【Ⅰ】
(……ティナ。起きて。……セレス)
柔らかなテノールの声に揺り起こされ、セレスはうっすらと瞼を開いた。
目の前にぼんやりと映る人の顔が、セレスを見つめ微笑んでいる。
(ああ……、私あのまま寝ちゃったんだ。でも良かった。もうこの人も具合が良くなったみたい。蒼い瞳が笑ってる……)
その人の頬に手を伸ばし、無意識のうちに瞼に唇を寄せようとして――。
セレスはいきなりバチッと目を見開いた。
(蒼って何?! あの人の目、蒼じゃなかった……)
「おはようお姫様。確かに初対面の人と親しくなるには、名前なんかを教え合うより、こうした方がずっと手っ取り早いよね」
鼻先が触れ合うほどの至近距離で、見知らぬプラチナブロンドの男性がニッコリと笑う。
「………っ! きゃああっ!」
ゴンッ!!
後ろに仰け反った拍子に、セレスは背後の硬い何かに思い切り後頭部をぶつけた。
「痛ぁい! ううっ、くう……っ!」
頭を押さえながら、パチパチと瞬きを繰り返す。
あまりの痛さに一気に目が覚めてしまった。
「大丈夫かい? すごい音がしたよ」
頭上に落ちる声に、ボッと火がついたように顔が熱くなる。
確かに目は覚めたが、今、自分がしようとした事は到底受け入れ難い。
「それにしても、その過剰な拒否反応は傷つくな。君の方から迫ってきたのに」
「すみませんすみませんっ! 違うんです、人違いなんです。私てっきり……!」
あまりの恥ずかしさに、セレスは相手の顔も見れずに、ペコペコと高速で頭の上下運動を繰り返す。
「てっきり……誰だと思ったの。恋人?」
決して怒っているようではなく、どちらかと言うと笑いを噛み殺したような口調に、セレスの頭の運動はピタリと止まった。
――てっきり、あの黒髪の彼かと思って。
心の中はそう答えたが、考えてみれば、自分はあの人の名前すら知らない。
当然、恋人であるはずもない。
「そんな、そんなのじゃないんです」
不思議な胸の痛みを覚えながら、セレスがわずかに顔を上げる。
そして、改めて目に入ってきた辺りの光景に息を飲んだ。
広い、吹き抜けのある室内。
磨きこまれた黒光りする床、豪奢なソファにたくさんのベンチ……。
「ここ、談話ホールじゃない! どうして私、いつのまに」
森の隠れ処にいたはずのセレスが、なぜかあの、最初に待っているようにと言われた談話ホールのベンチに座り込んでいたのだ。
「こらこら、いつまで寝ぼけているつもりだい? 君は僕がホールに来た時から、このベンチで寝ていたよ。おおかた夢でも見たんだろう」
「夢なんかじゃありません! だってあの時私、ここを出て確かに」
そこまで言って、セレスはハッと口をつぐんだ。
『誰にも言うな。ここの事も、俺の事も』
そう言った彼の低い声が蘇る。
そして自分がそれにうなずいたのも覚えてる。
満ち足りた想いの中で交わした約束。
あれが夢だったとは思えない。
だがそれならば、いつ自分はこのホールに移動したのだろうか。
なぜ、あの森の隠れ家で彼と寄添い、それが自然だと思えたのか。
なぜ今、彼が目の前にいると勘違いして、当たり前のようにキスをしようとしたのか。
初めて出会った人にそんな事、冷静に考えればありえない話だ。
もしかしたら、それら全部含めて、本当に夢だったのかもしれない――。
そう思いながらもセレスは、彼との約束を破る気にはなれなかった。
「あの、えと、中庭に出て、それからここに戻ったんでした。私、夢を見ていて……本当にまだ寝ぼけているみたい。あはは」
セレスは得意でもない嘘をついて、こわばった笑顔を作った。
それを隣の男性は、膝の上で頬杖をついたまま、静かな蒼い瞳でじっと見つめている。
その時になって、初めてセレスはこの男性がとても綺麗な顔立ちをしている事に気がついた。
頬にかかる長めのプラチナブロンドの髪は月の光と同じ色。
すっきりと通った鼻筋に、綺麗な稜線を描く唇。
涼しげな目元からセレスを捉える深い蒼の瞳は、全てを見透かしているような落ち着いた色をしている。
それまでの口調から、軽い印象を受けていたのに、なんともアンバランスで不思議な魅力の持ち主だ。
「ふうん……。おもしろいね」
そうして彼はまた、いたずらっぽく目を細めた。
そもそもこの人は誰なのだろう。
制服とは違う、洒落たデザインのシャツとパンツといういでたちで、年もセレスよりかなり上に見える。
学院生ではあり得ないし、むしろ若い教師という方がしっくりくる。
だとしたら、さぞかし女生徒に人気がある先生だろう。
「さて、じゃあそろそろ行こうかお姫様」
突然そう言って、その人はすっくとベンチから立ち上がり、紳士らしく片手をセレスに差し出した。
「え……、あの、行くってどこに?」
「君は僕を何だと思ってたの。案内の者が君を迎えに行くって学院長から聞いてない?」
「あっ、そ、そうだった! あなたがそうだったんですか。すみません、私すっかり忘れていて」
セレスは差し出された手と彼の顔を、困ったように見比べた。
こんな丁寧な扱いを受けたことがないので、どうしていいのかわからない。
「こういう時、レディは素直に男の手を取るものだよ。そういう事もちゃんと覚えないとね、セレスティナ嬢」
言われてセレスはぎこちなくその手を握り締めた。
そのままゆっくりと手を引かれ、立ち上がる。
「……ずいぶんざわついてる。ここのエフェクトに触発されたかな」
「え?」
彼のつぶやきは小さすぎて、セレスにはよく聞き取れなかった。
「いや。さあ急ごう。もうとっくに次の授業は始まってるんだ」
「ええっ? もしかして私が寝てる間に」
目を丸くするセレスの手を握ったまま、彼はスタスタとホール奥の螺旋階段に向かって歩き始めた。
「あのっ! ちょっと、手を離し……」
「僕はファウスト」
目の前にある彼の背中が名乗った。
「いつまでたっても聞いてくれないんでね。催促もされないのに名前を教えるなんて、僕の歴史上、初めてかもしれない。それが一番傷ついたよ。そのお詫びと案内のお礼を兼ねて、この手はしばらく預かるよ」
「そんな……!」
ぐいぐいと強引に手を引かれながら、セレスはファウストと共に、講義室のある階上へと螺旋階段を上がっていった。




