僕が、ゆたぼん君について、思ったこと、考えたこと。
僕は、ゆたぼん君(以下、敬称略)の動画を五本くらいしか観ていないので、彼についてあまり深くは知らないが、面白いなと思った部分があるので、書いていこうと思います。
まずは、ゆたぼんの動画を観て僕が面白いなと思った部分を五つほど挙げていく。
・小学三年生の時に周りの友達が、親の言うことや先生の言うことを「はいはい」と黙って聞いていたからロボットに見えた。
・宿題をやらないと言ったら先生に叩かれたが、先生は「叩いてない」というので人間不信になった。
・宿題をやったら自分もロボットになるように感じた。
・宿題やってない奴とは遊ばへんと友達に言われた。
・給食だけ食べに行ったらセコイなズルいなと友達に言われた。
「友達がロボットみたいに見えた」
僕は面白い発言だと思うが、しかし、おそらく世の中の人(主に大人)がゆたぼんに感情的になって怒っているのは、この言葉を自分に言われたように感じたからではないかと思う。
ゆたぼんは学校に行く子どもを否定してはいないし、学校に行く自由も尊重しているが、「ロボットみたい」という言葉が強すぎたために、心当たりのある人は「ガキのくせに調子に乗りやがって!」となってしまったのではないかなと思う。
「不登校の天才YouTuber『麦わらのゆたぼん』です」と言って視聴者に挨拶して、「人生は冒険だ!」と言って終わる動画。上手いパッケージだなと思う。こういう部分が大人に操られていると言われているのかな?と少し思った。
ゆたぼんの言ってることが正しいか間違ってるかを大人が議論するのはなんの価値もないと僕は思う。
彼が言っているのは一個の意見なわけで、それに対してゆたぼんが与える社会的影響などを論じるのは、行き過ぎな気がするというのもある。
社会に対して問題提起をしている人間が正しいかどうかと、その社会問題はイコールでは無いということをキチンと分けて考えることが大切だと僕は常々思っているからだ。
法に触れることをやって、その映像をYouTubeにアップして捕まる、いわゆる「迷惑系YouTuber」が沢山いるなかで、ゆたぼんは別に誰に迷惑をかけているわけでもない。
ゆたぼんが大人に操られているかどうかも、どうでもいい気がしているので、その話はここではしません。
コミュニケーション能力が未熟な僕が言うのもなんだが、学校に行けなくなった子どもがYouTuberになって世界と繋がろうとすることで、何かを学び、吸収していくのなら、それは学校で勉強することができない子どもにとって、多少、安易すぎるかもしれないが悪い選択ではないと僕は思うし、本人が正しいと思っているなら周りがとやかく言うことでも無いだろうと思う。自己責任という言葉の意味が理解できている子どもなら、精神的には子どもではないと思うし、学校に行かずとも、やりたいことを、やりたいようにやればいいと思う。子どもにも思想の自由はあるのだから。
とは言うものの、小中学校にキチンと行ってないと、もしも、高校に行きたくなって、高校に入れたとしても、勉強はついていけない可能性が高いから苦労するだろうなと思ったりもする。
ゆたぼんがよく言う義務教育の定義について。
憲法上の定義では、親は子どもを学校に通わせる義務があり、子どもは学校に行く権利がある。
なので、憲法上の定義においては、ゆたぼんの親はゆたぼんを学校に通わせる義務を放棄していると捉えられ批判されている。
その批判も間違いではないと思うが、それは、同性婚がなかなか認められない理由として、憲法に「婚姻は、両性の合意のみ基いて成立し…」とあるからだという主張と似ていると思う。
子どもに学校に行く権利が(行かない自由もあるとして)あるならば、学校に行けない、行かないという選択をした子どもに対する別の選択肢があって然るべきだし、あるべきだと思う。
それができない、許されない、そんな社会なら憲法改正でもして「子どもは学校に行く義務がある」とでもすればいいと思う。僕は賛成できないけれど。
日本の憲法は70年も昔に公布されたものなので、昔には考えられなかったような問題が時代の流れと共に沢山、浮かび上がってきていて、これもその一つなのかなと僕は思う。
義務教育と個人の権利は文脈的に相反するものだと思う。
ゆたぼんは社会の側から見れば正しくないのかもしれないが、個人としては正しいと思う。つまり、ゆたぼんは潜在的にアナーキストの側に立っているのだと思う。
最後に言わせてもらうと、僕は学校に給食だけ食べに来る子どもがいてもいいじゃないかと思っている。
学校側も生徒達も、そのくらいの気持ちで学校に通えたら、多くの場合、閉鎖的で息苦しい教室という空間が、少しは和らぐような気がするからだ。
以上が、僕が今話題のゆたぼんについて思ったこと、考えたことです。
誤字、脱字があったらすみません。