57 この手が下すのは、裁きか、愛か
魔王は、ひとりで考えていた。
静かな執務室。
時間だけが、音もなく流れていく。
“魔王”と聞けば、誰もが思い浮かべる。
強く、冷酷で、独裁的で、暴力的――
そんな虚像。
でも、本当の自分は違う。
争いごとは嫌いだし、子供の頃はよく泣いていた。
帝王学の時間が怖くて、スネクに叱られるたび涙が出た。
泣き虫だった。今も本質は変わっていない。
ただ、“魔王”でいる時だけは泣かないと決めた。
一言で、誰かの運命を決めてしまう立場だから。
だから強く見せているだけだ。冷静なフリも。全部、そう。
でも。
(今度は、“自分の意思”で裁く番かもしれない)
父を殺したときとは違う。あれは――苦しみからの解放だった。
けれど、今は違う。
これは終わらせるための決断。
ガブリエルに、手を下すか否か。
父はかつて言った。
「力ある者は、その力を使わずに済む道を選べ」と。
でも、もう限界だった。
リンの件。
アルデリアの死。
マクライアの殺害。
不正な聖女認定と、広がる瘴気。
教会の腐敗と、それに苦しむ魔族たち。
(――犠牲が、多すぎる)
これは、裁きだ。
“悪”に終止符を打つ。魔王として。
魔王は、静かに目を閉じた。
「……わかってる。これが俺の責任だ」
そのとき、控えめなノック音。
「どうぞ」
扉が開き、リンが顔をのぞかせる。
手にはトミーの小さなお土産と、湯気の立つお茶。
「……お仕事終わりそうですか?」
「考えごとをしててね」
湯のみを受け取り、一口。
あたたかさが喉をすべり、胸の奥に沁みる。
――こんな風に、お茶を飲める日がまた来るとはな。
瘴気が吸収しきれない魔王城、張りつめた日々。
すべてが遠く感じられる。
ふと、リンを見る。
……少し、背が伸びたか?
魔界に来た頃は、骨と皮のような少女だった。
今では顔色もよくなって、頬もほんのり丸い。
歳相応とは言い難いが、恋愛は“ぎりぎり”セーフ、ということにしておく。
――こんな姿にしたのも、あいつか。
湯呑に目を落とした瞬間。
ふわ、と。
胸元に、ぬくもりが触れる。
「……おや。君の方から来るなんて」
からかうと、リンは少し頬を染めた。
けれど、そのまま静かに――唇を重ねてくる。
心臓が、跳ねた。
……彼女の体調ばかり気にしていたはずだったのに。
いつの間にか、毎晩隣にいることが当たり前になっていて。
その変化に、焦りすら覚えるようになっていた。
“誰よりも早く、この子を――”
そんな衝動がよぎる。
けれど。
胸の奥にある、古い記憶。
そのひとつが、線を越えることを迷わせていた。
それでも――
今夜くらいは。
ほんのひととき、魔王ではなく、
ただの“ひとり”として。
この温度に身を任せても、いい気がした。
魔王は、リンの抱擁を受け入れた。
そして、夜は静かに、更けていく。




