66 魔王は私に恋をして、私は精霊になった
今回、過去が明かされますが長くなってしまいました。いつもの2話分ありますが、一気にいきます
エアリアさんは、風の精霊で、魔王さまのお母さん
リンは、ごくっと唾を飲み込んだ。
ここまで相当重い。
なのに、まだ知らないことがある気がしていた。
たとえば、魔王さまのお父さんのこと。
エアリアさんも、なぜ精霊になったのか。
どうして、ずっと母だと名乗らずにいたのか。
そういえば、エアリアさんが笑う時、ふっと遠くを見るような目をするときがある。
それって、もしかして──思い出してるのかな。
「前の魔王さまの名前はね、バルグレイスっていうの」
ぽつりと落とされた言葉に、リンは目を上げる。
「魔王になったら名前は捨てるけど……私はずっと“バル様”って呼んでたの」
エアリアさんは、どこか遠くを見るように微笑んでいた。
「初めて会ったときは、冷たい雰囲気の人だった。スネク姉さんの駆け落ち騒動もあって、きっと私も警戒されてるんだと思ってたけど……実際は違ったの。未来を悲観して、誰にも心を開けなくなってただけだった」
そう話す声は穏やかで、少しだけ哀しげだった。
「私は、ここにやってきて“初めて籠から出た蛇”だったの。外の世界を何も知らなくて、結婚しに来たというのに、何もかもが新鮮だったわ。でも体が弱かったから、庭に出るたびに風邪をひいて……すぐ寝込んでしまって」
記憶をたどるように、エアリアさんは言葉をつむぐ。
「そのたびにバル様が見舞いに来てくれたの。最初は義務的だったと思う。必要なことだけを話して、すぐに帰っていくような……でも、私にとってはそれが嬉しくて」
“それで? まあ!どうして?”と、無邪気に問いかける自分の姿を思い出しているのだろう。彼女は、少しだけ笑った。
「私がしつこく聞くから、バル様も少しずつ話してくれるようになって……気づけば毎日、部屋でお茶を飲んで、お菓子を食べながら、たくさん話をしたの」
一緒に過ごした日々のぬくもりが、そのまま残っているような語り方だった。
「風邪をひくからって、庭に出るのは“バル様と一緒のときだけ”になったの。そのうち、噴水が私たちのデート場所になった」
私はうなずく。あの噴水──彼女の魔石が眠っている場所。
「……でもね、周りの重鎮の反対はすごかったわ。私は短命だし、子供を産めるかも分からない。蛇一族の血筋としても、正妃にするには不安要素だらけだった。……それでも、バル様は私を選んで、守ってくれた」
エアリアさんの瞳が静かに揺れる。
「体を気遣って、手も出さずにそばにいてくれたの。そのときは……スネク姉さんの代わりだから、気に入られてないんだろうなって思ってた。でも私の方は……あっという間に、恋に落ちてた」
苦笑のような、照れたような空気が流れる。
「だけどね、心のどこかでは申し訳なくて……。早く死ねば、子供も残らないし、バル様はもっと良い相手を迎えられるって、本気で思ってたの」
リンは、ただ黙って聞く。
「あるとき、体調を崩して寝込んでた私に、バル様が言ったの。“君まで僕を置いていかないで”って」
それがどれほど重く、優しい一言だったか。
エアリアさんは言葉少なに、しかし確かに伝えてくる。
「それで分かったの。……私のこと、ちゃんと想ってくれてたんだって」
「それからは毎日、いろんな話をしたわ。昔のことも、今のことも、未来のことも。バル様は、私のベッドの横でずっと仕事をしてた。決して離れなかったのよ」
静かな、けれど確かな愛情。
その重みが、ひしひしと胸に伝わってくる。
「子供が生まれてからも変わらなかった。私の体調に合わせて、休みながら、ずっとそばにいてくれた。……幸せだった」
小さく息をついて、エアリアさんは視線を落とす。
「だから私は、お願いしたの。死んだら“精霊にしてください”って」
私はそっと顔を上げた。
彼女は、まっすぐこちらを見ていた。
「私をこのまま死なせてほしくなかったの。成仏なんてできない。心配すぎて、未練がありすぎて……どうせなら、風の精霊になって、ずっとそばにいたいって思った」
けれど、その願いには条件があったという。
「バル様は言ったわ。“子供に自分の正体を明かしてはいけない”って。魔王は、孤独に耐えて、厳しい決断を一人で下さなければならない存在だからって。……甘えさせてはいけないって」
リンは、ゆっくりと息を吐く。
それがどれほどの覚悟だったのか、少しだけわかる気がした。
「でもね、バル様は心配してたの。自分がいなくなったあと、私が一人になることを」
エアリアさんの声が、少しだけやわらいだ。
「私は、嫁入りしてからずっと、ヒュドラオン家から子供を産めと圧力をかけられてたの。だから、バル様は家と縁を切ってくれたの。その代わりに、スネク姉さんとオーガ兄さんを城に呼び寄せて……私と子供を託してくれたのよ。それが、今に繋がってる」
私は頷く。それだけで精一杯だった。
「私は風の精霊になった。愛する人と、子供のそばにいられるように」
噴水の魔石。あの静かな場所の意味が、今ならわかる。
「バル様が狂化するまでは、一緒にたくさん話をした。子供を連れて、噴水の前で水遊びもしたの。……あそこは、私たちの幸せの記憶の場所」
だから。
「魔石は、噴水にあるのよ。この間、城に瘴気があふれたときも、私は動かなかった。……スネクが説得しても、ずっとそこにいたの。息子が瘴気に飲まれるなら、次の代はもうない。だったら、私もあのまま外には出なくていいと思ってた」
エアリアさんはそう言って、静かに微笑んだ。
それは、母の顔だった。




