【Ⅱ】
特にこの時間、この場所で、と約束しているわけではない。
それでもふと風が吹き、会いたい気持ちを抱えてこの森の入り口にやってくるとルードが立っている。
今夜はセレスの方が先。
ところがずいぶん待ったが、ルードが丘を降りてくる様子はなかった。
(どうしたんだろ……。今日は一日中、どこにも顔を出さなかったけど。この手紙、見せたかったのにな……)
セレスの手には、あの後見人代理のクロセルからの手紙が握られている。
「拝啓、セレスティナ嬢。ドレイク覚醒のお知らせありがとうございます……。我が主も大変喜ばれ、わたしくしもひそやかにスキップをしてしまいました……」
何度も読み返し、覚えてしまった冒頭文を口にしてセレスはまた笑ってしまった。
あの、穏やかながらも隙の無い雰囲気のクロセルが、スキップを踏む姿……。
もちろん、実際にそんな事をした訳ではないだろう。
でもセレスを和ませる為に、こんなくだけた文面を綴ってくれたのかと思うと涙が出るほど嬉しい。
その後、お祝いと称してセレスにドレスを贈りたい旨が書かれていたのだ。
創立祭を控えた今、実に絶妙なタイミングであり、それをドナに頼んだ事も心憎いばかりのクロセルの気配りだと思う。
「仕方ないよね……戻ろうかな。また明日にでも……」
セレスがポケットに手紙をしまった、その時だった。
森の奥から、何かが蠢くような、木々が歪むような不思議な気配がしたのだ。
「な……に? この感じ……」
胸が、なぜか早鐘を打つ。
バエナも森の奥に心を傾けているのを感じる。
「何かが起きてる……!」
訳もわからずに、森の深部に向かってセレスは駆け出した。
一人で行くな、とのルードの言いつけはまたもや置き去りだが、今行かなくてはならない気がする。
「バエナ! お願い……幻魔にかまってる時間はないの。シールドを!」
『だから……口に出さずとも我には届く……』
「だって、なんとなく話しかけたいんだもん!」
『わかってるから早く走れ! 我にも何が起きているのかわからぬ』
セレスの身体を薄い金のシールドが覆う。
激しくなる胸騒ぎを抑え、セレスは気配の濃くなる方向に向かいひた走る。
ところが、いつもの緑のドームを逸れた辺りからおかしな事に気がついた。
「ねえ……、幻魔がいない。一体も出てこないよ」
『うむ。いつもは気配も散らばっているが……この先に集まっている……?』
森全体が妖しく波打ち、時折ぐにゃりと空間が歪む感覚がわずかに吐き気を誘う。
だが、個々の幻魔の気配は確かに向かう先に集約しているようだ。
「こんな奥まで来たことない……気を抜かないでバエナ」
『セレスが我にそれを言うか……』
道なき道を木々の枝を掻き分けて進んでいった先で、その光景はセレスの目に一気に飛び込んできた。
(え……?)
突然ひらけたその場所は、中心に今までにないほどの大樹がそびえ、その脇には小さな泉が豊かな水を湛えている。
そして大樹の前には、月明かりが白く落ちる、大きな苔むした平たい岩。
その岩の上で、横たわったひとりの人間を取り囲み、数体のアガレスがその腕や脚に喰らいついていた。
惜しみなく流れる赤い血が、月明かりにぬらぬらと妖しく光る――。
「……ファウスト!!」
セレスの中で膨れ上がった怒りと悲しみが、そのまま攻撃のエフェクトとして手の平に集まる。
木々の間から抜け出し、もつれるようにファウストの元へと駆け寄りながら、セレスは両手から溢れるエフェクトを放った。
「ファウストに触らないで――!!」
「ちょ……、待て……!」
アガレスに一直線に向かった金のエフェクトが、何かに遮られて弾かれる。
「!! 何? どうして……」
その瞬間、反対にセレスの方が半透明のシールドに包まれて身動きが出来なくなってしまった。
「な……何これ?! 」
シールドの向こうで、ファウストの蒼い瞳がぼんやりとこちらを見ている。
その間もアガレス達は、セレスの目の前でファウストの身体を貪るように味わっていた。
「いやだ……ファウスト! ファウスト、逃げてよ、 しっかりして!」
自分を囲むシールドの内側に手をついて、セレスが泣き叫ぶ。
「……違うよ……。全く……一番やっかいな子に見つかっちゃったなぁ……」
ファウストが、力なく微笑んでつぶやいた。
「え……違う? 何が……、わかんないよファウスト! 死んじゃやだぁ!」
「死なないよ。もう少し、そこでおとなしくしてな……」
「そこって…………!」
セレスは、ふと自分が手をついているシールドをみつめた。
自分でないなら、これは当然ファウストが展開している物のはずだ。
「もう少しで終わるから……僕は、大丈夫なんだ……」
「ファウスト……、いったい何をしてるの……? このシールドは、私に邪魔されないようにあなたが……?」
ふと見渡すと、辺りを無数の幻魔が取り巻いているのが気配でわかる。
姿こそ現してはいないが、アガレスも夢魔もそこかしこの闇に潜んで大樹の元のファウストとセレスに注目しているようだ。
「僕は……結界の修復をしてる……」
長く、疲れたため息をついてファウストが答える。
「修復……?」
「幻魔たちは、演習なんかで多少の攻撃を受けても自然と回復するんだが……、時には派手にやられたり、なんらかの理由でやけに弱まったり消滅してしまう時がある……。安定した幻魔の個数と状態が結界の条件だから、放っておくといつのまにか結界が敗れて幻魔たちが森から出てきてしまうんだ。だからたまにこうして、弱りきった幻魔を回復させるためにエサを与えてる……」
「エサって……自分の身体じゃない! そんな無茶な事……他に方法はないの? 」
「他にここを守る方法はない。それに、無茶じゃない……」
突然、ファウストの背後に白い大きな影が浮かび上がり、セレスは息を飲んだ。
それは瞬く間に具現化し、ファウストを庇護するように翼を広げるドレイク――。
「白い……ドレイク。これがファウストの……?」
「……そうだ。こいつは何事も見通す力があって、治癒能力にも長けている。それに……これは僕の役割。僕は痛くないからね……」
「……? 何を言って……」
「僕のドレイクの糧は宿主の痛覚……。だからこいつが覚醒した時から、僕には痛いという感覚が無い」
白いドレイクが作り出すシールドの中で、セレスは愕然と目を見開いた。
目の前では未だアガレスがファウストの脚や腕を鋭い牙でくわえ、興奮気味に頭を振っている。
それでもそこに痛みはなく、だからこそファウストは自分の役割だと言いきるのだろうか。
「ロックバート家の人間にはこの種のドレイクが宿る……。今まではずっとこの役割を父の学院長が負ってきたんだ。ガキの頃は何も知らずに、学院に閉じこもったきり、戦わない父親をただの臆病者と蔑んでいた……。だが全て知った今は、それがいかに必要で覚悟の要る事かが痛いほどわかる……これは息子である僕が引き継ぐべき事だ……」
「……学院長先生がお父さんだったの? こんな……こんな事をずっとあなたたちは引き継いで……これからも続けていかなきゃならないの? 」
「そうだ。この森は国にとっても大事な施設……。ここで本物の幻魔を知ってみんな巣立っていく。知らないままじゃ、すぐに命を落とすのがオチだろう。ここは、守らなきゃならない……」
「そんな……」
胸が震え、涙が溢れる。
何もできない自分が歯がゆく、悲しい。
それ以上何も言えないまま、セレスはシールド越しのファウストをただ見つめていた。
「……そんな目で見るなよ……。身体は痛まないが、心はちゃんと痛むんだぞ……。心配するな……」
「だって……」
すると、アガレス達が一斉にファウストから離れ、辺りの闇にまぎれ始めた。
代わりに目の前に現れたのは、亜麻色の長い髪をした緑色の瞳の少女――。
「……私……?」
「……ほらみろ。セレスがそんな目で見るから……それにしても悪趣味だな」
ファウストが血だらけの身体で、ゆっくりと起き上がった。
そこにセレスに良く似た少女が、腕を伸ばして覆いかぶさっていく。
(これは……夢魔……!)
夢魔のキスを抗うことなく受け入れるファウストに、叫びだしそうになる。
その口元を押さえて、セレスはシールドの中で力なく膝をついた。
「セレス……後ろ向いてな。見たくないだろうこんなもの。こいつは僕の血が欲しいだけだ。大丈夫、惑わされたりしないよ……本物が心配してくれて泣きべそかいて、ここにいるんだから……」
夢魔を抱いたまま、ファウストが皮肉に笑う。
言われるまま、セレスは自分の姿の夢魔が彼に絡みつく光景に、背を向けた。
硬く目を閉じ、耳を塞ぎ、嵐が過ぎ去るのを待つように、ただじっと夢魔が満足して消えていくのを待つしかない……。
やがて辺りから幻魔の気配は消え、森に静けさが戻った。
いつのまにか白いドレイクも彼の中に戻り、残されたのはセレスと、傷だらけでありながら血の跡はなく、静かに倒れこむファウストだけ。
裂けた腕、脚、大量に血を流して色を失った白い身体。
それを見下ろし、セレスは震える唇で声をかけた。
「……お部屋に帰ろうファウスト。私が連れて行く……」
彼を抱き起こそうと伸ばした手が、突然後ろから掴まれた。
「…………」
ゆっくりと背後を見上げて映る黒い瞳。
それに気が緩み、セレスはまた泣き出してしまいそうになる。
「ルード……」
「お前には無理だ。俺が運ぶ」
ルードはファウストの上体をそっと起こし、そのまま肩に担ぎ上げた。
「……いつからいたの」
「……お前がシールドに捕まったあたりからか。お前に危険はなさそうだったからな……、俺も何が起きてるか知りたくて様子を見ていた」
ルードがゆっくりと歩きだす。
その横顔は、いつにも増して厳しいものだ。
「ルードも知らなかったんだね……」
ルードの背中に垂れ下がる、ファウストの上半身と揺れる銀の髪を見つめながら、セレスも後に続く。
「……今まで帰らない日があったのは、俺に悟られないように回復を待ってから戻ってきていたんだろう。何も気が付いてやれなかった」
「……知らなくていい事だ。忘れろ……」
ルードに担がれたままの後頭部がつぶやいた。
「ファウスト……! 今は喋らないで。じっとしてて……」
哀願するセレスに向けて、垂れた片手がわずかに差し出される。
その指先をセレスはためらう事なく握りしめた。
「これは僕たちにしか出来ない……必要な事。だから口出しは迷惑だ……。ルードは、わかるよな……」
「…………」
ルードの無言の肯定が、セレスには痛い。
わかってはいても、やはり痛いのだ。
「……でもね……セレス……」
揺れる銀の髪がポツリとささやく。
「……心配してくれるその顔は、少しだけいいもんだ……」
繋いだセレスの指先を、ファウストが小さく握り返した。




