宅急便ハイジャック
宅急便ウォークスルー・バンの車内は檸檬の香りがした。それは10月の朝の光と混じり合い瑞々しさを辺りに放っていた。僕はハンドルを握り、構内から車を出し、さっきまで組んでいた配達コースをいつものように頭の中でシミュレーションしながら道路に出た。持ち出し件数は130件弱。ばかでかいウォーターサーバーセットを事もあろうか階段のないマンションの5階に運ばなきゃいけなかったり、旧家に住む、出てくるのに100時間かかるおばあちゃんの家に荷物があったり、いちいち横柄な態度のむなくそ悪い中古車ディーラーの集荷があったりと、細かいことを言えばきりがないけど、全体的には火曜日としては数も少ないし楽な方だ。ただタイムで来てるこの檸檬5ケースだけは10時までに農産物直売所に届けなくちゃならない。あそこは時間にうるさい。今日注意しておくのはそのくらいで、その他に特に問題は今のところはなさそうだ。僕はラジオのボリュームを上げ、時間を見る。9時少し前。ラジオはAM。僕はラジオはAMしか聴かないのだ。今は交通情報が流れている。いつもの時間。これからラジオはキャスターとアナウンサーのどうでもいいお喋りが少しあり、ゲストを招いてのトークが20分くらいあり、朝の一曲、天気予報、ラジオショッピングと続く。その頃には農産物直売所に着く頃だろう。
前の会社を辞め転職してから3年目に入るけど、この仕事は割と気に入っていて、自分で言うのもなんだけど向いてると思う。荷物が来て、それを所定の場所に届けていく。難しいことは何もない。会議はないし、複雑な取引や交渉もほとんどない(少しはある)。プレゼンもないし、接待や駆け引きもない。ネクタイも締めないし、出世競争や足の引っ張り合いもない(少しはあるかもしれない、知らないところで)。なにより自分が何をしてるのかわからないということがない。僕が想像する世界では、自分が何をやっているのかわからずに働いている人が半数近くいるんじゃないかという感じだ。僕は生活はシンプルであるほどいいと思っている。できればうちで飼ってる猫みたいにシンプルに生きたい。夢も希望も絶望もない、そんな概念すら必要としない、超現実的な生活。それは僕の憧れであり、見習いたいところである。言ってみれば猫師匠だ。年老いた伝統芸人みたいだけど。ぴーひゃらら。
それでも人間として生きている以上、やっかいなことや、時には理解に苦しむ出来事に遭遇することにもなる。今回話そうとするのは、そういう類いの出来事についてだ。
いつものように仕事が始まり、鼻歌交じりに(正確に言うと小声を出して古い歌謡曲を歌いながら)車を走らせ、国道に合流する。配達エリアはセンターから5分くらいの地点から始まる。ラジオでは経済アナリストが登場し、今後の景気の行方を予測していた。
「景気というものはですねぇ・・・躁鬱病みたいなもんなんですよ」とアナリストは話し始めた。
「みんなよくしようと思ってあれやこれや手を打つわけでしょう、でもそういうのをあざ笑うかのように、訳のわからない理由で浮いてみたり沈んでみたりするわけです、景気ってやつは。それでまた周りは振り回されて大騒ぎすると。だから前もってコントロールしようとしても無駄で、躁の時はこの薬、鬱の時はこれ、というふうに対処療法的に、つまり公的資金導入とか、増減税とかでね、その都度うまく切り抜けて、ごまかしごまかしやっていくしかないんですよ。先行きなんて読もうとしちゃだめなんですよ、読めっこないんだから」
僕は景気が夜中に突然旅行を思いついて飛行機の予約を取ったり、ベッドで一日中天井を眺めている姿を思い浮かべてみた。ちょっとした光景だ。アナリストはそれから「この今」に必要な対策はなにかということを論じ始めたが、僕は引き続き景気が一晩中自分の壮大な未来を誰かに熱く語ったり、泣きながら電話の相手に死にたいと訴える場面を思い浮かべていて、話をろくに聞いていなかった。
最初に配達する家に到着し、ハザードランプを点灯させ、車を止め、ハンドルを左切りし、ギアをバックに入れ、サイドブレーキを2段引きしてエンジンを切る。一連の動作を無駄なく素早く済ませる。伝票と荷物を取って車を降り、伝票の宛名と表札を確認してチャイムを鳴らす。1件目が在宅かどうかは気分的に結構重要だ。今日は不在だった。軽く心の中で舌打ちしながらも、なんていうことはないんだという風に自分に言い聞かせつつ、不在票をポケットから出して記入し、端末にバーコードを読ませ、出てきたシールを貼り、不在票を投函する。
そのまま配達を続けたが、今日は調子が悪かった。5件連続の不在。朝一の時間帯でこれは滅多にない。少し気落ちしたまま配達は続く・・・よどこまでも。
ちょうどラジオのアナリストが喋りたいだけ喋って退場し、「朝の一曲」(坂本九「上を向いて歩こう」)がかかった時だった。静かな朝の住宅街の十字路に、山高帽子のようなものを被り、古びた茶色いボストンバッグを持った中年の男が、たばこを吸いながらなにやら手元のメモ帳のようなものを覗き込んでいるのが見えた。白いシャツには派手な赤いネクタイが締めてあり、コートは100回くらい洗って色あせてしまった、元は黄緑だったろう色のものを羽織っている。ズボンはしわだらけで、鞄と同じ茶色。一見して朝の閑静な住宅街に似合う風貌ではない。さながらサーカス場にたむろするダフ屋か、そうでなければどこか場末の宿場で小銭を稼ぐ手品師のようにも見えた。どちらにしろいかがわしい雰囲気の男だった。僕は視線が合わないように気を付けて男の手前の角を曲がってしまうことにした。なにしろ男はどう見ても道に迷っている風だったし、道に迷った人間に道を聞かれる職業ランキングで警察官とトップ争いをするのが宅急便ドライバーだし、なんとなくその男に関わりたくないと咄嗟に思ったからだ。
しかし男はそんな僕の思惑に気付いてか、ウインカーを出して十字路に進入する僕の方に、おーいと手を上げて近づいてきた。手の先からたばこの煙がのろしのようにくゆっていた。
僕は仕方なく車を右折させ終えてからハザードランプを点け、左に寄り車を止め、エンジンを切らずに助手席側のドアを開け「なにか?」と言った。
「いやぁ、どうもどうも、ちょっといいですかね?」男は面倒くさそうに眠そうな目をこちらに向けて言った。朝の光がまぶしいかのような、あるいはまぶたが重過ぎて完全に目が開かないかのような、とにかく眠そうな目だった。無駄に高くせり上がった鼻の下には口ひげを蓄やしていて、先がほんの少しカールしている。教科書なんかで見る明治時代の軍人みたいだけど、顔つきは致命的に寝ぼけている。
「なにか?」僕は繰り返す。
「いやなに、ちょっと・・・お邪魔させてもらいますよ」そう言いながら男はたばこを放り投げ、ステップを登り車内に入ってくる。予想外の行動にあっけにとられながら僕はなすすべなく車内に上がらせてしまう。
「おや、いい匂いですねぇ、はっさくかな?」
「はい?」
「匂いするでしょう、はっさくの」
「檸檬です」
「ああそう。それにしてもずいぶんたくさんの荷物・・・これ、一人で配るわけ?」車内を物色するように見渡しながら男が言う。
「あの、どこかお探しですか?」とにかくこの男を早く片付けなくては。
「いやまあ、探してるというか、もう見つかったようなもんでして・・・たばこ吸います?」しわくちゃなセブンスターを差し出す。
「いや、やめているので」
「じゃあ失礼して」ポケットからマッチを取り出したばこに火をつける。「あの、すいません車内は禁煙なんですけど」
「ああそう」男は窓を開け、火のついたままのマッチを外に放り投げる。「1ミリだから」
「はい?」
「たばこ。たった1ミリだから。いや、泣けてきますよねぇ、医者からは禁煙しなさいって言われてるんですけど、それまで14ミリのを吸ってたでしょう、これがなかなか。それでも少しずつ落としていって、まあ今1ミリなんで、言ってみりゃ空気吸ってるのとそんなに変わらないでしょう?」
それなら是非空気で我慢して欲しいと思う。
「悔しいから箱だけは前と同じの持ってるんですけどね、セッター。いちいち入れ替えてるんですよ?中身は1ミリですよ、ほら、見てみます?」
僕は無視して話を前に進ませる。「あの、ちょっと今仕事があるんで・・・なにかご用時ですか?」
「うん・・・そりゃわかってますよ。申し訳ないねぇ、ご迷惑おかけすることになって。あんたには何の非もないし、あんたが真面目に毎日忙しく配達してるのも我々は把握してるしねぇ」
我々?
「まあ、運が悪かったと思って、ちょっと付き合って下さいな。悪いようにはしませんから。じゃあ、まず、一応決まりがあるし、早いとこあんたにもわかってもらうためにも、えっと」そう言って男は助手席側のドアを中からロックさせ、こう宣言した。
「10月○日午前9時35分、ただいまより○○運輸宅急便車両、車番W7086号をハイジャックします」
・・・ハイジャック?
男はそれからポケットからメモ帳を出し、なにやら書き込み、確認してから言った。
「あんた、名前は○○○○、個人番号は743265、間違いないですね?」
間違いない。
「突然でびっくりしてるでしょうけどねぇ。まあ人生何事も経験。人生いろいろ、仕事もいろいろ、まああたしもこんな仕事があるなんてことも寡聞にして存じませんでしてねぇ。いや、これでも一応仕事なんですよ、はい。もちろん歩合制ですよ、でも割りは悪くないし、組織がちゃあんとしてるし、まあ当然そう毎日ある仕事じゃないんで他に本業もありますがね。・・・それにまあこんなあたしでも世の中に少しでも役に立てればっていう気持ちもありますしねぇ」
世の中の役に立つ?
「役に立つ?」聞いてみた。
「ええ、まあ・・・広い視野で見ればね、巡り巡ってと言いますか。まあすぐに世のため人のためになる、というもんじゃないですけどねぇ。時間はかかりますよ。少なくとも上の人間はそう信じてまああたしにこんな仕事をやらせてるんでしょう。確かにまっとうなやり方でないのは十分承知してますがね・・・まあ後でお偉いさんから説明もあるでしょうから」
何が言いたいのか全然理解出来ない。
「あの・・・とりあえず会社に連絡させてもらってもいいですか?」と聞いてみた。
「それはちょっと無理ですねぇ」
「でも、一応状況を報告しないと」
「しなくてもいいです」
「でも、ハイジャックというなら何か会社とか政府とかに要求とか、そういうのがあるんじゃないですか」
「そういうのはちゃんとやってます」
「はあ」
「でもとりあえず今のところ要求はあんたに直接しますから」
「いや僕にされても・・・」
「さっきも言いましたけど、悪いようにはしませんよ。それにもし今回の計画が失敗しちゃったとしても、あたし個人は組織の中で立場が悪くなりますが、我々の組織は決して諦めません、いつか別の人間がまたあんたを捕まえます。ターゲットはロックされてるんです。しつこいですよ、我々は。だからあんたは抵抗なんかせずこれから言うことをただやってくれればいいだけです。無理難題は言いません、もし言ったら『そんなの無理なんだい!』って言って断ってくれても結構です」
沈黙。
「とりあえずガソリンスタンドに寄りましょうか」時計を見ながら男が言う。「腹が減っては戦さはできないってね。いつも給油してる場所がありますね?」
ガソリンは半分以上残っていたが、男の言う通りガソリンスタンドに向かった。もしかしたらそこで助けを求められるかもしれない。というか男はそれを危惧していないんだろうか。
ガソリンスタンドへは5分で着いた。いつものお兄さんが僕を迎えた。
「いらっしゃいませ、どうも!」
「どうも」と言いながら給油カードを渡す。
「あれ、今日はお連れさん同行?」
「ええ、あの、なんか、勝手に乗って来ちゃって、はは」僕はなぜか半笑いで伝えた。
「そうっすか。それは大変ですねぇ」彼はいくらか引きつった笑顔を作って答えた。まずい。冗談に取られてる。っていうか冗談ぽく言ってしまった。それともなんか関わり合いにならない方がいいと瞬時に悟られたのかもしれない。そんな表情にも見えた。隣を見ると男はいつの間にか帽子を取って、コートを脱ぎ、済ました顔をして前を見ている。ネクタイは派手だが一応きちんとした身なりっぽくなってる。よく見るとそのネクタイには小さな蜂の柄が描かれている。僕は給油している間、ちらちらとスタンドのお兄さんに目配せをしたのだけど、お兄さんは終始作り笑顔を返すだけだった。だめだ、「実はハイジャックされてまして」なんてとても言える空気じゃない。どうせ愛想笑いをされて終わりだ。そのまま状況を伝えるタイミングを逃したまま、何事もなく給油が終わり「いってらっしゃい!」とかけ声をかけられ、なすすべなく車をスタンドから出した。
男はまたコートを羽織り直し、帽子を被り、車内のミラーで帽子の角度を調整し、眠そうに目をこすりながら「まったくねぇ、バスとかタクシーならともかく、宅急便がハイジャックされるなんて、普通考えないですよねぇ。意味わかんないですもん」と言った。
お前が言うな。ただ僕も「ハイジャック」といういかめしい事柄が、今まさに自分に降りかかっているとは正直信じていない面があった。せめて体格のいい男が覆面を被り、ナイフをちらつかせてくれれば雰囲気も出るというものだけど、こんなとぼけたペテン師風の中年にハイジャックと言われても、なかなか実感が湧かず、危機感も薄かった(というよりほとんどなかった)のは否めない。暴力の匂いがどうしてもしてこない。とくに脅されてるわけでもなし、このまま交番にでも直行するのが普通の人間の対応なのだろう。でもなぜか僕はそういうことを思いつかなかった。元々受け身のタイプなのだ。
「とりあえずこのまままっすぐ行ってもらって、○○インターから高速に乗りましょう」手帳を確認しながら男が言った。
「・・・そうですか」間抜けだとは思うけど、そうですか、と言う以外に何を言ったらいいのかわからない。
「ええ、それから途中のパーキングエリアで荷物を別のトラックに移しますから」
「荷物を?」
「ねぇ、ちゃあんとしてるでしょう?大丈夫、川に捨てたりなんかしませんよ。我々がちゃあんと処理します」
「ずいぶん親切なんですね」
「世の中に役立つ仕事ですから」
「はあ。あ、でも檸檬・・・この檸檬は10時までに直売所に届けないとちょっとまずいんです。すごくうるさい荷主でして」時間を見ると10時5分前だった。
「檸檬ねぇ・・・」男はちらりと荷物に目をやり、くんくんと鼻を鳴らした。「そこ、遠いの?」
「10分、いや8分で着きます!」
「うーん、ちょっと時間ないかなぁ」男は意地悪く言った。
僕は困った。ハイジャックされてるみたいだけど、檸檬のことがなんか気になった。前に一度そこの荷物が遅れてめちゃくちゃ怒られたことがあったからかもしれない。なにしろヤクザみたいに怖い店主なのだ。
「まあ、ちょっと遅れるでしょうけど、檸檬の方は心配しないでいいですから。その辺はちゃあんとやりますんで」
僕はそれ以上は諦めた。ハイジャックされてるんだからしょうがない。僕の宅急便ドライバーとしての責任感はそれくらいのもんだった。
そのまま車を走らせ、高速の側道にぶつかり、それを左折して一番近い入り口から高速道路に入った。僕はほとんど高速道路に日常的には乗らないから、その入り口に書かれたインター名ぐらいは聞いたことがあるけど、それがどこにつながるのかは全く知らなかった。
「高速代は僕が払うんですか」
「もちろん我々が払います。経費ですから」
そういうことだった。ハイジャックに経費が落ちるとは知らなかった。人生いろいろ、経費もいろいろだ。
男はひっきりなしにたばこを吸っていた。そのたびにマッチを擦った。半分くらい吸い終えると窓から吸い殻を投げ捨てた。そして時折ミラーで帽子の角度を確認した。メモ帳を見て、ひげに手を当てながら一人頷いてもいた。
途中で会社の携帯が鳴った。画面を見るとセンターからだった。僕は直売所絡みの電話じゃないかと思った。もう10時をだいぶ過ぎているから。男に出てもいいかと一応聞いてみると「出なくてもいいです」と素っ気なく言われた。出なくてもいいです。状況からすれば言われても当然な言葉だけど、なんかムカつく言い方だなと思った。
電話はちょうど10回コールしてから切れ、またすぐにかかってきて8回で切れた。嫌な予感がした。だいたいセンターから電話がかかってくるのは100%悪い知らせしかない。誤配や、届かないなどの問い合わせ、苦情、センターに荷物が残っている、そんなところだ。お客さんが褒めてたとか、あのドライバーにお礼が言いたい、とか、あなたの配達した荷物がちょうど会社の1000万個目です、おめでとう、とかそんな吉報の電話は今まで1度も来たことがない。心臓に悪いのでとりあえず携帯の電源を切っておくことにした。
「あの、素朴な疑問なんですけど」高速の左車線を80km/hの安全運転で走りながら僕は男に聞いてみた。「宅急便をハイジャックしてどうするんですか、という質問には答えてもらえないでしょうけど、でも車両が欲しいなら盗めばいいし、どうしてドライバー・・・つまり僕までも一緒に連れて行かなきゃならないんですか」
「まず第一に」退屈な質問だね、と言わんばかりの眠そうな顔で男は答えた。「あたしは免許を持ってません。いや、取ったことはあるんですけど、何十年も前に免停になってからは無しです。でも運転出来なくていいんです。なぜなら第二に、運転してもらうという理由だけじゃなく、あんたも今回のこのイベントに必要不可欠な人間だからです。これから起こることを、あんたの目にしっかり焼き付けて欲しいからです。それが我々の要求でもあるわけです」
「つまり、あなた方のすることを僕が見る、それが世のため人のためにつながる、ということですか?」
ふん、と男は鼻から息を吐いた。「まあそういうことになりますかな。ものわかりがいいですね。まず世の中全体の意識を変えるためにはこういう地道な一歩一歩が大切ということですな。まあこれは上からの受け売りですがねぇ」
ハイジャックが地道な一歩?でもそれ以上は聞かないことにした。
「僕に危害が加えられるということはないんですか」
「あんたは怪我ひとつなく五体満足で家路につくでしょう。それは断言しますよ。今日の夜にはあんたは家に帰ってシャワーを浴びるなり湯船に浸かるなりして、ソファーでビールでも飲みながらテレビを見れるでしょう。あ、お酒はやる方ですかな?」
僕は返事をせず続きを待つ。
「ただ、それ以上のことはわかりません。あんたが今夜うまく眠りにつけるかどうかまでは保証しかねますねぇ」
気味の悪いことを言うもんだ。僕は脇の辺りにじっとりと汗がにじむのを感じた。
車はおそらく北に向かって走っている。1時間くらい走り、景色はずいぶん緑が多くなった。高速はがらんとしていて、時折他の車に追い越される以外には特に何もない空いた道のりだった。
「次のパーキングに入って下さい」男がそう言って案内標識を指さした。僕は聞き覚えのないそのパーキングエリアの名前を覚えておくことにした。
パーキングエリアはこぢんまりとしていて、特別独自の特色を出そうという感じはなく、必要最小限の施設をとりあえず揃えた、という風だった。軽食が取れる店がひとつと小さな売店、ずらりと並んだ自動販売機、雨よけと灰皿とベンチのある喫煙所、端にはトイレがあるだけで、駐車スペースも広くはなかった。男が「あっちに」と指さした方には大型のトラックが一台停まっていた。パネルに配送業者名も何も書いていない、シンプルなトラックだ。その横に車をつけると、男が車から降り、伸びをしながらトラックに近づいていった。トラックに乗っていたのは意外にも若い女性だった。茶髪を後ろで束ねていて、かなり日焼けしていたがなかなか綺麗な人だった。男はにやにやとその女性と言葉を交わし、女性は適当にあしらう感じで男の肩を叩き笑っていた。どうやら知り合いらしい。あの女の人も男が「我々」と呼ぶ組織の一員なのだろうか。男が手をひらひらさせる。どうやら僕を呼んでいるらしい。僕はハンドルを左切りし、ギアをバックに入れ、サイドブレーキを2段引きしてエンジンを切ってから(今そんなことをする必要はないのだけど、反射的に)車から降りる。男が僕を紹介し、僕は女性と握手を交わし、熱い抱擁をし、軽い冗談を言って・・・ということは何もなく、「じゃ、荷物こっちに積んで下さい」と男に言われるままに僕は黙って荷物をトラックに積み替えた。女性はトラックから降りず、たばこを持った右の肘を外につきだした姿勢で僕らを待っていた。よく見えないが週刊誌か漫画雑誌でも読んでいるみたいだった。日焼けした右腕にはほどよく筋肉がついていた。
男は意外にも荷下ろしを手伝ってくれた。腕まくりをしたその腕にはヒグマのようにもくもくと毛が生えていた。僕はなんとなくそれを見ないようにした。おそらく胸毛も無駄に盛大に生えているのだろうと思った。背中にも生えているかもしれない。僕はその想像も追い払うことにした。男は軽い荷物を選んで運んだ。軽そうに見えて持ってみると意外に重かった荷物は、迷わず手を離して他のものに手をつけた。それでもトラックに積み込む時、足下がふらふらしていた。この男はどんな本業をしているんだろうとふと思った。そして子供の頃うちに来ていた置き薬の販売員を思い出した。その男は定期的にうちに来ては、暗い表情でたいして使ってもいない押し入れの奥の薬箱の中身を、やたらと時間をかけて点検し、たぶん適当に入れ替えて金を取っていった。そんな仕事がこの男に向いている、というかそのくらいしか仕事がなさそうな感じがした。
最後に5ケースの檸檬を(僕一人で)トラックに積み換えた。この状況で、今の僕の立場で言えることではないけど、なるべく早く、出来ればこのまま直売所に直行するくらいの感じで檸檬、お願いします、と男に伝えた。男は眠そうに目をこすりながらこちらを見て頷いただけだった。
女性がこちらに向けて親指を立てる合図をしてからトラックを発車させ、僕らがそれを見送った後、僕はトイレを要求した。男は当然のように僕と一緒にトイレに行き、並んで用を足した。こういうタイプの男が100%するように、この男も用を足しながら上半身をこちらに傾け、僕の股間をしっかりと覗き込んだ。そしてふん、と鼻を鳴らした。それから売店で飲み物と軽く食べられる物を買った。僕は鮭と昆布のおにぎりと缶コーヒー、特に食欲は湧きそうになかったから無難なものを選んだ。男の手元を見ると「トルティーヤ風チヂミ」と「肉じゃがバーガー」というのを持っていた。いったい何料理が食べたいのか、どういう基準で選ぶとそんな奇妙な選択になるのかわからない。男は嬉しそうにそれらを抱えレジに向かった。僕は男とは無関係な風を装い、少し後からレジに行った。売店のおばさんは僕ににっこりと笑いかけた。僕も笑顔を返した。宅急便の制服を着ているとそういうやりとりが自然に出る。職業病だ。もう僕には誰かに助けを求める気はまったくなかった。ただ成り行きに任せようという気持ちだった。
外に出ると男は自販機に向かい、ワンカップの日本酒のボタンを押した。そして僕の方を振り返り、照れ笑いを浮かべながら(この男にも照れることはあるのだ)「いやあ、普段仕事中に酒なんて飲むことはないんですけどね。今日は天気もいいし・・・なんとなくねぇ」と聞いてもいないことを言い訳した。仕事中というよりハイジャック中にですけど、と僕は心の中で訂正した。
僕らは駐車場まで歩き、車に乗り込んだ。荷物の乗っていないウォークスルー・バンの車内は、閉園後の遊園地のようにしんと静まりかえっていた。檸檬の匂いがかすかに残っていた。しかしそれを打ち消すようにたばこの匂いが車内に充満していた。僕は運転席側の窓を開け、大きく息を吸い込んだ。
車を発進させ、パーキングを出て本線に合流する。男は包み紙を取り、「肉じゃがバーガー」をほおばり始めた。一口食べると何か間違ったものでも口にしたかのように驚いたような目でその食べ物を見つめ、いろんな角度からひとしきり眺め終えると、また一口囓った。その動作を何度か繰り返し、その憐れなハンバーガーは─ハンバーガーと呼べるのだろうな─全て男の胃の中へ流れ込んでいった。それからワンカップ酒のふたを開け、ちびちびと喉に通していった。僕もラップを取り、おにぎりを食べた。鮭、それから昆布。鮭はひからびて固くなっていて、昆布は味付けが甘すぎた。二人は終始無言で、ラジオの音だけが小さく響いていた。
「江戸川乱歩はお読みになりましたかな?」気の毒な「トルティーヤ風チヂミ」を同じように片付け、たばこを一本吸った後、男が唐突に聞いてきた。江戸川乱歩?
「・・・えっと、人間椅子とか、いくつかは読んだ気がしますけど」
「全部読むことをお勧めしますよ、まったく、すごい作家です。学生時代に初めて『陰獣』を読んでボカーンと頭をやられて、それ以来夢中で読みあさりまして。一番多感な時代にあたしの中に入り込んできた、言ってみればあたしという人間の半分は江戸川乱歩で作られたようなもんです」
僕は江戸川乱歩に同情した。
「江戸川乱歩に心酔するきっかけになった小説がありましてね。それは江戸川乱歩の名前の由来になったエドガー・アラン・ポーの小説でして。生きたまま埋葬される恐怖を描いた話なんですがね、それはそれは怖い話です。ある時目覚めると、棺桶の中に閉じ込められている。狭い箱の中で身動きすら満足に出来ません。どれだけ叩こうが、叫ぼうが、力一杯押してみようが、どうにもならないんです。こんな怖いことが世の中にありますでしょうか?それを読んで以来、あたしの中で、この世で最も怖いことは生きたまま埋葬される事だと思うようになりました。何ヶ月もの間、朝目覚めるのが怖くて怖くてたまらなかったです。なにかの間違いで、死んだと判断されたらどうしよう、そればかり考えていた時期がありました。別段、てんかんとか、そういう病気を持っていたわけでもないんですけど、それでもです。当然、閉所恐怖症になりました。以来、未だにエレベーターには乗れません。個室トイレもちょっときついです。車は大丈夫なんですけど、渋滞に出会うと・・・つまり閉じ込められた感覚になると、額やら脇やらから汗がにじんできますねぇ、ええ」
「それは大変ですね」同情するふりをする。
「棺桶で目覚めるという恐怖は今もなくなってはいません、でももちろん現代日本では火葬ですから、すると今度は生きたまま焼かれる恐怖になります。あたしは死に方について考えるようになりましたねぇ。一番怖くない死に方は何か。様々な死に方のうち、一番望ましい死に方とはって。そして出した結論は・・・たとえ癌であれ、老衰であれ、なんであれ誰かに看取られ、ゆっくりと静かに死んでいくことです。そして死んでからどこにも閉じ込められないことです」
「火葬も土葬もしないということですか」
「そうです」
「すると遺体はどうするんですか?」
「丘のてっぺんでも置いてもらって、朽ち果てやがて土に還るんです」
「生きたまま禿鷹に体をついばまれる恐怖はないんですか」
「どこかに閉じ込められるよりははるかにましです。それにその時点で生きていれば、どうにかしようがあるってもんです。なにしろ閉じ込められる恐怖に比べたらねぇ・・・そう思いませんか?夏にひからびて死んだみみずは埋葬されますか?死んだ後、埋めたり焼いたりするのは文明の悪しき発展だとあたしは思いますねぇ。いったい誰がそんなことを考え出したんでしょうか」
僕は男がなぜそんな話を持ち出したのかがわからず、曖昧な返事をした。
「あたしがこの仕事に惹かれ、非合法にも関わらず仕事を続けているのはそんな思いもあってのことなんですよ」
僕の疑問に答えるように男はそう言った。
「どういうことですか」
「これからあんたが目にすることになる光景は、ひとつの理想的な死のあり方を示しているかもしれません。しかしそのためには・・・いや、まあ、少し話し過ぎましたかな」男は帽子を被り直し、目をこすり、おほんとひとつ咳をした。咳止めシロップのコマーシャルにでも出てきそうな咳払いだった。「しかしいい天気ですねぇ、雲ひとつない」
男はわかりやすく話をそらした。僕も「ええ」と空を見た。とにかく僕はこれからなにがしかの光景を見ることになるらしい。そしてそれは巡り巡って世のため人のためになる。またそれはどうやら死のあり方に関係している。その後僕は家に帰ってシャワーを浴びた後にビールを飲む(男の言った通りまさに僕は風呂上がりにビールを飲むのを習慣にしている。でもテレビは見ない。猫と遊ぶ)。しかしうまく眠れるかどうかまでは保証しない。男の言ったことをまとめるとそういうことになる。そして結局のところ、男の言ったことは全くの真実だったとその夜に僕は知ることになるのだ。
「次のインターで降りて下さい」と男が指示するまで、二人の間に会話らしいものはなく、僕はただ通り過ぎるインターチェンジの名前をひとつひとつ記憶することに専念した。全てを覚えることは出来なくても、後で調べればとりあえず我々がどこに向かったかがわかるはずだ。その時には漠然と北に向かっている、としかわからなかった。
高速から一般道に降りた時、時刻は午後3時過ぎを指していた。空には薄く雲がかかり始め、急に気温が下がってきたのか、寒気を感じ、僕はエアコンのスイッチを入れた。しばらく真っ直ぐな道のりを走ると、男が「次の交差点を右に」と指示した。案内標識には「○○峠」と書かれていた。僕はその名前も記憶した。
道はくねくねとカーブしていて、緩やかな坂と急な坂を繰り返し、ツーリングバイクならともかく、宅急便のウォークスルー・バンではお世辞にも走りやすいコースとは言えなかった。それでももちろんこの辺を走っている宅急便ドライバーもいるんだろう。お疲れ様です。
すれ違う車や後続車にはほとんど出会わなかった。ただ一度カーブでバスとすれ違った。バスは普通の路線バスだったが、恐ろしいスピートで峠を下ってきて、こちらの車のほんの数センチ横を勢いよくすり抜けて行き、思わず、わっと声を出してしまった。その時ちらっと見えた限りでは客は誰一人乗っていなかった。もしかしたら非番の日に勝手にバスに乗って峠を攻めている酔狂な走り屋だったのかもしれない。
いくつかのトンネルを通り過ぎた。入り口のアーチ部分の鉄が赤茶色に錆びていたり、壁に蔦や苔が生えているような古いトンネルばかりだった。
「寒くなってきましたねぇ」男が久しぶりに口を開いた。僕はハイジャック犯であるところのこの男の存在をちょっと忘れていた。
「そういえばだんだん寒くなりますね」確かに寒い。僕はエアコンのつまみを最大に回した。
「もうすぐ目的地です」男は時計を見て、頷いた。「いい時間ですな」
空は厚い雲に覆われ、辺りはだんだんと暗くなっていた。
「もう一つトンネルを越えます。それはそれは長いトンネルです。そのトンネルを抜けた時、あんたにちょっとした魔法をご覧に入れますよ」男は僕の方を向いて目をしばたたかせた。たぶんウインクをしたつもりなのだろう。
それにしても魔法だって?そのくたびれた山高帽子から鳩でも出すのだろうか?
やがてトンネルが見えた。古くて大きい。入り口には鬱蒼とした草が茂っていて、そばに小さな祠のようなものがあった。トンネルの内部はどういうわけか、わずかに緑がかって見えた。その先にあるはずの出口の光らしきものは今のところ見えない。トンネルに入るアーチをくぐった瞬間、何とも言えない感覚が僕に訪れた。それは懐かしく甘い匂いをふと嗅いだ時のような、過去の光景が走馬燈のように頭を巡るような、暖かい空気が足下から頭のてっぺんに波のように押し寄せてきて、体がふわっと軽くなるような、そんな不思議な感じ。僕はトンネルに入っていくことにわくわくするような気分になった。ちょうど誰にも気付かれずに押し入れに隠れて遊ぶ子供みたいに。薄暗く静かなその空間から少しだけふすまを開けて外の様子を見る。見慣れているはずの場所がそこから見るとちょっと違った感じに見える。家族の誰も、世界中の誰も、僕がここにいることを知らない。ふふ、楽しいな。しかし押し入れに隠れた子供もいつかは出てくる。もし永遠に出られなければ─そこは棺桶となる。
『この世で最も怖いことは生きたまま埋葬される事だと思うようになりました』
僕は急にトンネルに閉塞感を感じた。トンネルの壁がまるでインディージョーンズの映画みたいに四方八方からじりじりと僕に迫ってくる気がした。それから僕の視覚から遠近感が消えた。僕はまるで平べったくなって、2次元のトンネルを通過している気もした。さっきまでの高揚感は一瞬にして姿を消し、唐突な息苦しさに襲われた。僕は息をのみ、手のひらがじっと汗ばんでくるのを感じた。そして氷をあてられたみたいにゾクゾクと背筋に寒気を感じた。僕はエアコンのつまみに手を伸ばした。それはすでに最大になっていた。それなのに吐く息が白く宙に浮かんでいた。寒気がするんじゃない、実際に寒いのだ。僕は男の方を見てみた。男は目を閉じていた。
「寒くないですか?」
僕はなにか会話がしたくてそう聞いてみた。しかし男は目を閉じたまま返事をしなかった。男も恐怖に耐えているんだろうか?僕は暗闇の中にいた。トンネル内部の緑がかった蛍光ランプの灯り以外には、後ろにも前にも光は見えなかった。もちろん後続車も対向車もない。まるで冷たい底なしのプールに沈み込んでいくようだった。
『どれだけ叩こうが、叫ぼうが、力一杯押してみようが、どうにもならないんです』
僕は男を揺り起こそうかと思った。でも強い不安を感じていることをなぜか男に知られたくなかった。というより僕が今不安感に襲われていることを男はわかっている気さえした。だからあんな話をしたんだ。僕に恐怖を感じさせるために、棺桶の話なんか持ち込んだんだ。
─よせ、落ち着け。僕は自分に言い聞かせた。これはトンネルだ。棺桶でもプールでもない。入り口と出口がある、ただの古いトンネルだ。僕は窓を開け、深呼吸をした。外の空気は車内のそれより寒く、僕の肌を突いた。そういえば男はあれほどひっきりなしに吸っていたたばこをいつからか吸っていない。いつからだ?いや、いい。たばこなんてどうでもいい。そんなの勝手にすればいい。落ち着け。落ち着くんだ。
僕は今付き合っている彼女のことを考えた。嘘だ。残念ながら僕には女友達すらいない。なのでもう飼って7年が経つ猫のことを考えてみた。白くてなめらかな毛並みの柔らかさ。干した布団みたいな匂い。お腹を見せてすっかりリラックスした毛繕いの様子。膝や背中の上に乗ってきてくつろぐその重み。表情豊かなしっぽの動き。興奮した時に丸く開く瞳孔の黒さ。ぺろぺろと指を舐めてくるざらついた舌の感触。寒い日に布団に入ってくる温かみ。大きく口を開けるわりに小さい鳴き声。おもちゃを追いかける時の真剣な顔。トイレをする時の真剣な顔。猫は猫であることに完結していた。その小さくしなやかな体躯の中で矛盾なく完全体として存在しているように思えた。吾輩は猫である。名前は・・・いらない。そう、猫は名前さえいらないのだ。名前が必要なのは人間だけだ。そしていろんなものを必要とするうち、ハイジャックだの棺桶だのトンネルだの、やたらややこしいことになっていくわけだ。猫は今もソファーの上でぐっすりと寝ているだろう。そして僕の帰りを待っているだろう。僕はその光景を思い浮かべた。そして心が少し安らいだ。帰りに缶詰のえさを買っていってあげよう。
「出口が見えましたよ」男が目をこすり、あくびをしながら言った。今まですっかり眠ってたことを証明するかのようなあくびだった。僕は前を見た。よく目をこらすと確かに遠くにアーチ形に切り取った形の光が小さく見えた。
「ショータイムの始まりです」男が厳かに告げた。
長いトンネルを抜けると、そこは─冗談抜きで─雪が降っていた。まだこの間まで残暑だの秋らしくなってきただのとニュースで気象予報士が言っていたこの時期に?いくら北に進んできたとはいえ、北海道に来たわけじゃあるまいし(たぶん)、だいいち北海道でだって初雪はまだなんじゃないだろうか?それでも雪は僕の違和感とは関係なく、当たり前と言わんばかりにこんこんと降り続けていた。空はまるで灰色の巨大な鳥が上空を横切っているかのようなぶ厚い雲に覆われ、太陽と地上の間の光を遮っていた。僕はまた窓を開け、雪に触ってみた。手のひらに落ちる雪は冷たかった。本物の雪だ。と言っても偽物の雪が降っていたとしても僕に区別がつくはずもないのだけど。しかしながらそれに反して、体の寒気はなくなっていた。車内はエアコンがしっかりと効き、暖かかった。吐く息も白くない。僕は雪の中を走り続けた。雪はまだ遠くの山々にも、通り過ぎる畑にも、道路にもどこにも積もっていなかった。まるで僕らがトンネルを出るタイミングを見計らって映画監督がカチンコを鳴らして雪を降り始めさせたかのような、そんな感じだった。
「言ったでしょう、魔法をお目にかけるって」男は両方の手を大げさに広げて、ちょこんと頭を下げた。
「確かに驚きました。どういうことなんですか、これは」
「言ったでしょう、魔法ですよ、ま・ほ・お。魔法にタネなんかありません、箒で飛んでる魔女を捕まえて『どういう仕組みなんですか』と聞く野暮はいますか?あぁそういえば『魔女の宅急便』って映画がありましたなぁ」と男はくすくすと笑った。「さぁて、クライマックスまでもう少しです」
雪はだんだんと勢力を増し、吹雪と言っていい感じになっていた。道路に積もり始めたらタイヤにチェーンを巻かないといけないなと僕は思った。何を隠そう、僕はタイヤのチェーンを巻くのがなにより嫌いなのだった。タイヤにチェーンを巻くくらいなら、どれかひとつにわさびが大量に入ったにぎり寿司を食べる方がましというくらいだ。だからいつも同僚に頼んでやってもらっていた。そう、何を隠そう、僕はタイヤのチェーンを自分で巻いたことすらないのだ。
「あの、タイヤのチェーンって巻けます?」おそるおそる僕は聞いてみた。
「やったことありませんね」きっぱりと男は言った。やっぱりと僕は思った。
トンネルを抜けた後しばらくすると下り坂になっていった。どうやら峠を越えたようだ。視界はひどく悪かったが、道路の両脇に木々が高く茂っているのと、まだチェーンが必要なほど雪が積もっていないことはわかった。何台かの対向車とすれ違った。吹雪の中、向こうから提灯のようなゆらゆらとした光がぼぉっと近づき、音もなく脇をすり抜けていった。
「次のカーブの先に左へ入る道がありますから。雑草が生えているような舗装されていない、ちっちゃい林道です。入り口に石碑があるのでそこを目印に曲がって下さい」
僕は言われた通り、石碑のある入り口から未舗装路に入った。石碑は人の大きさほどのもので、世界の成り立ちについて深く考えこんでいるふくろうみたいな形をしていた。道はかなりでこぼことしていて車がガタゴトと跳ね、その震動に合わせて僕らも上下左右に揺れた。
5分ほど走ると急に視界が開けた。そこはまるで巨人が手斧で山の頂上を水平にばっさり切り取ったみたいな、真っ平らな草原のような場所だった。
「そのまま真っ直ぐ」男が言った。気持ち緊張しているような、襟を正すような、そういう雰囲気が感じられた。
僕はその草原のような場所の真ん中を突っ切るように走った。しばらく行くと向こうになにやら石碑のようなものが均等な間隔でたくさん並んであるのが見えてきた。そこがおそらく終着点だと直感した。
と、雲の隙間から突然夕日が現れた。大きくて、真っ赤な夕日だ。その美しく強烈な光は、まるで夜のスキー場を綺麗にライトアップするように、大地を赤く染め、雲を照らし、雪を幻想的な色に変えた。真紅の雪だ。夕日はキャンバスに向かう画家のように、縦横に世界を自分の思うがままに彩っていた。草原の向こうの眼下には─海が見えた。いや、湖だったのかもしれない。雪が吸い込まれるように落ちていく海(湖)面は夕日を反射して、天国とか、そういうあの世的な場所へ通じる道のように遠く長く伸びていた。太陽は今日という一日の終わりを燃やし尽し、また朝には再生させる。そんな神話めいたことを僕に思い起こさせた。
「どうです?ちょっとした景色でしょう」まるで自分がこの光景を創造したかのような誇らしげな顔をして言った。
「これも魔法ですか」
「まあ、そのようなもんですかねぇ、それよりあれ、なんだと思います?」男がずらりと並ぶ石碑を指さす。
それは石碑なんかではなかった。よく見慣れた、宅急便ウォークスルー・バンたちの群れだった。100台くらいあるのだろうか、それらはイースター島のモアイ像のように、みな海(だか湖だか)の方向を向いて屹立していた。僕の乗ってきたこの車も、そこに加わるのだとすぐに悟った。僕の以前にも少なくない人間が彼らに「ハイジャック」されてここに来たんだろう。それが彼らの目的なのだ。
「ここがゴールというわけですね」
「ここがゴールというわけです。ファンファーレでも鳴らしたいところですねぇ。でもまぁご苦労様でした。あんたはあたしが受け持った中でも一番楽なケースでしたね。楽、というと失礼ですかな、なんの問題もなく極めてスムーズに事が運んだと言いますか。車両に乗り込んだ途端、後ろから羽交い締めにされて終わり、ということもありましたから」男は苦笑した。要するに僕は危機管理能力が恐ろしく低く、かつ受動的過ぎると言うことだろう。そしてその方が彼らにとっては仕事がしやすい。
「ところでであんたに会ってもらいたい人がいますよ。まあ我々のボスですね」
僕らは適当な所に車を停め、外へ出た。もうギヤをバックに入れなかったし、ハンドルを左切りもしなかった。でもサイドブレーキは引いた。ひかれると痛いから。夕日はもうとっくに沈み、雪も役目を終えたかのようにやんでいた。辺りは薄暗い闇に包まれ、月の光さえなかった。男はそんな中、見慣れた道を行くようにすっすっとウォークスルーの間を縫って歩いた。僕はその後について行った。近くで見るとウォークスルーは、かなり使いこなれた古い型の車両ばかりだった。あちこちにぶつけた跡があるし、塗装も所々はげていた。ワイパーが片方ないものや、ステップが取れかけているものもあった。彼らは遠い昔の思い出を懐かしんでいるかのように、ひっそりと音もなく静かに佇んでいた。僕は歩きながら彼らの数を数えた。そこには全部で86台のウォークスルー・バンが並んでいた。男について群れの端まで来ると、そこには赤いジープが止まっていた。ずいぶん大きくて頑丈そうだ。日本製のものではないだろう。ここに集められたウォークスルー・バンとは違い、かなり手入れをされ大事に乗っているようで、どこかのレトロカーショーに展示されていてもおかしくないような年代物の小綺麗なジープだった。
ここまで一緒に来た男が後部座席のドアを開け、中に入るよう僕を促した。車内は暖かかったが、つけっぱなしのエンジン音がひどくうるさく、ドアはガタガタと音を立てて揺れていた。運転席には紺色のスーツを着た男が、両手をハンドルに乗せた格好で座っていた。腕には高そうで重そうな大きい腕時計が光っていた。男は何も言わず視線を前方に向けていた。ルームミラー越しに見る限り、男の歳は30代後半くらいだろうか、やり手のビジネスマンのような精悍な印象があった。帽子の男が「いやぁ、どうもどうも、おまたせしました」と愛想笑いを浮かべて助手席に乗り込んできた。スーツの男は無言で頷いた。
沈黙。
「少し君のことを調べさせてもらった」スーツの男は真っ直ぐ前を向いたまま、抑揚のない声で言った。フロントガラスにでも話しかけているのかとも思ったが、状況的に考えて僕に話しかけているんだろう。
「年は32歳、独身。結婚を考えるような相手は今のところいない。その代わりに一匹の猫を飼っている。血液型はA型、4人兄弟の次男。母親は健在だが父親は二十歳の時に亡くしている。今まで3回転職し、今の仕事は3年目になる。学生時代水泳部に所属し、今も週2回市民プールで泳いでいる。得意泳法はクロール。外食はほとんどせず、自分で料理をする。レバーとセロリを得意としていない」
得意としていない。変わった言い方だ。それにしても興信所か何かで調べたのだろうが、レバーとセロリがいったいなんの関係があるのだろう。
「性格は温厚で周囲に流されやすい。自己を主張することが少ないため、他人とぶつかることはほとんどないが、そのかわりに親しい関係を作ることに難がある」
難がある。確かにそうだ。
「何を考えてるのかわからない、あるいは極めて退屈な人間というような印象を持たれがちで、特に社内の複数の人間からはっきりとした不快感を抱かれている」
初耳だった。そして余計なお世話だ。
「なぜ僕のことを調べる必要があったんですか?」
「ある程度君と言う人間のアウトラインを知る必要があるためだ」相変わらずフロントガラスに言い聞かせるようにスーツの男が答えた。「君がどういう成り立ちの人間で、何を求め、何を拠り所に生きているか、そういう類いの事柄をだ」
「あなた方はいったいどういう組織なんですか?」
「我々は非営利組織であり、ある種の環境保護団体だ。名前が必要な時は『Red Bee』と名乗っている。我々が護っているのは、一般的には生命現象がない無機物だと思われているものだ。過酷な労働を強いられ、酷使され、虐げられている無機物たちだ。例えば君の乗ってきた宅急便ウォークスルー・バンの走行距離はもう30万キロに迫り、あちこちに傷を負い、それでもろくな整備をされないまま、毎日老体に鞭を打つような労働を強制されている。まるでピラミッドの石を運ばされる奴隷のように。我々が知る限りにおいて、君たちが使役している彼ら以上に酷い扱いをされている車両は日本にない。ここに並んでいる車両は全て我々が看過することの出来ない労働環境レベルに達した、救済されるべきと判断されたものたちだ。彼らが訴える意思なき意思を読み取り、声なき声に耳を傾け、そして不当な労働から彼らを解放し、安らかな死を与える、それが我々の目的であり、使命だ。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、中世の奴隷たちはその不遇を誰からも顧みられることなく生きていた。感情を持った生き物とすら考えられていなかった。我々の考え方や活動の正しさはいつか歴史が証明してくれると私は信じている」
スーツの男はそこまで言うと、初めて僕をルームミラー越しに見た。その目は正気と狂気の微妙な境界の上で、どちらにも傾きそうな不安定さを僕に感じさせた。
「でもこれだけの車両を勝手に持ってきて、うちの会社も黙ってはいないんじゃないですか?」
「もちろん君たちの会社とは接触がある。君たちの会社の行っている横暴に対して強い抗議をしているし、上層部の人間と水面下の交渉や駆け引きがある。我々の組織の人間を内部に送り込んでもいる。昨日今日に始まった話ではないのだ」
「スパイってやつですな、酸っぱい酸っぱい」帽子の男が梅干しを口に入れたような顔を作って茶々を入れる。
「この場所を我々は『象の墓場』と呼んでいる。一般に言われるように、野生の象は死期が近づくと群れからはずれ、どこともなく消え失せ、象の墓場と呼ばれるところでひっそり最期を迎えるとされている。そして象の墓場は誰も見たことがない」
「猫の墓場っていうのもありますな」
「我々は彼らの最期にふさわしい場所を探し求めた。それはこの世のどこでもない場所でなくてはならなかった。そして見つけたのがこの場所だ。特別な場所だ。ここの光景はなかなかのものだっただろう。君にはこの光景をしっかり目に焼き付けて欲しい。誰も目にしたことのないこの場所の光景を。君は言わばこの世ならぬ場所で象たちの最期を見届けた生き証人であり、また一体の象─すなわち87体目の象であるW7086号の看取り人となる。そして君には申し訳ないのだが、看取り人になった者は、その死の代償の一部を支払わなければならない」
「死の代償を支払う?」
「くわばらくわばら」帽子の男が拝むようなポーズをする。
「何度も言うようにここは普通の場所ではない。言ってみれば世界の果てだ。象が─あるいは象の魂が─ここから境界を越えて旅立つ時、手助けが必要になる。ちょうど棒高跳びの選手がポールの助けを借りてバーを越えるようにね。象は君という人間からなにかを奪っていく。何を奪うのかは象が決める。そういうことだ」
沈黙。
世界の果て?棒高跳びのポール?僕は思っていたよりずっとやっかいなことに巻き込まれたことをここで実感する。
「ささ、お話はそれくらいにして、お茶でも飲みましょうや」帽子の男が沈黙を破るように言い、バッグから携帯用ポットと紙コップを出し、3人分のお茶をついだ。ずっとポットをバッグの中に持っていたのに、ここに来るまで一度もそれを出して飲まなかった。まるでこのタイミングのために用意していたみたいだ。僕は嫌な予感がした。ものすごく嫌な予感だ。スーツの男が一口飲んだ。帽子の男も一口飲んだ。彼らは僕が飲むのを待っていた。そんな気がした。僕はお茶を眺めた。温かく湯気が立っていた。そして一口飲んだ。沈黙が続いていた。今はお茶を飲む時間ですよと言わんばかりに、2人とも黙ってお茶をすすった。僕はもうどうにでもなれという気持ちでお茶を飲み干した。そうしなければ永遠にこの時間が終わらないと思ったからだ。
空の紙コップを帽子の男に返すと、彼はちゃんと飲んだかを確認するように中を見た。
「さて、そろそろ最後の魔法をかけますよ」男が楽しそうに言い、コートのポケットからマッチを取り出した。さっきまでたばこを吸うために使っていたマッチとはパッケージが違い、どこかの国の神様のようなものが描かれているものだった。マッチを擦った。そして「この火をよく見つめて下さい」と言った。男はマッチをゆらゆらと揺らせた。マッチからは紫色の煙があがり、お香のような匂いがした。
「あんたには少し眠ってもらいます。それから記憶を消します。いや、ほんの一部に過ぎません。蚊がちゅうちゅうと血を吸うようなもんです。自分の名前を忘れるとか、そういうことはないので安心して下さいね、じゃあ」
その火を見ているうち、強烈な眠気が襲ってきた。蟻地獄に落ちていくような睡魔だった。記憶を消す?僕はなんとか抵抗して目を開けようとしたが、まぶたが漬け物石のように重く垂れ下がってきた。
「君の魔法はいつもながらよく効くようだね」スーツの男が言った。
「そりゃあ、しこたま睡眠薬が入ってますから」きっぱりと男が言った。やっぱりと僕は思った。そして深い眠りに吸い込まれていった。
夢を見た。
僕は細長くて高いビルの屋上にいた。ビルと言うよりタワーと言った方がいいかもしれない。その屋上には何もなかった。非常用階段も貯水タンクも張り巡らされた配管もソーラーパネルも、壁やフェンスさえなかった。まるでとんでもなく足の長い将棋盤の上にいるみたいだった。屋上にいる自分には見えるはずもないが、タワーはほとんどの部分がガラス張りになっていて、夕日を映して赤く燃えているのがわかった。眼下には四方に海が広がっていた。タワーは広大な海の真ん中に立っていた。強い風が吹き付け、タワーを揺らし、僕を揺さぶった。掴まるものもないつるりとした屋上にひとり僕は閉じ込められていた。どこにも逃げ場はなかった。圧倒的な孤独感と恐怖感で僕は叫び声を上げた。その声は誰に届くこともなく宙に消えていった。
誰かが僕を揺すっている。「・・・丈夫ですか?」
聞き慣れた音が聞こえる。ガタンゴトン。
目を覚ますと白髪の初老の男が僕に話しかけていた。「大丈夫ですか?」
僕は電車のシート2人分のスペースに上半身をもたれかける格好で寝ていた。
「ああ、よかった、起きた。どこか具合でも悪いんですか?」初老の男が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。空いている電車内にいる何人かの人々もこちらを見ていた。
「あ、すいません、大丈夫です」
「ずっと寝てて起きないもんだから。お酒の匂いもしないし、どうしたのかと思いまして」
「もう大丈夫です、ちょっとめまいがしただけです、ありがとうございました」
僕は体を起こした。「ここはどこですか?」
「○○線の○○駅を過ぎたところですよ。どちらまで行かれますか?」
「あ、そうですか、あの、次で降ります」
「もう遅いからあれだけど、病院で見てもらった方がいいですよ、何かあるといけないから」
僕は礼を言い、次の駅を待ち(死ぬほど長く感じた)、降りる時にもう一度お礼を言った。そこは自宅の最寄り駅からそう離れていない駅だった。僕は自分が宅急便の制服のままだったことに気が付いた。この格好で電車の中で倒れるように寝ていたら人目を引くだろうと思った。僕は改札口に進みながら、まず会社に電話をかけた。携帯電話や財布などの所持品はなくなっていなかった。もちろん彼らの目的がそんなところにないのはわかってるけど。受付から支店長に代わってもらう。
「あ、○○です。すいません、ちょっと変なことに巻き込まれてしまいまして」僕は少し緊張気味に言う。
「ああ、お疲れ様。うん、事情はだいたいわかってる、本当にお疲れ様でした。体の方は大丈夫?」声から支店長も若干緊張していると感じられた。
「はい、大丈夫ですけど、あの、だいたいわかってる感じなんですか?」
「うん、事情は把握してる。何も問題ないから心配しないで。ただ、ちょっと・・・今日あったことは出来るだけ人に言わないで欲しいんだ。いや、出来るだけというより絶対にね。いろいろややこしい問題があってね・・・」
「・・・はい、わかりました」
「別の車両はもう手配してあるから。それで、かなり疲れただろうし、しばらく・・・そうだな、一週間ぐらいお休みして。社内には配達中に倒れて病院に運ばれたってことになってるから。その辺の打ち合わせはまた後でしよう。とにかく今日は家に帰ってゆっくりして。まあちょっと、悪いけどそんな感じでお願いします、うん」
そんな感じでお願いされた。スーツの男の話からしても、やっぱり彼らと会社とは微妙でやっかいな関係にあるんだろうと思った。電話を切り、改札を抜け(ポケットに終点までの切符が入っていた。親切なのだ)タクシー乗り場でタクシーに乗る。時間は夜10時を少し回ったところだった。
家に帰ってすぐにふたつの異変に気が付いた。まずひとつに、いつもなら僕が帰ってくると玄関まで飛んでくる猫が来ないことだった。僕は猫の名前を呼びながら部屋中の猫が居そうな場所を隈無く覗いてみたが、どこにも見つからなかった。それから買ってきた缶詰のえさを袋から取り出し、ふたを開けてみた。とっておきの作戦だ。大好物のそれを開ける音がしようものなら、猫は24時間、陸海空、どこへいようとなにをしていようと100%即座に足下に駆け寄ってきた。でも今はパカッという乾いた音が部屋に虚しく響くだけだった。僕は確信した。この部屋に猫は居ないということを。
もうひとつの異変は、部屋中に檸檬の香りが充満していることだった。もちろん僕が大量の海老フライを食べるためにキッチンの隅に段ボールひと箱分の檸檬を買い置きしているわけではないし、檸檬の香りの芳香剤を置いているわけでもない。その匂いは今朝のウォークスルー・バンの車内の匂いと同じものだと思った。朝に僕が積み込み、そして高速のパーキングエリアでおそらく「組織」の女性のトラックドライバーに引き継いだ、あの檸檬だ。僕は部屋中を見渡した。そこには特に誰かがここに侵入した形跡は感じられなかったし、ひとかけの檸檬すらなかった。それでも僕は思った。彼らはここに来たのだ。そう考える他はなかった。そして猫を連れ去った。でもなぜ?
それにだいいち、彼らがここに入ったとして、どうして檸檬の匂いを残していかなければいけないのだ?わざわざ檸檬のケースをここに運び込み、匂いが残るほど放置してから(あるいは檸檬を潰すなどして匂いを発散させてから)また持って帰る、その理由がわからない。理由があるとすればそれは僕に彼らがここに来たことを暗示するという意図しかない。でもなぜ?
そして猫だ。どうして彼らが僕の猫を連れ去らなくてはならないのだ?スーツの男が言ったように、象がそれを必要としたとでも言うのか?
馬鹿馬鹿しい、と僕は思った。象がいったいなんだというんだ?ふざけるな。僕は心の底から怒りがこみ上げてきた。冗談じゃない。彼らがどんな理想を掲げようと、そのためにどんな活動をしようと、そんなの知ったこっちゃない。僕を無理矢理わけのわからないところに引っ張り回そうと、それもかまわない。でも、猫を奪っていいはずはない。そんな権利は誰にもない。そんなことはあってはならないのだ。
しばらくの間、僕は拳を握りしめたまま部屋の片隅に立っていた。そして思い立ったように壁を何度か思い切り叩いた。それから僕は諦めたように洗面所に向かった。鏡に映った自分の姿は退職した死に神みたいにやつれていた。とにかく体勢を立て直そう。服を脱ぎ、熱いシャワーを浴び、体を拭いて着替え、冷蔵庫からビールを出して飲んだ。ソーセージと卵をフライパンで炒め、簡単なサラダも作って食べた。出来るだけ何も考えないようにいつもの夜と同じ事をした。いつもなら猫と遊ぶ時間だった。猫がいない静けさを打ち消すように僕はテレビをつけた。でもどのチャンネルを回しても僕の興味を引くようなものはなかった。それでも僕はテレビを眺め続けた。なにかがひっかかっていた。チャンネルを回すと天気予報の画面が映った。今日は一日秋の陽気につつまれ、全国的に晴れ間が広がりました、と気象予報士が伝えていた。その言葉に強い違和感を感じた。雪だ。今日、僕は吹雪の中にいたのだ。僕は携帯を取り出し、ネットで今日の全国の天気を詳しく調べてみた。今日一日の天気に関するローカルなニュースまで範囲を広げて検索した。そしてわかったことは、僕の知りうる限り、今日一日、日本中のどこにも雪は降っていないということだった。だとしたら僕の見た雪はなんだったというのだ。彼らの演出する大がかりなセットだったとでもいうのだろうか。あの夕日は遥か遠くから巨大な投光器の光を当てていたとでもいうのだろうか。馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しい。それから僕は携帯のアプリでマップを表示させ、ここから北へ伸びる高速道路や峠の名前を追ってみた。でも、何ひとつ思い出せなかった。しっかりとひとつひとつのインターチェンジやパーキングエリアや、あの峠の名前も覚えていたはずなのに。記憶を消します、と帽子の男は言った。本当に消されたのだろうか?そんなに都合よく抜きたい記憶だけを消す方法があるというのだろうか?魔法?馬鹿馬鹿しい。最高に馬鹿馬鹿しい。僕は諦めてもうそれ以上考えるのをやめた。
時計を見ると0時を過ぎていた。僕はうまく眠れるだろうか、と思った。そしてまたあの帽子の男の言ったことを思い出した。今夜うまく眠れるかは保証はしない。まったく男の言った通りになりそうなのが不快だった。僕は茶箪笥から眠れない時用のウイスキーを取り出し、氷と一緒にグラスに注いだ。それからテレビを消し、電気を消し、ベッドにもたれてウイスキーを少しずつ胃に流し込んだ。明日起きたら全てが夢だった、ということになればどんなにいいだろうと思った。でももちろんそうはいかないだろう。夢にしてはリアルすぎる。僕はベッドの脇のスタンドライトを点け、床に散らばっていた雑誌や建て売り住宅のチラシや電話料金の明細書やらを無意味に眺めた。もちろん今の状況を電気料金の明細書がコロンブス的転換を見せなにかの役に立つとは思えないけど、とにかくそうした。グラスのウイスキーが空になると毛布を被った。頭の芯はアルデンテのスパゲティのように固くこわばっている感じがした。僕は眠ろうとした。出来るだけ余計なことは考えないように。今日はとにかく寝よう。僕は目をつむり、意識をまるで雪かきのようにシャベルですくい、それを無意識の領域に放り投げた。それでもやはりうまく眠りは訪れなかった。僕は子供の頃やったように羊の数を数えてみた。羊が1匹、羊が2匹・・・でも羊を思い浮かべようとすると、なぜか象が出てきた。象が右手から現れて、画面を横切る。左手の向こうには海がある。暗い、夜の海だ。象は海に向かってのしのしと歩き、そのまま海に落ちて行った。そして少しの間があってから、ぽちゃん、という音がした。象が1匹・・・ぽちゃん、象が2匹・・・ぽちゃん。象たちはゆっくり歩き、躊躇なく海に落ちて行った。象が34匹・・・ぽちゃん、象が35匹・・・ぽちゃん。そのイメージが頭を巡りふるい落とせない。象を50体以上数えた辺りで、ようやくその象たちの悠然とした振る舞いと、海に落ちる心地よい水の音に促されるように次第に僕は眠りの渦に巻き込まれていった。はじめゆっくりと、そして渦の中心に迫るにつれ加速していくように僕は逆戻りの出来ない眠りに引きずり込まれていった。薄れゆく意識の中、猫のことを思った。今、どこかで鳴いているかもしれない猫のことを。どこかの暗闇に閉じ込められているかもしれない猫のことを。そこを棺桶にするわけにはいかない。絶対に。僕は強く思った。猫は僕が必ず取り戻す。たとえ世界が燃やし尽くされようと、たとえわけのわからない箱に閉じ込められようと、なにがあろうと猫を取り戻す。なにがあろうと。
完




