【Ⅰ】
殺しはしないわ。
だからイイノよ。
あタシに 好キなダケアナタ自身ヲソソギコンデ……。
【Ⅰ】
抜けるような青空と、今となっては牢獄にも等しい巨大な城から逃れ、ルードは今日も森に足を踏 み入れた。
そこかしこにまだらな薄闇が潜み、ひりつくような静けさが不気味に漂う中、いつもの道なき道を 辿る。
森を行く間も、胸の奥底と左目の疼きは収まらな い。ルードは小さく舌打ちをした。
――あいつは今朝からずっとこんな調子だ。やけに不安定で、落ち着きがない。
なぜなのか、どうしてやればいいのか、今ではも うそれを考えるのも馬鹿らしい。どうせ自分にわかりはしないし、むこうもそれを 望んでいないのだから。
おそらくあの場所に着けば、いつものように少し はおとなしくなるだろう――。
目的の場所まであと半分といった所で、目の前の 細い木の陰からエプロンドレスの少女がひょいと姿を現した。
身構える間もなく、飛ぶようにしがみついてきた少女にバランスを失い、不覚にもルードはその場に押し倒されてしまった。
「待ってたんだぁ。そろそろ来る頃じゃないかな、と思って」
ルードの胸の上にのしかかり、無邪気に笑いかけるつぶらな蒼い瞳。
――やっかいな奴につかまった。
油断していたのは認めるが、今は夕暮れもまだ遠 い時間だ、無理もないだろう。
少女は身動きも面倒なルードの首にしがみつき、 甘い声でなおも囁く。
「ねえ聞いてる? 好きだよルード。その綺麗な顔も、真っ黒な髪も、それから……その瞳の色も。 あなたの全部、世界で一番だあい好き。知ってるよね。もうずっとずっと前からだよ……」
つたない真っ直ぐな愛の言葉が雨のように降り注 ぎ、長いふわふわとした蜜色の髪が耳元をくすぐ る。しかも、丸みを帯びたあどけない頬と唇は、反吐 が出るくらい愛らしいピンク色だ。
(今度はロリコン趣味とふんでみた訳か)
バカバカしくて、ついため息が漏れる。
そのため息をルードが反応したものと勘違いした のだろう。
少女はにっこりと微笑むと、小さな赤い舌で彼の 唇をぺろりと舐めた。
「うふふ……。早くこうしたくて、身体中がヒリヒ リしてた。ここにはだあれもこないよ。あたし達 二人きりだよルード……」
そして仕掛けられた、少女らしからぬ深いキス。
小柄で華奢な身体のくせに異様にふっくらとした 胸が、しっとりと繰り返しルードの身体に押し付けられる。これが自分の好みのタイプだと推測されたのか と、腹立たしさを通り越して呆れてしまう。
だが、そんな冷めた意識とは別のところで、ルー ドの頭と身体が甘く痺れてきた。
このまま適当なところまで暇つぶしとして付き 合ってやる時もあるが、今日の彼はそんな気分で はない。
だからルードは、塞がれたままの唇で言ってやっ た。
「消されたくなければ、さっさと行け」
ピクリと少女の頬が痙攣する。
だが、少女は素直に引くことはせずに、悲しげな表情で目に涙を滲ませる事までやってのけた。その顔はどこまでも愛らしい。
「どうしてぇ? あたしの何がダメなの。あたし、ルードの言うこと、何でも聞くよ。何でも…… だよ」
にわかに少女の身体から、何かの花のような木 実のような、甘い香りが漂い始める。
同時に辺りの木々や草花が、音もなく揺れた。
本領発揮の気配にこれ以上の深入りはまずいと断を下し、ルードは少女の顔を片手でわし掴む。
「お前、いつもの奴らより仕掛けてくるのが早いな。遊びより目的が優先か。生憎、俺はそう簡単じゃない」
顔を掴まれたまま、ルードの真上で硬直する少女。
だが指の間からわずかに覗く蒼い瞳は、三日月形に笑った。
「好きだよルード。だあいすき……」
「まだ言うか。本気でやるぞ」
「だって、ルードがこれを欲しがってるのよ。飾らず真っ直ぐな、駆け引きなんて欠片もない無垢な愛を……。うふふ、まるで処女のようね」
ルードは少女を掴む手にギリッと力を込めた。
顔がベコリといびつに凹むのもそのままに、少女 のピンク色の唇は続ける。
「あたし達には、あなたの中が透けて見えるわ。 何を欲しがり、何を恐れているのか……」
「ふざけるな、失敗続きのくせに。それなら俺を落とすのになぜこんなにてこずるんだ。今まで何度も違う女の姿で現れたが、どれ一つとして欲しいと感じた事はない」
「それはあなたの側の問題よ。欲しいと感じる前にあなたの中では猜疑が生まれ、傷つくのを恐れて拒絶が生まれる……。でもそれは仕方ないの。だって、確かにあなたに近づく者は、みんな欺瞞と打算を秘めている。誰一人として、あなた自身に興味はない」
歌うように続く少女の言葉と、きつくなった甘い香りが、ルードの心と身体をじわじわと締め付け ていく。
「それなのに、あなたが求めるものは無垢な愛。ないものねだりの寂しさに、今日も一人、幻魔の森で自分を抱くの……」
「黙れ」
「うふふ、滑稽ね。処女と言うより幼子かしら……?」
「……消す」
顔を掴んだ手に、ルードがエフェクトを集約させたその時だった。
――ドクンッ……!
突然、身体の芯が大きく波打った。
(な……に!?)
それはたちまち、早く激しい鼓動となり、体中の血を逆流させるように上へ上へと運んでいく。
(ちょっ……と、待て。なぜこんな時に!)
ルードの身に時折起こる、本人ですらどうにもできない症状。
さらにいつもとは違い、何かを激しく渇望するような感情が同時に沸き起こってきている。
――まさかこいつなんかに?!
思わず緩んだ手から、少女が逃れる。
そして悦びに頬を紅潮させた。
「うふ……うふふふ。あなたの負けよルード。あなたはあたしの手に落ちた。あたしの言葉で心を揺らしたのが運の尽き。そうだったのね。あなたの中の、稚拙で情けなくて恥ずかしい部分、引きずり出して踏みにじって欲しかったのね」
小女の声が、高く低く、幾重にも重なって聞こえる。
ルードの中の者が、何かを欲して狂いそうなほどに騒ぐ。
その苦しさに喘ぎ、仰け反ったルードの首筋に、少女は赤い舌を這わせた。
「負けを認めてよルード。そうすれば……ほら、わかるでしょ。あなたの疵、あたしが穿り出してグチャグチャにしてあげる。最高でしょう。あたしと、夢をみるのよ……」
――違う、そうじゃない。
正気を失っているのは俺じゃない。
何かを求めて、激しく昂ぶっているのは、俺の中の……あいつ。
(おいアンフィス! どうしたんだ。お前がこんな下級のエフェクトに囚われるなんておかしい。なぜ今日に限って、こんなに引きずられる? わかってるだろう。こいつは……夢魔だぞ……!)
夢魔。
それは、雌雄の区別のない下級幻魔。
奴らは標的の好みに合わせ自在に姿を変え、人を快楽の宴へと誘い込む。
ひとたびその手に落ち、狂うほどの至上の悦びを知ったが最後、その者は二度と人としては生きられない。夢魔と愛し合ううちに精も魂も吸い尽くされ、残るのは死を待つばかりの乾ききった身体と、夢魔との情事でしか満たされない喰われた心だけだという。
幻魔と呼ばれる、人々の血肉と精魂を糧にして存在する者達は各種あるが、その中でも夢魔は、もっとも卑劣で忌むべき種と言えた。
だがそんなもの、アンフィスを有したルードにとっては、たいして害のないちっぽけな存在だ。
たとえ完全には通じ合えなくとも、ルードはアンフィスの絶大な力の一部は行使できる。夢魔の幻惑のエフェクトなど、およそ脅威にはなりえない。
だからこそ、この幻魔達が放し飼いにされている森にも、一人で気軽に出入りができていたのだ。それが何故。
「大丈夫、殺しはしないわ。この森で、それは出来ないもの。だからイイノよ。あタシに、好キなダケアナタ自身ヲソソギコンデ……」
夢魔の身にまとったエプロンドレスが、白い霧となって消え失せる。
露わになった蒼白い陶器のような艶めかしい裸体は、夢魔が作り出した人の現し身。抱きしめられて感じる、おぞましい程の柔らかさも全て幻覚。
わかっているのに、アンフィスの欲求は留まることなく噴きあがっていく。
ついにはその波動と感情がルードの左目に集約してきた。
(まさか……、出てくるつもりなのか!)
咄嗟に左目を押さえようとしたが、それより先に夢魔がルードの左瞼にキスをする。
突然、アンフィスがルードの手を動かし、夢魔の細い咽喉を掴んだ。
予想と相反した拒絶反応にルードが戸惑うのも構わず、アンフィスは怒りと嫌悪を一気に膨張させる。
「だ、だめだアンフィス! 本気で夢魔を消滅させる気か。俺たちにとってもそれは禁忌だ。やめろ、エフェクトを抑え……!」
夢魔の顔が恐怖に歪む。
その瞬間、ルードの手から圧縮された気と光が爆発するように弾け跳んだ。
それがエフェクトの放出――。
夢魔が変化していた少女が跡形もなく霧散していく。
高い、耳鳴りのような残音が肌を刺すのは、強いエフェクトを放った時の現象。
霧を掴んだままの空っぽの手を、ルードは叫びだしたいような思いで見つめた。
彼の中に棲まうアンフィスという者の存在。
本来ならまさに一心同体であろうはずのアンフィスを、ルードは全く理解できない。
それでも宿主である以上、ルードはアンフィスの感情を共有してしまい、様々な想いの昂ぶりに翻弄され、力を暴発させる事もしばしばだ。
かつてはルードにも希望はあった。
いつかアンフィスと心を通わせ、共に何かを守りながら生きていく事を夢に見、その為の努力も惜しまなかった。
だが、アンフィスはルードの声を聞いてはくれない。いつもひとり、不安定に心を揺らしては、啼き、咆え、足掻いている。
いったい何を求めているのか、自分に何が足りないのか。
何年も考えあぐねてルードが出した結論、それは自分自身に価値がないのだという事。
アンフィスにとっても、そして人の世からしても。
出口の見えない毎日に疲れ果て、出口を探す事すら今は遠い。
「消滅……本当に夢魔を消しちまった。バカや……ろ……。う、うあああっ?!」
だがこれで終わりではなかった。
アンフィスが再び、何かを求めてルードの体内で咆哮している。
今にして思えば、たしかにアンフィスの意識は、目の前の夢魔になど向かってはいなかった。しかもその欲求は、夢魔が仕掛ける色欲とはどこか違う。
もっと激しく、色濃く、切なる想いだ。
この感情をなんと呼ぶのかルードには見当もつかない。
とは言え、これ以上アンフィスの好きにさせる訳にはいかない。こんな状態で出てくるなんてもってのほかだ。
「ふざけんな……。お前は俺に従うべきものだろ。いいかげんにしやがれ……!」
再び左目に集まって噴き出しそうになる、アンフィスの波動と想い。
それを両手で押さえつけ、ルードはいつもの道をよろよろと辿り始めた。