58 ちょっとだけ積極的になった夜と、風の精霊の帰る場所
「うわああああああ!!」
皇后の間にリンの叫び声が響いた。
もふもふの絨毯をバタバタ足で蹴って、ソファに突っ伏す。
「恥ずかしい!もう!なんであんなこと……!」
そう、さっきの“キス”のことだ。
魔王さまがひとり静かに考えごとをしていて、どこか寂しそうだった。
その姿がなんだか――小さく見えたのだ。
それで、つい、衝動的に。自分から唇を重ねてしまった。
(私、肉食女子すぎない!?)
魔界に来てから、色々なことが変わった気がする。
スネク先生を筆頭に、ウンディーネさんやエアリアさん――この世界の女性たちは、とにかく強くて、しっかりしている。
言いたいことは言い、自分の考えをちゃんと持っていて、時には男性よりも前に立つ。
男性陣もそれを否定せず、むしろ自然に支えている。
トミーさんのように、彼女を気遣って動く姿は日常の一部だ。
……そういう空気に、リンもちょっとずつ染まってきたのかもしれない。
⸻
そのとき、机の上に置かれた魔石がふわりと光った。
『リンちゃん、今ひとり??』
エアリアの声だった。
今、ウンディーネは指輪の中の魔石に籠もっている。
エアリアも風の精霊だけあって、1箇所に留まらないようだが、机の上の魔石から飛び立って、戻ってくるの繰り返しだ。
精霊たちにとって、魔石は住処にもできるし、移動手段でもあるのだが、エアリアは移動手段で使うことが多かった。
「はい、一人です」
そう答えると、ぽんっと魔石からエアリアが現れた。
ふわふわとした髪を風になびかせる姿は、まるで童話から出てきたよう。
「魔王さま、まだお仕事?」
「ええ、さっきお茶とお土産を届けてきました」
リンは机の前にある大きな椅子に座った。
けれど身体が小さいせいで、ちょこんと乗っているようにしか見えない。
「まったく、ガブリエルったら……!頭叩いて、背中を蹴ってやりたい」
エアリアは小さな腕をふるって、魔石の上でカンフーの構え。
怒っているはずなのに、見た目が可愛すぎて迫力ゼロである。
「今日はお願いがあって来たの」
「お願い?」
「ほら、噴水にあった、私の魔石。あれを戻してほしいの」
今はリンの机の上にある魔石が、エアリアの“出入口”になっている。
ウンディーネの魔石の一部を指輪に移植した時、代わりにエアリアがこの魔石を使うようになったのだ。
「でも……噴水、ここからちょっと遠いですよ?」
「大丈夫。必要があれば今まで通りこの魔石から出るし。
でもね、私……あのお庭が好きなの。瘴気が浄化されて、また風が気持ちよく吹くようになったから、本来の場所で過ごしたいの」
たしかに最近、魔王城の庭には色が戻ってきた。
花壇には新しい苗が植えられ、庭師たちも少しずつ戻ってきている。
エアリアが風を運び、花粉を広げて手伝ってくれているという話も聞いた。
「わかりました。明日、戻しましょうね」
リンはそう言って、机の中からエアリアの魔石を取り出す。
柔らかな布で丁寧に磨き、その夜はそっと寝かせた。
⸻
そして、翌朝。
リンは小さな箱を手に庭へ向かい、噴水の中央へと歩いた。
きらめく水面の中に、魔石をそっと沈める。
パリンと空気が張りつめ、次の瞬間――
水面が反射した光が、庭いっぱいに広がった。
「……やっぱり、ここが似合ってるね」
風が頬をなでる。
微かに聞こえた笑い声が、どこか嬉しそうだった。
リンはその風にふと胸騒ぎを覚えたけれど、理由はわからなかった。
……ただ、ほんの少しだけ、冷たい風だった。




