私の婚約者は完璧な人です
定期的に開かれている婚約者同士のお茶会。セラフィナは、ようやく完成した刺繍のハンカチを婚約者のジュリアンに贈った。
ジュリアンの実家ヴェルサリア伯爵家の紋にある鷲に、盾を組み合わせて図案化して刺したものだ。彼の髪の金色と、セラフィナの瞳の紫紺の糸を使った中々の力作で、美しく仕上がったと思う。
令嬢の嗜みとして覚えた刺繍だが、セラフィナは割と好きなほうだ。布を選ぶのも、図案を考えるのも、糸の組み合わせを考えるのも楽しい。それが大好きな婚約者に手渡すものならなおさらである。
ヴェルサリア伯爵家の庭園に造られたガゼボからは季節に合わせて整えられた美しい庭園が鑑賞できるが、今日のセラフィナはジュリアンの反応しか目に入らない。
包みを開けてハンカチを手に取ったジュリアンはいつもの穏やかな表情をさらに柔らかくさせ、形のいい口元をほころばせた。
「すごくきれいだ。ありがとう」
「気に入ってくれた?」
「もちろんだ。大切に使わせてもらうよ」
大切そうにハンカチを畳んだジュリアンの様子から、社交辞令ではなく彼が心から喜んでくれていることが分かる。それだけでセラフィナは自分の頑張りが報われるような気持ちになった。
ハンカチを置いたジュリアンは「もっと近くにおいで」と言った。丸テーブルの向かいに座っていたセラフィナは立ち上がり、彼の隣に座る。
「すごく丁寧に刺してある。時間がかかったんじゃないか?」
「そうね……でもジュリアンにあげたいと思ったら頑張れたわ」
「そうか、ありがとう。本当に嬉しいよ」
なんだかセラフィナを見る彼の目線がとびきり甘い気がする。
(とってもいい雰囲気だわ……!)
これは、もしかして、もしかするかもしれない。
学園では近ごろ、口づけを済ませたわ、などと話す同級生がちらほらいる。それどころか、もっと凄いことをしたという同級生だっている。親世代は結婚まで清い関係であるべきだという考えが残っていたが、近頃はかなり価値観が変わってきた。ただの恋人同士ならともかく、婚約者同士ならば、触れ合っても問題ないと考える者が多数派だ。
そんな中でセラフィナとジュリアンはまったく健全な交流を重ねていた。
(いや別に私は、どうしても口づけがしたいわけじゃないのだけど……!)
絶対にしないと嫌だとか、そんなことは思っていないが、年頃の少女としてセラフィナも人並みに興味はある。何よりその相手がジュリアンだったら、嫌じゃない。
そんなことを考えているセラフィナの手の上に、ジュリアンの手が重なった。期待に胸が高鳴る。セラフィナが彼を見上げると、ジュリアンは言った。
「セラフィナ……、もし君に俺よりも好きな男ができたらすぐに言ってくれ」
ついさっきまで頭のてっぺんまで浸かっていたあたたかな幸福感が潮が引くように一気に消え去ったのが分かる。
どう答えようかと迷った末に、結局セラフィナは微笑みの表情をつくり、彼から目をそらした。ジュリアンがどんな表情をしているのかを確認するのも怖かった。
セラフィナの手に触れたジュリアンの手は相変らず優しくて、もしや先ほどの言葉は聞き間違いだっただろうかと疑いたくなった。
◇ ◇ ◇
まぁ、そもそも分かっていたのだ。
好きになったのはセラフィナからだった。学園の委員会活動で一緒になり、一目で恋に落ちてしまった。
思い切って家族に自分の想いを打ち明けて、ヴェルサリア伯爵家との縁談を望んでいると伝えたのだ。
セラフィナの実家メリオール伯爵家はジュリアンと同じ伯爵家であるし、家格は釣り合っている。しかし父はヴェルサリア伯爵家との縁談は両家にとって利益がない、とジュリアンとの縁談に消極的だった。それでもセラフィナが「どうしても彼と結婚したい」と頼み込んで、婚約の打診をして貰ったのだ。
幸運なことにヴェルサリア伯爵家はセラフィナとの縁を承諾してくれた。
晴れてジュリアンと婚約者同士になれたと聞いたとき、セラフィナは夢でも見ているのかと思った。
初めてジュリアンと二人きりになった顔合わせの場で、セラフィナは「政略ではなく私があなたのことをとても好きなのだ」と伝えた。ジュリアンは冷静な様子で「分かった」と答え、セラフィナのことをすんなり受け入れてくれた。
ジュリアンは季節ごとの贈り物や定期的なお茶会も律儀にこなした。学園では一緒にランチをとってくれるし、買い物に行きたいと言えば付き合ってくれる。
しかし——セラフィナと同じ熱量を彼からは感じない。
彼はそれなりにセラフィナのことを気に入ってくれているのだと思う。でも、そこまで強い気持ちはない。きっと家が決めた婚約者だから、好意を持とうと努力してくれているだけ。夢中になったり、我を忘れて執着したりするような気持ちはない。だからこそあんな風に優しく耳障りが良くて、残酷な言葉を言えるのだ。
自分よりも好きな人ができたら言え、だなんて……。
何もセラフィナだって、物語のような情熱的で盲目的な愛を求めているわけではない。
ただ、もう少し。ほんの少しでいいのだ。
彼からの独占欲を感じてみたかった。
もし本当にセラフィナが「他に好きな人ができた」と言ったらジュリアンはどうするのだろう。その状況を想像すると、すんなり受け入れる彼の姿を簡単に思い浮かべることができてしまった。少しは寂しがってくれるかもしれないが、君の幸せを祈るよ、なんて言ってあっさり手を離しそうだ。
(ジュリアン、本当は私から離れたがっているのかも……)
セラフィナはそんなことまで勘繰ってしまう始末なのだった。
◇ ◇ ◇
「婚約破棄、ねぇ」
「え!?」
友人のヘレナを誘って学園の庭園でランチを取っていると、彼女が不穏な単語を言ったので、セラフィナは飛び上がった。
「急に大きな声出さないでよ、セラフィナ。びっくりするじゃない」
「だってヘレナが婚約破棄なんて言うから……」
「もうっ、あなた話を聞いてなかったでしょう。サイモン殿下の話よ」
「あ、あぁ、殿下の話ね……」
セラフィナは苦笑した。
先日王宮で開催された夜会では、大きな事件が起こった。なんと第二王子サイモン殿下が婚約者のアルグレイス侯爵令嬢に婚約破棄をつきつけたのだ。
ヘレナはその話をしていたらしい。
「本当に驚いたわよね……」
サイモン殿下は数年前にイザベラ・アルグレイス侯爵令嬢と婚約し、良好な関係を築いていた。しかし一年ほど前、一人の少女が異世界からやってきたことにより、状況が変わってきた。
彼女は森で不思議な格好で彷徨っていたところを騎士団に保護され、王都へやって来た。
ナギサと名乗った少女は珍しい聖魔法を使った。聖魔法は瘴気を払ったり魔物から人々を守る結界を張ったりすることができる。そのことから彼女は国から『聖女』という称号を与えられた。
ナギサは最初、元の世界へ帰る方法を模索していたが、結局その方法は見つからなかったという。王宮のはからいでナギサはカリーネ男爵家の養女となり、半年ほど前に王立学園のセラフィナ達と同じ学年に中途入学した。
彼女は黒髪で可愛らしい顔立ちをしており、とても天真爛漫な少女だ。最初は正直驚いたものの、異世界からやって来た方なので、自分たちとは振る舞いが違っていても仕方のないことだろうと思っていた。
サイモン殿下はナギサのことを気にかけていた。当初は誰もそれを疑問に思わなかった。彼女が異世界人で聖女という特別な立場であるし、学園にいる王族は彼だけだからだ。
しかし次第に二人が仲睦まじい様子で一緒に過ごしている姿を頻繁に見かけるようになった。それは関係のないセラフィナまで心配になるほどだった。だって学園にはサイモン殿下の婚約者がいるのだから……。
そしてあの夜会で殿下は婚約破棄を高らかに宣言なさった。
セラフィナもジュリアンと一緒に夜会に出席していたので、その場に立ち会っていた一人だった。
殿下はアルグレイス侯爵令嬢に聖女様を尊重せずに虐げたと仰った。冷酷な女を妃にすることはできない、と。
しかし……肝心の聖女様はこう言った。
「サイモン様、何の話をなさってるんですか? 私、誰からも虐げられてませんけど。イザベラ様とは仲良しですよ?」
水を打ったかのように静まり返った会場で、アルグレイス侯爵令嬢は動じずに「婚約破棄は承りました」と答えた。そこになんと、列席していた隣国の王太子が割り込んできて、アルグレイス侯爵令嬢に求婚したのだ。
サイモン殿下はうろたえ、ナギサ様は嬉しそうに拍手をしてアルグレイス侯爵令嬢を祝福する。隣国の王太子とアルグレイス侯爵令嬢は二人の世界……とまぁ、夜会の場は混沌とした様相だった。
「聖女様は殿下のこと、どうなさるのかしら……」
「どうもしないですよ!」
「えっ」
突然割り込んできた声に振り向く。二人が座るベンチのすぐ後ろに艶やかな黒髪の美少女が立っている。
——聖女ナギサ様だ。
予想外の人物に、セラフィナとヘレナは真っ青になった。二人は慌てて立ち上がる。
「聖女様……!」
「申し訳ございません!」
「え? 何で謝るんですか? 別に悪口言われたわけでもないのに、怒りませんよぉ」
にこにこと朗らかに笑うナギサ様は、一緒に座ってもいいですか、と言い、セラフィナたちが彼女に返事をする前に座ってしまった。
「私、ずっと女の子と仲良くしたかったんですよ。私の話をしてるー、と思って話しかけちゃいました!」
「そうだったのですね」
「はい! でも、学園ではあんまりお話してくれる女の子がいなくて……」
それはそうだろう。ナギサはサイモン殿下と交流していたのだ。殿下は周囲を牽制していて男女関係なく彼女に誰も近づけなかったし、そもそも王族と話しているところに割り込むような馬鹿もいない。
「びっくりしましたよね。ごめんなさい、急に話しかけたりして」
「そ、それは構わないのですけど……」
(聖女様は周囲と交流を持ちたかったのね……)
セラフィナは彼女が気の毒になった。
突然異世界からやって来て彼女も心細かったに違いない。それに彼女が親しくしていたサイモン殿下とはあんなことになってしまったのだ。
(聖女様は同級生だし。別にお話しても何の問題もないわよね)
「私、セラフィナ・メリオールと申します」
「私はヘレナ・ラナフェルと申します」
「私は立花渚……ナギサ・タチバナです!」
お互いに自己紹介をした後、ナギサはセラフィナのことを前から知っていたと言った。
「セラフィナ様はあのイケメンの婚約者ですよね!」
「い、いけ……? ジュリアンのことを仰ってらっしゃるのでしたら、そうですね」
異世界の言葉なのだろうか。良く分からないが、恐らく褒めて下さっているのだろうと思い、セラフィナは「ありがとうございます」と返した。
「よく一緒に過ごしているし、本当に仲が良いですよね!」
「……そう、ですね……」
ジュリアンは完璧な婚約者だ。学園にも家にも会いに来てくれるし、委員会活動などで遅くなる日は必ず家まで送ってくれる。贈り物も欠かさない。周囲から見ると仲睦まじい婚約者同士に見えるのだろう。
しかし実のところは手を触れるのみで口づけもまだだし、好きな人がいれば言ってくれとまで頼まれている状況だ。
歯切れの悪いセラフィナに、二人は首を傾げた。
「どうしたんですか? もしかして喧嘩してました?」
「い、いえ……」
「セラフィナ、最近元気ないわよね。ジュリアン様と何かあったんでしょう」
ヘレナが眉を寄せて言う。
彼女はラナフェル子爵家の一人娘で、婚約者のグレンは騎士志望である。グレンは「俺は難しいことは分からないし、ヘレナが娘なのだから爵位もヘレナが継ぐべきだ」と言って子爵家への婿入りを了承してくれたという。ヘレナもまた、グレンが騎士になることを応援している。
二人は誰が見ても対等で、お似合いで、想い合っている。
(私たちとは違う。私だけが一方的に思いを寄せているような関係じゃない)
あの日のお茶会から、本当は彼がセラフィナとの未来を望んでいないのではと考えて落ち込んでしまう。そして、そもそも彼との婚約を望んだ自分が分不相応だったのではとも思ってしまう。
急に目頭が熱くなって、気が付けば涙がこぼれていた。
「わー!? セラフィナ様!」
「ちょっと、どうしちゃったの」
こんなところで泣くのは良くないのは分かっているのに、セラフィナはどうしてもあふれ出る涙を止めることができなかった。
◇
しばらくして落ち着いてから、何があったかと問い詰める二人に、セラフィナはとうとうジュリアンのことを打ち明けた。ヘレナはともかく、今日初めて話したナギサも熱心にセラフィナの話を聞いてくれた。
「ジュリアン様、何を考えているのかしら……」
ヘレナは困惑を隠しきれない様子で言った。
「きっとジュリアンは私の気持ちを大事にしてくれているの」
「セラフィナ……」
初めて会ったあの日に、ジュリアンが好きでこの縁談を望んだのだと伝えた。セラフィナの気持ちで結ばれた縁談なのだから、セラフィナの気持ちが変わったときは破棄しても構わないんだと彼は伝えたかったのだと思う。
彼はとても優しい人だから。
「まぁ……真意は分からないですけど、セラフィナ様は彼と離れたくないんですよね?」
ナギサがコテンと首をかしげて言った。
それはそうだ。もしジュリアンがセラフィナのことを嫌っているのなら別だが、そうではないのなら、彼以外考えられない。愛し合う夫婦にはなれなくても、ジュリアンの妻として彼のそばにいたい。
「はい……」
「それなら大丈夫よ。だって破棄したいと言われたわけではないのでしょう?」
ヘレナが言う。
それはその通りだ。ただ自分が、彼の愛を欲しているだけなのだ。十分幸せな状況にあるのに、欲しい者が貰えず勝手に傷ついているだけ。
「セラフィナ様。追いかけるばっかりじゃ、駄目ですよぉ」
「えっ」
「男からは追いかけて貰わないと!」
「ナギサ様、それはどういう……?」
考えてもみなかった意見だ。ヘレナも興味をひかれたのか、前のめりで続きを促している。
ナギサは、フフ、と不敵な笑みを見せた。
「自分の世界を持つんです」
「つ、つまり……?」
「彼のことを好きだっていう態度を見せるばかりじゃなくて、恋愛以外に楽しいことをした方がいいです。セラフィナ様が楽しいことなら何でもいいです。彼女は俺に夢中だと思っていたけど、本当はそうじゃないのかも……! って思わせるんです」
「なるほど……」
「男って、彼女が自分のこと好きだって安心すると、扱いが雑になることもあるらしいですからね!」
訳知り顔でナギサが言う。確かにセラフィナはジュリアンへの好意を隠すこともなく前面に押し出していたし、ジュリアンからの誘いには一にも二もなく頷いていた。
「それに、興味のあることを複数持つほうが精神衛生上も良いですよ! だから今日は一緒に街に行きましょう!」
「街ですか?」
なぜそれで街に行くという結論になるのかよく分からずセラフィナは目を丸くした。
「私、女の子と一緒に街歩きしたかったんですよねぇ」
「ふふ。そういうことでしたら……ご一緒しますよ」
「私も」
セラフィナとヘレナが了承すると、ナギサは表情を明るくした。
◇
「セラフィナ、帰ろう」
教室に来たジュリアンがセラフィナに声をかけた。婚約してからジュリアンは用事がない限り毎日セラフィナを迎えに来てくれているのだ。
「あ……ジュリアン。ごめんなさい。今日は……」
「セラフィナ様ー!!」
後ろからナギサが私の腕をからめて引っ張った。そんな彼女にジュリアンは少し目を見張った。
「あなたは、聖女殿?」
「はい。セラフィナ様のお友達になった立花渚です! 今日セラフィナ様は私とヘレナ様と一緒に街に行くんですよー」
「街へ? そんな話は聞いていなかったけど、そうなの?」
「えぇ。昼に決まって……今日は先に帰っておいてくれる?」
一瞬ジュリアンの眉がしかめられた気がしたが、すぐにいつもの穏やかな表情になったので、自分の見間違いだろうとセラフィナは思った。
「ナギサ様、セラフィナ、お待たせ!」
帰る準備を終えたヘレナがやってきた。
「……気を付けて行っておいで。できれば次は前もって知らせてくれると助かる」
「分かったわ。ジュリアン、また明日ね」
ジュリアンに手を振ったが、ナギサに腕を引っ張られていたので彼の表情を確認することはできなかった。
◇
街に繰り出した私たちは最近話題の店をいくつか回って楽しんだ。足が疲れてきたので、目についたカフェに入ることになった。
注文したものがテーブルに給仕される。紅茶と小さめのケーキが並んだ。それぞれ口に入れながら、雑談に花を咲かせる。
「そういえばナギサ様は、寮住まいでしょうか。男爵家から通いでいらっしゃいますか」
「違いますよ。今はイザベラ様のおうち……アルグレイス侯爵家にお世話になっています!」
「えっ、そうだったのですか。なぜ……確か、ナギサ様はカリーネ男爵家の養女になられていましたよね?」
彼女は男爵令嬢のはずだ。なぜ侯爵家——それも、婚約破棄騒動で因縁のあるイザベラの家に……。
「はい。今度正式に発表があると思いますけど、男爵は捕まっちゃったんで……」
「えぇ!」
そんな話は知らなかった。思わずセラフィナとヘレナは大きな声をだしてしまった。
「カリーネ男爵は私とサイモン様をくっつけようとしていたんですよぉ。でもやり方がダメダメでちょっとヤバそうだったんで、イザベラ様に相談したんですよねぇ」
「そうだったんですか……」
「イザベラ様の悪事を仕立て上げようとしたり、変な人たちと会ったりしてたんで、イザベラ様のお父様にも報告したら、カリーネ男爵のことは泳がせていいって言われてー」
これは、果たして自分たちが聞いていい話なのだろうか……。
ナギサが言うには、あの夜会の後、カリーネ男爵は騎士に捕縛されたらしい。男爵家は取り潰しになり、男爵一家は流刑を言い渡される見込みだという。
住む場所がなくなったナギサにイザベラが「うちに来ればいいわ」と言い、世話になることになったらしい。侯爵一家はナギサのことを娘のように可愛がっていて、イザベラがあの隣国の王太子に嫁いだ後もアルグレイス侯爵家に住んでもいいとまで言っているという。
今のところナギサの身分は王宮預かりとなり、後ろ盾がアルグレイス侯爵家という状態らしい。
「イザベラ様がいなくなったら、さすがに侯爵家を出る予定ですけどね。聖魔法を使って王宮勤めがカタいかなーと思ってます!」
堅実的な彼女の今後の展望に、セラフィナは感心してしまう。そもそも異世界からやってきて、世話になっていた男爵に不穏な気配がしても、果たして自分なら彼女のように行動できるだろうか……。
「その、サイモン殿下は今……?」
「サイモン様は、きついお叱りを受けてしばらく謹慎ですよぉ。いつまでかは知らないんですけど。次はいつお会いできるかなぁ」
「……え、ナギサ様……」
てっきりナギサはサイモン殿下のことを見限っていると思っていたが、そうではないのだろうか?
ナギサはふふ、と笑った。
「本当に今日はありがとうございます。イザベラ様は最近婚約者になった隣国の王太子のことばっかりで寂しかったので嬉しくて」
「ナギサ様がそんなにイザベラ様と親しいとは知りませんでした」
「ツンデレで可愛い方ですよぉ。ふふ。最近は婚約者にあげるプレゼントですっごい迷っておられて……あ、そうそう。セラフィナ様、ヘレナ様。もうすぐバレンタインですから、今度一緒にチョコを作りません?」
「ばれんたいん?」
聞きなれない単語に思わず問い返すと、ナギサは「はい!」と言った。
「えっとぉ、私の国では、バレンタインデーっていう日があったんです。チョコを気になる男の子に渡して、告白する日です!」
そのバレンタインデーなる日が、あと数週間後なのだという。
チョコレートはセラフィナも好きだ。友好国がカカオの産地のためこの国にも原料が入ってくるのだ。高価なものだが、平民もたまの贅沢として楽しむ程度には普及している。
しかし、告白とは。セラフィナもヘレナもすでに婚約している。
「あ、告白だけじゃなく、恋人とか夫婦とか、友達とかお世話になっている人にチョコを渡す日でもあったんですよぉ。軽くて楽しいイベントです。私、バレンタインが好きなので、ここでも広めたいな、って!」
「なるほど……」
「私、日本にいたときは毎年お菓子を手作りしてたんです。でもイザベラ様に言ったら、『手作りの必要はあって?』って言われちゃって……まぁ確かに、買ったものでも良いんですけど……」
「どんなお菓子を作られていたのですか?」
「ブラウニーとか、クッキー、タルト、トリュフ……いろいろですよ!」
ナギサのいた国では、チョコレートのレシピが豊富だったようだ。しかもお菓子作りはごく一般的な趣味だったという。
「我が家にいらっしゃいますか?」
ヘレナが言った。ヘレナは子爵令嬢にしては珍しく料理をする。チョコレート菓子作りに興味があるらしい。
「本当にですか!? やったぁ、ヘレナ様ありがとうございます!」
「い、いえ、そんな……」
無邪気なナギサの感謝にヘレナは頬を染めている。
「セラフィナ様も、一緒に作りましょう! ね。いっぱい作って、クラスの男の子に配ればいいんですよ」
「えぇ!?」
「そうしたら、きっとイケメンも焦りますよぉ。大丈夫、義理チョコだって言ったらいいですし、私も配るし、本命は本命で作ったらいいんです」
そんなことをして本当に大丈夫だろうか……。
迷っている間にヘレナとナギサはチョコ作りの日程まで決めてしまっていた。
◇ ◇ ◇
サイモン殿下がいなくなり、ナギサの人柄が知られると、だんだんと彼女の周囲には人が集まるようになっていた。しかしそれでもナギサは二人のところへやって来ていろいろな話をした。
ナギサはセラフィナ達には考えもつかないことを言うし、一緒に居て飽きない。セラフィナはすっかりナギサが好きになった。それはヘレナも同じだったようで、学校帰りに三人で街を歩いたり、ヘレナの家でお菓子作りをしたりなどをして沢山話をするようになった。そしてナギサを介して他の同級生とも親しくなり、セラフィナにとっては学園が前よりももっと楽しい場所になっていた。
「セラフィナ。今度の休み、うちへ来ないか」
今日は婚約者同士のお茶会だ。前回はジュリアンがヴェルサリア伯爵家に招いてくれたので、今日はセラフィナのメリオール伯爵家の庭園に彼を招いた。
ジュリアンは先日贈った刺繡のハンカチを胸に飾っていた。本当に大切にしてくれているのだと分かり、嬉しくなる。
「もちろ……あ、駄目だわ。次のお休みは約束があるの」
「約束……また聖女殿か?」
「えぇ。ナギサとヘレナよ」
いつの間にかセラフィナはナギサのことを呼び捨てにするようになった。彼女には敬語も使っていない。
「聖女殿と、ずい分仲良くなったんだね」
いつもの穏やかな笑顔でジュリアンは言った。
「えぇ! とっても楽しいわ。ナギサは頑張り屋さんだし、とても良い子なのよ」
「そうなんだね」
「ナギサからアルグレイス侯爵家にも招かれているのだけど、それはまだ緊張するからもう少し後にしてって言っていて……」
「そうだね。俺も行かない方がいいと思う。アルグレイス侯爵家にはイザベラ嬢の兄上と弟君がいる。彼らはまだ婚約者がいないし、君が見初められては困る」
「えぇ? ふふ。ジュリアンってたまにすごい冗談を言うわよね」
彼がありえないことを言うので、セラフィナは思わず笑ってしまう。ジュリアンも笑みを深めた。
ナギサが言った通りだ。活動的に過ごせば、考え方も変わる。前はジュリアンのことばかりだったけど、今は沢山ある「好き」の中で一番がジュリアン、という形に変わってきたように思う。
次の休みでは、いよいよバレンタインのチョコを作る予定だ。何度かヘレナの家で試作し、本番で何を作るかを考えてきた。沢山の菓子を作った結果、『義理チョコ』はクッキー、ジュリアンに渡す『本命』はタルトを作ることに決めた。ヘレナも婚約者のグレンにトリュフというものを作る予定だという。
バレンタイン当日は学園が休みなので、前日にクラスメイトにクッキーを配り、当日にヴェルサリア伯爵家に訪問してジュリアンへタルトを渡す予定である。
タルトを見てジュリアンはどう思うだろう。食べてくれるだろうか……。優しい彼はきっと喜んでくれるはずだ、とセラフィナは自分を勇気づけた。
◇
「すっごい数ね……」
「頑張ったわ!」
「ラッピングは冷めてからにしましょうか」
クラスメイトに贈る菓子は凄い量になった。ラッピングして学園に持って行くつもりだ。
バレンタインデーは、アルグレイス侯爵家が運営している商会でチョコレートを売り出す宣伝文句として使うことになったという。ナギサ曰く、彼女の国でも商業的なイベントとして広まったらしい。
そんなわけで、アルグレイス侯爵家の力もあり、王都ではすでにバレンタインデーという言葉が広まりつつあった。
「ふふ。セラフィナがクッキーを配るところを見たジュリアン様の表情を見てみたいわね。きっとすごく妬くわよ」
「そんなはずがないと思うわ……」
面白そうに笑うヘレナに、セラフィナは苦笑する。
こんなことで彼が嫉妬するなどあり得ないと思う。でもほんの少しぐらいは、いつも冷静な彼が取り乱すところを見てみたいという気持ちはあった。こんな気持ちをジュリアンに知られればきっと失望されるに違いない。それに、セラフィナが同級生にクッキーを配った程度で彼の態度が変わるとも思えない。
じゃあなんでナギサの提案に乗ったのかというと、単純に友人と一つのことに取り組むことが楽しかったからだ。この沢山できたクッキーはその成果物に過ぎない。
「セラフィナ。タルト、綺麗にできてるよ!」
「すごく美味しそうね!」
「……自分でこんなにうまくできるなんて、本当に嬉しいわ。ありがとう」
セラフィナが作ったチョコレートタルトは、思った以上の出来栄えになった。
もちろんナギサのアイデアやラナフェル子爵家の料理人の手伝いはあったが、作業は自分でやったし、達成感に満たされている。
(私が作ったお菓子を見て、ジュリアンはどんな反応をするかしら……)
ナギサがお菓子に無属性魔法の「保存」をかけ、ラッピングをすませる。これでしばらくは持つという。
「うまくいくといいね!」
ヘレナとナギサが優しく微笑んでくれた。
二人がそう言ってくれるだけで、このタルトを作った甲斐があったと思えた。
◇ ◇ ◇
バレンタイン当日、セラフィナはクラスメイトにクッキーを配った。
その他にも、ナギサを通して親しくなった友人や、委員会活動で交流のある友人にも渡した。その隣でナギサとヘレナも配っている。三人で作ったものだと言うと、皆驚いて喜んでくれた。
チョコレートを用意していたのはセラフィナ達だけではなかったようで、用意したチョコレートを婚約者や友人に贈る姿が、校内でちらほらと見られた。アルグレイス侯爵家の宣伝は着実に効果を上げていたらしい。
「きっと来年はもっと盛り上がるね! 嬉しい!」
ナギサが嬉しそうに言うので、セラフィナも同意する。親しい相手に美味しいお菓子を贈るなんて素敵なイベントだし、きっと来年はもっとたくさんの人が参加するだろう。校内は楽しい雰囲気に包まれているし、とてもいいと思う。
「セラフィナ」
「……ジュリアン!」
「帰ろうか」
いつの間にか後ろにジュリアンが立っていた。
校内に漂う浮き立つ雰囲気で気が付かなかったが、もう帰る時間だったようだ。いつものように迎えにきてくれたらしい。セラフィナがクッキーを配る様子は彼も見ていたはずだが、ジュリアンの表情はいつもと変わらない。絶対に嫉妬するわ、と言ってたヘレナの予想はやはり外れていた。
(なにをがっかりしているの、私ったら。浅ましいわ)
ほんの少しぐらいはジュリアンの独占欲を感じられるかもしれないと期待していたのだ、と自覚して、セラフィナは自分を恥じた。
「ジュリアン……」
「ん?」
「明日、ヴェルサリア伯爵家にお邪魔してもいいかしら?」
「もちろん、いつでも大歓迎だよ」
急な誘いだったが、穏やかな笑みでジュリアンは受け入れてくれた。明日はタルトを喜んでくれればいい。
◇
翌日、セラフィナがヴェルサリア伯爵家に訪問すると、いつもの庭園ではなく屋敷の一室に案内された。
天気が悪いわけでもないのに不思議だと思いながら、部屋の中に用意されたソファに座る。しばらくするとジュリアンがやってきた。
「よく来てくれたね、セラフィナ」
「ふふ。私から行くと言ったのよ。こちらこそありがとう」
いつもならメイドが出してくれる紅茶を今日はジュリアンが淹れて出してくれた。新しい茶葉を仕入れてみたから飲んでみて、と彼が言うので、カップに口をつける。確かに珍しい香りだった。
「なんだか甘くて美味しいわ」
「そうか。良かった」
ジュリアンはセラフィナの隣に座った。そしてセラフィナの手にジュリアンの手を重ねる。予想外の行動に驚いてセラフィナの心臓が跳ねた。
「セラフィナ」
「……ど、どうしたの?」
夜会のエスコートで何度も彼の手には触れたことがあるのに、なぜこんなに緊張するのだろう。ジュリアンはいつものように穏やかに笑っているのに、何かいつもと違う。
「昨日は、君の手作りの菓子をたくさんの人に配っていたね?」
「……あ、あぁ、そうね」
「どうして?」
「え、どうして……ナギサとヘレナとたくさん作ったし……ナギサが、日頃の感謝を伝える日でもあるって言ったから……」
まさか、ジュリアンからバレンタインの話をされるとは思わなかった。昨日も関心がなさそうだったし、そういったイベントには興味がないと思っていた。
「俺、貰ってないけど」
それは、婚約者としては当然の言葉なのだが、あまりにもジュリアンが発しそうにない言葉だったので、返事に詰まる。
「ろくに話したこともない男にも渡すのに、俺にはないの?」
ジュリアンはじっとセラフィナを見ている。いつもの優しい微笑みではない。
これは——……。
まさか彼は、嫉妬しているのだろうか。
「ジュ、ジュリアン」
「ねぇセラフィナ。君は、もう俺に興味がなくなった?」
「ちょっと待って、ジュリアン。聞いて」
重ねられていた手に力が入り、痛いほどになっていた。あまりのことに驚きすぎて、ジュリアンに特別なケーキを持ってきたという言葉が出ない。
「聞かない。君の口からもう俺以外の名前を聞きたくない」
「ある! あるわ!」
セラフィナがようやく声をあげるとジュリアンの力が緩み、ホッと息をついた。タルトが入った箱を出して彼に渡す。
「……これは俺に?」
セラフィナが頷く。ジュリアンが「開けていい?」と聞いたので、セラフィナが「もちろん」と答えるとジュリアンはラッピングを外し、箱を開けた。
「クッキーじゃ、ないんだね」
「えぇ。ジュリアンはタルトが好きだから、チョコレートタルトにしたの……クッキーの方が良かった……?」
「……っ、そんなはずない! これは俺だけの特別なものだろう?」
「そうよ、あなただけ」
「嬉しいな。とても綺麗なケーキだね」
そうだ。ジュリアンに喜んでもらうために、一生懸命作った。
ジュリアンは一度部屋から出ると、皿やフォークなどのカラトリーを持ってきた。箱からタルトを出し、皿に盛りつける。
セラフィナが作ったタルトは15センチ程度の丸形で、一人で食べるには少々大きいサイズだが、ジュリアンは器用に切り分けながらそれを全て平らげてしまった。彼が甘い物をこんなにたくさん食べるところを初めて見た。
「美味しかったよ。ありがとう」
「嬉しい。全部食べてくれると思わなかったわ」
「当たり前だ。セラフィナが俺のために作ったんだ。他の誰にも食べさせたりしない。昨日作ったの?」
「この前の休みの日よ。本当はジュリアンにも昨日渡したかったんだけど、バレンタインは今日だっていうから。あなたには当日手渡したくて……」
ジュリアンがこんな風に喜んでくれるなら、昨日そう言えば良かった。あまり関心がなさそうだったので、必要ないと思っていたが、間違いだったようだ。
「昨日からずっと、何も手につかなかった」
「そ、そうなの?」
「君の手作り菓子を、俺は一度も貰ったことがない……それなのに君は誰かれ構わず渡していた。しかも男にまで」
「…………」
「君のような可憐な女性に手作りの菓子なんて貰うと男は勘違いする。これからはああいうことはやめてほしい。頼むから」
彼がこんな風に言いつのるなんて、信じられない。
どうやらこれは勘違いではなく、ジュリアンは嫉妬している。
(だめよ、喜ぶなんて……)
そう自省しながらも、いつも冷静だと思っていたジュリアンの意外すぎる反応にセラフィナは胸がいっぱいになった。彼の独占欲が見たいと願ったのは紛れもない本音だったし、今、こうしてジュリアンがその片鱗を見せてくれたことが、嬉しくてたまらなかった。
「ごめんなさい……もうしないわ」
「本当? 聖女殿やヘレナ嬢に言われても?」
「あなたが嫌な思いをするのなら断る」
ようやくジュリアンは笑みを見せ、セラフィナの頬を撫でた。今までにない雰囲気にどぎまぎして、これ以上は耐えられそうにないとセラフィナは思った。
「どうして目をそらすの?」
「だって……」
「なにか後ろめたいことが?」
「そんなの、ないわ」
「じゃあ俺を見て。俺だけを」
恥ずかしくてたまらなかったが、確かに自分の振る舞いは褒められたものではなかったかもしれないと思ったセラフィナには、ジュリアンの希望を拒むことはできなかった。
セラフィナがジュリアンを見上げると、彼の端正な顔が近付いてきた。あっと思ったと同時に、唇が重なる。
口づけされている、と認識してセラフィナは思わず瞳を閉じた。
それは一度で終わらず、何度も繰り返され、あろうことか彼の舌が入ってきた。セラフィナは驚いて思わず離れようとするが、ジュリアンに密着され、それはかなわない。
こんなの知らない。
いつ息をすればいいのかもわからないし、力が入らなくなってきた。セラフィナの息が絶え絶えになってきたころ、ようやく彼の気はすんだようだった。
「可愛いね。今までずっと我慢してきたけど、もう無理かなぁ」
「はぁ、はぁ……」
「そんなに顔を赤くして、ちょっと体調を崩しちゃったんだね。大丈夫だよ。今日はうちに泊まろうか」
なんだかジュリアンがおかしなことを言っている。体調が悪くなんてないのに。
(でも本当に眠くなってきたわ……)
いつの間にか、セラフィナの意識は遠のいていった。
◇
ふわふわと意識が浮上し、目を開けると、目の前にジュリアンの顔があった。
「えっ!?」
「起きたんだね、良かった」
そこは見慣れない部屋で、セラフィナはベッドの上にいて、ジュリアンはベッドの横に椅子を置いて座っていた。戸惑って体を起こす。
「この部屋は……? 今は何時なの?」
「大丈夫だよ、セラフィナ。ここはヴェルサリア伯爵家の客室で、君は一刻ほど眠っていたんだ。疲れていたんだね」
まさかお茶会の最中で眠りこけてしまうなんて、自分のことが信じられなかった。きっと初めての口づけで頭がパンクしてしまったのだ。彼に迷惑をかけてしまったことをセラフィナは申し訳なく思った。
「ごめんなさい……一刻ほどなら、まだそんなに遅くないわよね。急に泊まるだなんてヴェルサリア伯爵家に迷惑をかけてしまうし、今から帰るわ」
「大丈夫だよ。メリオール伯爵家には君は今日うちに泊まると連絡したし、馬車も帰ってもらった。今日はゆっくりすればいい。それに、あと一年もすればここがセラフィナの家になるんだし、迷惑なんかじゃないよ」
「……ありがとう」
もう馬車も帰ってしまったのなら、今日は泊まるほかないだろう。
伯爵夫妻に挨拶をしたいと言うと、彼らは今領地にいて不在なのだという。不在のときに宿泊など非常識ではと思ったが、ジュリアンがすでに魔道具で連絡を入れたので気にしなくていいと言ってくれたので、甘えることにした。
「ずっとここにいてくれたの?」
「あぁ。君の寝顔を見ていた。天使みたいで飽きなかったよ」
「恥ずかしいわ……」
確かに目が覚めたとき、彼に見られていた。あんな風にずっと寝顔をじっと見られていたと思うと恥ずかしくなる。
それにしても天使だなんて、ジュリアンは案外大げさなことを言うのだなとセラフィナは覚醒しきっていない頭でぽやぽやと思う。
「なんだか、夢みたい」
「どうして?」
「ジュリアンが私のことをすごく愛しているみたいに見える」
普段なら絶対にこんなこと言わないのに、思ったことがそのまま口に出てしまう。寝起きだからかもしれない。ジュリアンは気を悪くした様子もなく微笑んだ。
「俺はセラフィナのことを愛しているよ、とても」
「本当?」
「あぁ。きっと俺は君が思っているより君を愛しているし、嫉妬深い」
「全然、そんな風に見えないわ」
「そう見えなくても実際にそうだ。さっきも、どうしたらセラフィナが俺だけのものになるのかな、と考えてた」
「ふふ……」
また大げさなことを言うので笑ってしまう。今まで知らなかったけれど、実は彼はこんな風に冗談を言う人だったのか、とセラフィナはジュリアンの新しい一面を発見したような気になった。
「でも、ジュリアンは私に他に好きな人ができたら身を引くつもりなのでしょう?」
「……え?」
本当に心当たりがないのか、ジュリアンは怪訝な様子で眉を寄せた。
「そう言っていたじゃない。俺よりも好きな男ができたらすぐに言ってくれ、って」
あの言葉でセラフィナはものすごく落ち込んだ。結果的にナギサと親しくなるきっかけにはなったのだけど。
ようやく記憶に思い当たったのか、ジュリアンは「あぁ、」と声を出した。
「あれはそういう意味じゃない。そんな風に思わせてしまっていたんだね……」
「違うの?」
「違う。俺は君を絶対に離さない」
「そう、なのね」
ジュリアンが力強く言った。彼は本当にセラフィナのことを愛してくれている。そう信じられると、ずっと胸のなかを曇らせていたものがパッと晴れて、力が抜けた。
「あぁ。まだ眠そうだね。もう少し眠ったらいい」
「……ごめんなさい。そうさせてもらうわ。なんでこんなに眠いのかしら……」
「いいんだ。愛してるよ、セラフィナ」
そう言ってジュリアンはセラフィナのこめかみに唇を落とす。心地いいまどろみに身を任せ、セラフィナは再び眠りに落ちたのだった。
◇ ◇ ◇
「あっ、いた」
「……何か用ですか、聖女殿」
「ぷっ。分かりやすすぎですよぉ。セラフィナがいない時と態度違いすぎません?」
「用がないなら失礼します」
「待ってくださぁい、セラフィナはいつ学園に来れるようになるんですかぁ?」
彼女はこの国では珍しい黒髪を揺らし、挑戦的な目でジュリアンを見据えた。
学園の中庭の一角で、ジュリアンを呼び止めたのは聖女ナギサだった。目立ちにくいこの場所は、滅多に人が通らない。ぼんやりと考え事をしたいときにジュリアンは一人でここで過ごすのだが、ナギサはそれを知っていたのだろうか。
用件については分かっていた。セラフィナはこの一週間ほど学園に登校していない。そろそろヘレナ・ラナフェル子爵令嬢か、聖女ナギサが接触してくると思っていたのだ。
「……婚姻後に困らないようにヴェルサリア伯爵家のことを学びたいと言ってくれていましてね。彼女の家族も納得済みで、今はうちにいます。まぁ卒業に必要な単位もあるので、もう少しすれば登校しますよ」
「よかったぁ。もしかしたらもうセラフィナと会えないかもと思っていたので安心しました」
ナギサの言葉に、ジュリアンは微笑みを返すことで返事をした。
「そんなに執着しているなら、なんであんなこと言ったんですかぁ?」
「なんのことでしょう」
「他に好きな男ができたら言えとか言ったんでしょ?」
彼女に自分の発言を知られていると知り、ジュリアンは少し目を見開いた。
ジュリアンはまさかあの言葉がそのように受け取られるとは思っていなかった。そう言われてみれば、確かに相手を手放す準備のように聞こえてしまうだろうと理解して反省した。
そのためにセラフィナが彼女と親しくなり、周囲の様子が変わってしまったのも全く彼の意図しないことだった。
「だって知っておかないと」
「何をです?」
今のところセラフィナはジュリアンだけを愛している。だが将来はどうなるか分からない。何かのきっかけで他の男を求める日が来るかもしれない。
「……その時になったら、すぐ動けないじゃないか」
「動く、ですか?」
「実際どうするかは迷っているんです」
そんな事態にならないよう、細心の注意を払うつもりではある。
しかしもし、万が一、彼女の心に自分以外の男が棲んだときは——。
「相手の男を殺すか、セラフィナを殺して俺も死ぬか」
学園に植えられた美しい花が場違いにそよそよと揺られている。
ナギサは思いっきり眉根をしかめていた。
「いやー、マジで、いかれてますね!」
確かにジュリアンは自分が普通じゃないと自覚している。しかしこの女だけには言われたくない。
ナギサ・タチバナ。異世界から来た女。
セラフィナは彼女のことを明るく優しい人間だと思っているようだが、それが全く見当違いな評価であることをジュリアンは知っていた。
——この女は、自分と同類である。
「そういえば聖女殿は今度、正式にサイモン殿下とご婚約とか。おめでとうございます。あなたの目論見通り、あの方は全てを失いましたね?」
「なにを言っておられるのか良くわかりません。紛れもない純愛ですよぉ」
この女が異世界からやってきてから始まったサイモン殿下の騒動。
正直なところ、ナギサの立ち振る舞いは見事と言うほかない。
自分の聖魔法が有用であることを示し、国に保護をさせ、聖女の称号を得る。カリーネ男爵の悪事の証拠を差し出すことでイザベラ嬢の信用を得て、次にアルグレイス侯爵家の後ろ盾を得る。聖魔法に興味があった隣国の王太子も、ナギサがイザベラに引き合わせた。
恐らく全てはサイモン殿下を得るために。あの方が持っていた全てのものを奪い、自分だけに縋るように。
結果、ナギサの思い通り、サイモン殿下は婚約者も名誉も信用も失った。もうあの方は聖女と生きるほかに道はない。
サイモン殿下はこの女の手の平の上で転がされていたのか、分かった上でこの女の策に乗ったのか。それはもはや当人にしか分からない。
「ジュリアン様のことは、イケメンだけどなんかヤバそうな男とは思ってましたよ。やっぱビンゴでしたねぇ」
「なぜセラフィナに近付いたのです」
「なぜって、当たり前じゃないですかぁ。お友達になりたかったからです。セラフィナ、可愛いですもん」
この女がセラフィナにおかしなことを吹き込んだせいで、彼女は他の男に手作り菓子を配ってしまった。ジュリアンにとっては耐えがたい事態だった。
ヘレナ・ラナフェルは無害な令嬢だからセラフィナの近くにいても特に問題視していなかったが、この聖女は別だ。何を考えているのかよく分からない。
愉快だからとこれ以上自分たちを引っ掻き回されてはかなわない。
「これ以上セラフィナにちょっかいをかけないで頂きたい」
「ふふ。怖いですねぇ。分かってますよ。セラフィナのことは好きですけど、殺されたくありませんし」
「…………」
「でも、お茶をするぐらいは許してくださいね?」
ジュリアンが答える前に、ではまた、と言ってナギサは去っていった。
食えない女だとジュリアンは思う。
しかし、もうセラフィナはジュリアンの巣の中にいて、彼女自身もそれを望んでいる。
これからはずっと、一緒にいられる。
愛しい人がいる家に、ジュリアンは足を早めたのだった。
【了】
最後までお読みいただきありがとうございました。
バレンタインは二週間後ですが2月なので許容範囲と信じて投稿しました!
この作品について活動報告で少しお話してますのでよろしければご覧下さい(^^)




