出会い
あの後麓の平原宅に帰った鏡子は、家人の用意した夕餉を殆ど口にせず床に伏した。昼間の一報の衝撃からまだ立ち直れていないと思われたらしく、父も家人も深く追求して来なかったのは幸いだが、頭から布団を被ってもなかなか寝付けなかった。
目を閉じても、あの秘密の場所で起こった山桜の奇跡が瞼の裏に映る。興奮の冷めない頭の中を占めるのは、あの出来事が本当に自分の舞のせいで生じたのかという疑念である。
(もしこれからもあんな事が起きてしまうなら、怖くて人前で踊れない……何が起こるか分らないもの。でもそれじゃ、国譲祭の舞台に立てない。せっかく賑姫神楽の舞い手になれたのに……お父様も皆も応援してくれて、東宮さまもお越しになるのに。皆を裏切りたくない)
自分が祭りの主役に任じられた時に、父が見せた嬉し涙。巫女仲間たちのはじけるような笑顔。幼いころから舞を厳しく指南して下さった先生の、顔には出さなくとも誇らしげだったあの声音。顔を拝見した事はないが、自ら腰をあげられて神宮へ参られるという東宮。何が起こるのか恐ろしくて舞えないと言ったなら、期待の眼差しはたまち失望へ変わるだろう。だが鏡子が憂いているのは周囲の反応だけではない。恐怖の原因はもっと根源に根差していた。
(何より……二度と舞えないなら、舞しか取り柄のない私は無価値な人間になる。子供のころから舞踊に費やしてきた、今までの努力はなんだったの?)
それが何よりも恐ろしかった。舞一筋に生きてきたのに、その舞に自分の人生を否定されるなど到底認めたくなった。だから鏡子は、自分の舞に異常な力など無いと信じたかった。百歩譲って、見えない何かを魅了する業前が自分に備わっているとしても、あの山桜のような出来事は一回こっきりの偶然で、頻繁に起きる事ではないという否定材料が欲しかった。
(あれは偶然よ……何か条件が揃ってたまたま起こってしまったとか……そうだ、あの秘密の場所が特別だったのかもしれない。あそこは山に広がる森の中、境内の参道から離れた奥地。神々の領域といっても過言じゃないはず。森の中にできたあの広場が実は神さまの集会所で、それと知らずに踊ってたら、たまたま見物してた神さまが気分を良くして花を咲かせたとか……うん、きっとそう。私じゃなくて、場所の問題なのよ。同じ神宮の境内でも、あんな俗世からかけ離れた山奥じゃなくて、普段から人気の多い参道や拝殿、もしくは入口の大鳥居ならたぶん……よし、確かめましょう)
夜明けと共に飛び起きた鏡子は素早く巫女装束に着替え、「朝餉の前の朝稽古に行ってきます」と起床したばかりの父に告げて家を出た。そして着いたのは、神宮と門前町の境に建つ大鳥居。二階建ての宿よりも高い、見上げるほど大きい建造物だが、近くにそれを上回る巨木がずらりと立ち並ぶため、実際より小さく見えてしまう。大鳥居の前には人の町が広がるが、一歩境内に踏み込めば打って変わって、そこは深い森の中。まさに神域と俗世を別つ境界線である。
まだ早朝だが、近所の御隠居が散歩代わりの朝詣でにやってきて、大鳥居をくぐっている。神宮の入口の目の前で軒を並べる宿場ではあちこちで炊事の煙が上り、通りには職人や商人の家に奉公する子供の使いが走っていた。じきに宿泊客を含めた町の人々が目覚め出し、通りに溢れ出て賑わうだろう。
「ここならきっと大丈夫……」
そう自分に言い聞かせながら、懐から採り物を出す。今朝はあえて衆目を集めるため、扇に加えて神楽鈴を持ってきた。右手に扇、左手に鈴を持つと、鳥居を背にして町を向き、しゃらんと鈴を振り鳴らす。精妙な鈴音が周囲に響き、道行く人が振り向いた。幾人かが立ち止まって遠巻きに眺めてくるが、構わず始める。
舞うのは出瑞神宮の主神、源主大神の化身である蛇の舞。息を吐いて身体を柔らかくした。とぐろを巻くように回転し、這うがごとく静々と歩む。腕をしならせながら扇を開き、しゃらしゃら小刻みに鈴振れば、それは牙剥き尾を打ち鳴らして威嚇する毒蛇の威容。
「すぅ……」
身体が温まってきたのを見計らい、息を深く吸って臍に力を込め、神楽歌を高く遠く唄い上げる。その頃には鏡子の世界から衆目は消え去り、ただ自分一人しかいなかった。
驕る者 出瑞のまむし しかと見よ 千早振るのは 神の御姿
「……はぁ」
舞い終えた鏡子が蛇の抜け殻のように脱力していると、拍手喝采が湧き起こった。気づけば周囲には黒山の人だかりが出来ており、老若男女問わず見物している。中には両手を合わせて拝む者もいた。ある程度衆目を集めるのは承知の上だが、それにしても予想外の人数で、鳥居の側に立つ鏡子を見物人がぐるりと囲むせいで、参拝客に回り道させてしまう有様だった。前列で熱心に見ていた人々が詰め寄せて声をかけてくる。
「いんやぁ、朝からいいもんを拝ませてもらったわい。いつ死んでもええわ」
「あの動きって蛇? 本物は怖いけど、今のはとっても素敵だったわ」
「巫女さん、今のが今度のお祭りの踊りかい? あんたみたいな別嬪さんが出るなら、絶対見に行くぜ」
「不躾ですが、出瑞の平原家の舞姫とは御前の事でしょうか。私は遊芸を生業とするものですが、お噂に違わぬお手並み。願わくばもう一曲拝見させていただきたく存じ上げまする」
「ええと……皆さん御拝見ありがとうございます。晩春の国譲祭におきましては、盛大な奉納神楽を神前で披露しますので是非御参詣を……ちょっと、誰ですか御鉢置いたの!? そこにお捻り入れないで、大道芸じゃないですから! 浄財はお社にお願いします!」
見物人への対応に奔走しながら、鏡子は周囲に異変がないか見渡した。見物客の群を除けば、別段変わった様子はない。それを確認すると、舞う最中も曇りがちだった彼女の表情は、みるみる晴れやかになった。
(何も起こらなかった……やっぱり昨日のあれは偶然だったのね。少なくとも、人のいる場所で何か起こったりはしない。そうよ、私はこれからも人前で舞えるんだ)
最大の懸念を払拭してひとまず安堵した鏡子は、これ以上留まると参拝客の邪魔になるので、そろそろ退散しようとした。
その時だった。鏡子の横に立つ巨木の側で、かさりと音が鳴る。振り向けば、そこには一包みの刀袋が茂みの上に沈んでいた。
「刀……?」
鏡子が怪訝な表情を浮かべるのと同時、頭上からがさりと葉枝をかき分ける音と、鬼気迫る男の声が響た。
「巫女さん、伏せろ!」
振り仰げばなんと、鏡子の頭上に牙剥くまむしが降ってくる。さらにその毒蛇に覆いかぶさるように、抜き身の刀を振り上げた男が宙を舞っているではないか。
「きゃあっ!」
甲高い悲鳴を上げながら袖で頭を覆い、地べたに伏す鏡子。その上空で、落下する男の剣線が斜めに走り、ぶつんと骨肉を断つ音が聞こえる。首と胴を切り離されたまむしが、鮮血を散らして地に落ちた。男も鏡子の側の石畳に着地したが受け身を取り損ねたらしく、悶絶しながら刀を手落としてその場に崩れ落ちる。
周囲の人だかりが一瞬静まり返り、すぐに悲鳴と混乱が湧き起こった。
慌てふためく群衆の喧噪の中、渦中の人たる鏡子は状況が呑み込めずにいた。気が動転して座り込んだまま、目の前で苦痛に呻く男を見つめる。染めの薄れた着物を纏った、刀を帯びた青年だった。彼は鏡子の視線に気づくと、苦痛に顔を歪めながら話しかけてくる。
「ぐっ……巫女さん、怪我はないか」
「あ……はい、大丈夫です。ええと、木の下に刀が落ちて、空から声が聞こえて、上を向いたら、蛇とあなたが降ってきて……」
鏡子がうわ言のように一連の出来事を口走ると、青年が痛みを堪えながら口を挟み一部始終を説明する。
「木の上で、君の舞を見てたんだ……終わってふと周囲を見渡したら、大鳥居の上でまむしが牙を立てて、君の真下へ落ちて行った……とっさに飛び降りて、斬った……間一髪だった」
鏡子に噛みつこうと降ってきた毒蛇を、青年が追いかけて空中で切り捨てたらしい。どうにも滅茶苦茶な荒事であるが、鏡子は一番肝心な事、すなわち自分がこの青年に助けられた事を理解した。
「そこの刀袋は木の上で抜刀する時、やむなく手離して落としたんだ。痛ぅ……すまないが、拾ってくれないか。大事な物なんだ」
青年に乞われて、鏡子は立ち上がり茂みの中から刀袋を拾う。そして彼の前で膝をつき目線を合わせると、そっと差し出しつつ言った。
「お荷物は無事ですよ、どうぞ……私は平原鏡子と申します。毒蛇からお救い頂き、まことにありがとうございました。あの、貴方さまのお名前を伺ってよろしいですか」
「僕……あー、いや、拙者は深山滝郎と申す、しがない浪人です」
滝郎は女人に間近で見つめられて戸惑ったらしく一瞬素が出かけたが、努めて平静を装い武士らしく振る舞う。
「ごめんなさい深山さま、私のために大怪我をなさって……我が家で手当させて下さい」
「お気づかいなく。この程度は山で何度も……いてて」
立ち上がろうとしてよろめいた滝郎を、鏡子が慌てて支えた。
「そんなこといって、足を挫いてるじゃないですか。ほら、肩をお貸ししますから一緒に参りましょう」
「かたじけない、御言葉に甘えて……」
「お役人様、こっちです!」
「うむ、そこの狼藉者、動くな!」
会話を遮って怒声が轟く。二人が町の方角を振り向くと、いつのまにか群衆をかき分けて、十手や縄などの捕り物道具を持った物々しい男達が詰め寄せていた。
「あの……どちらさまで」
なんとなく察した顔で滝郎が恐る恐る尋ねると、一番年長で強面の大男が前に進み出て答えた。
「我らはこの出瑞の治安を取り締まる改方なり。神の宮の入口にて辻斬り凶行に及び、かよわき婦女子を襲った外道とやらはおぬしか! 大人しく縛につけい!」
どうやら雑踏の混乱の中で、今しがたの衝撃的な事件に様々な憶測が飛び交い、『浪人が巫女に斬りかかった』という状況的には極めて妥当に見える情報が役人に届いてしまったらしい。
「いや、お役人方、拙者はそのような狼藉は……」
「とぼけるな! 未遂なら見逃すとでも思うてか! ものども取り押さえよ!」
「はっ!」
号令で部下の男共が一斉に滝郎を囲み、押さえつけて縛り始めた。同時に数人が鏡子に駆け寄り、急いで滝郎から引き離す。
「ちょっと、違います! この方は私じゃなくて蛇を……」
「もう大丈夫ですぞ、お嬢さん。この暴漢の後始末は我々にお任せを」
「誤解ですってば!」
鏡子の必死の説得と、現場でちゃんと一部始終を見ていた人々の証言によってなんとか誤解を説き解放されたのは、いよいよ日が昇って正午に近づく頃だった。
「深山殿、事の経緯は娘の鏡子から聞き及んでおります。私は先祖代々この出瑞で神宮に奉仕しておりまする平原家の家長、正弘と申す者。我が娘を毒蛇からお守りして頂き、なんとお礼を申し上げたらよいやら……せめてもの恩返し、今しばらく我が家に留まり、娘のために負わせてしまった傷を癒して頂きたい。まもなく神宮で開かれる大祭の準備で慌ただしく、十分なもてなしは保障出来かねますが、どうかゆっくり養生してくだされ」
役人から解放された後、滝郎は鏡子に平原家へ案内され、離れ座敷の客間で手厚く介抱された。呼ばれた町医者が「足の捻挫が酷いが、湿布を貼って一月ほど安静にすれば、不自由なく歩けるでしょう」と告げて去ると、入れ替わりに正弘が訪れて、娘の恩人に深く感謝し逗留を勧めてきた。
「いや、義を見て動いただけの事。手当ばかりか、医者にまで診せて貰ったのですからもう十分です。年頃の女人のおられる家に、見知らぬ男が留まるのは好ましくないでしょう。棒の一本でも頂ければ杖をついてすぐに発ちます。捻挫程度、放っておけば治りますから」
滝郎は座敷に敷かれた柔らかな布団に寝かされ、上半身を起こし正弘に応対していた。汚れた身体を井戸水で清め、擦り切れた着衣を清潔な内衣に着替えた今は、山犬のようなみすぼらしさがさっぱり落ちて、鷹を思わせる凛々しい顔立ちを見せている。腰に差していた刀と抱いていた刀袋は、今は枕もとに置いていた。
「剛毅なのは結構ですが、無理はお身体に毒ですぞ。それに怪我人を即日放り出したとあっては、平原家は人でなしの謗りを免れませぬ。我らの世間体を慮るなら、ますますご逗留願いたい。鏡子は恩人を泊めて醜聞が立つような品の無い娘ではありませんので、心配ご無用」
「そこまで仰られるのでしたら……」
滝郎が承諾すると、正弘は話題を切り替えた。
「ところで、何故早朝に大鳥居の側で木登りなどなさっておられたのですかな。鏡子が言うには、飛び降りて来るまで一度も貴方のお姿を見ておらず、周りの見物人も木に登る貴方を見た者は一人もいなかったとの事。お役人方には『昨夜から木の上で野宿をしていた』とお答えになられたそうですが、何故足を挫くほどの高所でそのような真似を?」
他人から見れば確かに不可解だろうと思い、滝郎は正直に答えた。
「出瑞には昨日の日暮れに着いたのですが、既に宿は満室で近隣に身を寄せられる縁者も無く、途方にくれて野宿を決めました。しかし先日賊に遭遇したばかりで警戒心が抜けず、寝込みを襲われる心配のない場所を絞り込んだ末、大鳥居の近くの高木に宿を取ったのです。夜が明けて下の騒がしさに起きてみたら、鏡子さんが舞い唄って場が盛り上がっていたので、邪魔せず見物しながら終わるのを待って……あとのなりゆきは御存じの通りで」
滝郎はばつが悪そうに頭をかく。一方正彦はううむと腕を組み、まだ納得いかない様子だ。
「左様ですか。しかし夜盗に寝込みを襲われるよりも、樹上で寝返り打って転げ落ちる方がよほど危険と思いますがのう。よく平気でしたな」
「出瑞に来る前は武芸の修行に励んでおりましたから。何日にもわたって追手から身を隠す訓練で、高木に寝床を求めていたら自然と身体が覚えましたよ」
滝郎が経歴を明かすと、正弘はやっと得心顔になった。
「なるほど、やはり武芸者でしたか。宙を舞って蛇を切るという天狗の如き離れ業をやってのけたと聞き、相当の使い手とお見受けしておりましたが、道理で……なんという流派を修めておいでで?」
「無双直伝破蛇流と申します。『蛇を破る』と書いて『はじゃ』です。蛇神のお膝下で名乗るには、少々縁起が悪いですが」
出瑞神宮の神職に配慮し、遠慮がちに答える。
「ふーむ、破蛇流……残念ながら武門の道には疎く、寡聞にして存じませんな」
「我が流派は人里に道場を開かず、山に籠って少人数で研鑽を積むのがならわしなので、仕方無いことです」
滝郎はそこで一度口を噤み、しばし躊躇ってから意を決して打ち明けた。
「……実は現在、伝承者は自分一人でして。今まで義父である先生と二人で修行に励んでいたのですが、年老いた先生は前年の厳しい冬を越せず亡くなってしまわれました」
「それは……実に残念な事で。心中お察しいたしまする」
心底から同情する正弘に、ありがとうございますと礼を述べつつ滝郎は続ける。
「その恩師が生前拙者に刀をお預けになり、自分の亡き後に出瑞へ赴くよう望まれました。長年愛用した刀に積もる罪穢れを、源主大神に清めて頂き奉納して欲しいと。この傍らにあります刀袋の中身が、その形見刀です。今回出瑞に参ったのは、この刀を神宮に奉納するためなのです。……正弘殿、どうか動けない拙者の代わりに、これを出瑞山の大神へ献上して頂けませんか。遺言を果たさぬことには、おちおち寝ていられません」
頭を下げて懇願する滝郎を制止しながら、正弘は答えた。
「色々と腑に落ちました。しかしその形見の品は、傷が癒えてからご自分で奉納なさるのがよろしいかと。それはいわば死者との最後の縁。ここまで来たのに他人に解決を委ねたら、必ずや一生の心残りになりますぞ。あなたの恩師も、愛弟子の手で完遂する事を望まれるのではないですかな」
「そう……ですね。すみません、ご多忙なのに一方的な頼みごとを……」
「いえ、私も妻を亡くしておりますからな。亡き縁者の望みを叶えようと逸る気持ちは理解できます。だからこそ御自身の手で全うした方が良いでしょう。そのために今は回復に努めなさい……と、長々と話しこんでしまいましたな。神宮に出仕せねばならぬゆえ、この辺で失礼いたしまする。食事は家の者がお持ちしますので、ご用があればなんなりとお申しつけ下され」
そう言い置いて、正弘は客間を去った。
「ふうむ……もしかすれば……」
正弘は離れ座敷から渡り廊下を越えて母屋の自室に入ると、顎に手を当ててしきりに考え込んでいた。そこへそっと障子を開いて、出仕支度を整えた鏡子が入ってくる。開口一番、彼女は自分が連れてきた滝郎の事を尋ねた。
「お父様、深山様のご様子はいかがでしたか」
「うむ。長らく山暮らししていたという割に品行方正でしっかりしており、義理堅く人情に厚い。話を聞く限り、武芸も相当の鍛練を積んでいるのだろう。今は武者修行の浪人だが、主君を持てば将来必ずや大成するとみた」
「……あの、人となりではなくて容体について聞いたんですが」
目を輝かせてまくしたてた正弘は、小首を傾げる鏡子を見て言いなおした。
「おっと、すまんな……今はすっかり元気を取り戻しておられる。まだ痛みも引いておらぬだろうに、お前に良からぬ噂が立つ前に片杖突いてお暇すると言い出すものだから、慌てて押し留めた程じゃよ。医者の診立てでは大事には至らず、国譲祭が始まる頃には歩けるらしい。傷が完治するまで我が家で養生して頂く事にしたが、構わぬな?」
それを聞いて、鏡子は胸を撫で下ろす。
「良かった、歩けるんですね……深山様のご滞在については、私からもお父様に願い出ようと考えておりました。あの方が居なかったら私はあのまむしの毒を受け、程無くして黄泉路を下っていたでしょう。命を救って頂いた恩人に報いるには、まだ足りないくらいです」
出瑞は荒ぶる蛇神の鎮座する土地である。出瑞山の中に建ち、参道と社を除けばほぼ手つかずの自然が広がる神宮境内には、山奥の森と水辺を好むまむしが多く生息し、ときおり町や周辺の村にも出没する。この地で生まれ育った鏡子は、日陰に隠れたまむしを踏んでしまい咬まれた不運な人間をたくさん見てきた。ひとたびその毒牙を受ければ、咬傷から激しく出血し皮膚は酷く腫れ、意識が薄れる中で激痛に苛まれる。多くの者が数日に渡って苦しみぬいた挙句、その命を落とした。自分がその一人に加わったかもしれないと思うと寒気が走り、窮地を救った滝郎に恩義を感じずにはいられない。
「そうであろう。彼の滞在中、朝晩の湿布の張り替えはお前が施してあげなさい」
「当然です。私がお招きしたのに、肝心なお世話を他人に丸投げなんて無礼は致しません」
毅然とした娘の答えに、父親は満足気に頷く。
「うむ、うむ。今は互いに畏まっているが、毎日接すれば直に心うち解けて理解深まり、彼がお前の婿殿に相応しいか見定めることができよう」
「はぁ、それは……はぁ!?」
さりげなく滑りこませた父のとんでもない発言に、鏡子は素っ頓狂な声をあげる。
「しっ……声が大きいぞ、慎め」
窘められた鏡子は口に手を当てて声をひそめるが、動揺は収まらずただ慌てふためいた。
「ななな、なんでいきなり婿とかそんな話に……たしかにお礼してもし足りないくらいと思ってますが、だからって夫として生涯お慕いするのは全く別の事というか、今日知り合ったばかりで相手の良し悪しも好き嫌いも判断できないのにあまりにも急すぎるというか、ええとその、それってさっき深山様にお話したんですか!?」
詰め寄る娘に、正弘は首を横に振る。
「まだ何も話しとらんよ。だが人品を確かめてこれならばと判断したら、彼にお前を薦めて縁を結びたいと思っておる」
正弘は真剣な面持ちで、あっけにとられている鏡子を見据えた。
「お前も年頃の娘だ。一人娘の可愛さゆえに今まで望むまま舞踊の道を歩ませてきたが、そろそろ婿を迎えて家督の相続を考えねばならん。知り合いにちょうど良い子息が見つからず難儀していたが、深山殿ならあるいは……と思うてな。彼が神宮に仕えるは難しかろうが、どこかに仕官して所帯を持ち、お前との間に儲けた男子の一人を後継ぎとして引き取れば、平原家は安泰だ。わしが生きてるうちに孫の顔を拝みたい」
「お家の心配は分かりますが、それと深山様を結びつけるのは飛躍しすぎです! 今日会ったばかりの他人を、思いつきで婿候補に立てないでください!」
「思いつきではない。今日の出会いに、運命めいたものを感じるのだ」
その表情は実に神妙だった。
「昨日の一報以来、出瑞では東宮殿下がお前を見染めて室へ召し上げるかもしれぬという噂でもちきりだ。現実問題、家格が伴わんから室は望めんが、殿下が望めば女官に採り立てるのは有りうる。孝行娘を持ったものだと皆に言われたよ。だがな、わしは喜ぶどころか憂いている。お前が舞踊を買われて都に召されても、高貴な家柄の姫君が並ぶ宮中では、出瑞の田舎巫女など除者にされるだろう。どんなにお慕いしても、殿下にとっては側に侍る数百人の女の一人にすぎない。殿上人とは住む世界が違うのだ」
鏡子は言葉を失った。自分が友人たちに持て囃されていた時、父はそんな沈痛な心境だったのかと。鏡子自身は都の雅な世界を想像しつつも、自分がそんな所に行けるわけないと冗談程度に捉えていた。だが実際問題、未来の大国主尊である東宮が鏡子に一言「一緒に来い」と誘えば、冗談半分でもそれは実現するのだ。彼が強要しなくても、周囲が拒絶を許さない。正弘はもうすぐ出瑞にやってくる貴人の他愛ない一言で、娘の人生がいともたやすく捻じ曲げられる可能性を怖れていた。
「そんな所に娘を攫われるくらいなら、お前の事を理解し、添い遂げてくれる若者に嫁がせたい。しかしその候補が見つからない……そう思い悩んでいた日の翌日の、今朝だ。大鳥居でまむしに襲われたお前を、深山殿がわが身も顧みず守ったのは」
「……」
「深山殿がお前の舞をただ見物していても、それは並みいる群衆の一人に過ぎず、互いに名を知ることもなく別れたろう。だがお前がまむしに襲われ、深山殿が助けに入った事で二人は知り合った」
「……それで?」
「まむしは源主大神の使いとされている。そして大神は荒彦と賑姫の婚姻を祝福した、縁結びの神でもある。もしや大神がわしの願いをお聞き届けになり、神宮の大鳥居で舞うお前に使いをやって、見物人の中にいた勇敢な若者と引き合わせたのではないか……そう期待しているのだ。深山殿はお前の前で天狗の如き武芸を示し、ここに来る以前は山に入り鍛錬していたという、どこか神秘めいた男だ。何か数奇な巡り合わせを感じないか」
問われた鏡子は、拳を固く握りしめていた。感情を抑え込んだ声音で、暗く静かに答える。
「……つまりお父様は、私の舞が深山様を引き止めていたので、そこに出瑞の大神がまむしをけしかけて、私達の間を取り持ったと、そう仰るのですね」
「そういうことになる」
「ふざけないでっ!」
鏡子は普段の穏やかな印象からはかけ離れた怒声を放った。
「私の舞が毒蛇を呼んだっていうの!? 私が襲われたのも、それを助けた彼が怪我したのも、全部私のせいなの!? 言いがかりはやめて!」
ここ数年見たことない鏡子の怒りの剣幕に正弘は息をのむが、しかしあくまで自説を固持する。
「……お前が蛇を呼んだのではない。お前の舞に惹きつけられた者の中から婿を見出すために、大神が蛇を遣わしたと考えている。お前のせいではなく、神の御意志だと」
「同じ事よ! 婿を見出す? 神の意思? 事故を都合よく解釈して、家の問題を他人に押し付けているだけじゃない! 舞が蛇を招いたなんて……そんなの絶対に信じない!」
父の返事を待たず、鏡子は家を飛び出して逃げるように神宮へ出仕した。顔を怒りで真っ赤に染めながら走る彼女の目には、涙が滲んでいた。
(あれは偶然の事故よ……出瑞でまむしなんて珍しくない。鳥居の上にいたから神の使いだなんて、馬鹿げてる。私はそんなもの呼んでない。私の舞が毒蛇を呼んで、人を傷つけたなんて、認めたくない!)
「今日中に神宮へ詣でて用事を済ませるはずだったのに、思わぬ長居をするはめになってしまった……」
正弘が退室した後、滝郎は出瑞までの長旅で疲弊した肉体を、白く柔らかな布団に沈めた。しかし足首の鈍痛はまだ尾を引き、眠るに眠れない。なのでここまでの旅路を振り返ることにした。
(街道で賊に襲われ、関所で警備強化を申し出たら通行料を値上げされて、目的地に着いたら宿が取れず野宿して、人助けしたら足を挫き、逆に助けられて厄介者になっている。うーん、死んだ先生が見たら呆れるな……)
振り返ったらなんだか惨めな気分になったので、別の事を考える。
(それにしても、出瑞は荒ぶる蛇神の土地とは聞いていたが、まさか朝からまむしが出て人を襲うとは……)
山籠りしていた滝郎にとってまむしは身近な脅威であり、身を守るべく師匠からその性質をよく教え込まれていた。小柄ながら猛毒の牙を持ち、天敵らしい天敵はおらず山中で最も用心すべき存在だ。しかしかなり臆病で、不用意に近づかなければ決して自分から咬みつこうとしない。
ここは出瑞山の麓だから、ある程度人里に降りてくるのは仕方ない。周囲に巨木の並ぶ大鳥居の上にまむしが朝まで居残っていたのも、そんなに不自然でもない。しかし、そこから遥か下の地上にいる人間目掛けて飛びかかるというのは、どうにも解せなかった。
(鏡子さんの舞に刺激されたのだろうか。鈴を振って唄っていたから、音楽に興奮して暴れたのかもしれない。あるいは……引き寄せられた? 出瑞じゃまむしは神のしもべらしいし、巫女の舞に反応したのかもしれない。源主大神の眠るという黄泉国へ、巫女を引っ張り込もうとしたとか……あれ、だとしたら神の使いを斬った僕は祟られるんじゃないか? ……もう寝よう)
不吉な考えが過ぎったので、さっさと眠って忘却に努めた。瞼を閉じてじっとしているとやがて痛覚が鈍り、眠気を覚え始める。熟睡という無心の境地へ至る最中、ぽつりと呟きが漏れた。
「……綺麗だったな」
舞い踊る鏡子の姿を脳裏に思い描きながら、滝郎の意識はまどろみに沈んでいった。