64 泣いてもいい。でも逃げちゃダメ
スネク先生の話は、リンにとって頭をガツンと殴られたぐらいの衝撃だった。
ただ、真実の追求をしてなんになるのか?
今までは、魔界のわからないことを知りたい、もしくは知らなければならなかった。
でもこれからは――知る必要があるのか。知ってしまったらどうするのか。そこまで考えなければならない。
「……なんて難しいんだろう」
魔王さまは、小さい頃からずっと、こんなことを一人で背負っていたのか。
でも、あの子たちの “たち” は……流れからして、もう一人はエアリアさんだよね。
だけど、本当はスネク先生だって、背負っているんだよね。
背負う覚悟がないのは――私だけか。
……はあ、落ち込むなあ。
そんなとき、机の魔石がぽわーっと光った。
「りんちゃーん、出てもいい?」
エアリアだ。
「はい、大丈夫です」
ぽんっと音を立てるように、エアリアが現れる。
「魔王さま、まだお仕事?」
「はい、いつも忙しそうです」
リンは苦笑する。瘴気が消えたからといって仕事がなくなるわけではなく、むしろ滞っていた仕事が山のようにある。
私も、早く手伝えるようになりたい――。
「スネク先生にガツンとやられたんでしょ? んもー、キツいんだから」
当事者のエアリアが、リンの頭をよしよししてくれる。といっても実体はないから、前髪がふわふわ揺れるだけだけど、その風がなんだかやさしくて、癒される。
「エアリアさん……」
リンは、ほろっと涙が出そうになる。
だめだめ、泣いてる暇があれば、正解のひとつでも覚えろってスネク先生が……。
「泣いてもいいのよ」
エアリアが、優しく微笑んで言った。
「だってここは、リンちゃんのお部屋。誰にも見られていないところで、さっと泣いて、なにもなかった顔をして出ていけばいいの」
「エアリアさん……」
「スネクはね、私の姉なのよ」
「……え?」
耳を疑った。思わず、変な声が出てしまう。
「姉、って……スネク先生が、エアリアさんの?」
「うん。厳しいでしょ。でもね、子供のころはリンちゃんより泣き虫さんだったの。……あっ、これ内緒ね。私が怒られちゃう」
エアリアはくすくすと笑う。
「でもね、私が泣いたときは、誰よりも早く飛んできて、抱きしめてくれたの。
厳しいのは、あの子なりの“愛し方”なの。ちょっと不器用だけどね」
――そんなの、今まで一度も想像したことなかった。
あのスネク先生に、泣き虫な子ども時代があって。
その涙と共に過ごした妹がエアリアさんだったなんて。
「……ま、待って。エアリアさんやスネク先生が傷つく話なら、私、聞かなくて大丈夫です」
リンは慌てて口を挟む。
けれどエアリアは、ふっと顔を引き締めた。
「リンちゃん。無意識に人を傷つけることは、誰にでもあるの。
でも、そこから逃げてはだめ」
その声音は、風のように優しくて、それでいて――まっすぐだった。
「もし誰かを傷つけてしまったなら、そのときは、ちゃんと寄り添って、支える強さを持って。
あなたの立場は、そういう立場」
リンは息を呑んだ。
「ただ好かれて好きなだけなら、それは“恋人”。
でも魔王さまがあなたに求めたのは、それだけじゃない。
あなたには、“魔王の妻”になってほしいの」
その言葉に、エアリアの目が、かつてないほど真剣になる。
「ただ隣に立つだけじゃない。
支え、見抜き、沈むときは共に沈み、浮かぶときは背中を押す。
それが“妻”ってものなのよ」
リンの胸が、ぎゅうっと熱くなる。
エアリアはふっと表情を緩めて、笑った。
「……とか言いながら、私もリンちゃんにお願いがあって、こうして引きずり込もうとしてるんだけど」
「お願い、ですか?」
「ええ。それにはね――あなたに、“知って”もらわなければならないの。
そして、“知ったあとで、知らないふり”ができなければならない」
その言葉の重みに、リンは思わず息を飲む。
「私は、リンちゃんに、魔王の“妻”になってほしいの」
エアリアの雰囲気は、今までの眠たげな空気とはまるで違っていた。
むしろ、スネク先生の妹――そう言われても、納得してしまうほどの気迫がそこにあった。
私の中で、なにかが静かに変わっていく。
たぶんまだ、ちゃんと理解できてはいない。
だけど――
「……なれるかどうか、わからないです。でも……逃げたくは、ないです」
私の声は、少しだけ震えていた。
でも、それでもいい。これがきっと、“はじまり”なのだから。




