【Ⅱ】
「あたしが朝イチで帰れなかったから、心細くてシュンとしてるかと思えば……何その、しまりのない顔」
三日間の休暇を終え、ドナは夕暮れになってようやく学院の寮に帰ってきた。
そして開口一番、出たのがこのセリフ。
「え、えと……」
「絶対なにかイイ事あった顔よ。ふにゃふにゃしてる。白状なさい」
ポッと赤らんだ頬を、セレスは慌てて両手で押さえた。
それでも自然と口元は緩んでしまう。
ドナのこの洞察力には本当に感服だ。
とぼける訳にもいかず、セレスはドナが荷物を整理する間に、ここ数日の出来事を洗いざらい、まさに「白状」させられてしまった。
「セレスがわかりやす過ぎるのよ。でも帰ってすぐにこんな嬉しい報告が聞けるとは思わなかった! ……よかったね、シンデレラ。王子様を捕まえられて」
よしよしとセレスの頭を撫でるドナの顔もほころぶ。
「うん……、でもまだ夢みたいなんだけど……」
「なんでよ。休暇の間中、ラブラブしてたんでしょ?」
「やっ、そんな……。ずっと森で特訓させられたり、勉強詰め込まれたり……!」
「その隙間にラブラブしたり」
「は……、いえ、まあ…………はい」
真っ赤になって語尾も小さくなるセレスに、ドナはクスクスと笑った。
「確かに、あのルードがこんなに早く負けを認めるとは思わなかったけど。……まあ、色々とこじれる前に、はっきりさせとかなきゃまずいと思ったのかもね」
そう言ったドナは、部屋の奥に目をやった。
二人の部屋は二間続きの広いスペースに、ベッドと机が二つずつ置かれている。
そして今朝、その奥にもう一組のベッドと机が新たに設置されたのだった。
「それにしてもいい報告と、いいか悪いか微妙な報告が同時に……。あの事件の子が復学してくるなんてね。しかもよりによってあたし達と同室……秘密もあるのに、やりにくくなるなあ」
「他はみんな四人部屋で定員いっぱいだから……。それに、いい報告がふたつでしょ。彼女が帰って来て、ルードは本当に嬉しそうだったもの」
そう答えながら、セレスもその真新しいベッドを見つめて少々複雑な心持ちになる。
「そうかもしれないけどさ。でもその人、ルードに会いたくて戻ってきたんでしょ? そんな怪我が残る顔を晒してまで。彼に恋人がいて、その人と同室になるなんて、思ってもいないでしょうね」
「恋……! わ、私?」
「当たり前でしょ、他に誰がいるの。あたしの彼はルードじゃないわよ」
ため息交じりで言ったドナを、セレスがきょとんとした目で見つめた。
「セレスったら、そんな自覚のない事でどうするの。あたしも詳しい事は、この前ファウストに聞いたばかりなんだけどさ。そのルナディアさんって、当時はホントにルードも可愛がってて、最初に公爵夫人候補って噂になった人なんだってよ。お家も、シンシアなんか比べものにならないくらい古いドレイカーの家系で……」
「……ドナって恋人いたの?」
「ん? そりゃあたしにだって彼氏の一人や二人や、五人や十人……って、今はそんな話……」
「どんな人? 同じクラス? それとも上級生とか……」
「食いつくなっての。冗談に決まってるでしょ」
詰め寄るセレスの顔を押し戻して、ドナが笑う。
すると、はしゃぐ二人の耳に部屋のドアがノックされる音が静かに響いた。
思わず二人が顔を見合わせて息を飲む。
「……来たのかな」
「わかんない……、で、でも早く開けてあげなくちゃ……」
「いいから、ちょっと落ち着きなさいよ。はあーい、どうぞ。開いてるわ!」
ドナが愛想よく返答すると、ドアが開いた。
「ごきげんよう。ドナウ=ミュッテンさんとセレスティナ=オズモントさんのお部屋に間違いありません?」
制服姿で現れたのは、紛れもなくあの時の少女。
真っ直ぐな金色の髪、花がほころんだような可愛らしい笑顔、そして……髪で多少隠されてはいるが、右頬に痛々しい惨劇の痕。
「ええ。お待ちしていましたわ。あたしがドナ。こちらがセレスよ」
ドナが如才なく答え立ち上がると、慌ててセレスもそれにならった。
「ルナディア=ウェローです。私の事はナディアと呼んでくださいね。今日から宜しくお願いします。……あら?」
ナディアが目を丸くして小首をかしげた。
その仕草はどこまでも愛らしい。
「セレスさん……この前、ホールでお会いした方よね? ファウストと一緒にいた……」
「は、はい。あの……そうです」
なんと言っていいかわからず、セレスは小さくうなずいた。
「やっぱり。じゃあ、お二人とも私の事、ちょっとは聞いてるのかしら。 ……色々説明するのもなんだか……」
寂しげに微笑むナディアに、ドナがつかつかと歩み寄る。
そして彼女の荷物をひとつ、手にかけた。
「ええ。一応、一通りの事は聞いてるわ。だから、話したい事だけ話してくれればいいのよ。とにかく、荷物をほどきましょう。手伝うから」
「ありがとう……。でも荷物はこれだけなの。後から色々届くと思うけど、今日は最低限必要な物だけしか持ってこなかったわ」
「そっか。じゃあパッと片付けてお茶にしましょ」
「あ……、じゃあ私、お茶いれてくるね」
部屋には常時、お茶だけは飲めるようにポットとカップが備え付けられている。
セレスは三人分のカップに紅茶を注ぎ、そっとため息をついた。
なんだかやけに緊張する。
屈託なく笑いかけてくるナディアに、硬い笑顔しか返せない。
それに引き換え、ドナはさすがだ。
様々な思いを抱え緊張しているであろうナディアを、さりげない気遣いと話術で和ませている。
「ホントに荷物少ないのね。でも確かに必要な物は揃ってるけど」
「だって出戻りだもの。要る物と要らない物はわかるわ」
「あはは、出戻りって……ごめん、ちょっと面白い」
ドナとナディアが笑いあう所に、セレスは紅茶を載せたトレイを手に戻った。
「ああ……いい夜風。この風は変わらないわね……」
ナディアが窓を開けて、心地よさそうに目を閉じる。
通り抜ける風はナディアの金の髪をさらい、ふわりと右頬からうなじにかけてのただれた皮膚をあらわにした。
赤黒くしわのよった皮膚、耳穴は不自然なほど小さく、その下には申し訳程度に耳たぶか残されている。
(これが……アンフィスの力で……)
そう思うと、セレスの目はそこに釘付けになってしまう。
「……やっぱりこの傷が気になる? セレスさん」
窓の外に向かって、ナディアが微笑む。
ハッと我に返り、セレスはブンブンと頭を振った。
「違うの。気になるとかじゃなくて……。私ったらジロジロと……ごめんなさい……」
「いいのよ。こんなの見たらびっくりするのは当然だわ。特にこれね」
ナディアはその小さな耳たぶの名残をチョンと指で弾いた。
「これはかえって無い方が見た目には良かったかもしれないんだけど……残しておかないとドレイクが居なくなってしまうかもしれなくて。私のドレイクはこの右耳と聴力を糧にして宿っているから」
今まで成り行きを見守っていたドナが、たまりかねたように口を挟んできた。
「ちょっと……いいの? そんな自分のドレイクの糧が何か話しちゃって。普通はタブーでしょうが」
「タブー?」
聞きなれない言葉にセレスが首をかしげる。
「ああ……言ってなかったっけ。ドレイクの糧は、少なからず宿主に不自由を強いる所だし、敵に知れると弱点にもなりうる。だから普通は糧が何であるかは明かさないし、聞くのも禁忌とされているの。セレスだって、あたしのドレイクの糧は知らないでしょ」
「あ……そう言えば」
言われて気がついた。
何事もオープンなドナだが、糧について話してくれた事はない。
見た目にも、普段の生活からもドナに不自由などないように思えるが。
「私はもう、右耳が不自由なのは一目瞭然だし。話してもかまわないわ。それにこんな状態だから、取り込める精気も足りないみたいで……私のドレイクは本当に微力になってしまったの。幻魔と闘うのはきっともう無理ね」
そっと耳を押さえ、寂しげに微笑むナディアに、セレスとドナは掛ける言葉を見つけられない。
「でもドレイクが居なくなったわけじゃない。私は宿主でありながら、まだドレイカーとしての責務を何も果たしていない。何か私にも出来ることはあるはず……。やっとそう思えるようになれたから戻ってきたの」
窓を背にしたナディアの後ろに、銀色の満月が映る。
白い月光が、ナディアの姿とその凛とした瞳を照らし出した。
――ルナ(月の女神)……?――
月を背負ってセレスに微笑む彼女は、まるで月の女神が舞い降りたかのような毅然とした美しさと、そして清廉さに満ち溢れている。
その雰囲気に飲まれ言葉の出ないセレスに、ナディアは寂しげに目を伏せた。
「できればこの痣を嫌がらずに、仲良くして欲しいんだけれど……やっぱり難しいかしら。でも私がここでみんなと上手くやらないと、きっと心配させてしまうから……」
「あ……、ルードが……?」
セレスがその名を口にすると、ナディアは苦しげに唇を噛んだ。
「そう……。私がここに帰ってきたのは彼の為でもあるの。あれ以来、ますます人と係わるのを避けるようになって、ドレイクと通じ合う努力もしなくなったって噂を聞いたわ。きっと傷ついたまま、強い自責の念が彼を歪めてしまったのね……私に、今まで勇気がなかったせいで……」
「……今はドレイクとは通じ合ってるし、けっこう明るくやってるけどね」
ドナの言葉に、ナディアが驚いたように顔を上げる。
「ちょ……、ドナ……!」
「だからナディアもそんなに思いつめないで、せっかく戻ってきたんだから学院生活を楽しみなよ。それで、ここをちゃんと卒業してドレイクマスターになる事が一番ルードが喜ぶ事なんじゃない?」
「そうなの……? ルードが、あのアンフィスを制御できるように……ああ……! よかった……」
両手で口元を押さえ、ベッドに力なく座り込んでしまったナディアの目から涙が溢れる。
「ナディア……!」
慌てて駆け寄り、セレスが肩に手をかけると、ナディアはその手をしっかりと握った。
「昔からルードはとても責任感の強い人で……それをすごく気に病んでいたの……。公爵にならなきゃいけない身で、最強のドレイクを宿しながら自分がその価値を台無しにしてると……。見ていてとても辛かった。それが……、本当によかった……」
「はい……。今ではアンフィスといいコンビで戦えるまでになってますよ。今の彼があるのは、ナディアさんが守ってくれたおかげです。ありがとう。あの……私こそ仲よくしてください。痣なんて気になりません」
「…………」
黙ったままセレスを見返し、目を潤ませるナディアに、ドナも微笑みかける。
「何を言っても傷つけちゃいそうで怖いけど、あたしたちはその痣は気にならないし、あなたと楽しい時間を一緒に過ごして、一緒に卒業したいと思ってるわ。これも縁だもの」
「……ありがとう。ルームメイトが二人で本当によかったわ……」
その時だった。
セレスの中で、バエナが歓び騒ぐ、いつもの感覚が沸き起こった。
「……あれ?」
予感ともつかないその感覚に、セレスが慌てて窓の下を見下ろす。
部屋の真下、中庭の外れにルードが立っていた。
ズボンのポケットに両手を突っ込んで、こちらを見上げている。
「なによセレス。どうかした?」
ドナとナディアが揃って怪訝な顔をして、同じ窓から顔を出した。
「あ……えと……」
「あっ! ルード……」
嬉しそうに声を弾ませたのはナディア。
窓から身を乗り出すようにして、下のルードに手を振っている。
「きっと私が心配で、様子を見に来てくれたんだわ。ごめんなさい、セレス、ドナ。ちょっと話してきていいかしら」
「え? も、もちろんだよ。どうぞ、いってらっしゃい」
セレスとドナが揃って答えると、ナディアは弾むような足取りで部屋を出て行った。
「……心配? ……彼、セレスを呼びにきたんじゃないの……? アンフィスが騒いだか、自分が会いたかったか知らないけど」
二人だけになってから、ドナがポツリと言う。
「呼ばれた気はしたけど……わかんない」
ドナがセレスを引っ張って、もう一度窓から顔を出す。
すると、ルードはこちらに向かって目を見開き、口をパクパクと動かした。
「……ナニヤッテンダ、サッサトオリテコイ……って言ってるよセレス」
確かにルードの口元は、ドナの言った通りの言葉を発したように見える。
「そ、そんな事言っても……ナディアが行ったし……。なんて説明したらいいかわかんないよ」
窓の下に向かって、セレスは両手を大きくクロスさせた。
(今夜は無理だよ! ム・リ! )
それを見て、ルードが眉をひそめる。
そこへようやくナディアが到着し、ルードの腕にしがみついた。
「あーあーあー……、ルードもホントに彼女には弱いみたいね。なんだか嫌な顔ひとつしないで話してるよ。……ちょっと困ってるようにも見えるけど」
窓辺に頬杖をついて、ドナが少々呆れたように漏らす。
そのうち、ナディアがルードの手を引いて中庭を歩き始めた。
どこかに移動する事になったようだ。
「あらら……どこいくんだろ」
ナディアがふと思い出したようにこちらを見上げ、笑顔で手を振ってくる。
慌ててこちらも笑顔を作り、手を振り返した。
「……困ったわ。ナディアってすごくいい子だけど……無邪気すぎる。四年前の関係が今も変わらず続いてるって信じこんでる……」
「…………」
まだ手を振りながら、セレスはルードの後ろ姿を見つめていた。
優しい笑顔の彼は、見たことのないような紳士的な仕草でナディアの背中に手を回し、どこかへと促していく。
すると突然、ルードだけがそっとこちらを振り返り……、クワッと裂けるほどに口をひらいて鬼の形相になった。
「ぎゃっ、怒ってる……!」
セレスが頬を押さえて青くなる。
「……すねてる、の間違いじゃない? でも、 あんなに堂々と連れ出しに来るなんて……もしかして、ナディアの気持ちわかってないんじゃない? 兄貴として慕われてるくらいにしか思ってないとか」
あり得る。
そういう点、ファウストとは違ってルードは確かに鈍そうだ。
「まあ、その辺はルードに任せておきなさいね。セレスに何か言える訳ないし。……それよりさ、その紅茶、お砂糖入ってる?」
おもむろにドナは、先ほどセレスが淹れてテーブルに置かれたままのカップを指差した。
「え? 入ってるけど……もう冷めちゃったよ。あったかいの、淹れなおそうか」
「ううん、いいの。いただくね」
ドナはカップの一つを取り、口をつけた。
「……なに? 甘すぎた? ストレートにした方がよかったかな」
「いいんだってば。あたしには、甘いか苦いかなんてわからないんだから」
冷えた紅茶を飲み干して、ドナが静かに目を閉じる。
「ドナ……?」
やがてドナの傍に、黄み掛かった身体のドレイクが浮かび上がるように具現化された。
「……この子……!」
「そう。これがあたしのドレイク。ルル教授のドレイクみたいな変化とか、バエナみたいな特殊能力はないけど、攻撃はかなり強いのよ。……で、この子の糧はあたしの味覚」
「味覚……?」
「あたしは、何を口にしても味がわからないの。ちょっと寂しいけど、この子と一緒に居る為だから仕方ないわね」
セレスは愕然とした。
身体的な機能だけでなく、そういう人の感覚までがドレイクの糧の対象になるとは思いもよらなかったのだ。
「あたしはバエナの糧がセレスの右目って知ってるからね。自分だけ教えないのはフェアじゃないでしょ」
「そんな事……私、気にしないのに」
「……って言うより、セレスには知っていて欲しかったの。あんただけだからね、これを知ってるの」
照れたように笑うドナの姿が、たちまち滲んでくる。
「ちょ……やだ、なに泣いてんの? ちょっとセレス!」
「ごめ……、でも、なんだか……苦しいよ。ごめん、ドナ……」
こんな異質とも呼べる不自由、本人がどれだけ辛いかを思うととても切ない。
だが、こうやって大事な秘密を自分に打ち明けてくれる、その気持ちが痛いほど嬉しい。
泣きじゃくるセレスの肩を、ドナは困ったように抱き寄せた。
「バカね、泣かなくていいの。これはあたし達ドレイカーにとっては尊いリスクよ。それが何であっても、これであたし達はこの世を救える力を持つの……。あたしの場合、将来子供に美味しい料理を作ってあげられないのがちょっと残念なだけね」
「うん……わかるよ。私も右目ひとつ見えなくなってもかまわないの。ドナ……私、誰にも言わないから……。ありがと……ごめんね」
セレスの肩を揺らしながら、ドナが微笑む。
「変な子ね……。まあ、そういうあんただから、あたしも教えたかったのかも……」
クスクスと笑いながら、ドナはしばらくセレスの肩を抱いたままでいた。
ドレイクと糧と、そのリスク。
永く、この世で綿々と受け継がれてきた陰の憂いを、ドレイカー達は自ら尊いと呼ぶ。
それはドレイクを宿した者にしかわからない、嘘偽りない心の真実だった。




