雪の夜と、たしかじゃない言葉
クリスマスが、ただのイベントじゃない——。
そんな事実を、アリンは今夜知ることになります。
19歳の彼女にとって、
今年のクリスマスは少しだけ特別で。
ずっと胸の奥にしまっていた
“あの少年”へつながる手がかりが、
静かに、そっと姿を見せ始める回です。
「……こんばんは」
背中越しに落ちてきた声に、
心臓が一瞬だけ止まった気がした。
(……来た……?)
あり得ない、と頭ではわかっているのに、
胸の奥で小さく跳ねる期待を、完全には殺せない。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは——
銀色の髪でも、黒いロングコートでもなかった。
白いふわふわのコートをまとった、
あの穏やかな小児科の先生だった。
「……先生」
声が、自分でも驚くほど弱々しく出た。
先生はふんわり笑う。
「こんな寒い夜に……また会いましたね」
さっきまで胸の奥にこびりついていた期待が、
ひゅう、と音を立ててしぼんでいく。
(なにやってんだろ、私)
(世界的アイドルが、
本気で、あんな約束覚えてるはずないのに)
自分で自分に、がっかりする。
それでも、先生の顔を見たら、
張りつめていた何かが少しずつ緩んでいくのがわかった。
先生は、ベンチをぽんぽんと叩いた。
「座りましょう? 風が冷たいわ」
隣に腰を下ろすと、
先生は手提げの中をゴソゴソと探り、
小さな紙コップとポットを取り出した。
白い湯気が、ふわりと夜空にほどけていく。
「メリークリスマス、とは言えないけれど……
せめて、あたたかいものくらいはね」
差し出されたのは、甘いココアだった。
「……ありがとうございます」
両手で包むと、指先からじんわりと温度が広がっていく。
先生は桜の木を見上げながら、静かに口を開いた。
「小児科の仕事をしているとね……
どうしても忘れられない子たちがいるの」
「……忘れられない子?」
「ええ。だから毎年、クリスマスの日はここに来るんです。
あの子たちに——
“今年も一緒にケーキを食べたよ”って報告しに。」
ぽつり、と落ちたその言葉に、
胸がきゅっと締めつけられた。
「亡くなった子どもたちもね、
この桜の下で、おしゃべりしている気がするの」
先生は、当たり前のことを話すように微笑む。
「今年も頑張ったね」
「痛いの、よく我慢したね」
「また春が来たら、一緒に花を見ましょうね」
——そんな言葉を、
花に向かって話しかけるのだと、
まるで秘密を打ち明けるみたいに教えてくれた。
「花ってね、ただ咲いているだけじゃないのよ」
先生は、そっと花壇の方へ視線を向ける。
「季節が変わっても、
雨や風に打たれても、
それでも“咲こう”とするから……
きっと、子どもたちと同じなの」
「……だから、褒めてあげないといけないのよね。
“今年も美しく咲くことができたね、頑張ったね”って」
言葉ひとつひとつが、
胸のどこか柔らかいところに触れてくる。
(先生……ずるいな)
(そんなふうに言われたら、
“春なんて嫌いだ”って言えなくなる)
ココアの甘さと、先生の声の温度が、
冷たく固まっていた心の奥まで、
じわじわとしみ込んでくる気がした。
先生は、ふっと表情を和らげる。
「本当はね、息子も一緒に来るはずだったの」
「息子さん……」
「ええ。前はね、ここで一緒にケーキを食べて、
天国組の子どもたちにもおすそ分けしてるつもりで、
いっぱい話をしていたのよ」
目を細める先生の横顔から、
その“光景”が、少しだけ浮かぶような気がした。
「最近は、息子も来れないことが多くてね……
なんだか忙しいみたいなの」
小さく苦笑いを浮かべる先生。
(……先生の息子さん)
(きっと、先生と同じなんだろうな)
優しくて、
誰かの痛みや寂しさに気づけて。
花の“頑張り”にも気づける人。
そんな人を想像したら、
胸の奥が、ほんの少しだけくすぐったくなった。
「病院で、クリスマスイベントをしてくれるのはね、
ほとんどうちの息子なんですよ」
先生は、恥ずかしそうに、でも少し自慢げに続ける。
「サンタの格好をして、歌ったり、踊ったり。
子どもたち、みんな本当に嬉しそうでね」
「……すごいですね」
「すごくなんてないのよ」
先生は首を振ったあと、少し照れくさそうに微笑む。
「あの子ね、
大好きな子ができてから歌が好きみたいで……。
きっと、誰かが喜んでくれるのが
嬉しいのよ」
「なんか素敵……ですね」
「ええ。
それが“仕事”になってしまったのは……
まあ、時代の流れかしらね」
少しだけ、意味深な笑い方だったけれど、
アリンにはその一部しか受け取れなかった。
(先生の息子さん……)
(きっと、あたたかい人なんだろうな)
この公園でクリスマスを過ごして、
亡くなった子どもたちにもケーキを“分けて”あげて、
誰かが笑ってくれることを喜べる人。
(……会ってみたいな)
胸の奥にふっと浮かんだその気持ちに、
自分でも少し驚いてしまった。
——もちろん、このときの私はまだ知らなかった。
“会ってみたい”と思ったその相手と、
月明かりの下で歌っていた銀髪の世界的アイドルが、
同じ人物だなんて——
そんなこと、いまの私には想像すらできなかった。
先生が持ってきてくれたココアを飲み終え、
空になった紙コップをそっと重ねる。
「あなたも、また来てくださいね。桜の季節に」
先生は穏やかに微笑みながら、
紙コップを手提げ袋へしまった。
「……はい」
「きっと、春が少しだけ違って見えますよ」
その言葉が胸にやわらかく落ちた瞬間、
ふいに先生は思い出したように笑った。
「そういえば、うちの息子ね——
初恋が十三歳だったのよ」
先生は、まるで今のアリンを見て
ふと思い出したかのように、やさしく微笑んだ。
「すごく、かわいい女の子でね。
あの子、本当に夢中になっていたわ。
話すだけで照れちゃって……
好きな子のこと、ずっと大事にしていたの」
母親としての、どこか誇らしげな響き。
その語り口のあたたかさから、
“彼の初恋がどれほど純粋だったか”が
自然と伝わってくる。
あまりに自然に告げられたその一言が、
どうしてだろう、
少しだけ胸の奥に引っかかった。
先生が帰っていく背中を見送りながら、
私はふと桜の枝を見上げる。
雪の積もった細い枝が、夜風にかすかに揺れた。
(……来ちゃったんだよね、私)
一度は「無理です」と言ったくせに。
約束なんて信じてないと言い切ったくせに。
それでもクリスマスの夜、
気づけばまたここに立っている。
セシュンが言った、一言が、
どうしようもなく頭から離れなかった。
(“大切な詞”って……)
どういう意味なんだろう……。
弟のためだけに書いた詞と同じだった。
誰も知らないはずの、あの言葉。
それを「大切だ」と言い切った声を、
簡単に忘れられるわけがなかった。
「……なにやってんだろ、私」
誰もいない公園でつぶやいた声は、
冷たい空気にすぐのまれて消えた。
——クリスマスから、三日が経った夜。
帰り道、公園の前を通りかかったとき、
ベンチにひとり座る影が目に入った。
(……え?)
街灯に照らされた銀髪。
見間違えるはずがない。
セシュンだった。
彼はうつむいたまま、冷えた手を組み合わせて。
その横顔は、いつもの余裕の笑みとは違い、
どこか痛みに耐えているように見えた。
そっと近づいた瞬間、
彼は気づいたように顔を上げる。
「……アリン」
あの夜より、ずっと弱い声。
目が合った途端、
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「クリスマス……」
セシュンは小さくつぶやいた。
「……もしかして、来てたり……しないよね?」
(……え……)
「本気にしてないか……ずっと気になって……」
その言い方は、
優しいのか、残酷なのか、わからなかった。
胸の奥がズキっとした。
「来てません」
即答だった。
嘘だとわかっていても、言うしかなかった。
セシュンは一瞬だけ、ほっとしたように息をついた。
その仕草が、なぜだか余計に苦しくなる。
「……そっか」
そして——
ほんの一瞬、時間が止まったように感じた。
「この世界ってさ。
微笑むだけでファンが喜ぶんだよ。……おもしろいよな」
その“おもしろい”は、
面白がっている者の声ではなかった。
むしろ——
何かを諦めた人間の声に聞こえた。
胸の奥が、苦しくなった。
(……別人みたい)
本屋で見た写真集の“作られた笑顔”が、
急に、胸の裏側をざわつかせた。
思わず聞いてしまった。
「……本当に、楽しいんですか。今の仕事」
セシュンは目を伏せる。
「楽しいわけないよ。
これは……ただの“きっかけ”だから」
「きっかけ……?」
「ああ。
俺には“ある目的”があるんだ」
息が止まる。
「目的って……?」
セシュンは、月を見上げて笑った。
寂しそうに、どこか遠くを見るように。
「きみが思ってるようなキラキラしてるだけじゃないよ。
……だからさ、なにかを期待しないほうがいい」
その言葉は、
まるで刃物みたいに、そっと胸の奥に刺さった。
(……期待なんて……してないのに)
(なのに……なんでこんなに痛いの)
沈黙が落ちる。
風の音だけが冷たく響いた。
セシュンはゆっくり立つと、
背中を向けたまま、小さくつぶやいた。
「……ごめんね。アリン」
その一言は、彼女へも、自分自身へも向けられていた。
確かめたい。
でも、確かめる術がない。
たしかじゃないかもしれない。
そう思えば思うほど、目の前のアリンに触れられなくなる。
セシュンは、少し言葉をのみ込んだ。
(……どうして……そんな顔をするの?)
理由はわかっていた。
——彼の視線の先に、探している“だれか”がいる気がしたから。
わたしの胸の奥で、
ほんの小さく、痛むものがあった。
同じ場所に立っているのに、
ふたりの心だけが、すこしだけずれる。
触れようとして、かすかにすれ違う——
そんな一瞬の痛みが、
わたしの心に、言葉にならない何かを残した。
彼が探しているものが何かは、わからない。
——でも。
わたしが探しているものだけは、はっきりとわかった。
あのとき、優しさで包み込んでくれた“あの少年”——
——そしてこの夜。
わたしの中で、
そっと息を吹き返した“あの少年”の記憶が、
静かにゆっくりと、
セシュンの姿と重なり始める。
読んでくださり、ありがとうございます。
7話では、すれ違いと痛みの中で、
“あの少年”の記憶がそっと息を吹き返す回でした。
アリンの胸に芽生えた小さな揺れが、
静かにセシュンへと重なり始めています。
次回 8話では、
アリンが“あの少年”の温もりを詞にします。
文字が化けるようになったことを、
嬉しそうに語るアリンの姿をお届けします。
また読みに来てもらえたら、嬉しいです。




