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『学校一の高嶺の花は、隣の部屋ではポンコツでした。』 ~偽装彼氏のはずが、どう見ても両片想いです~  作者: 楠木 悠衣


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1/1

第1話「隣の爆発音は、高嶺の花でした。」

退屈というのは、贅沢な悩みなのかもしれない。


少なくとも、俺——瀬戸蒼にとっては。


四月の夕暮れ。赤みを帯びた光がワンルームのフローリングに差し込む中、俺はキッチンに立っていた。まな板の上で均等に切り揃えた人参を、コトコトと音を立てる鍋に落とす。味噌汁の湯気がふわりと立ち上り、出汁の香りが狭い部屋を満たした。


一人暮らしを始めて一年半。親父は商社勤めで、去年の春からロンドン駐在。母さんもついていった。高校を転校したくないと言い張った俺に、親父は溜息ひとつで「じゃあ自分でやれ」と言った。あの人は昔からそうだ。冷たいんじゃなくて、信頼の表現が雑なのだ。


おかげで自炊スキルは爆上がりした。今日の献立は、鯖の味噌煮、ほうれん草のおひたし、人参と油揚げの味噌汁。一人で食べるには品数が多い気もするが、作ること自体が好きなのだから仕方ない。


テレビは点けない。代わりに、スマホから流れるのはピアノのインスト。最近見つけた配信者の演奏が心地いい。


完璧な夕食。完璧な静寂。完璧な孤独。


——充実しているのに、どこか物足りない。


そんなことを考えながら鯖をひっくり返そうとした瞬間。


——ドォンッ!!


壁が、震えた。比喩じゃない。物理的に。


鯖がフライパンの中で跳ねた。俺の心臓も跳ねた。


「……は?」


隣の部屋からだ。続いて聞こえてきたのは、何かが金属に当たる甲高い音。そして——


「きゃあああああっ!」


悲鳴。間違いなく、女の子の悲鳴だ。


考えるより先に体が動いていた。フライパンを火から下ろし、サンダルを引っかけて玄関を飛び出す。隣の部屋のドアの前に立ち、ノックする——いや、もう殴るように叩いていた。


「大丈夫ですか!? 何かありました!?」


返事はない。代わりに、ドアの向こうからもくもくと——煙が漏れてきている。


まさか、火事か。


「開けますよ!?」


返事を待たず、ドアノブに手をかけた。——鍵が、開いている。


踏み込んだ瞬間、白い煙が視界を覆った。キッチンの換気扇が唸りを上げている。コンロの上では真っ黒に焦げた何かがフライパンの中で静かに鎮座していた。……原形を留めていないが、かろうじて「元・卵焼き」であることが推測できる。


そして。


キッチンの床にへたり込んでいたのは——


「…………え?」


銀色の長い髪を無造作にまとめたお団子。だぼだぼのジャージの上下。素足にスリッパ。目元にはうっすら涙。手にはフライ返し。


俺は、その顔を知っていた。


知っていた、なんてものじゃない。同じクラスの、同じ教室の、いつも窓際の一番後ろの席で、完璧な姿勢で本を読んでいる——


「——如月……凛花……?」


学年首席。容姿端麗。文武両道。近寄りがたき完璧超人。男子の九割が憧れ、女子の九割が嫉妬し、残りの一割が崇拝する——如月凛花。


「高嶺の花」という言葉を人間にしたら、きっとこうなる。そう言われている、あの如月凛花が。


ジャージ姿で。焦げた卵焼きを手に。涙目で。キッチンの床にへたり込んでいた。


「…………」


「…………」


沈黙が流れた。五秒。十秒。


如月がゆっくりと顔を上げる。碧い瞳が、俺を捉えた。その瞳に浮かんでいるのは、驚き。困惑。そして——絶望。


「……見たわね」


低い声だった。学校で聞く、凛とした声とは全く違う。どちらかと言えば、死刑宣告を受けた囚人に近い。


「……見ました」


「忘れて」


「忘れます」


「嘘」


如月の碧い目が、すっと細くなった。


「あなた、今めちゃくちゃ覚えようとしてた」


——バレている。


いや、無理だろう。学校一の高嶺の花が、こんな姿で目の前にいるんだ。これを忘れろというのは、富士山を見て「山なんてなかった」と言い聞かせるようなものだ。


如月は立ち上がった。ジャージの裾を払い、フライ返しをシンクに放り投げ(雑すぎる)、腕を組んで俺を見据える。


その仕草だけ見れば、学校と同じ「高嶺の花」だ。——ジャージとお団子と涙の跡を除けば。


「あなた、隣の部屋の人?」


「……瀬戸蒼です。同じクラスの」


「知ってる」


知ってるのか。俺は如月凛花に認識されている人間だったのか。


「瀬戸くん。単刀直入に聞くけど」


如月が一歩、距離を詰めてきた。煙の残るキッチンに、如月のシャンプーの香りがふわりと混じる。ジャージなのにいい匂いがする。ポンコツなのにいい匂いがする。……もう何がなんだかわからない。


「この光景を、誰かに言う?」


碧い瞳が、真っ直ぐ俺を射抜いていた。学校で見るどんな表情よりも、切実で、脆くて、必死だった。


「……言いませんよ」


気づけば、そう答えていた。


「言って俺に何の得があるんですか。『学校一の高嶺の花、実はジャージで料理して、卵焼きを失敗して黒焦げにしてました』なんて広めたところで、みんなが面白がるのは一瞬で、如月さんが傷つくのはずっとです」


我ながら気恥ずかしいことを言った。でも、本心だった。


如月が目を見開いた。


「…………変なやつ」


「よく言われます」


如月の唇が——ほんの少しだけ——緩んだ。学校では絶対に見ることのない、不意打ちのような微笑み。


——心臓が、跳ねた。今度は爆発音のせいじゃない。


「……ねえ、瀬戸くん」


「はい」


「あなた、いま何を作ってたの」


「鯖の味噌煮と、ほうれん草のおひたしと、味噌汁です」


「…………」


如月の碧い瞳が、きらりと光った。それは明らかに、食欲の光だった。


「……食べる?」


「……べつに、食べたいなんて言ってないけど」


言ってないけど、体は正直だ。如月凛花の腹が——盛大に——鳴った。


「…………………………」


如月の顔が、紅に染まった。学校では見たことのない色だ。高嶺の花は今、耳まで真っ赤だった。


「聞かなかったことにします」


「……お願い」


声が小さい。


「……で、食べる?」


「…………食べる」


蚊の鳴くような声。高嶺の花、陥落の瞬間だった。


結局、俺の部屋で二人分の夕食を並べることになった。


如月は俺の向かいに座り、鯖の味噌煮を一口食べた瞬間——


「——おいしい」


目を見開いた。大きな碧い瞳に、キッチンの暖色の照明が映り込んでいた。


「……おいしい。なにこれ。お店みたい」


「そこまでじゃないですよ」


「ほうれん草も……味噌汁も……なにこれ、ぜんぶおいしい……」


如月凛花が、ぱくぱくとご飯を食べている。それも、めちゃくちゃ幸せそうに。学校じゃ見たことのない表情。「高嶺の花」がこんな顔をするなんて、誰が想像する。


「いつもは何食べてるんですか」


「……コンビニ弁当とカップ麺。たまにウーバー」


「料理は?」


「……今のを見て、聞く?」


フライパンの中の黒い物体を思い出す。あれは料理というより、もはや化学実験の失敗だった。


「……なんで如月さんが一人暮らしなんですか」


「お母さんがパリでモデルしてて、お父さんがシンガポールで仕事してるから。小さい頃からずっとこう。……慣れてるよ」


「慣れてる」と言った如月の声は、少しだけ寂しそうだった。俺と、同じだ。


「……瀬戸くんは?」


「親が去年からロンドンで。俺は転校したくなかったから残った」


「……同じだね」


如月が、ほんの少し笑った。さっきとは違う、静かな笑み。共感の温度を含んだ、柔らかい表情。


——この人は、こんな顔もするんだ。


食事が終わり、如月が立ち上がる。


「……ごちそうさまでした。すごくおいしかった」


「お粗末さまでした」


「ねえ、瀬戸くん」


「はい?」


如月が、玄関で振り返った。


「……ひとつ、お願いがあるの」


その表情は、真剣だった。学校で見る冷静さとも、さっきのポンコツとも違う。何かを覚悟した人間の目だ。


「最近、学校で……ちょっと困ってることがあって」


「困ってること?」


「うん。……前に告白してきた男子がいて。断ったんだけど、諦めてくれなくて。最近、帰り道に待ち伏せされたり、SNSでしつこくメッセージが来たり……」


ストーカーだ。如月の声が微かに震えていることに気づいた。


「先生にも相談したけど、『気のせいじゃない?』って言われて。彼、学校では人当たりいいから」


「……神崎、ですか?」


如月が驚いたように俺を見た。


「なんで知ってるの」


「……如月さんに告白して断られた話は有名です。神崎颯真。サッカー部のエースで、イケメンで、教師受けもいい。——でも、如月さんに断られてから、ちょっと様子がおかしいって噂も」


如月は小さく頷いた。


「それで……対策を考えたの。一番効果的なのは——」


凛花が、深く息を吸った。


「——彼氏がいること。にすること」


…………は?


「瀬戸くん」


如月凛花が、真正面から俺を見た。碧い瞳が、暖色の灯りの中で揺れている。


「——私の、偽装の彼氏になってくれませんか」


頭の中が真っ白になった。


「条件は三つ」


如月は指を立てて、一つずつ数えた。


「学校では、私の彼氏のフリをすること」


一本目。


「私の素顔は、絶対に誰にも言わないこと」


二本目。


「そして——」


三本目の指を立てたまま、如月が言葉を詰まらせた。頬が、また赤くなっている。


「……そして?」


「…………ごはん」


「ごはん?」


「……ごはん、作ってくれると、嬉しいかなって」


最後の条件だけ、急に声が小さくなった。高嶺の花が、恥ずかしそうに目を逸らしている。


「……要するに、偽装彼氏と家庭教師と料理人を兼任しろと」


「……ご不満?」


「不満というか、なんというか……」


俺は如月を見た。銀髪のお団子。ジャージ。素足のスリッパ。つい一時間前まで、「同じクラスの、遠い世界の人」だった女の子。


でも今、目の前にいるのは——寂しくて、不器用で、料理が壊滅的で、でも本当は人の温かさを求めている、ただの女の子だった。


「…………わかりました」


「……いいの?」


「条件は追加で一つ。俺の部屋でごはんを食べるなら、洗い物は手伝ってください」


「…………それだけ?」


「それだけです」


如月凛花が——花が咲くように——笑った。


今日だけで、何度この人の新しい表情を見ただろう。


「——ありがとう、瀬戸くん」


その声は、学校の如月凛花からは想像もつかないほど、柔らかかった。


「じゃあ明日から、よろしくね。——偽装彼氏さん」


如月が隣の部屋に消えていく。ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。


ワンルームに一人残された俺は、ぼんやりと天井を見上げた。


偽装彼氏。如月凛花の、偽装彼氏。……何がどうしてこうなった。


スマホが鳴った。見れば、知らない番号からLINEの友達追加通知。


——如月凛花。


続けてメッセージ。


『今日のごはん、本当においしかった。 ……明日のお昼、お弁当って作れたりする?                 如月凛花』


その下に、もう一通。


『べつに、期待してるわけじゃないから。』


——めちゃくちゃ期待してるじゃないか。


俺は思わず笑ってしまった。それから、少し考えて、返事を打った。


『了解。好き嫌いは?』


三秒で既読。五秒で返信。


『ない。瀬戸くんが作るなら全部おいしいと思う。…………たぶん。』


——高嶺の花が、秒で既読つけてきた。しかもこの返事、照れ隠しが下手すぎる。


……如月凛花。学校一の高嶺の花。完璧超人。才色兼備。


——隣の部屋では、ポンコツでした。


そして俺は明日から、この人の偽装彼氏になる。


「……なんか、退屈じゃなくなりそうだな」


誰にも聞こえない声で呟いて、俺は明日の弁当の献立を考え始めた。

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