【Ⅲ】
「う、あ……ああっ……?」
ナディアはベッドに倒れこみ、胸元を必死で押さえた。
行かないで。
消えないで、私を置いて。
そう心は叫んだが、共に在ったドレイクは静かに消えていった。
ナディアの中に、心配そうな、申し訳なさそうな想いの余韻を遺して――。
「……今、消えたのか? 間に合わなかったな」
ドアからゆっくりとこちらに向かってきたライアンが、冷ややかにナディアを見下ろす。
「何しに来たの……! 人を、呼びます……」
ライアンを睨み返す目に涙が溢れる。
耐え難い喪失感。
まるで大量の血と、魂までも持っていかれたかのようなめまいと心もとなさで狂いそうだ。
これがドレイクを失った時の宿主の感覚なのか。
「呼びたきゃ呼べ。だが俺達を今日ここへ呼び寄せたのはウェロー伯爵だ。当然、人払いはされている」
「……?! お父様が……? どうしてお父様があなたなんかを……」
「お前のドレイクが終わりを迎える前に、ミグレイトさせるから買って欲しいと依頼があった」
「……っ! まさか、あなたオルグの……?」
自分がウェロー家の養女である事は、幼い記憶ながらも知っていた。
決してそれを口にしてはいけないことも、その頃のナディアは父が自分を思いやっての事だと理解していた。
だが……それがそうではなかった事を、あの事故の後に思い知らされる。
元々激情型のウェロー伯爵は、事故で大怪我をし、ドレイクも正常に機能できなくなったナディアに思わず口走った。
こんな事になりおって。
お前がいくらしたと思ってる。
ドレイクも使えぬ、その上こんな化け物のような顔で……なんの潰しもきかぬではないか。
オルグに買戻しさせてやる――。
信じられない言葉の数々に愕然としながらも、ナディアは伯爵に詰め寄った。
すると、彼は吐き捨てるように事の全貌をナディアにぶつけ、そのままこの森の別宅に幽閉したのだ。
「それともうひとつ。抜け殻のお前も、オルグで引き取ってくれと言われている。代金は、次の子供を依頼する為の下取りに充てるそうだ」
淡々としたライアンの言葉に、ナディアは薄く笑った。
「下取り……ふふ……。たいした額にはならないでしょうにね……」
シーツをきつく握り締めてうつむくナディアの顔を、ライアンが掴み上向かせる。
「確かにな。この傷さえなければこれほどの器量だ。高く買ってもよかったんだが……。査定額はゼロに近い」
「誰のせいで、こんな顔になったと……!」
「ルドセブだろう。あの、気ばかり強くて何も知らない次期公爵様だ」
「ルードは何も悪くない! あなたがあんな卑劣な真似さえしなければ……!」
ナディアの目の中に、薬で身体の自由を奪われた上に制服のネクタイで両手首を拘束され、シャツを切り裂かれていくルードの姿が蘇る。
かつての怒りが再沸し、振り上げたナディアの手をライアンはいとも容易く宙で絡め取った。
「確かに弛緩剤があんなに早く効力をなくすとはな。アンフィスドレイクの治癒能力を甘く見ていた俺のミスではある。だが、ああいうプライドの高いタイプは、一度隷属させてしまえば後は案外思うがままだ」
「そんな事……私が許さない……!」
「そうだな。お前さえ邪魔しなければ俺も今のような寂れた研究所なんかじゃなく、もっと国の中枢で動けたはずなんだが……。まあ、隠れ蓑など今となってはどうでもいい事だが」
喉を鳴らしてライアンが不敵に笑う。
その目をきつく見返す他、ナディアに抵抗の術はなかった。
ドレイクが消えた後遺症なのか、心の問題か、身体に全く力が入らない。
「……どうしてオルグになんか。ちゃんと卒業もしたはずでしょう……」
「俺もあれが原因でドレイクを失くしたからな。家名に泥を塗ったとあっさり勘当された。……と言うより、俺に価値がなくなったからだろう。だが俺は最初から卒業したらオルグに戻るつもりだった」
「戻る……、もしかしてライアンも私と同じ、養子だった……?」
「…………」
それには答えず、彼は目を見開きただ口角をニッと上げる。
その不気味さに、ナディアの肌にゾクリと寒気が走った。
「オルグで私を……どうするつもり」
「知れた事。お前はオルグで管理され、ドレイク保有のガキを求める客の相手をするんだ。少なくともドレイクを宿した身体は、可能性が高い。そして客の子を産む。死ぬまでそれの繰り返しだ」
麻痺したつもりだった感情が、恐ろしさとおぞましさで膨れ上がる。
「い……や……! 」
「拒否権などない。お前はもうただのオルグの商品だ」
絶望に目の前が暗くなる。
なぜこんな事になったのか。
かつての自分は、ドレイカーとしての誇りを持ち、その未来をより良くする為に努力を惜しまなかった。
それが今、ドレイクは消え、人として生きる権利さえも剥奪される。
まがりなりにも、名門ドレイカーの息女として教育を受け生きてきた自分が、そんな陵辱に耐えられるはずもない。
ならばいっそ――。
ナディアはおもむろに、枕の下に手を滑り込ませた。
そこに忍ばせてあるのは護身用の短剣。
だが鞘から引き抜いただけで、あっさりとライアンに手首を掴まれてしまう。
「…………やめろ。くだらん」
「は……なして……!」
揉み合うだけで力尽き、ナディアは両手を掴まれたままぐったりと仰け反った。
「……お前、まだあのルドセブに気があるなら、俺が学院に戻してやろうか」
「…………?」
ぼんやりとした頭の中に、ライアンの声が響く。
「戻って、その傷を盾にでもしてあいつを手に入れてみろ。そういうのには弱いはずだ。甘い奴だからな」
「なにを……考えてるの……」
「アンフィスドレイクの情報が欲しい。俺はアンフィスの生態について、ある仮説を立てている。オルグの持つ裏情報からも、それは今、確信に近い。何故、国はドレイク保有の人間を一箇所に集めて教育するのか……それも仮説が真実ならうなずける。ルドセブの近くで、変わった動向や変化があったら逐一報告しろ」
掴まれた手首を放され、ナディアはベッドに沈んだ。
どこまでも身体は重く、そして心まで重い。
「アンフィスドレイクを知って……どうするつもり……?」
「潰す。あのドレイクは狂ったままでいい。国の象徴でもあるアンフィスドレイクだ。それだけで世のドレイクに対する信望も地に堕ちる」
「…………!」
ライアンが、ナディアの痣をうっとりと愛しげに撫でる。
「心配するな……俺の言う通りにすれば、ルドセブの手にはお前だけが残るぞ。後は……全て壊れるがいい。公爵家もドレイクも……それを崇める世も、オルグも、幻魔も……全部だ」
「私……だけが……?」
ライアンが声を殺して笑う。
だがその目だけは虚ろに、どこか彼方を見つめている。
「お前はすでに終わってる。俺の手を取れ。昔話の海の姫君のように、王子様が手に入ればお前はこのまま生きられる。入らなければ……藻屑となって消えろ。お前が陸に上がる為に、魔法をかけてやる」
「魔法……?」
「あの学院に戻るには、ドレイク保有が絶対条件だ。お前にはもうドレイクは居ない。だから……代わりに夢魔を使う」
ライアンが目を閉じると、その背後に黒いドレイクが現れた。
少し小ぶりだが、その姿は牙から雄雄しい翼まで紛れもなくドレイク。
「これは……夢魔が変化しているの……? 」
「そうだ。夢魔の生態はドレイクに酷似している。ドレイクが最初から人に宿り、絶えず糧を吸収して活動するのに比べ、夢魔は外から人を襲い糧となる体液を奪う。変化や人を惑わす力はドレイクのエフェクトそのもの。今までこれを体内で飼おうと誰も思いつかなかったのが、俺は不思議でならない」
「私にこれを……身体の中で飼えと言うの……? ドレイクの替わりに」
震えるナディアの額を撫でつけ、ライアンが大仰にうなずく。
「糧は時々、血を与えてやればいい。他にも体液なら汗でも唾液でもなんでも糧にできる。コンスタントに餌にありつけると知って、こいつらは宿主に従う方が得だと理解している。普段は身体にしまっておいて、出すときはドレイクの姿で……どうだ? ドレイクをやっきになって求める奴らは愚かだと思わないか……」
「ライアン……。狂ってるわ、あな……」
その先を遮るように、ライアンはナディアの細い喉を片手で締め上げた。
「人に寄生する幻魔……それがドレイクだろう。そんなものの為に、人は愛も絆も、命さえも売り渡す……どちらが狂っているんだ」
そしてライアンは細く呼吸を繋ぐナディアの口元に、唇を這わせた。
「……?! ……いや……っ!」
「これが契約だ。嫌ならベッドから降りろ。その時はお前をオルグに連れ帰るだけ。あいつに会いたければ……お前は俺の跡を付けたまま、心も身体もルドセブを裏切って奴の前に立つんだ。……ふふ……これはいい……! 最高に愉快だ」
荒々しいキスを受けながら、ナイトガウンの裾がナディアの脚に沿ってたくし上げられていく。
襟元から滑り込んだ大きな手は、なんのためらいもなく肩をあらわにする。
暗い絶望の深淵。
ふと下に意識を向けると、大量のヒルのような生き物がうごめいているような気がする。
そこから逃れたい一心で、ナディアは自分に圧し掛かるライアンの背中を掻き抱いた。
「……それでいい。契約成立だ」
やがて突き上がる嫌悪と苦痛に、ナディアは泣きながらルードの名を幾度も呼んだ――。




