【Ⅵ】
ルードは月明かりの中、暗い丘の斜面を再び森に向かって下っていた。
胸の中で様々な疑問が寄せては返し、夜が来たからといって到底眠れるものではない。
一番の疑問は、今、不気味なほど穏やかに凪いでいるアンフィスの意識。
こんな事は、ここ数年ついぞない事だ。
(どう考えてもあの女だ……。あの女に会った時から、アンフィスがおかしい。一体、誰なんだ。それにどうやってあそこに……?)
人を避ける為に、あえて危険な森に設えたルードとアンフィスだけの場所。
あの隠れ処は、誰の目にも留まらぬよう幻影のエフェクトをかけ、さらに誰の侵入も許さぬよう拒絶のシールドも張ってある。
それなのに、あの少女はそれを見つけて、あろう事か中に入り込んでいた。
アンフィスの暴走に抗うルードを覗き込んだ、泣き出しそうな瞳が鮮明に蘇る。
(俺と同じ……いや、逆のオッドアイ……?)
そこからは本当に夢のようだった。
思わずその少女に手を伸ばし、触れた瞬間、今まで感じたことのない思いで身体中が満たされた。
静かで、そしてほんの少しくすぐったいような思い。
あまりの心地良さに、時が止まればいいと本気で願った。
今にして思えば、全く訳がわからない。
だが、向こうもそれきり何も言わず、安心したようにルードの腕の中で丸くなって眠ってしまった。
あの時は、それを特に不思議だとは思わなかったのだ。
ルードは自分の手のひらを見つめ、それをぎゅっと握り締めた。
今でもその手に、見知らぬ少女の重みと感触が残っている。
あの後、寝入ってしまった少女を談話ホールまで運んでやった。
それを思い返すと、ざわざわと落ち着かない思いがしてくるのは何故なのだろう。
アンフィスはこの上もなく、静かだというのに――。
森の正面に来た時、少し妙な感じがした。
いつもなら森に足を踏み入れた瞬間に、そこかしこから湧き上がる幻魔たちの気配。
それが、もうすでに森全体から禍々しい気が立ち昇っている。
昼間、夢魔を一体消してしまった事が影響しているのかもしれない。
(学院長が夢魔を補充するまでは、近づけないか……)
それでもあの隠れ処に行って、もう一度あの時の記憶をひとつひとつ辿ってみたいという思いは断ち切れない。
ルードが思い切って森に一歩踏み出した、その時だった。
「……待ってぇ! 待って待って、お願い!」
背後からの声にルードは思わず振り返った。
見ると暗い丘の斜面を転がるように走ってくる者がある。
ガウンの裾を跳ね上げ、長い髪が乱れるのも構わずに全力でこちらに向かってくる。
「…………!」
ルードは絶句した。
たった今、思いを馳せていた当の本人が、あの時のようにいきなり目の前に現れた。
こんな夜中に。
しかもナイトガウンのままで。
少女は、ルードとの距離が縮まっても足を緩めない。
と言うより、どうやら勢い余って止まれないらしいのがその表情からわかる。
咄嗟にルードは少女の目の前に躍り出ると、腹に力を入れて身構えた。
「だ、だめぇ! どいて……!」
次の瞬間、少女が弾丸のようにルードの胸に突き刺さった。
その衝撃は予想以上で、踏ん張った両足がなす術もなく後ろに傾ぐ。
(――何やってんだ俺は……っ!)
少女の体重もろとも地面に尻餅をつき、尾骨が悲鳴を上げる。
苦痛に声を失うルードの腕の中で、少女がぱっと顔を上げた。
「ご、ごめん! 大丈夫? あ、あの私、なんだか眠れなくて外を見てたら、そしたらあなたが中庭をまた森に向かうのが見えて、それで……!」
矢継ぎ早にまくしたてる少女の上気した頬が、月明かりに映し出される。
「私、昼間あなたに会ったと思うんだけど、夢じゃないよね。あの、私セレス。今日、七年生に編入したの。自分でもよくわかんないんだけど、その、あなたの事なんだか気になるの。じっとしていられなくて、気がついたら追っかけてきちゃってたの。単なる一目惚れかもしれないけど!」
この手の台詞は聞き飽きている。
いずれも未来の公爵夫人を念頭に置いた甘言ばかりで、ここ数年は相手にすらしていない。
それでもルードは必死の形相で自分の襟元を掴む少女を、跳ね除ける気にはなれなかった。
「あなたはルード……だよね。ルームメイトは、あなたに近づくと苛められるからやめとけって、名前しか教えてくれないんだけど。でも私、陰からこっそり見守るなんて出来そうにないし。何か私に、出来る事……あった……ら。……あ……っ!」
突然、セレスが胸を押さえ、言葉を切った。
「やだ……。なん……か、変。苦し……!」
同時にルードの胸の奥でも、アンフィスの啼き声が響いた。
それは瞬く間に強く激しく、ルードを揺さぶりだす。
(な……!どうしたんだ。今まであんなにおとなしかったのに……!)
アンフィスの意識が一気に膨れ上がる。
そこに一切の迷いはなく、ルードの左目にその波動が押し寄せた。
(まさか出てくるつもりか! 何故今?)
「あ……っ。……きゃああっ……!」
セレスが喉を反らせて、細く悲鳴を上げる。
その瞬間、彼女の右目からポンと小さな何かが空へ舞い上がった。
夜空に躍り出た、手のひら位の大きさのものが羽ばたく。
淡い朱色をしたそれは、小さいながらも紛れもなくドレイク――。
「あれ……、まさかあれが私のドレイク……?」
そしてルードの左目からも、弾かれたように具現化したアンフィスが飛び出した。
人の五倍はあろうかという茜色のドレイクが、夜空を覆うようにそびえ立つ。
「くそっ……! やめろアンフィス!」
ルードは焦った。
こうして出てきても、いつも何かの発露のように猛り狂い、エフェクトを撒き散らすだけのアンフィス。
その余波を食らえば、このセレスもただでは済まない。
――あの時のように。
目を丸くして上空を見上げるセレスを、ルードは庇うように頭から掻き抱いた。
すると――。
『アンフィーース! いたーーーっ!』
『パエナ……、パエナ!』
上空で互いを呼び合う声に、思わずルードとセレスが天を仰ぐ。
大小、二体のドレイクがぴったりと身を寄せ合い、夜空に螺旋を描いている。
それらはやがて、その身体から強い光を放ち始めた。
「なんなの……一体何が始まるの……?」
ルードの腕の中で上空を見つめたまま、セレスがぼんやりとつぶやく。
「俺にもわからない……だが、これは……」
やがて二体は溶け合うようにひとつとなり、見る間に輝く巨大な真紅のドレイクに様変わりしていった。




