神業
「そこの兄さんよ、ちょいと用があるんだが」
仲春の峠道を登る旅人の前に、道端の茂みからいきなり十数人の男が現れて前後を塞いだ。皆武装しているが、ある者は槍に鉢金、ある物は太刀に胴巻と統一性のない出で立ちで、汗と垢に塗れ薄汚い点のみ共通している。山野に根城を構えて略奪を生業とする賊に違いない。
「生憎と拙者は武者修行の浪人でして、差し出せる物は持っておりません。ご覧の通り、身なりからしてあなた方と比べられない有様でして」
山賊に囲まれ孤立しながらも落ち着き払っているのは、二十歳前後の若侍だった。その顔立ちは武芸者らしく研ぎ澄まされて精悍だが、格好は自嘲する通りひどくみすぼらしい。腰に帯びているのは黒目鞘に丸鍔と質素な拵えの打刀一本で、仕官者の証の大小二本差しではない。髷を結う油も買えないらしく、無造作に伸びた髪を後ろで括っている。色褪せた継ぎ接ぎだらけの着物と言ったらまるで雑巾で、略奪品で着飾る山賊の方が立派な身なりをしていた。
山賊の頭目と思わしき、一党の中で飛びぬけて派手でけばけばしい装いの男が嘲笑いながら言う。
「はっ、確かに物乞いみてえな風体してやがる。でもよ、武者らしく腰に差してるもんがあるじゃねぇか。ついでにもう一本、後生大事そうに包んで抱えてるしな」
若侍は腰の一差しとは別に、中身の入った刀袋を一本腕に抱えていた。山賊達の視線が注がれているのを見て、青年は刀袋を背中に隠す。
「ちょうど血で錆びついちまってな、新しい刀が欲しかったんだ。なに、俺たちも鬼じゃねぇ。お侍さんも丸腰じゃ恥ずかしくて歩けねぇだろうから、その包みの一本で勘弁してやる。そいつを置いてさっさと失せな」
「断る。帯の物は言語道断、この包みの中身は今は亡き恩師の形見。遺言に従って、出瑞神宮へ奉納しに参る道中だ。武芸者の矜持と先生の遺品、どちらも渡せない。ここを通せ、さもなくば押しとおる」
啖呵を切った若侍は道端へさっと身を引いて繁みに背中を預け、道に陣取る山賊達と対峙した。抱えていた刀袋を木立に立て懸けると、左手で鞘を握り右手を柄にかけ、居合抜きの構えを取る。近寄らば即座に斬ると、敵を牽制する態度だ。
「おいおい、度胸は立派だが、この大人数に勝てると思ってんのか? いくら武芸が取り柄でも、引き際間違えて死んじまったら、あの世でお師匠さんに顔合わせられねぇぜ。悪いこと言わねえからその手をどけな。そこに刀を置いたまま、とっとと退散するんだ」
多勢を頼りに威圧し、無謀を嗤う山賊たちに対して、若侍は声高に名乗り上げ、あくまでも要求を突っぱる。
「僕は無双直伝 破蛇流の剣客、深山滝郎なり! 我が流派は無用の流血を戒めているが、護身に振るう事は躊躇しない。もう一度言う。刀は渡さん、ここを通せ!」
「……てめぇ、人が穏便に済ませてやろうってのに、ちょっと剣術齧ったぐらいで調子こきやがって! お望みどおりぶち殺して二本とも頂戴してやる!」
激昂した頭目が槍を握りしめ踏み込んだ刹那、滝郎と名乗った若侍が無音無声で抜刀一閃、相手の動きを捉えてからの抜き打ちで槍の穂先を切り落とす。続く二刀目で、頭目の頭上を一文字に薙いだ。頭目は穂先を失った長棒を手に立ち尽くし、何が起こったかしばし理解できず、きょとんと間抜け面をさらす。後に続こうとした手下たちも思わず固まり、頭目へ視線を注いだ。
「お、お頭、髷が……」
「あ……?」
手下に指摘された頭目は、ようやく自分の髷を切り落とされた事実に気付く。はらりと地面に落ちた髪房は根元からすっぱりと、しかし頭皮に傷一つつけず奇麗に寸断されていた。その正確無比な太刀筋に頭目は思わず肝を潰す。今の剣線があと少し下だったら……目やのど元を捉えていたら……あり得た惨状を想起して震え、腰を抜かし尻餅をついた。
「今のは威嚇だ。次は剃刀じゃ済まない……僕は本気だぞ」
滝郎は反撃に備えて残心し、不審な動きを見せれば即座に剣先で突く構えだ。その眼は血走って、既に殺し合いの雰囲気に呑まれている。
眼前に光る刃を見て、頭目の戦意は完全に挫かれた。目の当たりにした抜刀術の正確さ、さらに後の先の速さは本物だ。抜き打ちでそれを成した達人が抜刀した今、態勢はますます不利である。手下が助太刀に踏み込もうものなら、それを追い抜いて切っ先が矢のごとく襲い来るだろう。頭目は尻餅ついたまま地べたを後ずさりして、滝郎との間に十分すぎるほどの距離を空けてから叫んだ。
「ち、畜生……野郎ども、手を出すな! まるで天狗だ! 刀の一、二本欲しさにやり合う手合いじゃねぇ! 引き揚げるぞ!」
静まり返っていた山賊一党ははっと我に返り、すくみ上がって立てない頭目を数人がかりで抱え、道脇の茂みへ隠れる。彼らの目的は金品の略奪であり殺害ではない。若造一人と高をくくって襲ったが、予想以上の使い手と見るや怪我する前に退散した。柴をかき分けて逃げ去る山賊達の足音が遠ざかり聞こえなくなると、滝郎はようやく警戒を解いて静かに納刀し、ほっと一息つく。
「面子に拘って自棄に走る連中じゃなくて命拾いした……気が変わって戻ってくる前に先を急ごう。関所に着いたら守人に知らせないと」
不意の危急を切り抜けた武者修行の青年は刀袋を肩に担ぎ、足早に峠を越える。坂道を勢いよく駆け降りた時、脂汗の滲む頬を春風が撫でた。
今ではもう昔の話だが、千川諸島に豊瑞穂国が開かれる以前、諸島は八百万の神の国だった。
八百万の神は天に輝く星々に、地の山川木石に、広く深き海原に、そしてそこから作られる諸々の道具の万物に宿り善悪を成す。諸島に古よりおわす国の神たちは、長い年月を経て絶大な力を持つに至り、諸島の天候や火山の胎動など森羅万象に大きな影響力を誇った。諸島に住む国人は豊かな恵みを糧に生き、それを生み出す神々に感謝しながら素朴な生活を営んでいた。
だが元来、神の気性は荒々しい。しばしば怒り狂い、気分次第で人を呪い祟った。禁忌を侵した個人を罰するのは穏やかな方で、激しい時は災厄を招いて村々を滅ぼした。国人はその強大な力の前に成す術なくひれ伏し、生贄を捧げてただ鎮まるのを願った。神は人に恵みを賜るが、ひとたび姿を見せればたやすく命を奪う。偉大だが立ち現われて欲しくない、畏怖すべき存在だった。
ある時、海浜に船の一団が現れ、見たこともない衣を纏った人々が千川諸島に上陸する。彼らは遥か海を越えた先にある大陸の異国人で、海の最果てに不老不死の霊薬が眠る島があるという言い伝えを信じて旅立ち、危険な航海を経てこの国に流れ着いたという。
千川諸島の国人から稀なる客人、『稀人』と呼ばれた異邦人たちは、ここに霊薬がないと知り落胆した。船旅を続けられる蓄えは底を尽き、一方で快く迎え入れた国人の純朴さを気に入った彼らは、この地に定住を決意する。新たに住み着いた彼らは、霊薬と交換するために持ってきた五穀の種、家畜、製鉄、文字に製紙など異国の様々な物品と技術を惜しみなく伝授して生活を豊かにした。国人は彼らに大層感謝して稀人さま、稀人さんと呼んで親しんだ。
だがそれは、神々の不興を買ってしまう。怪しげな余所者から未知の物品を与えられて喜ぶ国人の様子を、国神は外来の神の信奉と疑ったのだ。神々はおおいに妬み、国人も稀人も見境なく襲い祟りをなした。
神々の中でも一際怒り猛ったのが国神の主、源主大神である。千川諸島の水域を治める水神である大神は、人が田に水を引き、稀人の持ち込んだ稲穂なる得体の知れない草を茂らせる所業を、水域を侵す無礼と忌避しひどく腹を立てた。大神の怒りは嵐となって川を氾濫させ、洪水として襲いかかる。洪水は水田を破壊するだけでは治まらず下流の村々を押し流し、多くの命が濁流に呑みこまれた。人々は神の祟りに怖れをなし、今までそうしてきたように、生贄を差し出して祟りを鎮めようとした。
しかし一人の男が異を唱える。その名は荒彦。この血気盛んな青年は、農民に向かないとして山に入れられ、村の守り手となるため稀人から武術を師事していた。山上で水難を免れた荒彦は、滅ぼされた故郷の見るも無残な有様に慟哭し、無慈悲な神に仇討を誓った。
荒彦は一計を案じて生贄装束をまとい、大神が棲む出瑞山で待ち伏せる。日が沈み月が水面に映る頃、大神は白鱗紅眼の大蛇の姿を現し、生贄を見て悠然と近づいた。荒彦を食らおうと大きく口を開いた瞬間、青年は装束の下に隠した鉄剣を抜き放ち、口中の毒牙を断つ。不意打ちを食らった大神は身を引いて尾を打ち鳴らし、神を謀った愚か者に敵意をむき出した。しかし、先手を打たれた大神は必殺の毒牙を失い、決め手に欠けて戦いは長引く。月明かりの下で激しい死闘を繰り広げた末、荒彦の渾身の一撃が大神の脳天を貫き、頭を垂れて力なく倒れ伏した。たった一人の男が、神を殺したのだ。荒彦の武名は瞬く間に国中に響き渡り、暴れていた荒神たちは神殺しを恐れて一斉に身を隠す。暴虐から解放された国人は、荒彦を武神と讃えた。
だがそれからまもなく、国中で湧水が一斉に途絶え、空には雲一つ無くなって、千川諸島全土を日照りが襲った。川はたちまち涸れ果て、井戸を掘れども地下水が湧かない。大地はひび割れ草木は枯れ、もはや田に水を張る余裕もなくなった。
人は異変の原因を追い求め、ある結論に辿り着く。死した源主大神は水源の神である。肉体を失った大神の御魂は地の底の黄泉国へ降れども、現世で抱いた怨みは晴らされず留まっている。その無念が大神の御心を憎しみで狂わせ、人のみならず国のあらゆる命を道連れにせんと水を断ってしまったのだ。
ここに至って人々は、国の全ての命が源主大神に生かされてきた事を思い知り、神殺しの罪深さを痛感した。神殺しの張本人荒彦も自責の念に駆られ、かくなる上は自刃して黄泉国へ逝き、大神の赦しを乞おうとした。
そこに救いの手を差し伸べたのはうら若き乙女、賑姫であった。源主大神の生前、生贄に捧げられるはずだった彼女は、荒彦に救われた恩に報い、そして生きとし生けるものを救うため、地上を覆う大神の怨念を祓わんと立ち上がった。
けれども、賑姫は自ら生贄になる事を良しとせず、また他者が身を投げるのも戒めた。どんなに贄を捧げても、もはや全てを黄泉路へ誘わんとする大神の御心には届かない。祟りの根本の原因は、神々が国人と稀人の交わりを訝しみ、異国のものを忌避したからに他ならない。祟りを鎮めるには、人の潔白を示さねばならない。人が異国を受け入れてもなお、国の古き神々を忘れていない事を。
賑姫は源主大神の死を悼む祭壇を出瑞山に築くと、希少となった清水と稲穂に実った米で神酒を造って供物とした。そして手に鈴を持つと、古くから国人に受け継がれてきた神楽を捧げる。しゃらんしゃらんと鈴を振り、右へ左へ回り舞う。彼女は寝食を断ち、昼夜を隔てずひたすら舞い踊った。それは己の肉体で音を奏で、神を慰め慈悲を乞う全身全霊の祈りであった。
炎天に照りつけられ盃の底が乾く頃、暗雲が空を覆って柔らかな雨が降り注ぎ、枯れ果てた泉から滾々と水が湧き出でる。賑姫の神楽は大神に届き、嫌悪していた稲穂に実った米で造られた神酒を受け入れた大神は、憎しみをお忘れになられたのだ。
荒彦の武が荒神を遠ざけ、賑姫の舞が怨念を祓ったことで、千川諸島に平穏が戻った。二人は夫婦の契りを交わし、人々に囲まれて祝言を挙げる。
宴もたけなわとなった頃、気づけば暗雲が空を覆い、しとしとと雨が降り出した。その時宴席に白蛇が躍り込み、場の人々が一斉にどよめく。飛び退く人々の合間を縫って進んだ白蛇は、新郎新婦の前でとぐろを巻いて座り込む。賑姫をかばって荒彦が前に出ると、驚くことに白蛇は人語を発した。
「我は千川諸島の神を束ねる主にして、今は暗き黄泉国に坐す、源主大神である。我が遣いの肉体を借りて一時だけ現世に帰ってきた。賑姫の神楽に慰められた我は、一切の怨恨を水に流して深く思慮し、神々を集めて人との仲違いについてよく話し合い、神意をまとめた。源主大神の御言をもって、人に神託を告げる。今一度顧みるに、国人は稀人との交わりを深めても国神を忘れなかった。稀人の持ち込んだ諸々の異物は島の有様を大きく変えたが、稲穂の実が美酒へ変じるように、神を喜ばす面もある。よって人が国神を貶めず祭礼を絶やさぬならば、異国のものを快く歓迎しよう。一方で荒彦が我を殺め、侮りがたき人の力を示した以上、神と人の関係を改めねばならぬ。ゆえに国を人に譲り、神は隠れる事を誓う。神域を侵す悪人には祟りを成すが、人は国を荒らす悪神を討って良い。そして我を動かした武勇と芸能の神業を認め、汝ら夫婦を国人の主とする。荒彦は大国主尊を名乗り、千川諸島に豊かな瑞穂の国を造るがよい。賑姫は国人に祭礼を教え、神と人の間を取り持ち給え。さすれば汝らの国は千代に八千代に栄えよう。人の国の行く末を、神々は草葉の陰から見守ろうぞ」
語り終えた白蛇はするりと逃げ、山野へ隠れる。すると雨雲もたちまち霧散し、晴れた空には生き人神となった夫婦を祝福するがごとく虹がかかった。
この時から千川諸島は豊瑞穂国と呼ばれるようになった。そして大国主尊の位は生き人神の荒彦と賑姫の御子孫に代々受け継がれ、生き人神の御血統が今日も豊瑞穂国を治めておられるのである。
「――これが古くから語り継がれている『国譲り』の伝説であり、毎年我が出瑞神宮で田植え前の穀雨を祈念し、晩春の初頭に神楽舞を奉納する国譲祭の由来なのだ。本朝の創業のみならず、神代から人代への移りを象徴する神聖な神事である事がよく分かるであろう。なぁ、鏡子よ」
出瑞神宮の境内の一画に建つ社務所内に、白い上衣を纏った神職が二人座している。一人は浅木色の袴を穿いた老翁の神主で、もう一人は緋袴を穿いた若い巫女であった。今、老神主がこの神宮で近々行われる祭の起源『国譲り』を滔々と語り終え、対面する巫女に意見を求めていた。
「はい、お父様。それは重々承知しておりますが……何故いまさら改まって、子供でも知っているおとぎ話をお聞かせになるのでしょうか」
鏡子と呼ばれた巫女は年の頃十代後半の、よく手入れした髪を背中まで流した、華奢な少女だった。その物腰は静々として穏やかで、相対する者を落ち着かせる気品がある。
「いやなに、お前が今年の国譲祭で、主役たる賑姫神楽の舞い手に推挙されて緊張してるのではないかと思ってな。つい氏子に説く調子で長々と話したが、要は今一度初心に立ち返って、かの賑姫のごとく神を喜ばす一心で臨むようにと励ましたかったのだ。親のわしが言うのもなんだが、お前の舞に対する日々の研鑽と上達は、雨後の筍以上に目を見張るものがある。芸能の道において出瑞に平原の舞姫ありと、都の殿上人にも届いていると専らの評判だぞ。初めての一人神楽舞だが、臆せず堂々と臨むとよい」
鏡子の父親である老神主 正弘は、どうやら娘の大抜擢を喜ぶ一方で、大役の重責に圧されていないか案じているらしい。鏡子は子煩悩な父親に呆れつつも、褒められた事を素直に嬉しく思い、笑みを零した。
「もう、お父様ったら。大丈夫です。確かに大勢の前で舞台に立つと思うと緊張しますけど、幼いころから続けてきた舞いを皆さんが認めてくださった証ですもの。神前で恥をさらしたり致しません」
「うむ、その意気だ。一世一代の晴れ舞台なのだから悔いのないようにな。お前の母が生きていれば泣いて喜んだろうに、惜しいことだ。何せ東宮殿下が直々に御覧になられるのだからな」
「え」
予期せぬ言葉に、鏡子は虚を突かれて思わず尋ねる。
「と、東宮って大国主尊の……今上の尊さまの、御嫡子の東宮さまですか?」
正弘は黙って首肯して、やや顔をしかめながら答えた。
「陛下の御子以外に誰が居られるのだ。昨日、祭主殿の御殿に都からの使者が訪ねられたそうでな。東宮殿下の芸能狂いはよく知られておろう。お前が賑姫神楽を舞うという話が都におわす殿下の御耳に届き、出瑞の舞姫と名高き平原の巫女の舞を、是非その目で御覧になりたいと仰せのこと。祭主殿が一等眺めの良い席を御用意してお待ちしますと使者にその場で快諾して、今朝大宮司殿からそれを知らされた。……今日お前を呼んだのは、実はそういう事なのだ。急な話ですまんが、殿下の御要望と神宮の長の決定とあっては、一介の禰宜にはどうこうできん。国譲祭までそれほど猶予はないが、殿下がご満足頂けるように、どうか一層精進して稽古に励んで欲しい」
「……大変な話になっちゃった」
父との話を終えた鏡子は、集中したいので人目のつかない所で稽古に励ませていただきますと告げて退室し、採り物の扇を手に出瑞神宮の境内を歩いていた。
出瑞神宮は千川諸島最大の島 千川大島に建つ、豊瑞穂国最古の歴史を誇る社であり、数多の河川の源流が湧き出る霊峰出瑞山そのものを境内としている。かつて出瑞山に棲んでいたと伝えられる源主大神を主祭神に据えているが、大神のみならず国譲り以前から千川諸島にいた古き神々、豊瑞穂国の建国後新たに崇められた初代大国主尊 荒彦神とその妃 賑姫神を始めとする人間神を含めた、百余柱を参道の各地に祀っている。ゆえに五穀豊穣、子孫繁栄、無病息災など諸々のご利益を求めて遠方から多くの旅人が詣で、麓の門前町は宿場が軒を並べて繁盛していた。
山中の参道には、天まで届けとばかりに伸びた古樹がひしめいて葉枝の天蓋を作り、隙間から差し込む光明が羊歯の生い茂る土に降り注ぐ。険しい起伏の間を蛇行して伸びる参道には巨木の根が突き出しており、石段は長い年月を経て苔生していた。神代の面影を色濃く残す、欝蒼とした原始林に覆われているにも関わらず、今日も参道には旅装した参拝者の雑踏が絶えない。その中に混じって、神宮に奉仕する神職の姿がちらほら見える。
自分の舞を東宮が見物に来るという予想だにしなかった一報を受けて、未だ現実味を感じられない鏡子が呆けた表情でふらふら山を登っていると、竹箒を持った同年代の巫女が数人近寄ってきた。
「きょうちゃん、これから舞のお稽古? 毎日熱心ねー」
「え、うん。みんなは掃除当番なの?」
親しい巫女仲間に呼び止められた鏡子は、はっと我に返って返事をする。
「そうなのよ。朝から境内をあっちこっち回ってるのに、掃いても掃いても終わらなくて。もうやんなっちゃう。これから桜が楽しみな時期だけど、散った花弁の掃除を考えると憂鬱になるわ。葉桜になると今度は毛虫が出るし」
「そうそう、巫女長が大宮司さまとお話してるの小耳に挟んだんだけど、今度の国譲祭に東宮さまが来るって本当? 鏡子の巫女舞がお目当てなんだって」
「ええ。私もさっきお父様から聞かされたの。あんまりにも唐突で、自分でも信じられないけど」
認めた途端、友人たちが黄色い歓声をあげて鏡子を囲んだ。怪訝な視線をやりながら横切る参拝客にも構わず、一気にまくしたててくる。
「すごいじゃない! 東宮さまって今年の正月に元服なされたばかりだから、まだ正室も迎えてないんでしょ。舞をお気に召されたら直にお招きになって、口説かれたりして」
「それって運命の出会い? 玉の輿? 絵巻物みたい!」
「巫女が生き人神の末孫を釣り上げるなんて、出瑞始まって以来の一大事よ!」
「ちょっと、話が飛躍しすぎよ。東宮さまは芸能好きなだけで、ご興味を示されてるのは舞踊だもの。都の尊きお方が、山奥の田舎娘なんか目に掛けるわけないじゃない」
勝手に盛り上がる周囲をあわてて否定する鏡子だが、皆から姉と慕われる年長の巫女がびしりと鏡子を指差して一喝した。
「なに言ってるの。鏡子の舞の評判を聞いたから、都からわざわざ足をお運びになると仰られたんでしょう。あんたのために来るのよ。都の雅な貴婦人方なんて見たことないけど、あんたも結構綺麗な顔してるんだから、もっと胸を張りなさい。もし本当にお近づきになれたら、あたしたちも全力で応援するからね」
「もう、からかわないでっ。私、お稽古するからそろそろ行くね。みんなもお掃除頑張って」
きゃいきゃいと囃された鏡子は、赤面する顔を隠したい一心で足早にその場を離れる。
「鏡子もお稽古しっかりね! 東宮さまは抜きにしても、あんたがお祭りの主役になった事、みんな誇らしく思ってるんだから。あたしたちは準備に追われる裏方だけど、皆で盛り上げよう!」
声援を背中に受けた鏡子は立ち止まり、一度だけ振り返った。
「もちろん。いいお祭りにしようね!」
朗らかな笑顔でそう答えると、今度はしっかりした足取りで歩み出した。
「ただ一心に神さまへ舞いを捧げる。神前では人間の身分の上下なんてないに等しい。東宮さまだって参拝者の一人に過ぎない……うん、何も変わらないわ。私は自分の役目を全うするだけ」
友人達に励まされて決心を新たにした鏡子は、神宮の関係者もあまり立ち入らない森の奥に歩を進めていた。参道から少し足を外すと、一切の人工物が視界から消え失せ、草の匂いが濃さを増す。源山のお膝下で生まれ育ってきた鏡子ですら、人の居ない異界へ迷い込んだ心地を味わう。興味本位で踏み入ったら、来た道を見失い遭難しかねない。だが彼女は害獣除けの鈴をちりんちりんと鳴らしながら、慣れた足取りで道なき道を行き、やがて開けた空間に出る。そこは古樹が倒れて朽ちた跡に生じた天然の空き地で、かつて大木に遮られていた日光が余すことなく地に降り注ぎ、若い草木が競って繁茂している。昔境内をこっそり探検していた時に偶然見つけた、鏡子しか知らない秘密の場所であり、誰にも邪魔されず好きなだけ舞える絶好の稽古場だった。
「この山桜……今年はまだ芽吹かないのね。麓の桜並木はもう蕾が出てるのに。木も独りぼっちだと元気が出ないのかしら」
鏡子が目にとめたのは、空き地の隅にひっそりと佇む山桜の若木だ。その枝に今春の新芽は未だに生えず、冬を耐え忍んだ姿を留めている。太古から雑多な草木が入り乱れるこの森には、人が手入れした並木のように、同じ種類の植物がまとまって群生するのは稀である。この山桜の周囲は杉や楓など若木の競合者は多いが同族の姿は見えず、それが孤独な印象を強めていた。鏡子はその山桜に近づき、暗褐色のざらついた樹皮を撫でてそっと囁く。
「そうだ。今日はまずあなたのために舞ってあげる。気分転換にちょうどいいわ」
採り物の扇を握ると山桜に正対して、樹海にぽっかり浮かぶ草原の舞台で舞い始めた。大きく深呼吸し、心静かにして雑念を払う。一歩二歩と大地をしっかり踏みしめて、土の下に広がる木の根を意識する。扇を花に見立て、閉れば蕾、開けば満開。袖をゆっくり振りながら身体の軸を旋回し、咲き乱れてはひらひら舞い散る、美しくも儚い花弁を体現した。踊り続けて身体が火照ると次第に思考も霞み出し、やがて自分そのものが楽器へと変じ、一挙一動が調べを奏でるような陶酔感を味わっていく。
孤独なら なお咲き誇れ 山桜 緑の内に 薄紅映える
ここ数か月というもの、来たるべき大祭に備えて神楽舞の特訓に明け暮れていた鏡子にとって、物言わぬ一本の山桜の前で踊るのは気楽で、世俗の雑念にとらわれず思うがままに振る舞えた。いつしか自分が山桜そのものになったとさえ錯覚し、自然との一体感に入り浸る。稽古前の軽い前座のはずが時を忘れてのめり込み、気がつけば空は朱に染まっていた。
「あ、もうこんな時間……ちょっとだけのつもりだったのに。今から稽古を始めたら暗くて帰れなくなるわ」
山桜を背にしながら空を仰いだ時、ようやく夕焼けに気づいた鏡子はぴたりと動きを止め、やりすぎたと反省する。そろそろまむしが目覚めて徘徊するし、昼間でさえ薄暗い森の中はすでに漆黒に閉ざされつつある。本来山は神の潜む領域、人の住まう空間ではない。これ以上留まれば、通いなれた鏡子といえど迷わず無事に帰る自信はなかった。
「でも、こんなに純粋な気持ちで舞えたのは久しぶり。明日もまたがんば……ろ……」
心地よい汗と疲労感に大きく背伸びし、何気なく背後の山桜を振り返った鏡子は、瞳に映った信じられない光景に釘付けとなる。
「桜が……花が咲いてる……蕾どころか芽すら出てなかったのに、満開……」
来た時は真冬を凌いだ状態を未だ保ち、丸裸だった山桜。それが今は枝の端々まで薄紅色の花で咲き乱れており、赤紫の若葉が混じって全体が赤みを帯びている。山桜特有の鮮やかな十分咲きであった。
新芽すら無かった桜が満開となった――とても昼間の数刻で起こり得る出来事ではない。だが歩み寄って若枝を手折れば、そこには確かにしっとりした花弁とぎざぎざした葉の手触りがあり、桜花に顔を近づければ繊細で清涼な芳香が鼻孔をくすぐる。まぎれもなくそこに実在しており、踊り狂った自分が幻影を見ているとは到底思えなかった。
「なぜ、どうして……私が舞ったから? いや、そんなはず……確かに夢中だったけど……そんな事あるわけが……」
舞が花を咲かせた……証拠がなければ証人もいない、突拍子もない馬鹿げた考え。けれども眼前にある尋常ならざる光景の原因を突き詰めようにも、思い当たるのは自分がここで舞い踊った事実だけ。混乱する頭を両手で抱え、状況を把握しようと思索に努める。
(力……私の力なの? 国譲りの伝説で、賑姫は舞で源主大神の祟りを鎮めて、雨を呼び涸れた泉を蘇らせた。それと同じ力? でも平原家が大国主の血統の傍流だとか、特別な血筋だなんて聞いたこと……いいえ、違う、そうじゃない)
頭を振りかぶり、認識を改める。
(荒彦神も賑姫神も、普通の人として生まれた。荒彦が武勇で悪神を遠ざけ、賑姫が芸能で怨霊を慰められたのは、その道を極めて神に通用する業を示したから。生まれついての血筋ではなく、磨き上げた神業をもって神に干渉できたのが、彼らの力の源泉。なら目の前のこれは、あまりにも傲慢で自惚れた考えだけど、もしかしたら……)
ごくりと生唾を飲み、山桜へ問いかけるように呟く。
「私の舞が、神さまを呼んで、花を咲かせた、の……?」
その時一陣の風が吹き抜け、山桜が震えてざわめいた。まるで鏡子の問いに頷いたようだった。
「え、ええっと……」
鏡子はただただ困惑する。舞で花を咲かせる。なんと幻想的な事だろう。幼き頃から舞に魅入られ、研鑽を積み重ねてきた。目に見えぬ神を魅了する神業の境地に踏み込んだというなら、それはとても誇らしい事だ。神に侍る巫女としても、これ以上の誉れはない。今の自分はもしかすれば、巫女長どころか祭主よりも神聖な存在かもしれない。
けれども、鏡子の胸中を占めるのは一芸を極めて聖性を得た喜びではなく、自分がやった事に対する罪悪感と、分不相応の力を得てしまったのではないかという不安だった。無我夢中の舞が気づかぬうちに山に潜む神の興味を引き、孤独な山桜を咲かせたいという淡い思いに応えた。だが本当にやって良かったのか。自分が今日開花を強いずとも、速かれ遅かれ時が来れば山桜は自ら花開いたはずだ。身勝手な願望で軽々しく神に働きかけ、自然の理を捻じ曲げてしまったのではないか。それは人が行って良い事なのか。何よりも気がかりなのは、これからも舞えば、望むと望まぬとに関わらずこのような異変を起こしてしまうのだろうか。もしこれが誰かに知られれば、もう今までのように振る舞えないのだろうか。未来に対する不確かな疑念が心を曇らせてゆく。
「か、帰ろう……!」
自分に言い聞かせるように叫んだ鏡子は、逃げるように帰り道を急ぐ。害獣除けの鈴――魔除けでもある――を紐がちぎれるほど激しく振り鳴らし、蛇を踏まないよう祈りながら、暗闇に満たされ始めた山中を抜け出した。
巫女の去った跡には、薄暮の中で山桜が輝くように、賑々しく咲き誇っていた。
「ようやく見えた。あれが出瑞か」
山賊を撃退して道を急いだ滝郎は、沈みゆく夕陽が最も赤く輝く頃、出瑞平野を一望できる丘の上に居た。
「『湧き出でて 春田潤す 川を生む 出瑞はまこと 国の源』……だったかな。あのたくさんの川が、全部一つの山から流れてるとはなぁ」
誰が詠んだか忘れてしまった、古い歌を口ずさみながら眼下の平野を見渡す。そこには大小数十の河川が四方八方に流れ、川の間は田植えを控えた水田が埋め尽していた。それらの河川の上流を辿ってゆくとやがて一点に収束し、深い森に覆われたすり鉢状の大山が目に入る。それこそが豊瑞穂国を流れる多くの河川の源流を生む一大水源地 出瑞山であり、滝郎の目指す出瑞神宮が建つ場所だ。山裾の平野に面した部分には神宮の入り口を示す大鳥居が建ち、鳥居の前に門前町が広がっているのが見える。
「この調子なら、日が沈む頃には町に入れるかな。今から宿がとれればいいが……無理なら野宿でいいか。春だし凍え死にはしない」
旅の終点を目前にして元気を取り戻した滝郎は、刀袋を担ぎなおすと軽い足取りで丘を下り、出瑞に入るのだった。