【Ⅷ】
ナディアの失ったはずの右耳に、あの男の笑いを含んだ声が蘇る。
『お前はすでに終わってる。俺の手を取れ。昔話の海の姫君のように、王子様が手に入ればお前はこのまま生きられる。入らなければ……藻屑となって消えろ』
王子様は……手に入った。
その身体だけは。
そしてナディアの、人として生きる生活だけは約束された。
だがそんなもの、何になるというのだ。
悪魔の手を借り、多くの嘘と裏切りを抱えて生きる苦しみと引き換えるには、そんなものでは到底足りない。
――あの日、ウェロー伯爵が嬉々とした様子で帰った後、ナディアとルードだけが応接室に残された。
向かいのソファで黙り込んだまま、ルードは固く組んだ手に目を落としている。
「ルード……私、良い妻になるわ。努力します。あなたが立派に国を守れるように、私の何もかもを尽くして支えます」
ナディアは思い切って席を立ち、彼の隣に座りなおした。
「……ナディア」
「この顔が世間的に良くないなら、私は公の場には出ないわ。別にそんな事気にしない。あなたの傍に居られるなら、どんな事も、何も辛くない……」
「ナディア、待て」
「結婚式も何もいらない。ひっそりとあなたと暮らすの。毎日、お花を飾って、美味しいお茶を淹れて……疲れたあなたを癒す為だけに生きるわ。だから……!」
「ナディア!」
ルードがナディアの肩を掴む。
揺れる黒い瞳は、苦しげに歪んでいた。
「な……に? いやだ、ルード……そんな目で見ないで。何も要らない、何も聞きたくな……」
「お前を妻にはできない」
小さくともキッパリとした声が、ナディアの心を殴りつける。
「……どういう事? だってさっき、傍に置くって……一生かけて守るって……」
「それは嘘じゃない。だが、妻にはできない」
ナディアの身体から、心から、血の気が引いていった。
「聞いてくれ。俺のアンフィスはこの国で唯一、つがいの習性を持っている。これは国家でも重大な機密だ。片割れが傍にいなくては、その力も精神も保てない。だから以前は抑制が全く効かなくて、お前にこんな怪我もさせてしまった……」
「つがい……? もう一体、アンフィスが居るの……?」
「いや、アンフィスの片割れはバエナと言う。俺は、バエナとその宿主も傍に置かなければならない」
「……まさかそれが……セレス……?」
ルードがしっかりとうなずく。
「そう……だったの。いいわ、わかった。それならそうすればいい。私は気にしないわ。だからきちんと私と……」
「俺は、あいつがバエナの宿主でなかったとしても、傍に置きたいと思っただろう」
聞きたくもない言葉が、容赦なくナディアの耳に入り込んでくる。
それでもその言葉を受け入れる事ができない。
「……本……気?」
「俺は誠心誠意、お前に尽くす。一生をかけてナディアを守る。だが、俺の全てはあいつにやると誓った。だから……ナディアと結婚はできない。その代わり、あいつも妻にはしない。それで、どうか許してくれ……」
「何を言ってるの。 あなたは次期公爵よ。結婚もしないで、世継ぎはどうするの。由緒あるアンフィスドレイカーの血縁は……」
なんとかルードの決心を止めたくて、ナディアは様々な言葉を探す。
揺ぎ無い黒い瞳が、この時のナディアには何よりも怖ろしかった。
「公爵なんか、血縁の誰かが継げばいい。そういう事例もある。俺はそんなもの要らないんだ。俺はあいつとナディアを守って生きられたらそれでいい。お前だって公爵夫人になりたい訳じゃないだろう」
「そうだけど……、でもセレスだってそんなの嫌に決まってる。妻にもしてもらえず、愛した人にもう一人守る女が居るなんて」
「いや……」
強い光を放っていた瞳がふと和らいだ。
「あいつは、たぶん黙ってうなずく。……そういう女だ」
止まらない。
あんなにまでして追いかけたルードが離れていってしまう。
怖い。
怖い。
一人は怖い。
こうなったのは誰のせい?
私を孤独にしたのは……!
「じゃあ……せめて、ルードが眠る時……傍に居させて……。毎日、あなたが疲れて眠る時だけは……あの子じゃなくて、私を選んで……私を傍に置いて……」
「ナディア……」
必死でナディアはルードの腕を掴んだ。
この手を離したら、暗い海の底に引きずりこまれる。
そして二度と浮かび上がれない……そんな気がした。
「お願い……! あの子は何だってうなずくんでしょ? それでもいいと言うんでしょ……! お願いルード、お願いだから……」
「…………それはできない。それ以外の事なら、お前が望めば何でも従おう」
足元が、重く沈む。
それはゆっくりとナディアの身体を、心を飲み込んでいく。
「ふふ……ふ……、なんでも……ね? それがあなたの懺悔なのね。セレスにも、それを背負わせるつもりなのね……。じゃあ、手始めにキスをして。精神誠意、尽くしてくれるんでしょう」
ルードが哀しい目で、ナディアのただれた頬を指先でなぞる。
その感触は、どこまでも優しい。
「忘れないで……。私はあなたを愛してる。あなただけを愛してるわ……」
そして……ルードはその涙で濡れた唇に、キスをした。
優しくて、乾いた冷たいキス。
こんなものが自分には一生続くのか。
いくら自由に出来ても、ずっと笑って一緒にいたとしても、ルードは自分の傍には居ない。
いつでも心はセレスの元に在る。
――ナディアの虚ろな目は、ドナの後ろで規則正しい寝息を立てているセレスの背中を見つめていた。
(これで終わり……。王子様、手に入らなかったな……)
ナディアは自分の足が、指先が、ふつふつと泡になっていくような気がした。




