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神武神芸  作者: もぐら
3/5

俯く舞人

7/7 四話を書いてたら長くなりそうだったので、三話後半に切りの良いところまで加筆。

 負傷した滝郎はしばらく平原家に留まることになり、その間鏡子に看病された。正弘と同様、神宮への出仕を優先せねばならぬので食事などは家人が世話したが、足首の湿布の張り替えは鏡子自身が朝の出仕前と夕の帰宅後に施した。

 鏡子が自分を庇って負わせた怪我の責任を感じているのはもちろんだが、父の正弘が二人の出会いを運命と信じ込んで滝郎を鏡子の許婚にしたいと言い始めた以上、夫になるかもしれない人物の氏素性を探らずにはいられなかった。元々一人娘として、家のために親の決めた相手と結婚するのは当然という諦観に似た認識を抱いていたが、だからと言って正体不明ではいざその時が来ても納得できない。

 またその際の父の言動によって、自身の舞に対する不審感がますます深まったせいもある。この件については、後日一応の進展があった。国譲祭に備えて巫女長に神楽舞を師事する手前、舞型の練習を避けるわけにはいかない。そのため巫女長の前では恐る恐る稽古を継続していたが、幸いにもその間は何も起こらなかった。おそらく自分が本気で舞う時だけ異変が起こるのだと推測したが、それが分かった所でなんの慰めにもならない。本番でわざと手を抜けば大丈夫などという結論は、演者として屈辱でしかなかった。全力を発揮できないなら何の意味があるのかと自棄になり、出仕前後の朝夕に欠かさなかった自主的な稽古をぱったりやめてしまう。客人の介抱を逃避の口実にすれば、周囲はあまり咎めなかった。

 一方、滝郎も退屈していた。怪我したのが上半身なら散歩にでも出られるが、足首を痛めていては叶わない。読書したいと家人に所望したが、平原家に代々蓄えられた神事にまつわる古書や歌謡集は、武芸者の肌に合わなかった。活力漲る青年にとって、昼夜を問わず布団の上で過ごさねばならないのは精神的に鬱屈し、とにかく話し相手が欲しかった。だからといって、家事に忙しい家人を引き留めるのは気が引ける。

 そういう両者の都合が計らずも一致したため、朝夕の看病の時間、二人はよく言葉を交わした。

「巫女さんって自宅だと普通の着物姿なんですね」

 鏡子が初めて客間を尋ねた時の、滝郎の第一声がそれだった。浅葱色の着物を来た鏡子をまじまじと眺めている。

「あたり前じゃないですか。お侍さんだって布団の上で甲冑は着ないでしょう」

「ああ、それもそうか。鎧着た事ないけど」

 得心する滝郎の妙に間の抜けた態度に、怪我人の様子を案じていた鏡子は急におかしさを覚えて微笑む。

「ふふ、変わったお方。でもお元気そうでなによりです」

 それを皮切りに堅苦しい雰囲気は抜け、打ち解けて行った。

「深山さんはどこのお生まれなんですか?」

「僕もよく覚えてないんです。四五歳の時に剣術の先生に引き取られて以来、ずっと山で過ごしましたから。先生がいうには孤児だったのを拾ったらしいんですが、里心が付いて修行が疎かにならぬようにと詳しい事は一切教えてくれませんでした」

「そうですか……ごめんなさい、失礼な事を尋ねてしまいましたね。余所の土地の事を知りたいと思っただけで、悪気はなかったんです。出瑞は遠路からの参拝者が多いから、各地の情報は結構耳に入るのですけど、父からのまた聞きばかりで直接聞ける機会は滅多に無くて」

「いや、お気になさらず。先生に伴われて豊瑞穂中の山岳を行脚したから、面白い話は結構聞かせられると思います。そうだな……鏡子さんは丑寅ちゅういん道は御存じで?」

「たしか、都から北東の地方ですよね」

「そう。あそこの山脈は温泉が多く湧くんですが、なんと冬になると山上の温泉に猿が入り浸って……」

 滝郎は豊瑞穂国の各地で見聞した経験を鏡子に語り、鏡子は出瑞の古い歴史を滝郎に教えた。

 ある日の夕方、鏡子が出瑞の歴史を滝郎に講釈していた。

「初代大国主尊の荒彦神が豊瑞穂国を開かれた時、最初の都は出瑞にあったんですよ。土地柄蛇が多くて、二代目大国主尊の御世で宮殿にまむしが出没したのをきっかけに、もっと安全な今の都へ遷都なされましたけど。そのかつての宮廷も過去に起こった川の氾濫で押し流されて、古い建物と言えば賑姫神がお建てになられた出瑞山の神宮と、その祭主様の住まう御殿くらいしか残っていません。それでも、ここが神話の時代からその名を記された聖地であるという、地元の誇りは変わらないと信じてます」

「ああ、『源主大神の国譲り』で荒彦神が大神と戦ったのも出瑞山でしたね。僕の先生はよく荒彦神を絶賛してました。『本朝が始まって以来名を残した武人は数多いが、武神荒彦に比肩する者は未だかつて現われていない。数多の武人が人を討って武名を挙げたが、神々の主を降して神武を示したのは荒彦神ただ一柱』ってね……ああ、そうだ」

 談笑の途中、滝郎は何か思い出したように切りだす。

「国譲りといえば、もうすぐ国譲祭という大きなお祭りがあって、今年は鏡子さんが主役なんだと家人の方が嬉しそうに話してたんですけど。よければ詳しく教えてくれませんか?」

「えっ……ええ、いいですよ」

 その問いに鏡子の内心は大きく動揺したが、表情は平静を装い答えに応じた。

「国譲祭は出瑞神宮の年中行事の中で、最も重要な神事です。源主大神が賑姫神の神楽舞をご覧になって人をお赦しになり、千川諸島をお譲りなされた事を記念し祝う大祭なのです。また大神が雨をもたらす水神であり、さらに『国譲こくじょう』の発音が五穀豊穣の『こく』と『じょう』に通じるとして、田植え前の穀雨祈願が加わって現在に至ります」

 神職の娘だけあって神事に明るく、氏子や参拝者に講じるようにすらすらと解説する。

「この祭りの本質は、賑姫神が示した国神への畏敬の念を、今日も国人が抱き続けていると大神に伝える事にあります。そこで賑姫神の代理者として毎年一人の乙女を立て、大神に『賑姫神楽にぎひめかぐら』を奉納するのです。えっと、それで、今年の舞い手に選ばれたのが……」

「鏡子さん、というわけか」

 言いよどむ鏡子の言葉を、滝郎が笑みを作って先取りする。

「――はい」

 俯く鏡子の様子を、滝郎は照れ隠しと受け取った。

「なるほど、あの大鳥居で披露していた舞の見事さは、門外漢の僕でも分かる。なるべくしてなったのだと思いますよ。正弘殿も娘さんが主役とあればさぞや喜んでいるでしょうね」

「――ええ」

「ところで今日の昼間、お医者様が最初の診立てより怪我の回復が順調だから、明日からは少しくらいなら外出していいと言われました」

「――それは、よかったです」

「お祭りまでに完治させて、僕も是非鏡子さんの晴れ舞台を拝みに行きたいものですね」

「――ありがとうございます」

 心の底から純粋に鏡子を祝福し励ます滝郎は、彼女の微笑みの影に秘められた憂いに気付かなかった。


「平原さん、この頃あまりお稽古に身が入っていないのではなくて?」

 神宮の社務所内で鏡子が舞型を稽古していると、監督していた巫女長が呼び止めた。

 巫女長は紫色の袴を穿いた痩せぎすの中年女性だった。神宮で祭主に次いで高い地位にある大宮司の姉である彼女は、若い頃から出瑞神宮に巫女として奉職している古参者で、巫女たちを一手に束ねる重鎮だ。弟が家を継いで安泰なのを背景に齢四十を越えてもなお独身を貫き、後輩を厳しく指導している。若い巫女たちの間で祟り神よりも恐れられる人物だが、鏡子にとっては幼いころから舞の指南を受ける師匠でもある。

「そ、そうですか?」

 鏡子は扇を手にしたままびくりと硬直し、顔色を窺う。巫女長は腕を組み見透かしたような眼差しで言い放った。

「とぼけ無くても結構。あなたが心を患わしている原因なんて、とっくに気づいてますから」

 確信ありげな発言に、鏡子の身が思わずすくむ。

「それは……どういう意味でしょうか」

 その答えを怖れながらも、神妙な面持ちで尋ねた。

「あなたの家に泊まっているお客人の事ですよ。大鳥居での事件は耳に届いてますし、若い子たちがしきりに噂していますからね。しかし、神にお仕えする巫女が殿方に気をやって神事の準備を疎かにするのは感心しません」

(なんだ……そっちか)

 最悪の予感が外れてほっとする。

 実際、滝郎の件も悩みの種の一つであった。関係者に事情は説明したものの、年頃の娘のいる家に若い男が逗留していれば、どうしても浮いた話が囁かれる。とくに多感な年頃の鏡子の友人たちは、顔を突き合わす度に興味津津で根掘り葉掘り聞いてくるし、夢見がちな何人かが「東宮様というお方がありながら!」「これって三角関係?」と勝手に刺激的な妄想を膨らませるので辟易していた。

 けれども今は舞を真剣に取り組めない、誰にも話せない本当の理由を悟られていない事にただ安堵した。

 そんな鏡子の内心など露知らず、巫女長は指さしてがみがみと説教する。

「今のあなたは一人の女子である前に、大神に賑姫神楽を捧げる舞姫なのです。女神の代理者としての自覚が足りないのではありませんか? いくら実力に自信があっても、それに胡坐をかいてはなりません。国譲祭の舞台に立つあなたは神宮の顔なのです。ましてや今年は東宮殿下が御観覧なさるのですから、もし無様な舞を披露すれば、都の殿上人の間で末長くささやかれるでしょうよ」

 さすがにここまで叱られると悄然とする他なく、鏡子は「ごめんなさい、精進します」と頭を下げた。ゆっくり面を挙げると、不安げな表情で巫女長に確認する。

「あの、本当に東宮様がお越しになるのですか。公用でもないのに……」

主尊しゅそん陛下は、殿下の出瑞神宮への参拝をお認めになられたとのことです」

 大国主尊からの風当たりの良い建前付きと聞き、話はいよいよ現実味を帯びてきた。さらに巫女長は追い討ちをかける。

「それに、祭主様も是非にとずいぶん乗り気ですから。祭主様はまだ東宮殿下が赤子であられた十数年前に都から出瑞へ降られて以来、兄君の陛下を含めた御親族の誰ともお会いになれませんでしたからね。成長なされた殿下とお言葉を交わす、またとない機会とお考えなのでしょう」

 出瑞神宮の長である祭主は、源主大神に侍る最も穢れ無き巫女として、賑姫の血を引く大国主尊の一族の乙女が代々任じられる。二代目大国主尊が出瑞から今の都へ遷都する際、大神への敬服の証として自分の子供の中から一番若い姫君を選び出瑞に残したのが始まりという。

 以来、大国主尊が代替わりすると新しい主尊のきょうだいか娘の中から、その当時一番若い女性が選ばれ、生まれ育った都から出瑞へと一人送られる。そして人里から遠く離された場所に建つ、広大な祭主御殿の中で大神を祀り外界との交流を一切断って過ごす。

 名目上は祭主が神宮の長だが、現実にはその下の大宮司が神宮を運営する。祭主は御殿での祭祀以外に特に役目はなく、神宮の重要な祭礼に出席する以外での外出は認められない。

 身辺を世話する都出身の女官たち(出瑞を田舎と蔑み現地民と親しまない)は適当な頃合いで交替し帰れるが、祭主本人は大国主尊が代替わりして次期祭主が立てられるまで絶対に出瑞を離れられない。

 異性との接触を防ぐため御殿に客人を入れるのは原則禁止。親族に限って面会が許されるものの、大国主尊の一族が出瑞に出向く用事など皆無である。豊瑞穂国で最も高貴な一族の姫君であるが故の境遇だった。

 現在の祭主も例外ではない。鏡子は幼い頃、主尊家の華々しいお姫様を夢想し憧れたが、巫女として神宮に勤め始めてからは見解を改めた。年に数回、神事の時に祭主の姿を遠目に見る機会がある。もうすぐ三十路に近づくその女性は、人前では常に煌びやかな衣装をまとってにこやかな笑みを絶やさないが、華の十代半ばで御殿に入れられて以来の年月と生活を想像すると胸が締め付けられる思いがした。

 そんな祭主の心情を考えれば甥の東宮が出瑞神宮へ参るのを、神楽舞目当ての道楽旅とはいえ歓迎しないわけがない。それに国譲祭は祭主が列席するのが通例なので、東宮と席を並べられるのをさぞや楽しみにしている事だろう。

「殿下と祭主様には、良い思い出になりそうですね……」

 相槌をうちながら、鏡子は双肩にずしんと重いものが伸しかかるのを感じた。

「その通り、あなたがしっかりお役目を果たせばね。責任の重大さが分かりましたか? ……これから国譲祭の打ち合わせがありますから、今日はここまでとします。しかし、さっきも言ったように自主的な稽古を疎かにしないように。あなたの父上に尋ねましたが、もうお客人は散歩できる程度に回復しているのでしょう。あまり世話を焼けば却ってご迷惑です、つきっきりの看護は止めて空いた時間を稽古に当てなさい。今日からですよ、いいですね」

 ぴしゃりと締めくくった巫女長が立ち去ろうとする。その後姿に、鏡子が慌てて声をかけた。

「あ、あの! 巫女長様、一つだけご質問が!」

「なんですか? 忙しいのですから手短に願いますよ」

「あの、たとえばの話なんですけれども……もし舞うだけで花を咲かせたり動物を暴れさせたり、自分でも予測がつかない事を起こす人が周りにいたら、どう思いますか」

「……最近の絵巻物では、そんな荒唐無稽な話が流行っているのですか?」

 巫女長は深いため息をついた。

「ええ、まぁ……そんな感じです。それでええと、もし一生懸命舞ってるうちに、自分にもそう言う力が身に着いちゃったらどうしようかな、とか想像して怖くなったりしちゃったりて……」

「年頃の娘というのは夢見がちなものですが、あなたはもう少し実際的な考え方の持ち主だと思っていたのですがね」

 あからさまな呆れ顔をされた鏡子は俯いて顔を赤らめる。一方巫女長は少し考え、こう付け加えた。

「しかし、そうですね……舞を極めた達人が不思議な力を体得するという話なら、聞いたことがあります。けれどもあくまで言い伝えで……」

「本当ですか!? 過去にもそういう人がいたんですね!?」

 その言葉を待っていたとばかりに鏡子は希望で目を輝かせ、巫女長に詰め寄って白衣の袖を掴んだ。

「こら、放しなさい! 忙しいと言ったでしょう」

 引きはがそうする巫女長に、鏡子は駄々っ子のように食い下がる。

「先生が話すまで放しません!」

 巫女長は鏡子の豹変に面食らいつつも、このままではらちが明かないと観念して口を割った。

「全く、わがままな娘ですこと……まず前提として、私はあなたに舞を『回る』ものだと教えています。すり足で進み、右へ左へ旋回を交えながら、手振りで静かに表現するのが基本です。そしてこの世において、回るものは周囲に影響を及ぼします。水面の渦が引きよせるように、旋風つむじかぜが吹き飛ばすように、旋回は場を動かす力に通じるのです」

「回れば場を動かす……」

「達人と謳われる舞人の中には、舞い回る中で神霊を引きよせて働きかける、神業の境地に至る者がごく稀ながら現われると申します。賑姫が神楽舞で源主大神の御魂を黄泉から呼び寄せ、憎しみを振り払ったのが最も有名な例ですが、それ以後も舞を通じて霊妙な力を発揮した者が何人か存在したようです。あくまで言い伝えにすぎませんがね」

「へぇ、賑姫さまの他にもすごい人がいたんですね! その人たちは舞をどうやって使いこなしたんですか?」

 豊瑞穂国の歴史の中に同胞を見出し、鏡子は狂喜する。それが自分を悩ますものと同じなら、先人の活躍に学べばおのずと解決するに違いない。

 だが絶望の中に差し込んだ一筋の光明は、何も知らない巫女長の言葉に遮られた。

「扱いきれず死にました」

「……え?」

 聞き間違いかとぽかんとする鏡子に、巫女長は無慈悲な言葉を繰り返す。

「皮肉にも、自分が極めた舞の力で身を滅ぼしたのですよ。ある者は己の願望のために乱用した挙句、鬼に目をつけられさらわれたと言います。またある者は世の救済のために動いたものの却って災いを招き、人々に恨まれ殺されたとか。心清らかで思慮深き賑姫神を除いて、皆が力を持て余し非業の最期を遂げたのです。人間、分不相応なものを得ても破滅しかもたらさない、思いあがらず謙虚に生きるべし。私が彼女らの言い伝えから得た教訓はそれですね」

「……そんな」

 話を切り上げて急ぎたい巫女長は、鏡子の震える小声に気付かない。

「あなたの質問は、そんな危険な人物が身近にいたらどうするか、でしたね。私だったら類が及ぶ前に距離を置きます。一度でも被害を被れば、穏便でも隔離か追放でしょう。災禍なく平穏な暮らしを望むなら、禍々しきものは遠ざけねばなりません。さて、これで満足しましたか?」

「……はい」

「あなたが優秀な弟子なのは認めますが、特別な存在になりたいなどと夢想するのはおよしなさい。そんな絵空事に現を抜かさず、目の前の大祭に向けて舞の稽古に励むのです、分かりましたね。それではまた明日」

 俯いて立ち尽くす鏡子を意に介さず、巫女長は急ぎ足で立ち去った。


「深山様、どちらへお出かけで?」

 午後の平原家の玄関で、家人が包帯を巻いた足に草履を履こうとする滝郎の姿を見つけた。彼は出瑞に入った時着ていた色褪せたぼろではなく、正弘から譲られた紺色の上下を纏っている。帯に自分の打刀を差し、床に伏す間もずっとそばに置いていた師匠の形見刀を大事そうに抱えていた。

「お医者様から外出許可が下りたんで、早速神宮へお参りしてお師匠さまの刀を奉納しにいこうかと」

「若い方は治りが早くてうらやましいですねぇ。それにしても孝行だこと。旦那様もお嬢様も深山様を気に入っていらっしゃいますから、急いで用事を済まさなくても大丈夫ですよ。お嬢様に国譲祭を見に行くとお約束されたのでしょう? 旦那様もせめてお嬢様の晴れ舞台までは留まってほしいと切に願っております」

「御慈悲に感謝します。でも、鏡子さんとの約束と先生の遺言は別ですから。ようやく動けるようになったのに果たさないままゆっくりしていられません。それに、寝てばかりじゃ身体が鈍っていけない。お参りのついでに境内を散歩して、調子を取り戻したいんです」

「それなら、私共ではおとめできませんね。どうかお気をつけて」

「ええ。日暮れまでには戻ります」

 神宮へ向かう滝郎を家人はお辞儀して見送った。


 巫女長と別れた後、鏡子は”秘密の場所”を訪れていた。山桜が咲いた時以来、不気味に感じて避けていたため来るのは久しぶりだった。すでに空は夕焼けに染まっている。

 扇を手にした鏡子は山桜の前に立つ。あの日咲いたはずの桜花はとうに散り、落ちた花弁が地面を薄紅色に彩っている。

 それを見つめる瞳は、冬の泉のように冷たかった。

「あの日、花なんて咲かなかった。あれは疲れた私が見た幻だったのよ。落ちてる花弁は、私がしばらく来なかった間に咲いて、散ったの。そうに決まってる。そもそも、人間が花を咲かせられるわけないのよ」

 自分を言い聞かせるように独り言を呟く。孤独な山桜を憐み、元気づけようと舞った時とはまるで人が変わった、突き放すような口ぶりだった。

「大鳥居のまむしもただの事故。出瑞で蛇に襲われる人なんてたくさんいる。深山さんみたいな武芸者さんもいっぱいお参りに来る。たまたま蛇に襲われて、でもたまたま助けられた、そんな不幸と幸運が偶然重なっただけ。神のお導きなんて、お父様の都合のいい空想」

 低く冷淡な声音で延々と否定を続ける。

「私はただの女。舞が好きなだけの、普通の人間よ。私が舞っても桜は咲かなくて、蛇が暴れたりしない……神も鬼も呼ばないし、奇跡も災いも起こさない! 巫女長さまのいう神業なんて、作り話よ!」

 しかし内に燻る激情が徐々に滲み出し、とうとう最後には感情のまま喚きちらす。手握りしめる扇がたわみ、折れてしまいそうだった。

「だから私は舞えるの! 国譲祭の舞台に立って、みんなの前で! お父様も巫女長さまも、祭主さまも東宮さまも、友達も、それに深山さんも、誰の期待も裏切らず、賑姫神楽をやり遂げる! だから――」

 ばっと扇を広げて見つめ、もはや自分の一部といって過言ではないそれに告げる。

「今度こそ証明するわ。絶対に何も起こらないって……!」

 決意を固めた鏡子は扇を閉じて一泊おき、静かに舞い始める。


 午後に平原宅を出た滝郎は出瑞神宮の本丸、源主社殿げんしゅしゃでんへ詣でた。

 それは出瑞山麓の湧水群の中で最も高所に湧く大泉、国源泉こくげんせんの側にある。国源泉そのものを御神体かつ本殿とみなし、手前に拝殿が建つ。この泉にはかつて源主大神が棲んでいたとされ、大神が荒彦と戦い討たれた地であり、賑姫が祟りを鎮めたのもこの場所と伝わっている。まさしく人代の始まりとなった地であり、豊瑞穂国が湧き出でた源泉ともいうべき聖地だった。

 源主は水神として大地を潤し、賑姫の献じた米酒を気に入って「豊かな水穂の国」を造るよう荒彦に命じた事から、五穀豊穣をもたらすとされるが、御利益は農業に留まらず多岐に渡る。牙を失ってもなお荒彦と互角に競り合った散り際に魅せられ、武人は馬を納めて武運長久を願う。賑姫の舞を喜んだその御心は芸能に深い関心を寄せているとされ、芸事上達を祈って芸を捧げる遊君や遊芸人は数多い。また大神に祝福された荒彦と賑姫の夫婦神は多くの子を儲けたため、子孫繁栄も期待される。そして何より、国譲りにあたって一切の怨恨を水に流して赦した、諸々の罪穢れを清める厄除けお祓いの神として名高い。

 滝郎の参詣目的は師匠の形見刀の奉納とそのためのお祓い祈祷だったが、足を労わって険しい山道をゆっくり登った挙句到着したそこは、境内最奥にも関わらず祈祷希望者で賑わい、祈祷の申請と順番待ちに随分時間を費やした。

 ようやく順番が回って来て拝殿に通されると、奉納用の白木拵えに直して預けていた形見刀が、神前に供えられていた。滝郎は拝殿の隅で正座すると、自分の刀を床に置き、神事が始まるのを待つ。まもなくさらさらと衣擦れの音を立てて神主と巫女が現われ、巫女の指示に従い低頭すると神主が祓い祝詞を奏上した。


 掛け巻くもかしこき源主大神

 国の営み人の営みより生まれ出ずるもろ々の禍事まがごとつみけがれを

 流るる水ともにはらたまきよめめ給えともうす事のよし

 八百万やおよろずの神たちともにきこせとかしこみ畏みも申す

 

 朗々と読み上げられる祝詞を聴く最中、ふと正弘の言葉が脳裏をよぎる。「己と死者を繋ぐ最後の縁」――死別して以来引きずってきた悲しみも、形見と共にいよいよ手放す時が来たのだと悟った。

(お世話になりました、先生。今度こそ今生のお別れです)

 祝詞が終わると雅楽が奏でられ、清水に濡れたさかきを手にした巫女が、滴を捲きつつ巫女舞を捧げる。その間、滝郎は頭を下げながら目頭が熱くなるのをぐっと堪えていた。自分を育て武術を教えた師匠は、養子が義父を失い泣きくれるより、武芸者として毅然とした不動の振る舞いを望むはずなのだ。ただ神事が終わった時、立ち上がる前に両手を床につけ、額を深々と擦りつけて礼を述べた。

 奉納刀が宝物殿へ運ばれるのを見届け、撤下品てっかひんの御神酒で満たした竹水筒を受け取った時には、実に半日が過ぎていた。だが滝郎の心は長時間拘束された鬱屈ではなく、内に秘めていた死者への妄執を捨てた清々しい思いに満たされていた。

「下山ついでに境内を見て回りたかったが……早く帰らないと足元が見えなくなるな」

 すでに日は傾きあたりはうす暗い、いわゆる逢魔が時である。既に参拝客はおろか神職も一日の勤めを終えて下山を始めている。夜山の危険さを知識ではなく経験で知る滝郎は、周囲に倣って寄り道せず戻ると決めた。歩を緩めて土を踏みしめ、ゆっくり下ってゆく。

 下山中、滝郎はつらつらと考え事をしていた。

(あの子たちは僕を見て、何を話してたんだろう)

 祈祷の順番を待つ間、周辺でせかせか働く若い巫女達がときおり固まって、滝郎を遠巻きに見ながらひそひそ囁いているのが気にかかった。気づかぬふりして少女らの会話に聞き耳立てても、「あれが父親が決めた……」「東宮様との恋路を阻む……」「つまり三角関係……」と不明瞭な言葉しか拾えずどうも意味がわからない。

(なんにせよ、流石に神宮の入口であんな荒事をやって、役人に辻斬りと誤解されたんだから注目されるよな……今も神職の家で厄介になってるし)

 内容が解せないものの、出瑞で噂されるような出来事といえば、大鳥居で辛くも鏡子を助けたあの朝しか心当たりがない。そこに頭を巡らせた時、ふと思い出した。

「しまった、あの時にまむしを斬ったのを忘れてた。祟られないよう自分もお祓いしてもらうべきだったか……」

 一瞬悔やんだが、すぐに自分へ言い聞かせるようにはっきり前言撤回する。

「いや、止そう。人助けのためにやったんだ。あれがたとえ神の使いだとしても、義を見て動いた事に文句はいわせない。破蛇流の名にかけて」

 神域での大胆不敵な発言に込められたのは驕りではなく、固い決意だった。

(それはそれとして、この御神酒はどうするか。神様のお下がりは自分で呑むのが作法らしいが、酔うと怪我に触るし平原家の人達へお土産に――ん)

「鏡子さん?」

 不意に口から漏れ出た名前に、滝郎は自分で驚き立ち止まった。

(――突然、何を口走ってるんだ。でも一瞬、いや今も鏡子さんが近くにいるような感じが……)

 だが暮れゆく山中を見渡しても、参拝客も神職も去った境内に人影はない。人声とてなく、聞こえるのはあちこちの湧水から流れる小川のせせらぎだけだ。

 滝郎の理性は錯覚と判断したが、理性より根深い何かが否と頑なに訴える。視線が自然と一方向へ定まり、意識せずにいられない。

(存在感というか気配というか……こっちに鏡子さんがいる、という根拠のない確信がある……)

 滝郎は得体の知れない直感に戸惑いながらも、それに従い進む。すると参道から外れてしばらく歩いたところで、鈴のように通る心地よい歌声が木々の合間を縫って届いた。


 天地あめつちの 父と母から

 産まれたる 落し子たちの

 一柱ひとはしら 古くかしこ

 神の主 源主の

 大神を 人は忘れじ


「この声は……鏡子さんだな。そうか、お祭りに備えて人知れず稽古しているのか」

 さっき突然鏡子を思い浮かべたのは、おそらく遠くから響く、かすかな彼女の歌声を耳が拾ったからだろう。滝郎はそう自分を納得させた。

「稽古の邪魔かもしれないが、暮れる山に女人を一人残すわけにはいかない。迎えに行こう」

 滝郎は鏡子の歌声を頼りに、彼女が舞っているだろう場所を目指す。


 雨降らし 泉湧かせて

 千川ちかわ成し 諸島もろしま生かす

 水の主 古く畏き

 神の主 源主の

 大神を 人は忘れじ


(賑姫神楽だっけ、結構長いな。長歌ってやつか。しかし……)

 耳に心地よい鏡子の歌に、滝郎は歩きながら聞き惚れていた。身体が糸で引っ張られるように、迷いなく前進する。

(不思議だな……まるで精神を揺さぶられるようだ。思えば大鳥居で初めて会ったあの日、神楽舞を眺めた時もこんな気分だった)

 歌だけでなく、是非その舞姿を見たいという興味が湧きあがり、自然と足が速まった。岩が立ちはだかれば登って乗り越え、窪みに出くわせば走って飛び越え、回り道を惜しんで最短一直線で突き進む。無理な直進は鈍痛の残る足首に負担を強いるが、それでも高揚を抑えられない。何故ここまで惹かれるのか自分でも理解できないが、まるで歌舞に誘われ導かれているようだった。


 稀人まれびとの 水穂の種を

 育めど 水をなくして

 恵みなし 古く畏き

 神の主 源主の

 大神を 人は忘れじ


(……山の様子がおかしい)

 尋常ならざる雰囲気を感じ取り、警戒して立ち止まる。

 ふと気づけば、周囲は俄かに騒々しくなっていた。ひゅうひゅうと強風が吹き抜け、煽られた草木がざわめく。樹上の鳥はばたばた羽ばたき、茂みの獣たちはがさがさ走り、興奮を隠さず鳴き喚く。雨でもないのに川音は轟々と激しくなり、湧水の量が増しているように思われた。

(山の気が乱れている。それも、鏡子さんに近づくほど荒れてゆく……本当に舞ってるだけなのか?)

 この異様な状況は、もしかして鏡子と何か関係があるのだろうか。そんな疑念を抱いた時だった。

 絹を裂くような女性の叫びが、薄闇の森に木霊する。するとどうしたことか、途端に周囲の異変はぱったり止み、山は何事も無かったように静けさを取り戻した。

 しかしそれに気づく暇もなく、滝郎は腰の刀に手をかけて、足首の痛みも忘れて駆け出していた。

※補足

作中の祭主は現実の伊勢神宮の祭主とは大きく異なり、厳密には南北朝時代以前にあった斎宮(さいぐう、いつきのみや)制度を参考にしています。斎宮という字面に皇族の雰囲気を強く感じるので避けたいのと、「主」という言葉を重視したいので祭主としました。

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