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【Ⅳ】

「そして私は夢魔を飼い……父にはライアンが話をつけたの。オルグと繋がりがある事を漏らすと臭わせたらしいけど、私が公爵夫人になれれば充分うまみはあると踏んだんでしょう。協力は惜しまなかったわ」






気丈であろうと努力はしたが、ドナはもう立っていることすら出来なかった。




今でもライアンの笑顔が脳裏に浮かぶものの、ナディアの話を真っ向から否定できない何かがある。




それは、彼の腕の中でまどろみながらも、時折見せていた冷たい横顔に起因するのかもしれない。





それでも今まで自分に向けられたライアンの言葉を、あの温もり全てを、否定など出来はしない。





ただ無言で頭を振ると、ナディアが目の前にやってきて膝をついた。





「ごめんなさいドナ……。あなたには別れの時が来るまで、信じたままでいさせてあげたかった。でも、こうなったらもうライアンの傍にいるのは危険よ。どうかわかって……」





ナディアが細い指先で、そっとドナの涙を拭う。




そして静かに立ち上がると、手にしていた小瓶の蓋にもう一度手をかけた。






「ナディア……何? 何するつもり……」





「動かないで」





ナディアの背後の影が、一瞬にして赤黒いドレイクの姿に変わる。



牙を剥き出して開けられた口の奥で、エフェクトが密度を増しながら膨張しドナへと狙いをつけている。





「この夢魔はね、かなりの糧を吸収してきたのに分裂はせずに……力を高めているの。攻撃のエフェクトも本物のドレイクとなんら変わりない。……そのまま動かないでね。動いたら、あなたは消し飛ぶわ」





ナディアはうっすらと柔らかく微笑んだ。




そこに気負いなど微塵も無い。



今はもう涙は消え、どこまでも静かな目をして小瓶の蓋を開けた。






「やめて……ナディア。そんなこと、ダメだよ……」





「私は王子様を掴まえられなかった。しかも王子様が守ろうとしているものを壊そうとした。国も、ドレイクも……セレスも。願いが叶わなかったのだから、消えなきゃならない。その覚悟は最初からしてあるの」





ドナは息を飲んで、ナディアの持つ小瓶を凝視した。



薄暗い部屋の中でも、その小瓶は妖しくつややかに光る。





「ドナ。バエナドレイクの事はもうオルグは掴んでる。遅かれ早かれ、セレスを消そうと動き出すわ。あなたにとっては辛い事かもしれないけど、どうか守ってあげて……ルードに手を貸してあげて。お願い……」






そしてナディアは、ためらいなく小瓶を口元に運んだ――。





「ナディア!」





その瞬間、キュインと耳鳴りがしてナディアの手から小瓶が打ち落とされる。




カシャン! と床で瓶が割れるのと同時に、ナディアの背後のドレイクを飛んできた何かが突き破る。






「なっ……?!」






一瞬にして夢魔の作り出したドレイクは霧と化し、部屋の中で跡形もなく消えた。





夢魔を突き抜けた小さなものが速度を緩め、パタパタと主の元へと帰って行く――。









「……間に合わないかもってヒヤヒヤしちゃった。引っ張りすぎだよバエナ」





(我にはちゃんと計算が立ってる。こっちはお前がいつ飛び出してしまうかとヒヤヒヤしていた)






ベッドから起き上がり、差し出した両手にバエナが静かに降り立つ。







「セレス……!」






息をのむナディアとドナを、バエナを掲げたセレスの碧と赤のオッドアイが見返した。




三人の視線が、痛く、哀しく絡み合う。




窓から吹き込む夜風に、カーテンがふわりと大きく舞った。






「……いつから?」





セレスの紅い右目にナディアが尋ねる。






「ごめんなさい……たぶん、最初から。バエナが眠り薬に気が付いてすぐに中和してくれたから……」




恥じ入ったようにうつむき、そして再び顔を上げたセレスの右目は、もういつもの碧色に戻っていた。




セレスの手の平で翼をたたんだバエナも、役目は終えたとばかりに具現化させた姿を消す。






「今のがバエナドレイク……、アンフィスの片割れがあんなに可愛らしいドレイクとは思わなかった。それでも、とても強い波動を感じたわ。あの夢魔をたった一撃で。流石と言うべきかしら……」






「ナディア……、今の話、全部ルードに伝えなくちゃ。彼ならきっとわかってくれる。必ずナディアを守ってくれるはずだよ。だからもう一人で苦しまないで。一人で逝こうとしないで……」






穏やかに微笑んでいたナディアの顔が、見る間に強張り歪んでいく。






「守る……、オルグの手先だった私を? 自分の欲のために、あなたの右目を潰して大事なバエナドレイクを消そうとした私を? 下手をすればセレスだって死んだかもしれないのよ。そんな私を、ルードが許すとでも……!」 





「待って。話を聞いてナディア」





伸ばしたセレスの手を振り払い、ナディアはじりじりと後ずさった。





「何故そんな風に落ち着いていられるの。私は幻魔を身体に宿して……マスター堕ちですらない、ただの化け物に成り下がった……。ルード欲しさに悪魔と契り、邪魔なあなたとバエナを消そうとした。なのにどうしてそんな目で私を見るの!」





「私は知ってたから……。ナディアが夢魔を、身体に棲まわせている事」





つぶやくようなセレスの言葉に、ナディアは絶句した。





「森で、ナディアとルードがキスしてるのを見たわ。でも私にはそれがルードじゃなく、夢魔だって事はすぐにわかった。最初は惑わされているのかと思ったけど……その夢魔の足元はあなたと繋がっていた……」





「……唾液をあげていたのよ。そういう時は、やめてと言っても勝手にルードに変化してしまうの……滑稽でしょう」





人形のような白い顔で、ナディアが淡々と明かす。




「バエナが教えてくれたの。遥か昔、そういう事をした人間が居たそうよ。ナディアに何か怖ろしいことが起きているとは感じたけれど……それが何なのかはわからなかった。……まさかこんな……」





「……ルードには、話さなかったの?」





セレスが黙ってうなずくと、ナディアはゆっくりと天井を仰ぎ目を閉じた。






「バカみたい……それを話せば、もっと早く私をルードから引き離す事だってできたはずなのに……」





「ルードが守りたいと思う人を、どうして私が引き離したりするの」






ピクリと肩を震わせ、ナディアがセレスを物憂げに見つめる。





「いい加減にして……。それは同情? 憐れみ? それとも優越感なの……」





「いい加減にして欲しいのはこっちだよ。ルードはナディアを本当に大事に思ってる。だからあんなに苦しんでるんじゃない……。どうしてわからないの」





ふと目を反らし、ナディアは窓の外を見やった。




まだ暗い夜空の下に、幻魔の森が音もなく波打っている。






「…………もう、苦しめたりしない」





ただれた頬が、また涙に濡れる。





「私はもうどこにも居場所はない……。ドレイクが私の全てを変え、私の全てを奪った……。それでもドレイクを恨む気持ちになれない……! 誰かを守りたかったのよ……ドレイカーとしての誇りは、まだ心の奥に確かにあったのに……もうそれすら汚してしまった」





ついと踵を返し、引き寄せられるようにナディアは窓に向かって走り出した。





「…………!!」





カーテンを跳ね除け、窓枠から夜空を抱きしめるように大きく乗り出したナディアの身体が宙に消える――。






「だめえっ! ……バエナッ!!」





つんざく耳鳴り。



目で追えぬ流星のような残像の軌跡を残し、バエナが窓から飛び出す。




この部屋は三階。



豪奢な城を模したこの寮は一部屋毎の天井も高く、三階とはいえ間に合わなければ命はない。





弾かれたようにセレスもベッドから窓辺に駆け寄り、紅と碧の瞳で下を覗き込んだ。





「…………バエナ……!」







光り輝くバエナの下で、金色のドームに包まれ両手足を垂らしたナディアがゆっくりと地上へ降りていく。



ホッと息をつき、ふと見上げれば空には満点の星。




この世はこんなに美しいのに、その元に棲まう人の心はなんと醜く寂しいものなのか。





再び下を見下ろすと、ナディアが中庭に倒れていた。




今、命を拾ったとしても、彼女の闇に光は差さない。




かつてルードの心を開き、さらに万能少女と謳われるほど、人としてドレイカーとしての魅力に溢れていたナディア。




それが、不運から闇につけこまれ、己自身で無価値の烙印を押してしまった。




もうこの世から逃れる事でしか、自分を許せないのだろう。






「無価値……」





つぶやいた自分の言葉が、セレスの胸の中に落ちていった。





右目の疼きが引いていく。



それはバエナが力を収めた証に他ならない。





セレスは震える胸を押さえ、窓辺に背を向けた。





「…………ドナ……」






あれからずっと放心したように、床に座り込んだままのドナ。




気丈で明るく、いつもおおらかにセレスを包んでくれた彼女も、今は闇に傷つき果て見る影も無い。





涙の跡を残したまま、ぼんやりと宙をみつめるドナをセレスはそっと抱きしめた。





「ドナ……少し眠って。今は何も考えないで。私、ナディアの所に行ってくるね……」





反応のないドナのこめかみに小さくキスをして、セレスは部屋を出た。





足が鉛のように重い。



それでも、行かなければならない。







中庭に出ると、バエナの方からやってきてセレスの肩に乗った。



どうやら具現化を解いて中に戻る気はないようだ。





「ナディアは……?」





(気を失っていた訳ではないからな。おそらく森だろう……)





「森……」





思えば、そこから全てが始まったような気がする。




丘の先に鬱蒼と横たわる幻魔の森を見つめ、セレスは歩き始めた。





「……バエナ……」





サクサクと夜露に濡れる丘の草地を踏みしめながらセレスが話しかける。





(……何も言わなくていい)





「そう……だよね。私の想いはバエナには筒抜けだもんね」





(分からない方が良かったかもしれない。それなら抵抗できた……)





「あはは……抵抗、したいんだ」





肩に乗ったバエナが、何も言わずにただ鼻先をセレスの頬に摺り寄せる。






「……嬉しい。私はそれだけで……充分」





森の入り口で、草地に両手をつき肩を震わせるナディアを見つけた。




そのまま近寄り、傍で足を止めるとナディアはうつむいたまま笑っている。





「走ってきたら……止まらなくなって、転んじゃったわ。バカみたい……」





セレスもそれには覚えがある。



何度も何度も丘を駆け下り、その度に勢い余った自分を受け止めてくれたのはルードだった。





セレスはひざまずいて、ナディアの肩にそっと触れた。





「……ナディア。これからは、きっと転んだりしないよ」





「…………?」





ナディアが泣き濡れた顔を上げる。



そのただれた頬を伝う涙は、何度見ても本当に痛々しい。






「あなたはルードを身を投げ出して救ってくれたのに、そこから道が変わってしまった。元々ナディアは、生まれなんか関係なく頭が良くて何でも出来て……、人を動かす事も出来るすごい人だもの。だから、ルードの傍にいるのはあなたの方がずっと相応しい」





微笑んだセレスの右目が、再び紅く染まる。




その途端、セレスの肩から風を切るようにバエナが舞い上がった。





「バエナドレイク……?」





上空を仰ぐナディアの隣で、セレスもまた大きな力を持つ小さなバエナが夜空を舞う姿に目を細める。





「この子がルードのアンフィスドレイクの分身、バエナドレイク……。小さいけど、これでもドレイクたちの長なんだよ。自由な性格だし、言う事もけっこうキツイし……だけど優しくて……。治癒能力も高いから、きっとその傷ももう少し綺麗に治してくれると思う」






「待って……、なんなの? セレス、あなた何を言って……」




空を旋回していたバエナが降りてくる。




セレスが掲げた両手に降り立つと、バエナはナディアにも分かるように言葉を紡いだ。




『我はいつでもアンフィスと共に在らねばならない。故に、我が宿ればお前は常にルドセブの傍に在る事になる。名実共に居場所ができる。我は国の象徴、アンフィスドレイクの半身……当然、宿主も己の都合で命を絶つなどと軽々しい真似は許されぬ。セレスが言いたいのはそういう事だ』





「…………!」





息を飲むナディアの目の前で、セレスはバエナをまた空高く放った。





「私には、ドレイクマスターになれなくても温かく迎えてくれる孤児院の子供たちや院長先生がいる。ちゃんと居場所はあるのよ。充分幸せに生きていけるの。だから……バエナをナディアにミグレイトするわ」






「本気なの……? 確かに私に宿ってくれていたらと何度も思ったわ、でも……!」





「言わないで。 私とナディアとルード、こんな事になって一番苦しむのはルードだよ。今は辛くても、いつかは……。他にルードがこれ以上苦しまずに済む方法を思いつかないの。お願いバエナ!」




セレスが上空を見上げると、それに応えるようにバエナが滑空してくる。



まっすぐ、ナディアに向かって。






「……バエナ! ありがとう。……大、好きだよ……バエナ……! バエナ、バエナ――!!」





声が届く限り、セレスは何度も叫んだ。







(わかってる……。我も大好きだよ、セレス……)






そう心に響いた優しい想いを最後に、バエナはナディアの身体に落ちていった。




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