物言わぬ証人
2021年9月30日 一部を修正しました。
一九九五年は世界だと世界貿易機関WTOが発足し、台湾の歌手テレサ・テンがタイで急死するなど色々あった。
日本では阪神淡路大震災で多くの人たちが犠牲になったり、地下鉄にサリンがまかれた某宗教団体が起こしたテロ事件など様々であった。その一方でオリックスのリーグ優勝に沸き立った時代でもある。
だが現在夏の深夜でT市のホテルにある一室にいる庵野洋子には関係なかった。
何故なら彼女は恋人であった高橋秀明をナイフで刺し殺したからだ。黒髪で紺色のスーツを着た男だが、すでに歌舞伎役者の如く、顔色は蒼くなっている。腹部ににょっきりと生えた銀色のアクセサリーは冷たく光っていた。
洋子は社長令嬢である。金には不自由していない。父親は日本人、母親は金髪の外人のハーフなので人形のように愛らしく蝶よ花よと褒めたたえられていた。
一方で秀明は彼女の父親が経営する会社に勤めていた。仕事はそつなくこなし、二枚目で女性事務員にもてており、二十代後半で係長の座についていた。
将来有望な彼に洋子は惹かれた。すぐに二人は付き合うようになったが、今夜悲劇が起こったのである。
なんで、こうなった? 洋子は黒っぽいへそ出しの服を着ていた。今はアムラーといい、歌手の安室奈美恵に影響されたファッションだ。洋子は流行りの物を嫌っていたが、秀明が指名してきたので嫌々こんな服装にしていたのだ。顔も黒いベールで覆っており、受付嬢には顔を見られていない。知人が見ても普段の服装とかけ離れているのですぐにはわからないだろう。
なぜ秀明を殺したのか。彼は洋子に別れ話を告げたのだ。元々秀明は出世のために洋子に近づいた。社長令嬢の婿になれば出世は間違いないが、彼はすぐに後悔したのだ。
彼女は美人だが高慢ちきであった。常に神の如く人を見下し、上から目線で物を語るため同性はおろか、異性にすら蛇蝎の如く嫌われていたのだ。
社長の方も娘が我がままを言うなら別れてもいいと言った。役職は変更しないと約束したほどだ。
それほど親の方でも洋子に対して持て余していたようである。昔は娘の言うとおりになんでも買い与え、不祥事をもみ消してきたが、老年期に差し掛かると自身の教育方針は間違っていたと反省したようだ。
それを知ると洋子は激怒した。彼女は幼少時からなんでも思い通りになると信じていた。自分の意見が通らないと癇癪を起こすくらいだ。
大人になっても治ることはなく、父親である社長も彼女をなるべく人に近づけないよう心掛けていたくらいだ。
だが派手なことが好きな彼女にとって、人との関りを断つなど拷問である。他人の悪口を銅鑼の様な声でしゃべるのが大好きなのだ。彼女は子供の心を引きずったまま身体だけ成長した未熟児であった。
洋子は混乱した。なんでこんなことになった? 悪いのはこいつだ、私と別れるなんてあり得ない事を言うからだ。
警察になんか捕まりたくない。父親に頼んでもみ消してもらおう。いや、父親は洋子を持て余しており、彼女が問題を起こしたら隠したりせず公開することを決めている。
すると洋子に名案が浮かんだ。それは従妹の恵美だ。恵美は叔父の娘である。同じ年齢で家族ぐるみで付き合っていた。
叔父は現在建設会社を立ち上げているが、十数年前は洋子の父親の会社に勤めていた。
家はローンで購入したぼろ家だ。洋子は光で、恵美は影であった。
小学生時代から洋子は彼女を召使のようにこき使った。逆らえば父親に頼んで会社をクビにすると言えばすぐに黙り込んだ。
洋子がいたずらをすればそれをすべて恵美に押し付けた。掃除当番もすべて彼女に押し付けて自分は遊んでいた。自分の長期休暇の宿題は彼女にすべてやらせていた。恵美は黙って言うことを聞いていたから、洋子はますます増長していったのだ。
周囲は恵美を馬鹿にし、大人も恵美は怠け者で洋子は素晴らしい児童と思い込むようになる。
それでも恵美は我慢し続けた。すべて自分の父親を守るためであった。
洋子はそんな恵美をいつでも使い捨てられる便利な道具として扱った。二人はまるで双子のようにそっくりで、右腹に星型のあざがあったのだ。
洋子は恵美の名前で男を漁り、それがばれると恵美のせいにした。彼女に身に覚えがないが、洋子が先導して恵美を淫婦だの罵って遊んでいたのだ。
ところが高校時代になると事情が変わった。叔父が建設会社を立ち上げたので、恵美は引っ越すことになった。
生贄がいなくなったことで洋子は新たな獲物を探した。しかし恵美ほど我慢強い人材はいなかった。やりすぎるとすぐに相手に反発されてしまい、洋子はイライラしていた。
父親に頼んで叔父の会社を潰すよう頼んでも、「馬鹿なことを言うな」と怒鳴られて終わりであった。
その内恵美は立木宏一という男と結婚したという。結婚式の招待状が届いたが、洋子はいかなかった。恵美が幸せになるのが気に喰わなかったからだ。
代わりに夫宛に恵美の悪行を書き連ねた手紙を送りつけてやった。それで二人が破局してくれることを願ったからだ。自分が結婚してないのに先にゴールインするなど許されないと思った。
しかし洋子の願いはかなわなかった。宏一はこの手紙に腹を立て洋子の父親に見せたのだ。
それで父親は娘の恥知らずな行動をしかりつけたのである。さらに父親から平手打ちを喰らったのだ。
さすがの父親も自分の教育が間違っていたと認め、洋子のわがままを聞くことが少なくなった。
以来、洋子は恵美を憎んでいた。彼女は自分のおもちゃで、彼女の幸福はわが身の不幸であった。
母親から恵美はG病院に入院していると電話で聴かされたが、見舞いに行くつもりはない。
だが洋子の脳裏には悪魔のような考えが浮かんだ。恵美に自分の罪を押し付けるのである。
まず洋子は部屋を出た。そして非常階段から抜け出すと、すぐ近くでタクシーを拾う。
その際に自分の右腹にある星型のあざを見せつけた。スケベそうな中年親父であった。
洋子はぼそぼそとした声でG病院に行くよう告げた。面会時間とかは過ぎているのではと運転手が訊ねたが、万札を押し付けるとすぐに黙った。もちろん黒いレースの手袋を身に付けている。
数十分後、タクシーはG病院にたどり着いた。そこで車を降りると洋子はこっそりと裏口に向かう。
母親から恵美の病室の番号は聞いていた。三階の一七九号室だ。
洋子はこっそりと看護婦に見つからないよう忍び足で病室に向かう。深夜の病院内はどこか不気味である。看護婦たちは夜勤の疲れであくびをしたり、休憩室でテレビを見たりしていた。洋子は足音を立てずに病室を目指す。
目的の部屋にたどり着き、かちゃりとドアを開くと、そこには恵美が眠っていた。胸まで布団をかぶっている。少し地味だが目を隠せば口元は洋子にそっくりであった。
洋子はそれを見ると腹が立ってきた。自分は今窮地に立っているのに、暢気に眠っているのが癪に障る。
だが洋子は気持ちを押さえつけ、自分の服を脱いだ。そして凶器も一緒にベッドの下へ置いていく。
洋子は恵美の衣服を盗んで着替えた。彼女は着替えを持っていない、だが恵美の衣服を盗めばいいと考えていたのだ。
これで警察は恵美を逮捕するだろう。凶器と犯行当時の衣服も揃っているのだ、逮捕するに決まっている。
そして恵美の家庭が崩壊することを想像すると、邪悪な笑みをこぼさずにはいられなかった。
☆
翌日、秀明が殺害された事件が新聞に載った。犯人はまだわからないらしい。
警察は目撃者を探しているが、タクシーの運転手がそれらしい人物を見つけたという。
早く恵美を逮捕してくれないかなと、洋子はその日を待ち望んでいた。周囲の人間は不気味に笑う洋子を遠巻きで見ていた。
事件発生から三日後、警察が訊ねた。名前は緒方といい、年配の男であった。出世に縁がなさそうだが、その分しぶとく地べたをはいずり回って証拠を探すタイプに見えた。くたびれたコートに潰れた帽子を被っている。テレビドラマに出てくる熟練の刑事に近い。
洋子は自宅で対応していた。会社では人目がつくからという理由であった。
洋子はついに来たかとわくわくしていた。緒方は応接間に案内する。テーブルを挟んだソファに座り、対面した。
「えーっと、庵野洋子さん。今回は高橋秀明さんの件でお尋ねしたいことがあるのです。当時あなたはどこにおられましたか?」
「私はずっと喫茶店にいましたよ。秀明さんと待ち合わせしていたのですが、いつまで経っても来ないので諦めてしまいました」
「その喫茶店の名前はなんといいますか?」
「ええ、ナディアというお店ですわ。場所は〇×ホテルの近くにあります」
洋子はナディアの店主に金を渡しており、うその証言をしてもらっている。なので自分のアリバイは完璧だと思いこんでいた。
「犯行現場のホテルですね。なぜ高橋さんはあなたを誘わずに別の女性を誘ってホテルに行ったのでしょうか? ああ、当時の高橋さんはへそ出しルックの女性と同行していたそうですよ。あなたとは正反対の服装です」
警察も秀明と同行した女が洋子とは思っていないようだ。内心洋子はほくそ笑んだ。
「さあ、わかりません。もしかしたらその人は恵美さんかもしれませんね」
「恵美さんとは誰ですか?」
「従妹ですわ。しばらく顔は見ておりませんが」
「なんで高橋さんが恵美さんと出会っていると思ったのですか? そもそも二人にはまったく接点などありませんが」
緒方が洋子を睨む。洋子は苛立っていた。なんで自分の話を真に受けないのか理解できなかった。学生時代は担当教師は常に自分の言葉を信じてくれた。彼女の実家目当てでこびへつらっていたためである。
だが緒方には関係ない。警察にとって彼女は全く関係がないのだ。
心なしか緒方の眼は獲物を狙う狩人の如く、鋭く光っているように見えた。
「二人が顔見知りかどうかはわかりません。ですが私は見てしまったのです。黒い服を着たへそ出し姿の人を、その人の右腹には忘れられない星型のあざがありましたわ」
「星形のあざですか?」
「はい。恵美さんのお腹にあるのです。あんな珍しいあざは他にはいません。彼女は学生時代から男にだらしない人でした。ですが彼女の自堕落な生活を止められなかったのは、私の責任でもあります。どうか刑事さん、彼女に温情を与えてくださいな。彼女だって殺そうと思って殺したわけではないでしょうに」
洋子はよよよと泣いた。同情しているように見せかけて彼女を犯人と決めつけている。昔から多くの人間は彼女の可憐な姿に見惚れていたのだ。
恵美は彼女の美しさを引き立たせる生贄であった。
だが緒方は全く動じない。逆に洋子を哀れんでいるように見た。それどころかとんでもないことを口にした。
「ああ、実はうちらでも調べましたがねぇ、立木恵美さんは事件とは無関係と判明したのですよ」
「なっ、なんですって!!」
洋子は声を荒げて立ち上がった。だがすぐにこほんと咳払いすると、椅子に座りなおす。
「実はG病院から奇妙なものが発見されたんですよ。立木さんの病室のベッドからあなたの言う黒い服と血まみれの凶器を看護婦が見つけたのです」
「なっ、なら恵美さんが犯人なのでしょう!! なんで早く逮捕しないのですか!!」
洋子は般若のような形相を浮かべた。だが緒方はあくまで涼しい顔をしている。歴戦の強者は女のヒステリーなどそよ風に過ぎないのだ。
「実は当時G病院まで運転したタクシー運転手に顔を見てもらいました。確かにあの晩乗せた女だとね。でも彼女の事情を話すとそれはありえないということになりました」
「あっ、ありえないってどういうことですか!!」
「彼女には証人がいたのです。無罪を確実に証明する証人ですよ」
「そっ、それは、いったい誰なんですか……」
洋子の顔が青くなっていた。証人なんているわけがない。誰の事なんだと頭の中でぐるぐる回っている。
「それは立木恵美さんの息子です。赤ちゃんですけどね」
緒方の言葉に呆気にとられたが、すぐに洋子は気を持ち直した。
「赤ちゃんですって? 刑事さんはどうかしたのではありませんか? 物言わない赤ん坊がどうやって母親の無実を証明するのですか? それに近しい人間の証言など一切採用しないと聞きましたが、赤ちゃんだけは特別扱いするわけですか、まったく耄碌したとしか思えませんね!!」
洋子は威圧的に緒方を罵った。赤ん坊の証言を取り上げるなど、頭がおかしいにもほどがある。彼女は勝利を確信した。
だが緒方は冷静なままである。
「普通ならそうですよ。でもその子は犯行時間、母親のお腹にいたのです」
「へ?」
洋子は間抜けな声を上げた。
「先ほど息子さんと言いましたが、判明したのは今朝でした。つまり立木さんは犯行当時妊婦だったのですよ。さすがの運転手もこぼれるお腹を見逃したりはしません。それに乗車した女はすっきりとしたお腹であることを証言しています。何しろ今流行りのへそ出しルックだったそうですね。ちなみにホテルの受付嬢も同じ証言をしてくれましたよ。確かに裁判所は親しい人間の証言は採用されません。ですがこちらはさすがに採用せねばなりませんね。赤ちゃんはお腹の中で母親の無実を証明したわけですよ」
緒方はしたり顔であった。逆に洋子の顔から血が引いている。恵美が妊娠していたなど初耳だ。いや母親はきちんと伝えていただろうが、洋子はきちんと聞いていなかっただけである。
洋子の視界が歪んで見えた。耳鳴りがひどくなる。さらに緒方がにやりと笑い、追い打ちをかけた。
「そういえば庵野さんは昔から立木さんと顔立ちがそっくりだとか。それも右の腹部に同じ星形のあざがあるそうですね。婦警を呼んでおりますので、確認してもよろしいでしょうか?」
結局洋子は自分の浅知恵で、墓穴を掘ってしまったのであった。それも物言わぬ証人のために。
彼女は光輝く座から、泥沼へ転がり落ちたのである。目には見えない暗黒星によって。自身の首には死ぬまで外れぬ荒縄が絡められていたのだ。もちろん喫茶店の買収もすでにばれていたのは言うまでもない。
横溝正史を意識して書きました。昔は横溝先生に影響されて小説を書いていたのです。
登場人物の名前はエヴァンゲリオンの監督と歌手、声優さんから取りました。
舞台設定として1995年にしたのは、ちょうどアムラーが流行り、へそ出しファッションが多くなったためです。
それに今ではスマホや監視カメラがあるので、作中のようなことはできませんからね。