【Ⅱ】
「……ナディアーー!」
青い、ひとしずくの涙のように、青いドレスのナディアが空から降ってくる。
「バエナ! お願い……」
「アンフィス!」
ゴウッと風を切り、アンフィスがナディアの落下地点まで移動する。
バエナの金色のシールドドームに包まれたナディアが、セレスとルードの腕の中にポトリと落ちた。
「ナディア……こんな……」
肩から腹までを斜に切り裂かれたナディアに、苦悶の表情はない。
その細い首筋に指で触れ、ルードが顔色を変える。
「脈がない……アンフィス、早くファウストの所へ!」
こちらを見上げているファウストの元へアンフィスが滑空していき、三人は地上に降り立った。
ファウストの瞳が、ナディアを一目見るなり正直に曇る。
「傷が深すぎる……。他人の治癒がどこまでできるかわからないがやってみよう」
それでもすぐに傷口に両手をあてがい、エフェクトを集め始める。
「ドナも……ナディアまで……。嫌だよファウスト、何とかして! お願い……!」
ナディアの傍らに力なく膝をつくセレスを、ファウストが額に汗を浮かべながら見やった。
「ドナは大丈夫だ。ナディアは……」
視線を戻すと、傷口からの出血はエフェクトの効果で止まっているように見える。
だが、依然として心臓は沈黙したままだ。
「セレスの頼みじゃ仕方ない。僕が必ず何とかするよ」
「ファウスト……」
泣き笑いのような顔になったセレスに、ファウストが温かく微笑み返す。
「……あの野郎……どこへ……!」
ふいに、ルードが空を仰いで吐き捨てた。
セレスが見上げると、行ってしまったと思っていたライアンが、森を滑るように渡っていく。
「ルード、セレス。自然の風が森に戻ってきている。結界が破られてしまった証拠だ。一刻も早く森に降りた外部の夢魔を消し、幻魔達の暴走を止めるんだ」
「でも、ファウスト一人でこんな所に……」
セレスが不安げに言いよどむと、その手をルードが掴んだ。
「行くぞ。ファウストは強い。大丈夫だ」
「そういう事。ナディアを動かせる程度にまで回復させたら、ドナも一緒に連れて先に森を出てるよ。頑張ってくれ」
「急げ。ライアンも学院に向かっている」
強く手を引かれ、セレスが引きずられるようにそれに従う。
「ああ、セレス」
小さく呼び止められ、セレスとルードが足を止める。
「……お帰り。もう二度とその手を離すんじゃないぞ」
ファウストの蒼い瞳が、寂しげに細められた。
「ファウス……」
込み上げる苦しさに、最後まで彼の名を呼べない。
すると、ルードが代わってそれに応えた。
「心配するな。次は離そうとしても、俺が離さない」
その言葉に肩をすくめて、ファウストがまた治療に専念する。
「来い。途中で見つけた黒いドレイクは全て排除する」
駆け出したルードに手を引かれ、断ち切るようにセレスもそれに続いた。
二人が見えなくなるのを待って、ファウストは人知れず長く息を吐いた。
「短い夢……か。苦しいもんだ」
その瞬間、ファウストの背中がナディアのように斜めに切り裂かれた。
ネイの、ためらいのない剣筋に鮮血が鮮やかに舞い散る。
「おいおい……いきなりか。一言くらい何か言ってからくるかと思ったよ」
ナディアにエフェクトを送り続けたままファウストはつぶやいた。
「……本当に痛みは無いようですね。ある意味、奪われたら一番危険な糧のような気がしますが」
背後に立つネイの気負いのなさとは真逆に、その身体の中からはファウストの血を渇望するむせるような気が立ち昇っている。
この男も身体に夢魔を飼っている……それは最初に彼を見た時からファウストには明らかだった。
「ネイ……だったな。ライアンに聞いたのか。ルード達の他にはあいつだけだからな、知ってるのは……。昔は親しくしていた時期もあったんだよ。あいつの研究と視点は群を抜いて興味深かった」
「……血、すごいですよ。自分の治癒はしないのですか」
確かにかなりの量の出血なのか、気分が悪い。
それに、ネイの中の夢魔が今にも飛び掛かってきそうで鬱陶しい。
「今はダメだ。そっちに力を回すとナディアは助からない」
「……その方はあなたの恋人ですか」
「いや……」
ナディアの顔色がほんのわずかだが戻ってきている。
もう少し、絶えず治療を続ければ間に合うかもしれない。
「ではなぜ。訳がわかりません」
「……セレスと約束したんだ。必ず、ナディアを助けると」
「約束……」
ヒタと背後からファウストの首筋に冷たいダガーが当てられた。
「自分の命と約束、どちらが重いのです。呆れた方ですね」
「わかってないな、ネイ。女と交わした約束は命に替えても守る。それがイイ男の必須条件だ。覚えておけ」
「…………」
何も反応のないネイと首筋のダガーを無視して、ファウストはナディアの胸で両手を重ね、強く押し込んだ。
「戻ってこい、ナディア。セレスが待ってる。ルードも、僕もだ。それだけでも君の生きる意味はある……。戻ってこい……ナディア!」
エフェクトを流しながら何度も繰り返し、心臓を圧迫する。
「確かにイイ男かもしれませんが……、愚かです」
ネイは刃を立て、ファウストの首筋のダガーをあっさりと引いた。
「…………!!」
自分の首から噴き出す血が、ナディアの鮮やかな青いドレスを染めていく。
痛みはやはりなく、ただ目の前が暗くなる。
話術で時間を稼ぎ、ナディアを呼び戻してから反撃……そのシナリオに充分勝算はあった。
想定外だったのは、このネイのあまりにも機械的な行動と心。
その時、ナディアの胸がコトリと小さく鳴った。
それを皮切りに、次から次へと規則正しく命の音を奏で始める。
「ナディア……やった、よかった……。セ……レス……」
身体が恐ろしく重い。
中のドレイクが慌てて自分の治癒にあたるのを感じたが、おそらくもう間に合わないだろう。
「さようなら。あなたはおそらく、ライアン様の邪魔になりますから」
ファウストの霞む目の前に、小柄な黒いドレイクが現れた。
小柄ではあってもその沸き立つ魔力の濃厚さに、これまでどれほどの人を取り込んできたか容易に察しがつく。
「ナディアは……ダメだ、……約束……」
「すみません。私のドレイクの滋養に与えますから」
「…………」
ファウストの心に浮かんだ提案に、彼の中のドレイクが激しく抵抗する。
(わかってくれ。このままではほんの数分生き延びるだけで、それではナディアも助からない。今すぐ治療を止めて具現化し、この夢魔を一瞬で消せ! 僕の残りの数十秒……その間だけはお前もこの世界に居る。動ける。そしてネイを……くわえて、ルードの所へ……。頼む、聞いてくれ……!)
アルビノドレイクが高く、低く啼く。
哀しく寂しく、ファウストの想いと通じ合う。
ドレイカーとしての誇り、そしてセレスとの約束の切ない煌めき、それら全てを飲み込んで白いドレイクが別れを決意する。
(ありがとう……お前は、最高の相棒だった……)
ついに視界が一本の線になり、ドレイクが全ての魔力を連れて外へ――――。
――――が、突然ファウストの身体が乳白色のドームに覆われた。
(…………!!)
途端に細かった視界が太く、大きく開けていく。
具現化するはずのアルビノドレイクも、再びファウストの治癒を再開し始めた。
「これは……」
再び鮮明になった目の前で、黒い夢魔のドレイクに光の矢が次々と撃ち込まれていく。
黒いドレイクは呻き声を上げながら様々なものに姿を変えるが、それも光の矢が全て撃ち砕いた。
(光の……矢。久しぶりに見たが……、後が面倒だな……)
乳白色のドームは防御と治癒、両方を同時にこなす最上級のエフェクト。
これを使える者は、今のところ国でも一人しか居ない。
そのドームの中で命を繋がれながらも、ファウストは軽く舌打ちした。
やがて苦し紛れに夢魔は、駆け寄ってきた宿主――ネイの首にむしゃぶりつく。
「……あ……」
そう漏らしたのは自分か、ネイなのか。
止める間もなく、再びドレイクの姿に変化した夢魔はネイの頭、顔、肩……全ての部位を飢えた牙で食い荒らしていく。
骨肉を貪る音が、消えたくない、もっと滋養をよこせ……と叫ぶように聞こえる。
「外道が……これで最期だ。逝け」
彼が猟銃のように構えた長剣から、渾身の一矢が放たれた。
白く輝くエフェクトの矢が、宿主を飲み込んだまやかしのドレイクを打ち砕く。
爆発したように霧散した霧は、もう二度と形を成す事はなかった。
「……この道楽息子が。報告は怠るなと何度言わせれば気が済むんだ」
今はすっかり呼吸も整ったファウストを、彼が不機嫌そうに覗き込んでくる。
「やあ……お父さん。久しぶりに見ましたよ、あの矢……。でも、無駄撃ちも多かったですね」
幼い頃から目にし、憧れてもいた父の攻撃の型。
自分がやはり長剣を扱うのは、その影響かもしれないとも思う。
「ふん……可愛げのない。まあ確かに、攻撃はすでにお前の方が上だろう。だが他人の治癒がまだまだのようでは、ドレイクの持ち腐れだぞ。もっと精進しろ」
お互い、何か一つは余計なセリフを付け足す。
これも血筋なのかもしれない。
「とにかくもう大丈夫だな? 私は先に戻るぞ。今も皆が凶暴化した幻魔達と闘っている。お前もいつまでもそんな血だらけで転がっていては、幻魔のエサと間違えられるぞ」
「はあ……じゃあお父さん、あっちに倒れている女生徒を運んでもらえますか。さすがに今の僕はナディアを抱えるのが精一杯です」
「あっち……? どこだ、居ないではないか」
父の言葉に振り返って、ファウストが青ざめる。
ドナが横たわっていた場所に彼女の姿はなく、わずかに乾いた血の跡だけが点々と残されていた。




