって……」
絶句する鏡子を尻目に、大蛇は突如化けの皮をはがしたように激しい感情を漲らせた。
「賑姫の如き神通力を宿した、神々を動かす舞姫を娶れば、俺はかつてないほど強大な力を得られる。さすれば源主のしもべから脱却し、真に出水山の主となって国に名を響かせられよう……死んだ神に従属して千と幾百の冬を越えてきたが、長き雌伏の時代にとうとう終わりを告げられる」
今やその剣呑さは明らかだった。その時鏡子は、この大神の眷属が先ほどから主を呼び捨てしている事実に気づく。
「あなた……大神に背くつもりなの!? 神様ともあろうお方が、国の秩序を乱そうだなんて!」
「神に人道を説くとは片腹痛い」
非難する巫女を神は嘲う。
「最も力強く、恐ろしきものこそ上に立つのが太古からのならわし。お前ら人が信じているほど、源主は絶対不可侵な存在ではないのだ。とうの昔に肉体を失った死霊に何ができる? 俺に牙を立てる事も、食らうこともできはしない。せいぜい雨を降らし、泉を湧かせるだけではないか。その水を司る力さえも、ゆくゆくは俺が奪い取ってくれる。源主と大国主にとって代わり、豊瑞穂国滅びし後の千川諸島で、新たな主として栄えようぞ。俺は源主を凌駕して大神に君臨し、お前はその妃となるのだ!」
泡を飛ばして大言壮語する大蛇丸の姿に、もはや神の威厳はない。湧きあがる壮大な野望に心躍らせるその様は、全財産を賭博に投じようとする博徒が、勝敗が定まる前に勝ち金の使い道を計画するような危うさがあった。
「狂ってる。あなたはもう神じゃない、邪悪な鬼そのものよ」
筆舌に尽くし難い憤りと侮蔑を吐く鏡子。
「神と鬼は表裏一体。神々の振る舞いを見て、お前ら人が都合に合わせて呼び変えるだけだ」
一方の大蛇丸は鬼と貶められても全く意に介さない。
「俺を鬼に変えたのはお前だよ。国の支配者になりうる可能性を前にして、狂喜せずにいられようか。さぁ、自分を人外と思うなら、人に嫁げぬと嘆くなら、俺が人ならざる神の世界へ誘い、囲ってやろうではないか!」
いかに相手が鬼神とて、そして自分が神に侍る巫女とて、人の子が蛇の求愛を受け入れられるわけがない。もはや神と拝するに値しない化生を、鏡子はきっと睨みつけて面罵した。
「お断りよ、誰が蛇に嫁入りするものですか! 攫われるくらいなら、いっそここで舌を噛んで死……」
死にます――そう言いかけて、開きかけた鏡子の口は静止する。口だけではない。四肢は石像のように固まり、首は頭を上から押さえつけられたように一寸も回らない。指先一つ動かせず、呼吸をするのがやっとだった。
突然鏡子の身体を襲った異変の原因を、彼女の本能がそっと告げる。それは目の前の怪物に対する”恐怖”だった。
(怖い……怖くて動けない! なんで今更――)
今の鏡子はまるで、蛇に睨まれた蛙だ。
気がつけば日はすでに沈み、昇る満月の仄かな明かりが広場に差しこんでいる。逸らしたくとも逸らせない目線の先では、月光を浴びた大蛇丸の白鱗が神々しい銀色に輝き、紅眼は爛々と妖しく光っていた。
「もう遅い。黄昏過ぎて宵の口、日の下に生きる人は暗闇に怯えて巣に隠れ、日の出を願って眠りに着く頃合い。ここから先は月が照らす、人から隠れし神の世界。人が朝日を浴びて覚醒するように、夜が深まると共に俺の力も増していく。事に今宵は十五夜だ。こうして目を交わすだけで、抗う術なき弱者のお前は、恐怖に屈してしまうのだ。もはや逃れられない」
動けぬ鏡子に大蛇丸が頭を寄せ、二又に分かれた舌をちろちろ覗かせて囁く。
「さぁ、ともに巣へ参ろうぞ。夏の盛りまでまだ時間がある。それまでに心の底から服従させてやろう」
(いや。神隠しなんて、蛇の妻なんていや!)
「そうだ……大鳥居でしもべを斬ったあの侍には、後で褒美をやらねばな。あそこでお前が死んでいたら、この邂逅はありえなかったのだから」
急に思い出したように、周囲に聞こえるように呟く大蛇丸の言葉に、鏡子は宙を舞ってまむしを斬り捨てた滝郎の姿を思い浮かべた。
(助けて、深山さん――滝郎さん)
少女の頬に涙が滴った、その時。
「褒美をくれるというなら、望みを言ってやる。その娘から離れろ。この化け蛇め」
大蛇丸の背中越しに、鏡子にとって聞き覚えのある青年の声が轟く。呼ばれた怪物が振り向き、鏡子は動いた巨体の隙間から、月下に立つ人影――深山滝郎の姿を垣間見た。
滝郎は固まったままの鏡子を視野に収めつつも、帯に差した刀に手をかけ、あくまで面前の化け蛇を見据えていた。
「やはり、あの時の侍か。先ほどからこそこそ覗く、無粋者の気配がするのは承知していたぞ。神隠しの生き証人を残しておけば、俺の存在を吹聴してくれるだろうとあえて見逃していたのに……わざわざ首を突っ込むとは愚かな」
滝郎に向きなおった大蛇丸は、尊大な態度で彼を頭上から見下ろした。
「お前が善良な神様で、その子を適当に驚かして説教するだけなら、帰るまで身を潜めてたよ。だが人さらいの鬼ならそうはいかない」
鏡子と同様、滝郎もまたこの大蛇を神ではなく鬼と断じた。
「『神域を侵す悪人には罰を下すが、人は害を成す悪神を討って良い』。国譲りで定められた相互不可侵を破ってるのは、この場合どっちだ」
「かびの生えた古い約束事を持ち出しおって。先に山を荒らしたのはこの巫女だ。三度に渡って懲りずに舞い、事を起こしたのだからな」
「その巫女さんに神通力があるかどうかって話はともかく、さらう動機は罰じゃなくて大神に下剋上を企てる野心だろう。そちらが神の流儀を持ち出すなら、こちらは人道で動かせてもらう。一度助けて今は世話になってる恩人の危機を、見過ごす事はできない」
言うと滝郎は腰の刀をすらりと抜き、大蛇丸に突きつける。白刃が月光を浴びて美しくきらめく。
「もう一度いうぞ。その娘に手を出さずに立ち去れ。さもなくば、斬る」
刃物を手に改めて要求する滝郎に、大蛇丸は呵呵大笑した。
「これはこれは……神に人が敵うとでも思っているのかっ!」
牙を剥いて一喝すると同時、滝郎を睨む蛇眼がくわっと大きく見開かれる。空気がびりびり震え、物言わぬ草木すら息の根を止めたように場が固まった。背後にいる鏡子さえ、再び身の凍る思いを味わう。
「……」
だがその中で、滝郎は一歩前へ踏み出した。構えを乱さず、目線と剣先は変わらず大蛇丸を捉えている。
「ほう。俺に睨まれて臆さぬとは大した胆力。だが、無謀と勇気の区別はつかんらしい」
大蛇丸の感嘆に対し、滝郎はあくまで平静を崩さない。
「さっきからずいぶん煽るな。怖いのか、自分を恐れずに近づく人間が」
「ほざけ。お前を一呑みするぐらいわけないわ。俺の毒で肉粥になるがいい」
吐き捨てた大蛇丸は頭を低くし、とぐろを巻いた蛇身を平たく地に屈める。長い胴をうねらせて余裕を作り、隙あらば首を突き出して咬みつく体勢だ。一方の滝郎も相手の目線に合わせ、刀の切っ先を膝まで下して、防御に適した下段の構えを取る。
互いに沈黙して目線で火花を散らし、決闘の空気が満ち充ちた。周囲は一層静まり返り、生き物の息遣いと、山中を下る清流のかすかなせせらぎ以外に耳へ届く音はない。雲一つない夜空では、満月がゆっくりと頂点を目指し、時を刻んでいた。
両者身じろぎせずににらみ合って、どれほど経ったろうか。場に変化が生じたのは、滝郎の背後からだった。かさかさと草を打つ小さな音が立つ。
山暮らしの長い滝郎は、聞き覚えのあるその音に身の危険を感じる。思わず振り向けば、やや離れた場所で小さなまむしが尾を打ち鳴らしていた。臆病な小蛇は、目が合った途端にするすると逃げる。
(しまった!)
それが大蛇丸によってけしかけられた、滝郎の注意を逸らす陽動と気づいた時にはもう遅い。
背中を見せた敵に対し、大蛇丸が大口を開けて地面すれすれから咬みつきにかかった。迫る一瞬の中で身を屈める滝郎の後姿を見とめ、勝利を確信した大蛇丸が大顎をばくりと閉じる。そして獲物に毒牙を付き立てる確かな歯応えを――感じなかった。牙は空を咬み、滝郎の姿も眼前から消えている。
「どこに隠れた!」
「上だ」
頭上から降る声と共に、大蛇丸は首筋にどしんと伸しかかる重みを感じた。蛇眼をぎょろりと上に向ければ、太い首に滝郎が馬の背のように跨り、刀を手にして三角形の蛇頭を見下ろしている。
「どんなに図体がでかくても、首根っこを抑えれば咬みつけないな」
「宙へ跳ねたのか!?」
食らいつく寸前に身を屈めたのは怯えて身を縮めたのではなく、飛び上がる”溜め”の動作だった事に大蛇丸が気付くと、滝郎は顔色一つ変えず首肯した。
「お前は、天狗か」
「僕は人間だ」
訂正しながら滝郎は刀を振り上げ、ぎらりと輝く白刃で蛇頭を打つ。真下の白鱗が鮮血の飛沫で濡れると共に聞くに堪えない悲鳴が上がり、大まむしが振り落そうと激しく暴れた。尻尾が鞭のようにしなって滝郎の背中を叩くが、滝郎は歯を食い縛って腿を引き締め、蛇に跨った姿勢を懸命に維持する。そのまま立て続けに刀を振り下ろし、三角頭を斬り刻んだ。やがて大量の血を失った大蛇の動きは衰え、ずしんと地に頭を垂れた。
足場が固まってようやく止めを刺そうとする滝郎に、「何者だ……」と息も絶え絶えの大蛇丸が弱々しく誰何した。
「天狗でなければ……神でなければ何者だ……人の身でこの俺を……神を殺せるお前は……」
その問いに応えて、滝郎ははっきりと高らかに名乗る。
「僕は深山滝郎。無双直伝破蛇流の剣士。かつて深山で武芸を磨き、源主大神を討った初代大国主・荒彦の神武――神業の剣術を受け継ぐ者たちの末弟子だ」
「荒彦の……ふ、ふふふ、なるほど。大神殺しの剣法とあっては、敵わんわ……」
滝郎は無言で刀を逆手に持ち帰ると、寸分の狂いなく大蛇丸の脳天を貫いた。
「あの巫女め……俺よりも怖ろしい奴を……惹きよせておった……」
それを最期に、大蛇丸は沈黙する。滝郎はすっと立ち上がって身を放し、最後の抵抗を警戒して残心するが、完全に息の根を止めたと確認すると、刀の返り血を振るって静かに鞘へ納めた。
「終わった……」
「深山さん!」
呼ばれて振り向くと、大蛇丸の死と共に戒めから解かれた鏡子が駆け寄って来て、滝郎に抱きついた。
「怖かった……本当に怖かった」
滝郎の身体に纏わりつく返り血で純白の衣が汚れるのも厭わず、青年の胸に頭を預けてはらはらと泣く鏡子。女人との慣れない密着に滝郎は戸惑い、ひとまず安心させようと少女の頭を撫でた。
「落ち着いて、鏡子さん。もう悪者はやっつけたから……ぐっ」
鏡子の無事を確認して安堵すると同時に、戦闘の興奮で麻痺していた足首の捻挫と背中の殴打の痛みが蘇り、堪え切れず崩れ落ちる。今度は鏡子が滝郎を支える番となった。
「大丈夫ですか!? お背中にひどい怪我が……」
「ちょっと無茶し過ぎたかな……でも咬まれずにすんだよ」
「……あれを、殺したんですか」
寄りかかる滝郎と、血だまりに沈む大蛇を交互に見比べて、鏡子は恐る恐る問うた。
「やらなければ、君は神隠しされていた」
「そうじゃなくてっ」
仕方無いという風情で答えた滝郎に対し、鏡子が叫ぶ。一旦は落ち着いたと思われた彼女の声は再び震えていた。
「鬼を……荒神を殺せるなんて……貴方は鬼神だったの。私が家に招いたのは、人間ではなかったの?」
「だから、天狗でも鬼神でもないよ。剣しか取り柄の無いだけで、君と同じただの人間だ」
「私は……あんな化け物を呼ぶ私はもう、人間なんかじゃ」
「それよりも今は、一刻も早く山を降りよう。本当は夜の山で動きまわるのはまずいが、血の臭いを嗅ぎつけて獣が集まったら厄介だ」
明らかに取り乱している鏡子の様子に、滝郎はこのまま問答を続けても無意味と判断して話を切り上げた。
「すまないが、また肩を貸してくれないか」
「え、ええ。早く戻って、傷の手当もしないと」
同意した鏡子は乞われるままに滝郎の腕をとって、自分の首に回す。
白い大まむしの亡きがらを残して、二人は広場を去った。
森に差し込む月明かりを頼りに、身体を寄せ合う二人は足もとに気を配りながら参道に出ようと歩を進める。とはいえ地元民の鏡子ですら、まむし蠢く危険な夜の出瑞山に入った事はない。早くも通いなれた昼間の道を見失ってしまい、遭難してしまったのではと危ぶまれた。だが今更引き返しても、あの広場に戻れる保証も無い。開けた場所に出る事を祈りながら、ただ斜面を下った。
「静かだ……」
「そうですね……」
山は死んだような静寂に満ちている。鳥獣の声は聞こえず、蛇たちの姿も全く見られない。風はなく、草木は微動だにしなかった。水辺から相当離れてしまったのか、川のせせらぎも届かない。もはやこの世界で動くものは、滝郎と鏡子の二人しかいないのではないかと感じられた。
「さっきの話の続きなんだが」
その不安を打ち破るように、滝郎が語り出す。
「重ねて言うが、僕は神でも鬼でもなく人間だよ。常人と異なるのは、破蛇流という神殺しのための武術を学び、山奥に籠って修行してた事だ」
「神殺しですって?」
「破蛇流の興りについて、代々こう語り継がれている――」
初代大国主・荒彦は、源主大神の御言に従って豊瑞穂国を興し千川諸島をよく治めたが、一つだけ憂いがあった。彼は妃の賑姫との間に多くの子に恵まれ、大国主としての荒彦を見て育った息子らは政治に関心深く、泰平の世の統治者として好ましく育った。だが宮殿で産まれ育った彼らは荒事に不得手で、荒彦の武芸を継ぐに相応しい男子は一人もいなかった。それが彼を悩ませた。
荒彦が己の武芸の継承に拘ったのには理由がある。神々が人に国を譲ったのは、大神を屠れる荒彦を恐れたからに他ならない。彼一人が猛る神を抑えているのだ。ならば荒彦の死後、もし神が人を侮って国譲りの誓約を一方的に破った時、その暴虐を止められる者はいるのか。豊瑞穂国は保たれるのだろうか。神々が怖れるのは数を強みにした万の軍勢よりも、臆さず一人で立ち向かえる神武なのである。しかしそれは人中から身を潜め、厳しい環境に身をさらしてようやく会得できる神業だった。これから豊瑞穂国を動かす大国主の一族を、そのような場所には置けない。だから、自分の武を受け継ぐ一派を育てることを決心した。
豊瑞穂国の基盤を一通り整えた荒彦は、大国主の位を息子へ譲って隠居する。そして自らが選びぬいた少数の若者を伴って密かに深山に入り、彼らを指南したという。長く山に籠り、自らが老いて限界を悟った時、厳しい修行を耐え抜いて残った最後の弟子に荒彦は告げた。
「余は恐るべき蛇神を打ち破った、神殺しの極意を惜しみなく伝授した。君は官に仕えず人に仕えず、神の如く山に隠れて峰を渡り、神業を磨いて後の世へ残すべし。国人に仇名す悪神いればこれを降し、余の亡き後の豊瑞穂国を、恐るべき神々から末長く守りたまえ」
そして大国主は自らの死期を悟り、宮殿に帰る。別れた弟子は与えられた使命に従い、官位も領地も求めず更なる修行の旅に出た。
「――その今や名も忘れ去られた大国主の弟子が、破蛇流の開祖だという。以来、歴代の門人たちは国中の山野を放浪して修行し、道中で弟子を見出し育てては荒彦の神業と志を受け継いできた。その末弟子がこの僕、深山滝郎なんだ。時代の変化と共に直剣から刀に改めたり、新しいものを取り入れているが、根の部分は変わらない。悪神を遠ざけ、人の世を守る事だ」
「信じられない。史書には荒彦さまが退位後、突然行方をくらまして晩年に戻ってきたと書いてあるけど、その空白期間に弟子を育てていたというのは初耳だわ……でも事実、あなたはあの蛇神を倒したんですね」
「初めての実戦だった……仮にも出瑞山の主とあっては、手加減できない。全力で殺すしかなかった……」
滝郎の声には後悔が垣間見える。
「私はあなたに救われました……これで二度目です。感謝こそすれど、責めたりしませんよ」
鏡子はそっと慰めた。
「ほら、もうすぐ参道みたいですよ。早く行きましょう」
ごまかすように鏡子が指差したその先には、開けた空間が見える。ようやくこの暗闇から出られると思うと気が急いて、二人の足は自然と早まった。そして、森を抜けた先に広がっていたのは――
「……うそ」
「なんだこれは……」
大蛇丸の死骸が横たわる広場に、さっき立ち去ったはずのその場所に、二人は戻っていた。