59 わたしは風になったけれど、母でいることはやめていない
水面が、かすかに揺れていた。
風が吹いている。
けれどそれは、誰にも感じ取れない弱い精霊の風。
エアリアは噴水の縁に腰かけ、小さく息をついた。
風となってから、ずいぶん時間が経った。
思い出すのは、生きていた頃のことばかり。
――優しかった夫。
――生まれたばかりの子供。
夫は、不器用な手つきで必死に我が子をあやしていた。
私がもう、抱っこできなくなっていたから。
それでも、少しでも私が子供と関われるように育てていた。
仕事もベッドサイドで行い、眠る暇を惜しんでエアリアのそばにいてくれた。
わたしがもう長くないと、ふたりとも分かっていたから。
「……あのとき描いてもらった絵、実は今も残ってるのよね」
魔族は基本的に長命だ。
だから、絵姿や写真をわざわざ残す習慣はない。
けれど、特殊な事情で夫の家も短命の血筋だった。
だから代々、家族の絵姿を残しているという。
彼がどうしてもと言うので、自分たちも一枚、描いてもらった。
それが、家族三人で過ごした生きていた時の最後の家族団欒
――あの人が、もし長く生きられるひとだったなら
「私は、精霊になんてならなかったのかもしれない」
夫の血筋は短命で、それは避けられない。
にもかかわらず、自分は先に旅立たねばならない。
残された子供はどうなるだろう?
面倒を見てくれる人は思い当たる。
優しい言葉をかけてくれる人もいると思う。
だが、小さいのに、両親が亡くなってしまうのだ。
子供はうまく甘えることができるだろうか?
心配はつきない
魔族としての死を迎えたあとも、私は子供が心配で...
未練が断ち切れなくて。
前の魔王の世の時に精霊になれるようお願いしたのだ。
わたしは風になった。
風の精霊になれば、遠く離れても、いつでもあの子のそばにいられる。
そして夫が亡くなるまではそばにいられると信じて。
でも、実際にはただ見守ることしかできない。
泣いていても、手を差し伸べることはできず。
苦しんでいても、慰める腕もない。
「……何やってるんだろうね、私」
エアリアがつぶやいたその時だった。
背後に、長く冷たい影が差す。
「スネク姉さん、迷惑かけるわね」
姿勢よく立つ蛇のような女――スネクが、こちらをみて俯いている
「……いいのね?」
エアリアは微笑む。
「教え子に怒られちゃうわよ。スネク姉さん! “俯いてる女に世界はひれ伏しません”って」
スネクの口元が、わずかに動く。
次の瞬間、彼女は噴水の縁に手を伸ばした。
ひとつの魔石を拾い上げる。
それをハンカチに包み、周囲を見渡してから音もなく立ち去る。
風が、スネクの通った後をすっとなでていった。




